[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
万葉集ではおなじみの人の歌でも。
奈良市北御門町の思惟山五劫院の庭にある、山上憶良の歌碑です。
五劫院といえば、いつぞにも書きましたとおり、龍松院公慶上人の御墓のある寺で、御本尊の五劫思惟の阿弥陀仏で大変有名です。
……で、何故この御寺に憶良の歌碑があるのかはよく分かりません(-_-;)
水沫(みなわ)なすもろき命も 栲縄の千尋にもがと願ひ暮らしつ 巻第五-902
この歌は独立した歌ではなく、
老いたる身に病を重ね、年を経て辛苦(たしな)み、及(また)児等を思ふ歌七首-長一首短六首
という題がついている一連の歌の、六番目(短歌では五番目)の歌です。
更には
天平五年六月丙申朔三日戊戌に作る
と脚注もありますが、天平五年は憶良の亡くなる年です。
この歌碑を立てたのは『奈良市に万葉歌碑を建てる会』という会で、ここでリンクを張ったサイトでも、この歌碑や歌の意味は紹介されているのですが、何故この歌をこの場所なのかが分かりません。
実を申しますと山上憶良に関しては、私は殆ど無知でして……四十を過ぎて遣唐使として日本に帰ってきた後に、初めて頭角を現し(それ以前は無位だったらしいです)、『日本書紀』、『類聚歌林』の編纂に関わったとか、聖武天皇の皇太子時代の教育係の一人だったとか、その程度しか知りません。
とにかく歌を作れば、貧乏は辛いぞ、家族は大事だぞ……というような類が多くて、私の興味範疇からかなり外れる人なのですから、今までも殆ど具体的に調べた事がありません。
これらの歌、少なくとも五位をもらう以前の若い頃の作品か、それを思い出しての追想のような気が致します。
橿原市内に限らず、周辺市町村にはかなりの数の『万葉歌碑』があります。
行くたびに写真は撮ってきているのですが、それをことごとく忘れておりましてσ(^◇^;)
目に付いたやつから紹介でも……
altにも出ますよう、元薬師寺の駐車場の一角にある、大伴宿禰旅人の歌の碑です。
わすれ草わが紐に付く 香具山の故りにし里を忘れむがため 巻第三-334
これは大宰帥をしていた神亀四(727)年から天平二(730)年の間に詠まれた歌五首の内の一首です。
寧楽京(ならのみやこ)・象小川(きさのおがわ)・浅茅原(あさじがはら)・香具山(かぐやま)・夢のわだと、それぞれを思い出として歌に詠んでいます。
え~と、このカテゴリーのタイトルには、わざわざ浪漫は抜きと謳っておりますので、その路線で与太を飛ばしましょう。
神亀~天平年間ですから、時の天皇は聖武天皇、廟堂の最高実力者は長屋王です。
まあ、知太政官事に舎人親王はおられますが、左大臣がトップでしょう。
旅人が大宰帥として赴任した前後の太政官のメンバーを見てみますと、下記の通り。
知太政官事 舎人親王
左大臣 長屋王
大納言 多治比池守
中納言 大伴旅人 藤原武智麻呂 阿倍広庭
参 議 藤原房前
このメンバー、長屋王が亡くなって藤原武智麻呂、多治比池守が亡くなって旅人がそれぞれ大納言になる程度しか変化はありませんし、それ以前を眺めても大きな変化はありません。
更に、旅人の就任前後の大宰府関係の記事を探してみましても、殆ど見当たらないような……
神亀五年に渤海使が遣って来て、大武芸(第二代国王)の過激な書状をもたらしておりますが、この使節が着いたのは大宰府ではなく出羽国です。
まぁ、隼人が都に来たり、大隈や薩摩での班田の免除などを言上してますから、南の方での動きへの対処は普通にしているようですが。
他には、防人の停止も見えるから、それなりに仕事はある訳ですが……
国史に大した記録がないので、どうしても万葉集に見える、文人サロンがクローズアップされてしまいまして、いったいこの人達、いつ仕事してる訳よ……みたいなイメージになってしまいます(ーー;)
なにせ帥大伴卿、こちらには御内室も同伴させていますし(翌年に亡くなられます)、その後には陽気な未亡人(?)の異母妹まで呼び寄せています。
そして天平二年に大納言になったので、都に帰ってきますが、何と翌年の七月には亡くなってしまいます。
そもそも大宰府に大きな動きがない(ように見えるけど?)のに、どうして中納言が都を離れるのかが奇妙なものです。
太政官の総論賛成各論反対のとばっちりなのか……
「四の五の言わず、大宰府へ行け」という勅命なのか……
このような見方をして行くと、この人は変なところで、息子と共通するような気がするのですが。
書き直そうという話の『序』の部分だけ書いておりました。
真鳥と志貴皇子って、幾つ離れてる設定だっけ?
