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今回は明日香村教育委員会の調査で、飛鳥寺旧境内の西側、飛鳥川との間に広がっていたと推測される広場の範囲確認調査です。
『日本書紀』には『飛鳥寺の西』という記述が皇極天皇から持統天皇の時代にまで見えるそうで、それには槻の木という表現も伴い、セレモニーなども催した記録が記されているので、飛鳥寺の西側には広い饗宴のための空間が設けられ、そこには象徴的に槻の木が生えていた事になります。
今回の調査区は、そろそろ南の端か、という辺りに設けているのだろうと思うのですが、まだはっきりとした事は言えそうにありません。
最初の画像の真ん中を突っ切っている東西の石組みの溝は、幅90cm、深さは10cm、存在は初めて検出されてたのだと思います……ってのは、今回も今までに同様、現地説明会ではなくて現地見学会だったので、具体的な説明はなしで、質問のある方は関係職員にお気軽にお尋ね下さい状況でした。
ちなみに報告会は、前日に行われたそうです……知らなかったσ(^◇^;)
このど真ん中に伸びている畦の左側で部分的に、溝を埋めるように小ぶりの石が敷かれているのですが、この石と東西溝の北側に広がっている石敷きとが同時期か否かは、今のところ分からないようです。
東西溝と石敷きの間に石列が見えるのですが、こいつが南北溝を切っているようで、そうなると交差すると思われる二本の溝にも時代差がある事になるのかな……?
更には、ここに石が敷かれるより前に、整地した土地の排水のためと思われる暗渠の土管が、ここでも確認されているとの事。
ここでは南北溝の下を斜めに横切っていますが、ここの北側では真っ直ぐ正方位に乗って180メートルも確認されているとか。
やはり、かなり広いスペースを飛鳥寺の西側に設けている事は確かなのでしょう。
このような訳で、明日香村での調査はまだまだ続き、新たな発見が更にある事かと思われます。
来週は橿考研の苑池跡の現地説明会だったかな?
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江戸時代には幕府の直轄地で、町の名前にもなっている今井氏は武士をやめて(身分を取り上げられて)町人となり、「大和の金の七割は今井にあり」と言われるほどの商業都市となりました、このイメージが強いでしょうか。
商業都市となるより以前の今井町は、室町時代くらいまでは興福寺の一条院の荘園だったそうで、戦国時代になると一向宗が乗り込んで来て、更には本願寺系の寺院である称念寺が建立されると、この寺を中心として寺内町が出来上がり、環濠集落へと発達して行きます。
ここには寺と共に中心となる豪族居館があり、地元の年配の方がお城と呼んでいるのも聞いた事があります。
確かに、お堀で囲まれた平城(ひらじろ)としても機能していたようです。
さて、戦国時代の今井町は石山本願寺や三好三人衆のサイドにつき、大和にも支配を伸ばそうとする織田信長に対抗する事となります。
この頃には、町の周りに土塁で囲み、三重の深い環濠をめぐらせて環濠城塞へと変貌して行きました。
画像の右側には、今井町の鎮守『春日神社』があり、そのすぐ西側を走る道の調査の時に、中濠、内濠が検出されています。
調査区内の手前の方に白線で引かれているのが環濠の西の肩の部分で、埋土の様子を見ると、人為的に埋められている事が良く分かります。
これは石山本願寺が信長と和睦したために、今井も信長傘下に下る事となり、武装解除をして土塁を壊し、堀を埋め立てたためだろうと考えられています。
この後にも今井町を巡る環濠は掘られるのですが、この新環濠がいつ出来たのかは文献に残されていないとの事です。
