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その筆頭は何と言っても璋子様……
鳥羽院は物の怪だの何だのと言われますが、この人、単に頭が弱いだけと違いますの?
そりゃ上代、神経症の類も物の怪つきと考えられていたからかも知れませんけど、傍から見りゃ、この女性の言葉の端々、足りない人???としか思えませんよ……
で、聡明ですかした佐藤義清君、この人に密かに思いを寄せてる訳ね……何ちゅうか、よう言わんわ(ーー;)
そして今日の回から出て来た得子様、つまり美福門院ですよね、後に信西法師と組んでとんでもない事してくれる。
璋子様、この人とバトルするにしても、これじゃ最初から勝敗着いてる様な……(゜.゜)
ついでに宗子母様……私がかつて読んだ小説などの印象では、かなり曲者の女性という気がしますけど、こんな家庭的で平凡な女性で良いのかしらねぇ、この先?
まあ、良いのかな……で、家盛君が亡くなった後に豹変しないで下さいよ、後生だから(・.・;)
時に、母様、あの眉なしの家成さんと従兄妹同士なのよね、全然、説明が出てこないけど。
どうもいけませんわ、この辺の時代、かなり勉強不足で……(*_*;
もう少し、面白い展開が予想できそうな内容ならば、ガイドブックも買って来るんだが、今のところは書店に行って見ようという気も起きておりませなんだ(-_-)
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相変わらず、詳しい説明ができないままです……
そのような訳で、取り敢えずは画像だけでも。
それにしても、やはり良いですね、こういう儀式を拝見するのは。
土曜日に東大寺で森本長老の『聖武天皇の実像を追って』というシリーズのお話を久々に聞いて参りました。
今回のサブタイトルは『藤原広嗣の乱の真実』ですが、冒頭から、この事件ほど一般的に誤解されている事件も珍しいという趣旨のお言葉。
何を一体、誤解されていると長老は御考えなのか……つまり、この反乱騒ぎの時に聖武天皇のとった行動についてでした。
これについては、この十年くらい若い研究者などの認識では、かなり覆されているような印象を受けますが、今でもチョッとした有識者の話などでは、筑紫で謀反騒ぎが起きたために、天皇は平城京を捨てて逃げ出して彷徨った云々……(*_*;
『続日本紀』を正直に読めば、そのような事は書いていないのが良く分かりますので、私もそのようには認識しておりません。
筑紫の戦乱など一種の想定外、それよりも先に、天皇には東国経由で恭仁に入る行幸を計画していたはずです。
この辺は、ここの戯言でも再三に書いておりますが(-_-)
ただし……ここで私の認識不足が知れたのは、玄昉僧正に関しての事。
例えば『源平盛衰記』に見える“広嗣の乱ならびに玄昉僧正のこと”では、どのように扱われているのか。
ここでの玄昉僧正は、聖人中の聖人として理想化した姿で描かれているそうです。
この僧正と皇后(中宮ではなく)が関係を持っていると、目撃した藤原広嗣が天皇に報告し、驚いた天皇がその様子を伺いに行くと、千手観音と十一面観音に見えたとか何とか……(・・?