いや、そもそも志貴皇子の生年はいつにしたんだっけ??
草壁皇子より二つ年下だけど、草壁皇子はいつの生まれよ???
この人、どこに住んでるんだっけ????
結婚したのはいつだっけ?????
この話の基本資料、昔、確かに作ったはずなのですが、どこにも見当たらない……(/_;)
そういう訳で、資料作りからやり直さねば……(T_T)
『日本書紀』って、『続日本紀』に比べると、マジ、笊みたいな記述だからなぁ……(;_;
延暦の終わりから大同、弘仁の始めくらいの方が、資料作りは面白そうなんですけどね。
でも、こっちも散逸だらけの『日本後紀』ですからねぇ……(@_@;)
書き直そうと言う話は、既に決まっております。
久々に時代がずっと戻ります。
そして以前に書いたものと設定の一部をガラリと変える予定(・_・)
そういう訳で、一昨日までランナーズハイ状態でして、文章を打ち間違えては一人でウケて、時間ロスしたりと……今考えると、いったい何がおかしくてウケてるんだ?
例えば
「汝はいつも兄上の側につくであろう。汝にとっては父親同然の御方だ、私に責める事などできぬ」
なんぞと、皇太子が甥っ子に言っているのですが……
私はキーボードは常にローマ字入力です。
「semerukotonadokekinu」と打つつもりを「semarukotonadodekinu」と打ってしまい、リターンキーを押しますと……「迫る事などできぬ」と変換してくれます(-_-)
……誰が誰に迫るんだ?36歳のオジサンが、49歳のオッサンに迫るのか?
まぁ、36歳のオジサンが26歳のオニイチャンに迫っても良いんだが……
で、何を???まぁ、それなりの要求を迫るんじゃろなぁ……ほぼ、頭の中、意味不明です。
とりあえず、そういう与太はどうでも良くてですね、この話、続き書けるよなぁ……むしろ、こっちの方が病気です、私特有の(~_~;)
この流れで行けば次は、『神野親王擁立事件』……『藤原薬子の変』ではないところが私の特徴です。
でも、今回の主人公でそのまま続けるのって、チョッと難しいかも。
何せこの人まだ、干されてる最中だしねぇ……(ーー;)まぁ、背景をボチボチ調べて行きますかね。
ともあれ、明日くらいから、書き直しの方に取り掛かりましょうっと(゜.゜)
今頃夏休みです。
そして自主的に缶詰状況です。
猛暑日なので猫もどこかに避暑に出かけて居りません。
お陰でこちらは、汗だくで『おうちカフェ』しながら、書けるところから書いております。
まあ、これがワープロソフトの強み、後でいくらでも編集可能σ(^◇^;)
毎度の事ですが、書いているうちに登場人物が暴走してくれます。
ただ今暴走中が、早良皇太子です(@_@;)
本当に、誰よりも言う事ややる事が過激になって来たわ……
謀反未遂の者をわざと逃がして連座者も芋づるでしょっ引けだの、大伴中納言の事を御老体だとか、あれは文人ではなく危険人物だとか言うし、邪魔者は地方に追いやれと天皇に耳打ちするわ、挙句の果ては甥っ子に、気になる女がいるならば、さっさと子供くらいつくれとけし掛けるし……今までのイメージが滅茶苦茶になってきましたわ(・_;)
やっぱり敵を過激に追い詰めて狩るのが好みなのかしら、さすがは寅年(・・?
数年前まで、寺で経読んでいた人とは思えませんわ……読経よりも、別当や権別当を巻き込んで派閥争い?の方がやっぱり似合うかな(~_~;)
この御仁と昨日の堺雅人ぢゃなくて、大伴継人が出てくると、藤原種継も壱志濃王も五百井女王も、かつての百川を彷彿とするような常識人になってきます……マジですか?(゚_。)?(。_゚)?