発掘調査では三重の部分と一重の部分が、両方確認されているそうですが、17世紀の後半の絵図にも同じように描かれています。
春日神社境内の南側に、この新環濠が一部復元されています。
新環濠が巡る頃には、今井町は自治都市として「海の堺、陸の今井」と賞賛されるほどの商業都市へと変貌していたはずです。
結構だだっ広い奈良町や、街道沿いにズラッと続く新町に比べますと、今井町は案外コンパクトで道も細く入り組み、三者三様個性的です。
町屋を再利用したお店なども少しずつ増えて来て、駅前まで戻らずとも、洒落た雰囲気を楽しみながら食事が出来る場所も出来ました。
それでも奈良町に比べると、まだまだ知名度は低いですねσ(^◇^;)
周囲に更に回れるような観光地がないのが、チョッとネックですかね。
飛鳥からも三輪からもかなり遠い、藤原宮跡や橿原神宮も歩いて行くのは結構大変……
橿原市も八木周辺は一大市街地となっていますが、大和三山なども近くに見え、時にはこのようにハヤブサなども市街地に現れます。
この子は今井町の八幡神社近所の庭木から、向かいの家のアンテナに飛び移り、更に春日神社の方へと飛んで行きました。
陰陽(おんよう)寮は中務(なかつかさ)省の管轄下にあって、職務としては「天文暦数の事を掌る」などとモノの本には書いてあります。
「天文、暦数、風雲気色に異あらば、密封して奏聞する事を掌る」と、『大宝令』に見えているそうなので、奈良時代には既に天文密奏のような事が行われていた訳なのでしょう。
天文、暦、漏刻などは、まだ何となくやっている事のイメージが湧くのですが、私が昔から分からないのが陰陽というヤツ……
卜筮を行うとか、地相を見るとか、占いや風水の知識を有している技術者らがいた事は確かなのでしょうが、卜というのは本来が亀卜の事ですから、こちらの管轄は陰陽寮よりも神祇官じゃないのかという疑問が昔からあります。
以前に書いていた後期摂関期の話の中では主人公が、
「陰陽寮は大抵貧乏くじを引かされる」的な愚痴をこぼしておりました。
この時代の寮のライバルは、外部勢力と言いますか、密教系の坊主たちです。
天台にしても真言にしても、座主を始めとするトップらが宮家や源平藤橘の権門の出身者と来ているのですから、太政官を始めとした為政者らも、ついついそちらを贔屓目に見る傾向がとても強くて、都合の悪い事ばかりを寮に押し付けて来る云々……ε-( ̄ヘ ̄)┌
奈良時代の後期には、まだ密教が体系的に入って来ていないので、このような風潮はなかったでしょう。
『続日本紀』では長岡京への遷都の前に、中納言二人と参議たちが陰陽助(おんようのすけ)をつれて土地の視察に行った事が書かれていますので、地相を見るような事を実際にしていたと思われます。
しかしこいつは既に、桓武天皇の大好きなパフォーマンスの一つでして、陰陽助が地相を最悪と言おうとも、都への報告は最適に摩り替わるような状況でして……σ(^◇^;)
それにしてもこの時代、果たして後の平安時代のように、髪を洗う日、爪を切る日、外出をする方向、儀式の日時と、何でもかんでも暦やら占いやらに囚われきっていたとは思えません。
まぁ、セレモニーなどには吉日を選ぶに越した事はないのでしょうが、政敵を出し抜くにも、これらの知識を有する技術者らをどこまで利用したのでしょう。
中務卿宮・山部親王はこれより中納言藤原縄麻呂や右大弁藤原百川らと諮って、弱みを握っている陰陽頭の大津大浦に個人的な仕事をしてもらおうと考えているようですが、さ~て、陰陽頭は何が出来るんでしょう?
どうもこのメンバー、陰陽師のやる事なんぞ、知識に基づいた一種のパフォーマンスとでも思っているのか、特に恐れるような素振りもありません?(゚_。)?(。_゚)?
