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本日、明日香村では現地説明会で賑わっていたようですが、私は朝から大阪に行っておりました。
どちらも明日までの特別展を見に、
『大阪府立弥生文化博物館』と『藤田美術館』に行って来ました。
弥生博の方は『邪馬台国 九州と近畿』という特別展ですが、(゜.゜)、私はやっぱり邪馬台国に興味がないのと、弥生時代に不勉強なのと、九州の遺跡にほぼ無知が重なりまして、何となく全体的に印象に残らない展示でしたわ(+_+)
その後に『藤田美術館』に行って来ましたが、こちらは『季節を愉しむⅠ 秋~新春の美術』というタイトルなのですが、展示品の七割方が茶道具でして……こっちにも、私は大変暗い有様でして(/_;)
実を申しますとこの美術館の特別展で見たかったのは、上の画像の地蔵菩薩立像で、他は何が出ているかも頓着せずに出かけてしまいました……σ(^◇^;)
藤田美術館のこの御像は今年の春に重要文化財に指定されたばかりで、元々は興福寺が所蔵していた物のようです。
右足のほぞに『巧匠 法眼快慶』と墨書があるそうで、これで作者と制作時期が分かります。
快慶が法眼の位をもらったのは1210年以降だそうで、この年から没年の1227年の間に制作された事になるそうです。
御像の高さはなんと、60cmほどしかないのですが、彩色は鮮やかに残り、切金もとても精密で見惚れてしまいます(*^。^*)
同じ快慶の地蔵菩薩立像といいますと、こちらの画像、東大寺公慶堂所蔵(奈良国立博物館寄託)の御像が有名ですが、こちらは法橋時代の作品だそうで、藤田美術館の御像よりも少し早い時期に作られた事になります。
こちらは高さ90cm、光背や錫杖は失われていますが、衣もポーズも本当に良く似ていますが、表情はこちらの方がやや男性的かな?
それにしても慶派の御像は美形が多いんですわよね~( ̄▽ ̄)。o0○
この現地説明会があったのは先週の日曜日(12月5日)です。
30年近く昔の調査で、水を流したと思われる暗渠や銅の管が発見されまして、今回はその北側に隣接する場所に調査区を開けていました。
この場所、北側に展開する『石神遺跡』の南端にも隣接する場所で、ここの調査によって双方の遺跡の関係を調べる目的もあったようです。
結果としては、双方は一連の遺跡の可能性が極めて高い、という事になるようです。
水落遺跡から伸びる暗渠の遺構が、石神遺跡にまで続いているらしい様子が観察できるのですが……
実はこの調査区の中央を東西に、かなり幅のある中世の流路が横切っておりまして、北側で検出された暗渠跡と南側の物が連続するのか、確実に確かめる事が出来なかったためです。
方向としては、同一の者の可能性が高いのですが、まあ、言い切れないのが残念なところですね。
過去の調査で、水時計の台を挟んで南側にも、かなり東西に長い建物が検出されているそうで、今回出て来た建物と方位や柱筋が一致してるので、双方は関連して建てられたものと考えられそうです。
南側の石敷きは石神遺跡の石敷きと同じレベルで連続している事も確かめられたという事で、飛鳥京時代の迎賓館と思しき遺跡と水時計は、同じ時期に存在していた事も確実になったようです。
「大伴氏でも家持のように、振りでも日和見を決め込んでいるのなら、多少とも大目に見てもらえようが、古麻呂のように急進派を気取って一人で騒ぐ輩は、誰から見ても鬱陶しい」
このように言っている現在で雄田麻呂は二十六歳、どのような官職についているのやら、五位になる前なので記録にありません。
大した地位にいる訳でもないのなら、この御仁らに対する評価は、兄や周囲の年長者からの受け売りの可能性もあります。
これを聞いているのは、いつもの通り山部王ですが、この人にいたってはようやく二十一歳、内舎人になったばかりという設定ですので、これに同調しているのなら、山部王の周囲の年長者、例えば父親、伯父、義兄などの評価の鵜呑みの可能性もあります。
まぁ、若い連中が誰の言葉を信じているかは良いとしまして……雄田麻呂が評している二人の人物って、本当にこの話の中で、そういうキャラクターなのか??
書いた私本人が、現在疑い中ですσ(^◇^;)
大伴家持は、多分これで当たらずとも遠からじかな(~_~;)
仮に市原王にでも聞けば、
「あの壮士の無関心は上辺だけだ。腹の内では何を考えているのか、私でも分からぬな」
ってな具合に言うかもしれませんわ。
市原王は造東大寺司の知事職に着いた頃から、ずっとこのように思っているでしょう。
それでだ、古麻呂が急進派?
この根拠は何なんだ??(・・?
この政権で、急進派が左代弁に就けるか???(?_?)