この事によって広嗣は筑紫に左遷され、それを恨んで謀反に走った云々……えらく、イージーなストーリーになっておりますが(^_^;)
この後、これをテキストとして、曲解されたまま物語が広まった事もかなり、誤解を受ける要因となったそうです。
いずれにしても玄昉は、唐帰りをアピールし、一切経をフルテキストで購入して天皇に献上し、それらの功績で僧綱のトップにまで上り詰めた人でしたが、かなり自意識過剰な上にワンマンで、他者との協調ができない人だったようです。
あまりに好き勝手に振舞ったようで、ついには勅命で僧綱の印を没収され、そちらへの命令などが出来なくなります。
そうなれば六大寺の僧侶らは、一斉に反旗を翻して僧正の追い出しにかかったようです。
この人が後に筑紫の観音寺に左遷されたのは、組織からはみ出したためなのかも知れません。
一方、藤原広嗣が大宰の少弐になったのは左遷という訳ではないというのが、森本長老の御考えです。
私もこれには賛成です。
大宰府は出世の関門の一つです、少なくとも奈良時代においては。
しかし、広嗣はそうとは捉えられなかった……この御意見には、少々疑問ですが。
この時の大宰府は、帥は空席、大弐は遙任という状況で、中央からやって来た高官のトップは二人の少弐だったようです。
果たしてこの片割れ、二十代半ばの若い男に大宰府の猛者たちがどうして従い、、共に中央政府に弓を引くような行動をとったのか、これが私にはいつも疑問になっている部分です。
時の大宰府は、どのような状況で、どれほどの不満や渦巻いていたのか、これがどこでも問題にされていないような気がするのですが……
本日の画像は、ようやく買いました、『ハリオ式ドリッパー』
早速今朝から、これでコーヒーを入れております。
ようやく、カメラから画像をパソコンに移しました。
さて、明日は『橿原神宮 百々手式』の画像だけでも上げませんと(~_~)
今回のサブタイトルは『藤原広嗣の乱の真実』ですが、冒頭から、この事件ほど一般的に誤解されている事件も珍しいという趣旨のお言葉。
何を一体、誤解されていると長老は御考えなのか……つまり、この反乱騒ぎの時に聖武天皇のとった行動についてでした。
これについては、この十年くらい若い研究者などの認識では、かなり覆されているような印象を受けますが、今でもチョッとした有識者の話などでは、筑紫で謀反騒ぎが起きたために、天皇は平城京を捨てて逃げ出して彷徨った云々……(*_*;
『続日本紀』を正直に読めば、そのような事は書いていないのが良く分かりますので、私もそのようには認識しておりません。
筑紫の戦乱など一種の想定外、それよりも先に、天皇には東国経由で恭仁に入る行幸を計画していたはずです。
この辺は、ここの戯言でも再三に書いておりますが(-_-)
ただし……ここで私の認識不足が知れたのは、玄昉僧正に関しての事。
例えば『源平盛衰記』に見える“広嗣の乱ならびに玄昉僧正のこと”では、どのように扱われているのか。
ここでの玄昉僧正は、聖人中の聖人として理想化した姿で描かれているそうです。
この僧正と皇后(中宮ではなく)が関係を持っていると、目撃した藤原広嗣が天皇に報告し、驚いた天皇がその様子を伺いに行くと、千手観音と十一面観音に見えたとか何とか……(・・?
この事によって広嗣は筑紫に左遷され、それを恨んで謀反に走った云々……えらく、イージーなストーリーになっておりますが(^_^;)
この後、これをテキストとして、曲解されたまま物語が広まった事もかなり、誤解を受ける要因となったそうです。
いずれにしても玄昉は、唐帰りをアピールし、一切経をフルテキストで購入して天皇に献上し、それらの功績で僧綱のトップにまで上り詰めた人でしたが、かなり自意識過剰な上にワンマンで、他者との協調ができない人だったようです。
あまりに好き勝手に振舞ったようで、ついには勅命で僧綱の印を没収され、そちらへの命令などが出来なくなります。
そうなれば六大寺の僧侶らは、一斉に反旗を翻して僧正の追い出しにかかったようです。
この人が後に筑紫の観音寺に左遷されたのは、組織からはみ出したためなのかも知れません。
私もこれには賛成です。
大宰府は出世の関門の一つです、少なくとも奈良時代においては。
しかし、広嗣はそうとは捉えられなかった……この御意見には、少々疑問ですが。
この時の大宰府は、帥は空席、大弐は遙任という状況で、中央からやって来た高官のトップは二人の少弐だったようです。
果たしてこの片割れ、二十代半ばの若い男に大宰府の猛者たちがどうして従い、、共に中央政府に弓を引くような行動をとったのか、これが私にはいつも疑問になっている部分です。
時の大宰府は、どのような状況で、どれほどの不満や渦巻いていたのか、これがどこでも問題にされていないような気がするのですが……
本日の画像は、ようやく買いました、『ハリオ式ドリッパー』
早速今朝から、これでコーヒーを入れております。
ようやく、カメラから画像をパソコンに移しました。
さて、明日は『橿原神宮 百々手式』の画像だけでも上げませんと(~_~)
忠盛父さんは、やはり変な人だ……(ーー;)
関白の宴会に普段着で行くなんて、水(酒?)ぶっ掛けられたって文句は言えないわよ、まったく(*_*;
忠正「まさかとは思いますが兄上、束帯はお持ちなのに、四位の殿上人にもなられて、直衣の一枚も無いとは言いますまいな」
忠盛「いや、束帯は官からの支給ゆえな……」
忠正「つまり、ないのですか!」
忠盛「院の観音堂建立で、何かと物入りだったゆえ……」
忠正「どうなさるおつもりです、この後も、公卿らからの酒宴への誘いなど掃いて捨てるほどあるはずですよ」
忠盛「いざとなったら、室の実家にでも……」
忠正「やめて下さい、恥ずかしい!!」
あの親子を見ていると、忠正叔父さんが常識人に見えるのは(・・?