何せ、邪魔で目障りな先の陰陽頭の紀益麻呂を、更迭して失脚させたような御仁らですから( ̄▽ ̄)。o0○
本日の画像は、先々週くらいに近鉄奈良駅に出没していたせんと君です……
それよりも橿原神宮の『久米舞』、上げなけりゃ(~_~)
「天文、暦数、風雲気色に異あらば、密封して奏聞する事を掌る」と、『大宝令』に見えているそうなので、奈良時代には既に天文密奏のような事が行われていた訳なのでしょう。
天文、暦、漏刻などは、まだ何となくやっている事のイメージが湧くのですが、私が昔から分からないのが陰陽というヤツ……
卜筮を行うとか、地相を見るとか、占いや風水の知識を有している技術者らがいた事は確かなのでしょうが、卜というのは本来が亀卜の事ですから、こちらの管轄は陰陽寮よりも神祇官じゃないのかという疑問が昔からあります。
「陰陽寮は大抵貧乏くじを引かされる」的な愚痴をこぼしておりました。
この時代の寮のライバルは、外部勢力と言いますか、密教系の坊主たちです。
天台にしても真言にしても、座主を始めとするトップらが宮家や源平藤橘の権門の出身者と来ているのですから、太政官を始めとした為政者らも、ついついそちらを贔屓目に見る傾向がとても強くて、都合の悪い事ばかりを寮に押し付けて来る云々……ε-( ̄ヘ ̄)┌
奈良時代の後期には、まだ密教が体系的に入って来ていないので、このような風潮はなかったでしょう。
『続日本紀』では長岡京への遷都の前に、中納言二人と参議たちが陰陽助(おんようのすけ)をつれて土地の視察に行った事が書かれていますので、地相を見るような事を実際にしていたと思われます。
しかしこいつは既に、桓武天皇の大好きなパフォーマンスの一つでして、陰陽助が地相を最悪と言おうとも、都への報告は最適に摩り替わるような状況でして……σ(^◇^;)
それにしてもこの時代、果たして後の平安時代のように、髪を洗う日、爪を切る日、外出をする方向、儀式の日時と、何でもかんでも暦やら占いやらに囚われきっていたとは思えません。
まぁ、セレモニーなどには吉日を選ぶに越した事はないのでしょうが、政敵を出し抜くにも、これらの知識を有する技術者らをどこまで利用したのでしょう。
中務卿宮・山部親王はこれより中納言藤原縄麻呂や右大弁藤原百川らと諮って、弱みを握っている陰陽頭の大津大浦に個人的な仕事をしてもらおうと考えているようですが、さ~て、陰陽頭は何が出来るんでしょう?
どうもこのメンバー、陰陽師のやる事なんぞ、知識に基づいた一種のパフォーマンスとでも思っているのか、特に恐れるような素振りもありません?(゚_。)?(。_゚)?
何せ、邪魔で目障りな先の陰陽頭の紀益麻呂を、更迭して失脚させたような御仁らですから( ̄▽ ̄)。o0○
本日の画像は、先々週くらいに近鉄奈良駅に出没していたせんと君です……
それよりも橿原神宮の『久米舞』、上げなけりゃ(~_~)
十一月二十三日は勤労感謝の日ですが、全国の神社でも『新嘗祭』が行われている事かと思われます。
皇居でも天皇陛下が新米を神に奉げる行事が執り行われるはずですが、今年は体調が思わしくないとの事で、皇太子殿下が代行されると先日のニュースで言っていましたか。
それにしても今日は朝から曇り空、昨夜までの天気予報では昼前から雨と言っていましたが、朝の天気予報は曇りに変わっていて、所により昼過ぎから夕方まで雨だとか。
多分大丈夫でしょうと10時半過ぎに家を出て、いつものように散歩がてらに歩いて行きました。
新嘗祭の神事は11時から、内拝殿には既に出席者の方々の多数が席に着かれ、暫くすると外庭から禰宜装束の神職方々が外院に入って来られました。
式典はいつもの通り……神殿に参拝して、御扉を開き、御供物を奉げ、祭主が祝詞を奏上し、久米舞が奉納されます。
『新嘗祭』自体が地味なのか、見に来ている人もいつも通りの少なからず多からずという数で、七五三参りの家族連れも御参りついでに眺めて行くという様子ですね。
そして殆どの人は、久米舞が終了したところでいなくなってしまいます。
何せこの後の、玉串奉納が長い……σ(^◇^;)
そして再び外院に戻って来ますと、玉串奉納も終わって、拝殿の御扉を閉めているところでした。
既に見学をしている人は、数人しかいない状況です。
そして祭主挨拶……今年の昭和祭もそうでしたが、このところ宮司さんが祭主をされていないような?
