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これは『春日若宮おん祭』の『頭屋児』ですが、私は不勉強でして、『松の下式』でこの子供たちがどのような役目をしているのかが、未だに分かっておりません。
何せ、おん祭の解説書を見ても、この子供たちの名前はあるのですが、役目までは書いてありません。
稚児として神様に仕える身なので、『松の下式』以外では地面に足を着けてはいけないのでしょう、このように大和侍の人たちに肩車されて退出して行きます。
今日はこれでもかと言うほど寒かったのですが、幸いにして雪は降らず、白毫寺の『えんまもうで』に行きまして、その後、またもや春日大社や博物館近辺でうろついておりました。
おかげで全然、仕事が進みやしませんわ。
それにしても、この何日か『橘奈良麻呂の変』の経緯を眺めて色々考えているのですが、この事件のごく最初は、佐伯全成の証言にある天平十七年の難波行幸での出来事から始まっているのだと思われます。
そして天平勝宝七歳の、左大臣家の資人らしき佐味宮守の証言に対し、天皇も皇后も口を閉ざそうとしているのは、さて、誰かを庇おうとしているのでしょうか?
もしかして、御二方とも既に難波行幸の直後には、何らかの計画があった事を知っていたのかもしれませんが確証はありません。
庇うなどという下世話な事ではなく、事件が実際に起きてしまった時の混乱を考えれば、取り返しのつかないほどの被害があると分かっていたからこそ、内々に伏そうと考えたのでしょうか?
いずれにしても、この時は立場はかなり違うのですが、光明皇太后と左大臣橘諸兄の目指すところは合致していたようです。
(゜.゜)、この異父兄妹、実のところ、どこまで意見の一致があったのでしょう。
印象としては、常に裏の方で角突き合せているような気がするんですけどねぇ???
それにしても光明皇太后という人の政治的センスは、やはり父親譲りなのでしょう。
藤氏の大者が時々、大事を表に出さずに水面下で抑えようとするような動きを見せているのですが、この女性もその例に漏れないという感じですか。
本当なら今日は日本画展の招待状を頂いたので、京都まで出かけようと思っていたのですが、午前中から雨が降り出しまして二の足を踏みまくり……招待状を見直したら、来月には大阪のなんばにも巡回し、そちらでも大丈夫との事でしたので、あっさりと予定を変更しました。
そして出かけた先は、やはり招待券を頂いた『天理参考館』です。
こちらでただ今開かれている特別展は『シャルジャ、砂漠と海の文明交流-アラビアの歴史遺産と文化-』です。
考古遺物のみではなく、現代生活に関する展示もありまして、これが結構面白かったです。
あちらのガラス製の珈琲セットとか、やたらにゴージャスなアクセサリーとか欲しいわ(*^。^*)
そして帰ろうと思った頃、エントランスでベリーダンスの公演まで行われていました。
大阪で教室を開いている先生と生徒さんが踊って下さいました。
ダンスも衣装も綺麗ですね~(^。^)
そしてその後は、すぐ近所の『石上神宮』へお参りに行って来ました。
ニワトリが今日も絶好調に時を告げておりました?
『とんど焼き』は正式には『左義長』と呼ぶのでしょうか、私は『どんど焼き』と子供の頃から呼んでいました。
小正月の行事で、私の田舎では15日の早朝に行っていましたが、こちらでは14日の夜に行うようですね。
御近所の方が火を貰って行くために、提灯持参で続々とやって来ていました。
ここではお餅やお団子は焼かないのかな?
暫くは家からも、竹の爆ぜる音がしきりに聞こえていました。
さて……明日の朝、今年も車が灰だらけになってるかなσ(^◇^;)
まあ、これも、私にゃ小正月の行事ですか???(゚_。)?(。_゚)???