そしてもうすぐ名前が出て来る予定の北家の大蔵卿、出来る事ならあまり前面に出て来ないで下さいね、作者がまたパニック起こしますから……(-_-;)
さて、今のところ割合に仲良しの皇太子と藤原式家の中納言ですが、一度大喧嘩してもらわないと話が進みません。
喧嘩の相手は天皇でも御妃でも良いのですが、派手にやりあうのならやっぱり似た者同士かな……と言うほど、この二人、似ていないような気もするのですが。
ではそろそろ、逃避していないで仕事の続きをしなければ。
シマコが帰って来たけど、「冷たい飲み物入れて」と頼んでも、絶対に何もしてくれないだろうなぁ、邪魔以外は……天地開闢以来、猫がお手伝いなどする訳ないε-( ̄ヘ ̄)┌
すると猫村さんは猫ぢゃなひ……(?_?)
最後(にしたい)主要登場人物が出てきました……最初は全く出て来る予定が無かったのに(・・?
おまけに最初のイメージと全く違う人になっています。
若い頃の藤原種継に匹敵するくらい良く喋りますが、軽快さと言うかオチャラケた雰囲気はありませんね、似たようなプロフィールを持っているのに。
この二人、一時は上司と部下の関係だったのですが、都と任地で離れて仕事をしていました。
本人は、任地でのチョンボを都の上官に庇ってもらったとか何とか、主人公や友人たちに話しておりますが、言うほど面識があった様子もありません。
多分この二人が、直接一緒に仕事をしていたら、かなり気は合うのではないのかな。
それでも立場やら育ちやらが、そいつを許さなかったんだろうなぁ……(ー_ー)
そして最初は出て来る予定だったのに、結局出て来る様子のない大伴家持との関係も捏造する事となりました(ーー;)
やっぱり、こちらの関係は一筋縄じゃ行かなかった。
実父にも養父にも、幾ばくかの恨みを抱いて過ごして来たのに、この人の取る行動は一体何なのでしょうねぇ……作者にはどうも理解が仕切れません(~_~;)
しかしですよ、この人の最終目的は何なのかしら?
史料をある程度、額面どおりに読んでも、やはり分からないのですよね。
今までの謀反のターゲットは、最大実力者もしくは専制君主じゃなかったのかい?
それなのに前段階と言うか、最初の一歩で、一網打尽??
すごく衝動的に行われているようにも思えるんですよね。
それともターゲットを間違っていたのかい、この人?
間違っていたと言うよりも、見くびっていたという方が近いのでしょうかね??
この段階で専制君主は、右腕をもがれて戦意消失するとでも計算していたのでしょうか???
今までの独善的行動も、ブレーンたちに操られてしていたとでも????
そもそも失敗に終わった謀反は、大抵が計画がずさんなのですよね。
今までも、奈良時代に起きた謀反事件をいくつか扱った事があるのですが、これが成功していたところで、次の段階は内部分裂もしくは、部下に寝首を掻かれる……(--〆)
今回もこのパターンでしょうか?????
それはこれから更に捻る内容としまして……またもやこの人のイメージが変?!
こんなナイーブそうなイメージ、全く無かったのに、書いている内に湧いて来てしまいました。
左少弁大伴宿禰継人、何故なのか堺雅人さんの顔してます(・・?
建物を建てる順番は、建物を解体するのとは逆の手順だという事です。
これは以前に書いていた話で、恭仁京遷都により平城宮の第一次大極殿を移築するという事になった時にも思ったのですが、今回、後期難波宮の大極殿を解体して、乙訓の長岡村に運ぶという件でも、やはり思った事です。
あの巨大な瓦葺礎石建ちの建造物を解体するとしたら、最初に何をするのか?