だいたい、忠盛さん、舞子さんをかくまった揚句に嫁に欲しいなどと言い出した時にも、御父上から怒られてたのと違うの?
「このたびの一件は、平家一門をも危うくする事態だった」とか、重た~い顔されて……言われた当人は、殆ど自覚ない顔で聞いていたみたいだけど(^_^;)
だいたい息子が成長した後も、海賊見つけりゃ単独で海に飛び込むし、息子が成人の儀で変な舞ではしゃいでも、「これで良いのだ」顔して見てるし……息子がグレて変になるのは、しっかり貴方の背中を見ているためではないのですか???
渋くてかっこ良いけど、忠盛父さんは希代の変人には変わりないわね……(~_~;)
関白の宴会に普段着で行くなんて、水(酒?)ぶっ掛けられたって文句は言えないわよ、まったく(*_*;
忠正「まさかとは思いますが兄上、束帯はお持ちなのに、四位の殿上人にもなられて、直衣の一枚も無いとは言いますまいな」
忠盛「いや、束帯は官からの支給ゆえな……」
忠正「つまり、ないのですか!」
忠盛「院の観音堂建立で、何かと物入りだったゆえ……」
忠正「どうなさるおつもりです、この後も、公卿らからの酒宴への誘いなど掃いて捨てるほどあるはずですよ」
忠盛「いざとなったら、室の実家にでも……」
忠正「やめて下さい、恥ずかしい!!」
あの親子を見ていると、忠正叔父さんが常識人に見えるのは(・・?
だいたい、忠盛さん、舞子さんをかくまった揚句に嫁に欲しいなどと言い出した時にも、御父上から怒られてたのと違うの?
「このたびの一件は、平家一門をも危うくする事態だった」とか、重た~い顔されて……言われた当人は、殆ど自覚ない顔で聞いていたみたいだけど(^_^;)
だいたい息子が成長した後も、海賊見つけりゃ単独で海に飛び込むし、息子が成人の儀で変な舞ではしゃいでも、「これで良いのだ」顔して見てるし……息子がグレて変になるのは、しっかり貴方の背中を見ているためではないのですか???
渋くてかっこ良いけど、忠盛父さんは希代の変人には変わりないわね……(~_~;)
この前の日曜日に見た限り、奈良公園ではまだ咲いておりませんので、かなり早咲きの木のようです。
ともあれ馬酔木とも浄瑠璃寺とも関係なく、ここ何日か眺めている『日本後紀』の記事の事。
この史料も講談社学術文庫から、全現代語訳のテキストが出ておりますので、私のようなド素人でも目にする事が出来ます。
『日本後紀』は40巻中30巻が散逸しているそうで、この部分を『日本紀略』などの記述を引用して補ってくれているので、大まかな時代の流れをつかむ事は可能です。
さて、この散逸した部分の延暦12年8月21日に、なんとも奇妙な記事が見えます。
内舎人と帯刀舎人(たちはきのとねり)の二人が、同僚らしき男を殺害して指名手配をかけられた揚句に、私刑とも思える方法で処刑されたという内容ですが、この後に殺人を行った二人は皇太子の密命を受けていたと噂された云々……
この時の皇太子は安殿親王、後に平城天皇となる人です。
この人のキャラクターを考える上で、この後の大同二年に起こる伊予親王の謀反事件(明らかに冤罪とあちこちに書かれている……)、弘仁元年の藤原薬子の変、それ以前に桓武天皇崩御の後、遺勅に反して御陵の場所を変更している件など、かなりのマイナス要因を見る事が出来るような気がします。
このように考えていると、殺人の密命を舎人に下したという噂も、あながちない事ではないだろうと思えて来るものだったりします……(゜.゜)
それにしても安殿親王と藤原緒嗣とはどういう関係なんだろう?目下の疑問です。
まずはこの二人、同じ年に生まれています。
皇太子即位の当初はかなり意気投合して、政策に乗り出しているように見えるのですが、大同三年にいきなり緒嗣が陸奥出羽按察使に任命され、再三にごねた後、多賀城に下っています。
この人も父親同様、幾つもの職を兼務していますが、期待のかけられ方は別物のような気がします。
まあ、記録を馬鹿正直に眺めておりますと、この後に後宮の並み居る内侍を押しのけて、かの藤原薬子が三位をもらって台頭するという構図は見えてまいりますが……
この女性も、最近の小説などでは決して悪女という描かれ方をされていないようで、どういう訳か平城天皇(太上天皇)とは純愛???のようなケースも見られたりします。
……チョイト、賛同は致しかねますが、多分一番の悪人が彼女でない事は分かるような気が致します。
それよりも、主人公どうしよう……まだ決まってない・゚・(ノД`;)・゚・
本日、東大寺の金鐘会館にて森本長老の『大仏開眼会を考える』という講話を聴いて参りました。
ここで痛烈に思ったのが、『東大寺要録』のテキストが欲しい!