先日の『天理市永原町の御霊神社』の記事に画像を追加しました。
成人の日に行われるのが恒例なので、今年は1月10日の月曜日でした。
さて、これまでの写真は殆どが拝殿をバックに写しているのですが、今年は拝殿の脇の御神木の大杉と直会殿が背景になっています。
http://umena.blog.shinobi.jp/Entry/630/
http://umena.blog.shinobi.jp/Entry/309/
http://umena.blog.shinobi.jp/Entry/197/
http://umezo.bakeinu.jp/entry/36258/
http://umezo.bakeinu.jp/entry/22908/
つまり、今年は見ている場所が違うんですね。
例年なら直会殿の中で、ストーブもあったのですが、今年はどういう訳か『林檎の庭』の中。
しかし拝殿の正面ですので、舞楽の前の神事が見えるのが興味深いです。
でもやはり本殿は見渡せませんから、具体的に何をしているのかまでは分かりません。
今年の曲目は
振鉾三節
萬歳楽(左方)
延喜楽(右方)
貴徳(右方)
の四曲でした。
「疏だ忠だを問題にしているのではない。紫微中台におられる事を問題にしているのだ」
「問題はないであろう、あそこでの諸王は兄だけゆえに」
「ううむ、案外、兄上よりも御身の方が食えぬ壮士やもしれぬな」
こいつは藤原雄田麻呂と山部王の会話で、話題にしているのは紫微中台にいる手嶋王の事です。
これを書いた時に気付いていたのですが、皇后宮職の時代から紫微中台に見える名前には、確かに諸王は見えません。
紫微中台なんて、四位以上の役職が六人もいるってのに、余っている(と思われる)散位の諸王には、一つもポストを空けるような気配はありません。
やはり皇后が皇族出身じゃない事が、この辺りに関係しているんでしょうかね。
これが中宮職になるとどうなるんでしょう?調べておりません(~_~;)
恐ろしい事に私はこれを踏まえておいて、平気で白壁王周辺の人たちをこの令外司の官職に就けております。
何せ湯原王なんて皇后宮大夫までやってたりするんですから……(ーー;)
この人事、やはりこの家の特異性から来るのですが、今まで書いた部分を読み返してみても、その辺りの経緯が殆ど書かれておりません。
一度また、最初から見直す必要があるかも……何で、この話はここまでややこしいんだ(?_?)
それにしても、ワードからの貼り付けをすると、行間や何かがおかしくなりますわ(゜.゜)
そして今年もうちの連中から年男を選んでみました。
神亀四年(727年・丁卯)生まれの坂上苅田麻呂氏、おん年1284歳です。
放置したままのHPに一応あげておきましたけど、もしもこんなのでも良ければ持って行って下さい。
私の話に出て来るこの御仁、女顔を気にして、あまり伸びない髭を無理して伸ばしているんですね。
ちなみに次男坊は、もっと髭が薄い優男面でして、親子そろって髭の濃い人をうらやんでいるという、どうでも良いような設定があります?(゚_。)?(。_゚)?
本当なら今日は、春日大社の『舞楽始式』なんですが、阿呆ほど写してきた写真をちゃんと整理していないので、そちらは明日以降に報告させて頂きます<m(__)m>
『二月堂』の裏、以前に紹介した屋根のある手水場とは逆の位置、16時には閉まってしまう無料休憩所の手前辺りに、更に上に上って行く階段があります。
この脇に、このような石の道標があります。
真中の石に『まんなをし地蔵尊』と書いてあるのが分かるでしょうか。
今日、奈良国立博物館に行った後、訪れたのがこの御地蔵様です。
奈良博の方は、明日までやっている特別展示の『国宝を味わう』を見に行って来ました。
この展示を見ていて初めて知ったのですが、弘法大師の真筆は割合に残っているけれど、伝教大師の真筆は書簡が一通しか残っていないそうで、それがこの展示に出ておりました。
その背後に、西国三十三カ所を勧請した場所があります。
そこも通り過ぎて、北の方に道なりに下りて行きますと、この『まんなおし地蔵』がおられます。
前掛けで殆ど御姿が分からないのですが、どういう訳か真っ黒に煤けているように見えます。
自然石の一面を平らにして、そこに薄肉彫りで御地蔵様が刻まれているようです。
『まんなおし』というのは『萬直し』なのか『間直し』なのか、色々な事を直してくれるそうです。
何でも、この御地蔵様の周りに、わざわざ見つかるようにお金を埋めてあるそうで、これを持って帰ると御守りになるのだそうです。
そしてもって帰る時には、次の人のために同じようにお金を埋めておく事。
なるほど~、この画像の下の方、ちょいと見難いですが、枯葉の間に一円玉が埋められているのが分かるでしょうか。
十円玉や五円玉では土の色に紛れて見つけ難いのでしょうかねぇ?
少し見回してみた限り、一円玉ばかりでした。
『まんなおし地蔵尊』から更に川沿いに降りてゆく道があるのですが、これをたどると大仏殿の裏手に行く道に出ます。
この三叉路にも、少し分かりにくいですが石の道標が立てられています。
実は私はこれを逆にたどって、二月堂に出て来たのですが、多分、二月堂から行く方が分かりやすいと思います。
それにしても、やはり地元の方に聞くと、面白い情報を教えてもらえるものです。
また何か変わった話を聞きましたら、紹介させて頂きます<m(__)m>
私はいつも同じパターン、ポットの紅茶とサンドウィッチにケーキをたのんでいます。
紅茶は大抵がセイロン産ですかね、インド産はアッサムばかりかな。
何せ私、ダージリンがかなり苦手……
おまえみたいな味オンチが飲むなと言われそうですが、こいつのファーストフラッシュ(一番摘み)で大ハズレして以来、こんな出がらしみたいな茶は嫌いだと、水色の濃く味も濃厚な茶ばかり飲んでます。
それなら貧乏根性でダスト(粉茶・ティーバックによく入ってます)でも使ったらって??