かなり高齢の方なので、無理はされないのかな??
そして神職の方々が退出されると、式典は終了です。
雨は大丈夫でしたので、私はその後、いつものように神武天皇陵に参って帰って来ましたが、その頃にはポツリポツリと降り始めていました。
今はまた止んでいますが、空模様はいつ振り出してもおかしくない様子です。
さて、どちらの『新嘗祭』も無事済んだのかな?七五三のご家族は晴れ着を濡らしてしまわないように……休日となると、天気が崩れがちのこの頃ですからねぇ(゜-゜)
北摂出身のうちの上司に言わせると、今のシーズン、箕面の勝尾寺の辺りは交通規制がかかっていて、マイカーでは近づかない方が良いとの事、奈良県で言うと談山神社みたいな場所なのかな……ってのか、桜の時期の吉野山並みの人出なのでしょう。
どうもこの寺の名前が出てくると絶対に外せないのが、開成親王の名前なのですが、この御仁、時々、役の行者とセットになって出て来るんですよね。
二世代か三世代は隔たった人なので、直接の面識はまずないはずですが、北摂には役小角が開いて、開成親王が創建したという修験道関連の山寺が幾つかあるのだそうです。
大抵が高槻市や茨木市の山の上の方で、私は全く、足を踏み入れた事もありません(T_T)
有名なところで神峯山寺とか、本山寺とか、安岡寺とか……場所もイマイチ分からない(゜.゜)
名前だけ、開成親王がらみで何となく知っているというだけです(^_^;)
ホント、高槻なんて今城塚古墳と安満宮山古墳と城跡公園くらいしか行った事ないんですよね、申し訳ない(^^ゞ
こっちの話は私には完全な門外漢の態ですが、高槻城の周辺には高山右近から焼き討ちをかけられたという伝承のある寺院が幾つもあるのだそうですが、こいつが結構、冤罪も良いところという話も聞いた事があります。
高山右近といえば、畿内では最もグレートなキリシタン大名?
布教に邪魔ゆえにと、片っ端から火をかけた……?!?!
ある研究者に言わせれば、衰退した寺側の言い訳に過ぎないとまで(゜-゜)
それにしても高槻市は、よっぽどこの御仁に愛着があるのでしょうか、駅を下りたらまず、銅像があったような記憶があります。
商店街を抜けた辺りにあった教会の庭にも立っていたし、城跡公園にも居られましたわ。
10年近く前の記憶なので、チョッと曖昧ですが……
私は高山右近と聞くと、どういう訳か鹿賀丈史さんの顔が浮かんできます。
この理由が分かる方は、それなりの年齢ですねσ(^◇^;)
あの頃、逆に鹿賀さんの顔をテレビで見ると、「高山右近だ」と姉や弟と言っておりました(^_^;)
別に病気とか、超多忙とかではありませんで、適当に忙しくサボり病も頭をもたげて来たという程度です。
それにしても土曜日の晩くらいから寒いですねぇ。
日曜日も昼間に日がさしている間は暖かいのですが、日が翳り始めたら途端に寒くなって来ました。
今月に入ってから、朝夕の冷え込みが結構厳しく、後半になってからは暖房なしではいられない状況となっています。
昨日の日曜日は『関西文化の日』のピーク日だったので、『橿原考古学研究所付属博物館』を皮切りに、『橿原市立昆虫館』や『犬養万葉記念館』など、近所の博物館をハシゴしてきましたが、何処の庭の木も赤や黄色に色づきつつ、クヌギや柿、桜、ナンキンハゼなどは散り始めていました。
これからはイチョウやイロハカエデが主役でしょう。
この二枚は『奈良県立万葉文化館』の庭の様子です。
明日香村でこの様子ならば、葛城市の『笛吹神社』や、大和高田市の『大谷山自然公園』もかなりの見頃になっていると思われます。
これは土曜日、土砂降りの日の様子。
そういえば春日大社の着到殿、屋根の葺き替えも無事済んで綺麗になっていました。
その写真を撮ってくるのを忘れていますね……(゜_゜)
ところで明後日、どこの神社も新嘗祭ですが、天気はイマイチみたいですね……(*_*)
『橿原神宮』の久米舞は大丈夫かなぁ……
多度大社の流鏑馬 (;一_一) ……誰じゃ??