まぁ、金属の装飾などを外して、瓦を下すところから始めるでしょうねぇ。
これは建立する場合の最後の手順です。
最後には化粧基壇を解体して、基壇から礎石を掘り出すというところでしょうか。
これも基壇の地業が終わったら、礎石を据え付ける事から始まるので、建立とは逆です。
そういう訳で、外した木口金具や風鐸、下した瓦を先に移築先に運んでも、仕事には取り掛かれません。
基壇の板築はできるでしょうが、据えるべき礎石がなければ、その上に柱は立ちません。
つまり、解体がほぼ済むまで、移築先での建立は出来ない事になります。
やっと本題……
延暦三年五月、摂津職が蟇蛙の大移動という珍事なのか瑞祥なのか、よく分からない事を言上します。
この時の摂津大夫、天皇の胡散臭いブレーン(?)の一人、和気清麻呂です。
それを待ってましたと、桓武天皇は、中納言二名に参議も二名、陰陽助も含めた合計八人を山背国乙訓郡長岡村に派遣して、都としての地相を見るようにと命じます。
この報告がいつされたのかは分かりませんが、思うに、事後承諾みたいなものでしょうか。
既に当地の長岡では、大極殿院を移築する土地の伐採やら造成やら、何やらが始まっていてもおかしくないでしょう。
勿論、音頭取りは、ここ辺りの大ボス、秦氏です。
そして、ここに遣って来た八人の都人の筆頭は、藤原小黒麻呂(室が秦氏)、藤原種継(母が秦氏)の二人の中納言です。
ちなみにもう一人の中納言、大伴家持は多賀城に出張中です(~_~;)
そして難波宮では、やはり大極殿の解体が進んでいる事でしょう。
しかし難波宮大極殿といえば、当時は四天王寺の伽藍と並んで、上町台地の上の二大モニュメントですし、海側からも良く見えたようです。
一般庶民は宮には近づけないにしても、遠目に見たとき、どの程度解体が進んだところで、様子がおかしいと気付くでしょうか?
やっぱり屋根瓦が下されて、色が変わって行くくらいで何かが起きているのには気付きますか??
それが平城に伝わるのに、どのくらいの猶予があるのでしょう???
何よりも、摂津職内部で解体を知らされていないような下級の官人が、何かを騒ぎ出さないのか????
それとも何かの方便で言いくるめて、解体が進んでいるのか?????
本当にこれが秘密裏に出来た事なのか、ある程度の問題がおきてから、蟇蛙騒動だの地相使の派遣だのの勅命が下るのかな??????
疑問に思い始めると、とにかく分からない事だらけは、いつもの事ですがσ(^◇^;)
う~ん、何よりも、移築とは言え、この大極殿が長岡で使い物になるのに、どれくらいの時間が必要なのでしょう……建築にはまるで暗くて分からない(/_;)
延暦四年の元旦の朝賀は、長岡宮の大極殿で行われています。
ともあれ、夕方から平城宮跡に行って参りました。
『光と灯りのフェア』は20日から27日までという具合に、平日が中心になっているため、本日、これでもかと言うほど混雑していました。
日がある内は、たいした混雑もなくて、今までで一番空いているかも……という具合でしたが、やはり18時を過ぎた頃から、続々と人がやって来ました。
遠望すると、まるで満月が幾つも浮いているようで、まだ満月に少し早い月齢13日くらいの今日の月と、上空で仲良くやっておりました。
それにしても、どうやって発光させているのでしょう?
こいつを大極殿でもバックに撮れば、結構良い写真になるのでしょうが、どういう訳なのか、このバルーン、第一次大極殿院朝堂院地区の東側に偏っておりまして、両方を入れますと、かなり横に間延びした遠景写真になってしまいます。
きっとどなたか、センスの良い角度で写真をアップされていると思いますので、そちらを参照して下さいσ(^◇^;)
この裏側からは、朱雀門がアーチの中に入るのですが、とにかく今日は人が多くて、ゆっくり場所を選ぶなんて、とにかく無理な注文ですわ。
来週の平日に休みを取ってとでも……でも今は夏休みですし、近所の人は構わず来るでしょうねぇ。
『光の天平行列』(天平衣装に電飾を着けてという、妙に奇抜な行列でした)が、佐伯門からここまで歩くので、それに連なって人が一気に来たという感じです。
ロウソクの中に入らないで下さいと言うスタッフの声も無視して、カップを蹴っ飛ばす人もいたりして……(--〆)
やはり、混雑している日は避けたいのが理想なのですが……(-_-;)
割合に長く歩かされる割には、もう少し、場所に変化が欲しいような。
とは言え、東院庭園の方では、人が行きにくくて苦情が出そうだし……
何とも難しいところですね。
こんな感じの一般公募の方のオブジェもたくさん並んでいました。
これ、ペットボトルの口の部分を積み重ねているのだそうです。
そこから水が溢れて流れる、それで光に動きが出て綺麗でした。
確かに特別史跡ですから、制限が多いのですが、何もない時のここを知っております分、放って置いて、サッカーやゴルフの練習をする人のための場所みたいな、変な認識だけは払拭して欲しいのですがねぇ(~_~;)