あんまり安直な事を書くと、後で自分の首を締める典型ですわ。
もう一度、この頃の二官八省の人事を見直さないといけませんね(+_+)
それよりも何よりも、雑魚は放って置いて、一番の曲者を釣り上げにゃ。
皇太后にしても紫微内相にしても右大臣にしても、うちの主人公一家をどう見ているんだ?
この人たちは果たして、瀧を登れば龍になるような鯉魚を求めているのかなぁ?
しかしだよ、自分の手元で龍に育てたいのなら、父親はむしろ厄介な存在になるのではないの?
そう考えれば、やはり息子たちを積極的に父親に絡めにゃ、為政者の思うつぼか?
ところが白壁王は、皇太后の眼の黒い内は政界復帰は難しいと来ている……(・.・;)
さあ、水面下でどのように動いてもらえば良い???
おまけにもう一人、宮内卿の伯父上もいるのが厄介だわねぇ。
こちらは皇太后派の大物の一人だし……(@_@;)
この辺、誰をつついても、漏れなく紫微内相が関わってきそうだわ。
だからって、父上との直接対決をするような御時世でもないしなぁ……
やっぱり、今回一番の隠れた曲者は、白壁王でしょうね……すっかり騙されてたようですわ、以前に書いた時には(--〆)
昨日のかもしれません。
こういう事に桜井市民会館で臣下のは似てくるか室町時代のスメラミコトの連中に共通してくるような相手の後の主人公は鎌倉武士か(ーー;)うちの母親は大覚寺統の原点は大覚寺統のは似てくるかなぁ(--〆)
*このエントリは、ブログペットの「てむじん」が書きました。
この報告はまた後ほど……で、脱線というのは何かと?
私にしてみれば大した脱線でもないのですが、切っ掛けは昨日に桜井市民会館で見ていた演劇です。
私がかつて書こうと計画して、資料集めやら構成やらをしていた物語で、最も新しい時代が南北朝後期というか室町時代の初期です。
まさに昨日の戯言のごとく、結崎座(後の観世座)の面々も主要な人物として出てくるような話ですが、主人公は大覚寺統の親王……もう少し平たく申しますと、南朝の親王です。
この人の腐れ縁的な相手の一人が足利義満、もう一人が世阿弥元清で、ここにこの三人の家族やら家臣やら持明院統の連中やらが入り乱れ、『明徳の和議』を経て前後で、話の雰囲気ががらりと変わるような構成を考えておりました。
何せ前半と後半では、主人公の立居地がこれでもかというほど変化します。
この物語自体は、いつか機会があればまた練り直さなければなりませんが、昨夜から何となく気になっているのが、主人公の家族構成その他です。
この話を考え始めたのは十年以上前にも拘らず、今の今まで全く気付かなかったのですが、家の中での主人公のポジションが、やたらに山部王に共通しているんですわ(~_~;)
まずは次男坊で嫡男、そして同じ年齢の異母兄がいます。
こちらの母親は早くに亡くなっていますが、父帝の正室ではないけれど一番存在感のあった内室とされています。
父親はこの息子にかなり放任主義、乳母子と常につるんで悪さをしていますが、うるさくは言いません。
それでも政略とも恋愛とも着かないような結婚の後、娘が生まれます。
この娘がまた、とんでもない人の内室になりまして……
性格ややる事はあまり似ていないのですが、もう一つの共通点は特に好きでもないのに管弦の名手と他者から見られている?
こちらの親王は琵琶を四六時中抱えておりましたわ、確かσ(^◇^;)
それにも拘らず、バリバリの武官??(゚_。)?(。_゚)??
直垂に風折烏帽子をつけ、平気で臣下の連中に混じって小笠懸だろうが犬追物だろうがやっちまうような、とんでもない御仁だったりします……あんたは鎌倉武士か(ーー;)
うちのスメラミコトの原点は、この一番の不良親王だったとは(-。-)y-゜゜゜
思うにこの両者、作者の好みが露骨に出ているのかもしれません。
ただし、二人の生涯は似ても似つかないものになるのですけれどね。
こういう事に気付いて、果たしてキャラクターが変わってくるかなぁ?
まあ、変わりたい時には、作者に断りもなく豹変するようなやつらばかりだからなぁ(--〆)
このところ演劇も市民劇団やセミプロのものばかりを見ていまして、商業演劇は本当に久々です。
おまけに私の世代では、わらび座と聞くと学校訪問をしてくれる演劇集団というイメージを持っている方も少なくないかもしれません。
ここ最近だとやはりオリジナルミュージカルなのかな?