文書の類に滅法弱い私がいつも参考にしているのは、岩波書店の新日本古典文学大系の『続日本紀』ですが、確かに奈良時代の歴史を云々しようというのなら、『続日本紀』ほどあてになる史料はない訳です。
ところが史料が必ずしも完璧とは限らない訳でして、特にこの正史、編纂を命じた天皇の時代までが記録されているので、この天皇(約二名様)の都合の悪い事は極力却下されたと考えられます……ってな事は、再三再四、ここでもどこでもボヤキまくってますがε-( ̄ヘ ̄)┌
そこで不備を補う史料というのが必要となってまいります。
文書の勉強などした事のない身なので、私がこれらに当たる時はまさに行き当たりばったり……
何せその辺の市立図書館などでは取り扱っていないような類ばかり探す羽目になりまして、結構途中で投げ出したりなどします。
まぁ、論文書いて提出しようという訳ではないので、それでもごまかす事は十二分に可能なのですがσ(^◇^;)
今日の講演でも、天平勝宝四年の東大寺大仏開眼会の様子は、『東大寺要録』に詳しく記されているという事で、正倉院の宝物なども併せて多々紹介されていましたが、この辺り、かなりのウェイトで初めて聞いた類ばかりです。
ここに登場する、開眼会に関わる五位や四位の高官の名前、いずれもお馴染みの面々です。
こういう類を見せ付けられると、どれだけ知識不足なのかと、つくづく思い知らされる次第です(-_-;)
ところで講演会の後、東大寺ミュージアムを少し眺めておりましたが、文書の類が先日と少し入れ替わっておりまして、ここに延暦二十四年の勅書が展示されていました。
未だに図録を買っていないので、具体的な内容を覚えていないのですが、東大寺を始めとした七大寺に、太上天皇の供養のための法要を命じているものです。
この漢字ばかりの文書の何が気に掛かったのかと申しますと、太上天皇の存在です。
延暦年間ですから桓武天皇の時代、ここで太上天皇というと、父親の光仁天皇の事かと思われるのですが、この勅の五年前の延暦十九年、故早良親王に崇道天皇が追号されています。
ここでいう太上天皇は、皇太弟だった早良親王という事になります。
この親王が十一歳で出家して東大寺に入ったのは、ほぼ定説とされていますので、御陵が障りを為しているのなら、この寺に供養を命じるのはほぼ適切なのでしょう。
と申しましても、この時にはまだ親王の御陵は淡路にあるはずなので、それは淡路守の管轄なのでしょうが。
そういえば確かこの頃、まだ実忠和尚は存命のはず、案外、この老僧あたりが中心となって法要を行ったのかもしれないなどと、勝手な妄想をしておりました。
次に予定をしている話は、これよりも更に数年の後、大同年間から弘仁年間の始めなのですが、とにかく人物と時間経過を頭に入れるだけで、まだ思考回路は飽和状態です(゜_゜)
マジ、主人公は誰になるんだ?
一瞬、大伴親王を書きたいなと思ったのですが、そうなると話の内容が変わってくるしなぁ……
狂言回しは藤原吉野か?????
今日の意味無し画像は、昔々にもらったアロマバーナーとかいうヤツ。
先日、本棚の後ろの方から出て来たので、ダイソーで買って来たアロマオイルを炙ってみたのですが、ラベンダーなのに石鹸臭いのは(?_?)
ここで痛烈に思ったのが、『東大寺要録』のテキストが欲しい!