ところでポットサーブの場合の分量は、カップに二杯半が基本なのだそうです。
ところがこちらではポットに茶葉も入っているため、おかわり用のお湯も別のポットで出してくれるんですよ。
左上のポットカバーをかけてあるのが、それです。
そうすると、都合、五杯分のお茶が出て来るという事ね(*^。^*)
おかげでこの後、『今日は、ケーキ、何がありますか?』と尋ねる事になります。
そういう訳で午後のマッタリが、今日もガッツリと食す事になるのでした。
以前から疑問に思ってるんだが、マッタリって言葉の語源って何なんだ????
朝から『大神神社』というか『狭井神社』に水を汲みに行ったのが間違っていたのか……?
参道に曲がった途端に渋滞しているではありませんか。
もう八日だってのに、まだ初詣?!
そして警備員の方が、手前の有料駐車場に入れと手招きをしているのですが、それを無視して二の鳥居の辺りまで行けば、別に駐車場が全くないという訳でもなし、誰が有料の所なんて留めますかって……これだから地元民は(ーー;)
でも、この時季はそちらも料金は取らないとも聞いてますがね。
そして、さっさと水を汲んできた後、『大和神社』か『石上神宮』でも行こうかと、何となくロードマップを眺めたところ、昨年から目に付いて仕方のなかった永原町の『御霊神社』に、またもや目が行ってしまいました。
また社が呼んでるの?それとも私の方が呼んでるのか?
知った事っちゃないので、それじゃ行ってみますか(~_~;)
いざ到着してみたら、思いの他大きな神社です。
御近所の村社って感じね。
ところが、鳥居に扁額がありませんし、境内のどこにも由緒書きがありません。
それでも鳥居脇の立派な石灯籠には『御霊社』の文字が彫られ、拝殿前に並んだ石灯籠の名前も『御霊大明神』です。
狛犬は万延元年の砂岩製、かなり見事な面構えですので、後でカテゴリーを変えて紹介したいと思います。
この御社は『撞木造』というのでしょうか?
あまり、この辺りでは見かけない形式です。
多分、江戸時代に立てられた物だと思うのですが、向かって左側の方は補修されているようです。
それにしても、こちらの御祭神はどなたなのでしょうか?
ネットで少々検索してみたのですが、どうもはっきりしません。
永原村、福知堂村、九条村の三つの村の神社を合祀したとありましたので、その神社の中に『御霊社』があったのでしょうか?
場所からしても『上津道』のすぐ近く、崇道天皇関係の神社があっても不思議ではなさそうです。
しかしですよ……ここの神社も、鳥居から一歩入った途端、ゾワッとするほど寒いんですよ。
慌てて出てみたら、そうでもない……また入ってみたら、明らかに寒い(@_@;)
こういう人の来ない神社って、何か溜まるのかしら??
午前中に行った『大神神社』みたいな人だかりじゃ、私みたいに鈍い奴には全然、分からないんだけれど(?_?)
相変わらず、件のやたら長い話の構成し直しに勤しんでおります。
この何日かで、以前に書いた話なども辻褄合わせのために
ちょくちょく読み直していますが、やっぱり気になる事があるんですよね……
それが何かと申しますと、どいつもこいつも、主人公が良い子過ぎる(ーー;)
だからと言って、嫌われるようなキャラクターにしたら、こちらが書き続けること出来ないしなぁ(+_+)
まあ、確かに普通に小説を読んでいても、主人公は割合に良識派が多いですね。
最初は癖があっても、いつの間にかヒーローに化けてくれる成長モノも多いしなぁ(~_~;)
もう一つ引っかかるのは、誰も彼も現実主義者ばかりだわねぇ……(?_?)
チョッと前に、平安初期を舞台にした女流作家が書いた作品を読んでいたのですが、この辺を書く方、男だろうが女だろうが、変にファンタジーに走りたがる人が多いような気がするのですが、これって穿った物の見方かしらねぇ。
とは申せ、うちの連中にファンタジーは全然似合わない。
変な物言いですが、私が書くと大抵のキャラクターは、地に足着けたがるみたいというか、私自身がそういうキャラクターしか書けないみたいですね(-_-;)
ただ今、手嶋王は自らの立ち位置を模索しているのですが……
困ったなぁ、やっぱりこの展開でも、二人とも事件の経過から投げ出される。
別の展開をもう少し考えないと……・゚・(ノД`;)・゚・