ホント、舞台芸術の方に滅法、疎くなってしまっていけません。
確かこの作品、先々月に川西町でも上演されていたと思いましたが、用事があって行けずじまい、桜井市民会館での上演を知ったのは、つい一週間前、急いでローソンチケットで前売り券を買ってきました。
しかし巡回上演も、行われるホールによってチケット代がベラボウに違うのに驚きます。
ちなみに奈良市や大阪市での上演は、桜井での1.5倍の金額になっています……
さて、一人の人物の生涯を描くとなると、一番重要になるのはその人のキャラクター立てです。
観阿弥清次という申楽の大家をどういうキャラクターとして捉えるか、多分、ミュージカルとしてのこの物語は、結構良い感じに展開していると思いました。
二時間足らずの舞台ですから、下手にエピソードやキャラクターを欲張っても物語に締りがなくなるし、何か一本テーマを通してもらわないと、ストーリーそのものが破綻していしまいますからねぇ。
だから、カンアミは芸能一筋の大家という素直な捉え方で、感動的な物語に仕上がっておりました。
役者さんたちも躍動的で素敵(*^。^*)
特に女性陣がとても魅力的に描かれていました。
やっぱり、ライヴの舞台は良いですねぇ。
席もどういう訳か最前列だったので、役者さんの地声まで聞こえそうな距離で見ておりました。
ミュージカルですから、ややこしい所は気にせずに、舞台そのものを楽しめば良いですしね。
た~だ~し~、歴史小説となると、こうもストレートな物語では、絶対に済まないと思うのですがね……(~_~;)
私もかつて、この辺の時代は扱っていて、観阿弥清次は重要な脇役で出てきますが、もう全然他人ですσ(^◇^;)
本人は関わりたくないのに、河内の(母方の)従兄弟どもはやたらに介入してくるし、足掛かりにしたかったはずの鹿王院の大樹は、吉野から(下りてこなくても良いのに)来た儲宮と結託して、結崎座も権謀に引き込もうとするし、息子どもには関わるなと諭しているのに、長男は積極的にそちらに絡みたがるし……これじゃ観阿弥大夫、駿河あたりで暗殺(説を一応採っております)される前に、胃潰瘍か何かでぶっ倒れますわ(@_@;)
この展覧会は巡回展だったんですね……奈良県での展覧会には仏像は巡回しませんとの御断りがありました(~_~;)
私も関西で暮らして割合に長いので、秋草道人こと會津八一は誰でも知っているのかと思ったのですが、とんでもない……奈良県民でも知らない人は知らないようです、当たり前の事ですが。
私が八一の歌で最初に覚えたのは、唐招提寺の観月会にて詠まれたという
おほてらの まろきはしらの つきかげを つちにふみつつ ものをこそおもへ
この歌はかなり有名で、歌碑も唐招提寺の金堂の脇にあります。
展示はゆかりの寺院と歌の紹介、歌碑の拓本、縁者との交流を物語る書簡などの遺品、そして八一に影響を与えた写真家の仏像写真など、割合に地味な内容でしたが、これがかなり見ごたえがあったようで、気がつけば二時間もたっておりました。
しかし、この展覧会を見るまで知らなかったのですが、奈良県内の八一の歌碑って、思ったよりも少ないんですねぇ。
今年に揮毫した喜光寺と中宮寺のものを入れても17基しかないそうです。
私の見た記憶のある歌碑は、このうちの14基ですから、割合に分かりやすい所にあるという事でしょうかね。
ところで美術館に行く前に国立博物館の常設展にも行ったのですが、『仏像館』の名前になってからの展示の照明がかなり変わっています。
全体的に暗くなって、スポットを多用しているようで、これが良いのか悪いのか……
場合によっては仏像の表情すら変わって見えるような気もします。
この照明のおかげで少し面白い事に最近気付いたのですが、なんとそれは仏像の陰です。
以前には、こうもはっきり影が出ていなかったような……壁に映る仏様の影をソファに座って、ボケ~っと眺めるのも結構味のあるものかもしれません、と思うのは私だけσ(^◇^;)
それが誰かと申しますと、ズバリ白壁王です。
主人公兄弟の父親です。
何せこの兄弟が、周囲の大物に目を着けられる要因の一つが、この人の息子だという要因なのに、肝心の父親が知らぬ存ぜぬ、何もしてないという状況……
そもそも、これだけの曲者が、息子たちの巻き込まれている大事を見過ごすはずがありませんわ。
大体、私の話に出て来る白壁王という人は、いざとなれば、為政者に対して牙もむきかねないだけのキャリアを持ってますからねぇ。
八省の四等官でも参議でも、かつての同僚だったり部下だったり……
さ~て、これから喰えない親父の一人としての父上のキャラクターと、この複雑極まる話の中での立居地を考えませんとε-( ̄ヘ ̄)┌
この父親の息子である事に、手嶋王も山部王も、子供の頃から苦労しているようですからね( -」)φ
では、忘れた頃に橿原神宮の新嘗祭で行われた『久米舞』の画像をUP致します。
かつての戯言は、以下のリンクなどを参照下さい。
http://umena.blog.shinobi.jp/Entry/731/
http://umena.blog.shinobi.jp/Entry/276/
http://umena.blog.shinobi.jp/Entry/225/
袍には模様がないのですが、袴にあるというのが、かなり珍しい装束です。