文書の類に滅法弱い私がいつも参考にしているのは、岩波書店の新日本古典文学大系の『続日本紀』ですが、確かに奈良時代の歴史を云々しようというのなら、『続日本紀』ほどあてになる史料はない訳です。
ところが史料が必ずしも完璧とは限らない訳でして、特にこの正史、編纂を命じた天皇の時代までが記録されているので、この天皇(約二名様)の都合の悪い事は極力却下されたと考えられます……ってな事は、再三再四、ここでもどこでもボヤキまくってますがε-( ̄ヘ ̄)┌
そこで不備を補う史料というのが必要となってまいります。
文書の勉強などした事のない身なので、私がこれらに当たる時はまさに行き当たりばったり……
何せその辺の市立図書館などでは取り扱っていないような類ばかり探す羽目になりまして、結構途中で投げ出したりなどします。
まぁ、論文書いて提出しようという訳ではないので、それでもごまかす事は十二分に可能なのですがσ(^◇^;)
今日の講演でも、天平勝宝四年の東大寺大仏開眼会の様子は、『東大寺要録』に詳しく記されているという事で、正倉院の宝物なども併せて多々紹介されていましたが、この辺り、かなりのウェイトで初めて聞いた類ばかりです。
ここに登場する、開眼会に関わる五位や四位の高官の名前、いずれもお馴染みの面々です。
こういう類を見せ付けられると、どれだけ知識不足なのかと、つくづく思い知らされる次第です(-_-;)
未だに図録を買っていないので、具体的な内容を覚えていないのですが、東大寺を始めとした七大寺に、太上天皇の供養のための法要を命じているものです。
この漢字ばかりの文書の何が気に掛かったのかと申しますと、太上天皇の存在です。
延暦年間ですから桓武天皇の時代、ここで太上天皇というと、父親の光仁天皇の事かと思われるのですが、この勅の五年前の延暦十九年、故早良親王に崇道天皇が追号されています。
ここでいう太上天皇は、皇太弟だった早良親王という事になります。
この親王が十一歳で出家して東大寺に入ったのは、ほぼ定説とされていますので、御陵が障りを為しているのなら、この寺に供養を命じるのはほぼ適切なのでしょう。
と申しましても、この時にはまだ親王の御陵は淡路にあるはずなので、それは淡路守の管轄なのでしょうが。
そういえば確かこの頃、まだ実忠和尚は存命のはず、案外、この老僧あたりが中心となって法要を行ったのかもしれないなどと、勝手な妄想をしておりました。
次に予定をしている話は、これよりも更に数年の後、大同年間から弘仁年間の始めなのですが、とにかく人物と時間経過を頭に入れるだけで、まだ思考回路は飽和状態です(゜_゜)
マジ、主人公は誰になるんだ?
一瞬、大伴親王を書きたいなと思ったのですが、そうなると話の内容が変わってくるしなぁ……
狂言回しは藤原吉野か?????
今日の意味無し画像は、昔々にもらったアロマバーナーとかいうヤツ。
先日、本棚の後ろの方から出て来たので、ダイソーで買って来たアロマオイルを炙ってみたのですが、ラベンダーなのに石鹸臭いのは(?_?)
今月の『いのちと心の講座』とも一緒になっていたので、かなり人が多いのだとの事。
以前に私が参加した時も、土曜日だったので結構な参加者でしたが、今回はそれ以上かもしれません。
そして旬祭の終了後は、花山院宮司による講演『春日大社のお正月』がありました。
春日大社も除夜の祭の後、一月一日になるや否や元旦のご祈祷が始まり、七日の御祈祷始式まで、様々な正月行事が行われます。
昔は三が日、ほぼ朝から晩まで祭が行われ、神楽始式は五日に行われたのだそうです(現在は三日に行われています)。
そして七日には再び、三が日と同じような祭が行われたとの事です。
今回の講演では特別に、この燈籠を会場に持って来て、実際に火を入れて下さいました。
この瑠璃吊燈籠、長暦二(1038)年に藤原頼道が寄進したと伝えられていますが、現物は存在せずに鎌倉時代の復元品が残されています。
青いガラスビーズを簾のように連ねて火袋にした物ですが、現在の物はガラスビーズではなく青い絹の布が張られていまして、こちらはこちらでなかなかに美しい物です。
今回もこのように嬉しいサプライズがありまして、いつもながらに参加して面白かったと思える講座でした。
旬祭が始まるのは午前10時なので、直会も昼食も頂いて終了したのは13時過ぎ、この後は久々に奈良国立博物館に行き、その後は奈良町の『寧估庵』(猫カフェ)で閉店まで遊んでおりました。
そして今日は、東大寺の金鐘会館で森本長老の御話を聞いておりました。
来週は確か、またこちらの会館でシンポジウムがあるはずです。
なんちゅうか、今年もやたらに予定ばかり入れてますが……そろそろ、本腰入れて次の話の準備にかからんとなぁ(゜.゜)
今朝(既に昨日だ)の新聞の一面に、滋賀県甲賀市の宮町遺跡の調査成果が載っておりました。
それにしても広々と調査区を開けたものです。
確かに何年か前に行った時、あの場所は一面の田んぼでしたから、農閑期の今ならば調査も可能でしょうか。
既にこの遺跡、国の史跡に指定されているから、調査範囲は全面買い上げという事になるのかな?