そんな言葉、私の耳に囁くんじゃない、この締め切りの近い時に・゚・(ノД`;)・゚・
そういえば以前に衝動買いした、ダージリンのファーストフラッシュなんて物もありましたね……開けてすらおりません、中身を消費する気が殆どないので(゜_゜)
こっちはまだ、フレーバーティーみたいなので、その内に気が向いたら職場ででも入れてみましょうかね。
大体私は昔からコーヒー党なので、家でも職場でも、日本茶を飲む量よりもコーヒーの方が遥かに多い状況です。
実は少し前から、ハリオ式のドリッパーを買おうかで悩んでいます。
物自体は400円も出せば買えるのですが、問題はペーパーフィルターがその辺で売っていない事(T_T)
いちいちネットで頼むのも面倒だし、そうなると送料も気にしなければならないし、普通のカリタ式やメリタ式の物に比べると、やはり高くついてしまうんですよね。
そこでここ何日か悩んでいるのが、やはりハリオから出ている『カフェオールドリッパー』という商品を購入しようかという事です。
ペーパーレスでかなり良いらしいのですが、購入者レヴューには細挽きにしたコーヒーのカスがサーバーに多少とも流れ出てしまうのが、難点だと書かれていました。
まあ、今のところペーパフィルターの買い置きがあるので、カリタ式のドリッパーで入れておきますが、さてどうしたものでしょうねぇ……どこかの店頭で売っていれば、衝動買いして来そうな気もしますが……( ̄▽ ̄)。o0○
何とな~く風邪気味で、朝から思い出したように咳き込んだり、体の節々が痛くなったりしております……
あれで『慈恩会』に行って、21時過ぎまであの寒い仮金堂に座っていたら、確実にこじらせていたと思いますから、そのまま帰って来て正解だったかもしれません。
さて、昨日の講演会ですが、内容的にはとても面白かったとは思いますが、私の状況では、あの時代背景は大まか以上に頭に入っているので、結局は残されている資料に対する、井上先生の意見を拝聴するという流れになってしまいます。
まぁ、これは奈良女子大の舘野先生の講演でも、奈良大学の東野先生や寺崎先生などの方々の講演でも、今までの経験上は同様です。
これが研究会などのように複数の研究者が集まる席ですと、時々、ポロッととんでもない事を言ってくれる方がいたりして、結構、楽しめたりします……こういう、不埒なヤツは参加させるなと言われそうですがσ(^◇^;)
今回のタイトルはあくまでも『山城遷都と桓武天皇』ですので、宗教政策や東北経営の方への論及はあまりありませんし、勿論、皇室を取り巻く公家の権門らの派閥争いや何かも、それ程踏み込んでおりませんでした。
これを始めたら、半年くらいの講義になりそうだわ……『桓武朝論』としてε-( ̄ヘ ̄)┌
こういう事を期待するのなら、やはり講師の先生の著書を読むべきでしょう、分かってはおりますが。
とやかく言いながらも、私個人としては割合に盛り沢山な内容で、講演自体は面白く拝聴できました。
ところで、この画像が何かと申しますと、近鉄京都駅の改札内にある『カフェ チャオプレッソ』が京都限定で出している『舞妓はんカプチーノ』です。
このカフェ、近鉄の主な駅に時々入っていますが、奈良駅でも『せんと君カプチーノ』やら『うさぎカプチーノ』などを期間限定で出しておりました。
泡の上にカカオパウダーでイラストをふりかけているので、絵が複雑なほど、最初に飲んだ時にカカオの苦味がします……『ひな祭りカプチーノ』とか、結構きつかった(^_^;)
もう一つの京都限定はこちら。
以前にもどこかに画像を上げていると思いますが、『京都市営地下鉄限定スイーツ 麿のお気に入り』として、京都や四条烏丸などの主要駅の改札付近で、ワゴンを出して販売しているのを時々見かけます。
『柚子チーズ』の方は上品に甘いので、チーズが嫌いでなければ万人ウケする味だと思いますが、『抹茶ばなな』はチョッと苦味があるので、お茶の渋みや苦味の苦手な方や、小さな子供さんにはあまり向かないかもしれません。
私はどちらも喜んで食べるのですが、取りあえずの御土産には『柚子チーズ』を買って帰る事が多いですね。
あれで『慈恩会』に行って、21時過ぎまであの寒い仮金堂に座っていたら、確実にこじらせていたと思いますから、そのまま帰って来て正解だったかもしれません。
さて、昨日の講演会ですが、内容的にはとても面白かったとは思いますが、私の状況では、あの時代背景は大まか以上に頭に入っているので、結局は残されている資料に対する、井上先生の意見を拝聴するという流れになってしまいます。
まぁ、これは奈良女子大の舘野先生の講演でも、奈良大学の東野先生や寺崎先生などの方々の講演でも、今までの経験上は同様です。
これが研究会などのように複数の研究者が集まる席ですと、時々、ポロッととんでもない事を言ってくれる方がいたりして、結構、楽しめたりします……こういう、不埒なヤツは参加させるなと言われそうですがσ(^◇^;)
これを始めたら、半年くらいの講義になりそうだわ……『桓武朝論』としてε-( ̄ヘ ̄)┌
こういう事を期待するのなら、やはり講師の先生の著書を読むべきでしょう、分かってはおりますが。
とやかく言いながらも、私個人としては割合に盛り沢山な内容で、講演自体は面白く拝聴できました。
ところで、この画像が何かと申しますと、近鉄京都駅の改札内にある『カフェ チャオプレッソ』が京都限定で出している『舞妓はんカプチーノ』です。
このカフェ、近鉄の主な駅に時々入っていますが、奈良駅でも『せんと君カプチーノ』やら『うさぎカプチーノ』などを期間限定で出しておりました。
泡の上にカカオパウダーでイラストをふりかけているので、絵が複雑なほど、最初に飲んだ時にカカオの苦味がします……『ひな祭りカプチーノ』とか、結構きつかった(^_^;)
以前にもどこかに画像を上げていると思いますが、『京都市営地下鉄限定スイーツ 麿のお気に入り』として、京都や四条烏丸などの主要駅の改札付近で、ワゴンを出して販売しているのを時々見かけます。
『柚子チーズ』の方は上品に甘いので、チーズが嫌いでなければ万人ウケする味だと思いますが、『抹茶ばなな』はチョッと苦味があるので、お茶の渋みや苦味の苦手な方や、小さな子供さんにはあまり向かないかもしれません。
私はどちらも喜んで食べるのですが、取りあえずの御土産には『柚子チーズ』を買って帰る事が多いですね。
本日、講演会を聞くためにわざわざ、京都府向日市にまで出かけてきました。
始まるのが14時からだったので出かけたのはゆっくりで、16時前に終わったので時間の余裕もかなりあったのですが、何とな~くタイトルの通りε-( ̄ヘ ̄)┌
体調が悪い訳でもないし、特に寒かったとか暑かったという事もなかったし……
本来の予定ならば、この後は奈良市に戻って、19時から興福寺の『慈恩会』に行こうと計画していたのですが、妙に気力が萎えてしまって、近鉄京都駅の切符の自動販売機前に立った時、つい畝傍御陵前までの切符を買ってしまいました……( ̄Д)=3
どうも私は京都という土地と相性が微妙なのかもしれませんわ……
昔々、大阪にいた頃には、四六時中、河原町辺りで遊んでいたのに、ここ最近はすっかり奈良モードになってしまったためか、大阪や京都のような都会がウザったくて……と、思わず八王子弁?