それにしても調査は、県ではなくて市教委で行っているんですね、珍しい事に。
それはともかく、宮町遺跡はほぼ聖武天皇の紫香楽宮という事で落ち着いております。
ここにしても恭仁宮にしても、突貫工事も良いところなので、正方位から微妙にずれているのが、何やらお粗末ですか……瓦の出土も殆どないみたいだし(恭仁の大極殿は別ですが)(゜.゜)
そして、内郭部にペアの建物という構造も同じと、新聞は妙に強調しております。
しかしですよ、研究者の多くは、やはり紫香楽宮(甲賀宮)は都だと考えているのですかねぇ?
この建物配置、離宮と違いますの??
単に面積が狭いから、あのような構造になったという事なの???
私は、甲賀寺あっての紫香楽宮だと思っているので、ここは離宮だと考えているんですよ。
聖武天皇としては、甲賀寺に未曾有の仏を造営するまで、この地と恭仁なり難波なりを行き来するつもりで、離宮を造営させたのではないのかと。
まずは寺の建立を腰を落ち着けて見守るために、長期滞在可能な離宮を造らせたのかもしれません。
都を恭仁か難波に定めて(この頃は、平城は既に眼中にない……)、甲賀寺完成の後は、仏都としての離宮を更にグレードアップするくらいのプランは持っていたと思うのですけどね。
まぁ、私が以前に書いていた話のベースになる考えですので、確証はと突っ込まれると、どこまで言えるものがあるのやら……
現地説明会、日曜日ですか……十中十まで用事があって行けないのですが・゚・(ノД`;)・゚・
まぁ、資料はネットでダウンロードできるかな。
それにしても広々と調査区を開けたものです。
確かに何年か前に行った時、あの場所は一面の田んぼでしたから、農閑期の今ならば調査も可能でしょうか。
既にこの遺跡、国の史跡に指定されているから、調査範囲は全面買い上げという事になるのかな?
それにしても調査は、県ではなくて市教委で行っているんですね、珍しい事に。
それはともかく、宮町遺跡はほぼ聖武天皇の紫香楽宮という事で落ち着いております。
ここにしても恭仁宮にしても、突貫工事も良いところなので、正方位から微妙にずれているのが、何やらお粗末ですか……瓦の出土も殆どないみたいだし(恭仁の大極殿は別ですが)(゜.゜)
そして、内郭部にペアの建物という構造も同じと、新聞は妙に強調しております。
しかしですよ、研究者の多くは、やはり紫香楽宮(甲賀宮)は都だと考えているのですかねぇ?
この建物配置、離宮と違いますの??
単に面積が狭いから、あのような構造になったという事なの???
私は、甲賀寺あっての紫香楽宮だと思っているので、ここは離宮だと考えているんですよ。
聖武天皇としては、甲賀寺に未曾有の仏を造営するまで、この地と恭仁なり難波なりを行き来するつもりで、離宮を造営させたのではないのかと。
まずは寺の建立を腰を落ち着けて見守るために、長期滞在可能な離宮を造らせたのかもしれません。
都を恭仁か難波に定めて(この頃は、平城は既に眼中にない……)、甲賀寺完成の後は、仏都としての離宮を更にグレードアップするくらいのプランは持っていたと思うのですけどね。
まぁ、私が以前に書いていた話のベースになる考えですので、確証はと突っ込まれると、どこまで言えるものがあるのやら……
現地説明会、日曜日ですか……十中十まで用事があって行けないのですが・゚・(ノД`;)・゚・
まぁ、資料はネットでダウンロードできるかな。