参考までに本日の講演会は『山城遷都と桓武天皇―苦悩から栄光への道―』というタイトルで、講師は京都産業大学名誉教授の井上満郎先生でした。
サブタイトルがチョッと軽佻浮薄だったかとは先生のお言葉ですが、内容は結構、濃厚かな……気が向きましたらいずれm(__)m
まあ、でもやっぱり、文献屋のオーソリティーの御講演でしたので、私のような与太も戯言も御座いませんでしたσ(^◇^;)……当ったり前じゃ!
始まるのが14時からだったので出かけたのはゆっくりで、16時前に終わったので時間の余裕もかなりあったのですが、何とな~くタイトルの通りε-( ̄ヘ ̄)┌
体調が悪い訳でもないし、特に寒かったとか暑かったという事もなかったし……
本来の予定ならば、この後は奈良市に戻って、19時から興福寺の『慈恩会』に行こうと計画していたのですが、妙に気力が萎えてしまって、近鉄京都駅の切符の自動販売機前に立った時、つい畝傍御陵前までの切符を買ってしまいました……( ̄Д)=3
どうも私は京都という土地と相性が微妙なのかもしれませんわ……
昔々、大阪にいた頃には、四六時中、河原町辺りで遊んでいたのに、ここ最近はすっかり奈良モードになってしまったためか、大阪や京都のような都会がウザったくて……と、思わず八王子弁?
参考までに本日の講演会は『山城遷都と桓武天皇―苦悩から栄光への道―』というタイトルで、講師は京都産業大学名誉教授の井上満郎先生でした。
サブタイトルがチョッと軽佻浮薄だったかとは先生のお言葉ですが、内容は結構、濃厚かな……気が向きましたらいずれm(__)m
まあ、でもやっぱり、文献屋のオーソリティーの御講演でしたので、私のような与太も戯言も御座いませんでしたσ(^◇^;)……当ったり前じゃ!
とにかくこの時代の水田としては、今現在でも日本で一番広い耕地面積を検出しているのがこの遺跡、南はかつての調査で判明した森林との境の川まで、北はもう少し延びて、現在調査中の範囲にまで及んでいます。
しかし東西の範囲はまだ未検出、いったいどれだけの広さとなるのでしょう。
現地説明会は、調査区の南側の土山の上に展望場所を作って、こちらで全容を見せてもらって、調査担当者の話を伺いました。
これがだいたい中央部の辺りかな?
とにかく下に降りてしまうと、遺構が田んぼだけに全部同じような調子、まさに何が何やらというところです。
調査区内にコンパネで道を作っていますが、そこを歩いている人達との比較で、とにかく広いという事は分かるでしょうか。
人が集まっている辺り、島状遺構と仮の名称をつけている高まりがありますが、これは広い水田遺構には時々見られるそうで、今のところ何のためにこの場所が置かれているのか、定説はないようです。
これだけ広く、起伏も多少ある土地に効率良く水を引くためにも、何本かの水路を通し、田一枚の面積も小さくして水を溜め易くしているのが、古代の水田の特徴です。
ここでのサイズは大体が3×4メートル、畦の高さは5cm程度です。
そしてこの土地は氾濫現のようで、160センチにも及ぶ砂とシルトの層で埋められています。
この土砂を運んで来た川の存在ははっきりしませんが、調査区内にも後の時代に方向を変えて流れ込んだ支流が、耕作面を壊して何本か流れています。
後の時代になっても、この場所は水が湧きやすかったと見えて、近世の野井戸の跡なども見る事が出来ます。
水田遺構では殆ど遺物が出ないというセオリー通り、弥生前期の土器片が少しと、半分に折れた石包丁が見つかったくらいだそうです。
現在、この場所の北でも弥生時代の面を調査していて、水田の続きや水路が検出されていますので、北限の検出はそちらの調査に譲る形になりそうです。
さて、この広大な水田を営んでいた人々は、何処に住んでいたのでしょう?
この先、西の方向にも調査が広がって行くそうなので、そちらで住居址や集落の跡が出てくれると良いのですけれどねぇ(゜.゜)
