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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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きのうてむじんが、うめぞーと子供神輿を参加しなかったー。

*このエントリは、ブログペットの「てむじん」が書きました。
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既に18年も前の講演会の要旨を読んでおりました。
これが載っている本自体が12年前の物で、講師の先生は既に個人です。
この中で、先生がやはり個人となった作家の方と、ある歴史上の出来事について話し合った内容が書かれておりました。

え~と、先生は門脇禎二氏、作家は松本清張氏で、歴史上の出来事とは『藤原種継の暗殺事件』です。
ここで松本氏は、黒幕を天皇その人だと言っておられるそうで、その辺りの根拠を読んで行きますと、門脇先生でなくても、そりゃチョッと現代人の感覚で物を言い過ぎるよ……という印象でしょうか。
アプローチはともかく、思いがけない第三者の介入は、小説的展開では極めて有効という気が致します。
私もただいま、この辺を色々考えているのですが……全然上手く行かない(T_T)
勿論、天皇自身が計画したというのは無しですけどね。

あぁ、主人公が全然具体的に動いてくれないわ……(/_;)
イメージが湧かないせいかしら?
一度、誰かをモデルにお絵描きでもしたら、何となくイメージできるかな。
……で、誰をモデルにしよう、父親はいつの間にか渡部篤朗だったんだが、いつの間にか違う顔になって来たし、具体的に誰と言う事もなくなってなぁ(~_~;)
何か週刊誌でも買って来ようかしら、具体的なモデルを探すために……でも、それでイメージ湧くか、果たして?????

相変わらず、何か傾向が見えないかと、天応元年以降の任官や叙位を眺めております。
普通、史書にこの類の記録が残るのは、五位以上の人ばかりです。
この人達の任官の傾向ですが、この頃から本来の相当官位よりも下位のポストに就けられる例が散見される様な気がします。
まぁ、五位以上の官人が増えているからポストが足りなくなるのでしょうが、上位官人の兼任が多い事も原因なのかもしれません。
それはさて置き、かなり短いスパンで多くの人数の任官が行われているのですが、これが四位以上の人が殆ど見られない……
本来は長官クラスの役職につく人達が、次官クラスに任命されているような傾向も見られます。
どうして次官や判官らの人事が多いのか?
この辺りのポストから人事改革をしたいのか??
う~ん、やはり、前朝の政策や人事を引き継ぎたくない、そういう意思の表れなんだろうか???
もう少し別の方面から見てみませんと……

不退寺の多宝塔業平寺こと『不退寺』です。
今日、奈良へ行った用事は『まちなか1300年祭』よりも、こちらの多宝塔の特別開帳がメインです(^^ゞ
二層目が失われていますが、鎌倉時代に建てられた塔で、重要文化財に指定されています。
開帳されるのは年に一度だけ、五月二十八日の業平忌の日だけですが、今年は三十日までの三日間に延長されていましたので、ようやく行ってまいりました。

この寺に来るのは久々ですが、どういう訳か今の今まで勘違いしていたかも知れない事があるんです。
行かれた方はご存知かと思いますが、山門を入るとすぐ右手に池があって、その向こうに多宝塔が見えるのは、写真などでも良く撮影されています。
この濁った池なのですが、私の記憶では水が湧いて水面に紋が立ち、底から常に泥が撒き上がっていたような……いったい、何処の記憶やら、アメンボは浮いているけど水紋はたっていない(・_・;)

実はこの寺の周辺、私が勝手にとある人物の屋敷のあった場所に比定しております。
だから、平城上皇がここに屋敷を構え、阿保親王在原業平が住む事になったという、かなり強引な解釈にまで持ってこれる訳です、真偽はともかくσ(^◇^;)
こう書いて行くと、とある人物なんてわざわざ書くのがおこがましいですね(ーー゛)

本堂では業平公の画像も開帳されていましたが、こちらはそれ程古い物ではなさそうです。
しかし、考えてみれば、この方のプロフィールって全然知りませんわ(ーー;)
世間に膾炙しているイメージも、美男で女性遍歴が豊富、歌に巧みな風流人?
これって果たして、何処まで正しいんでしょう??
兄(行平)には劣るにせよ、政権の変わり目で昇進具合に変化があるって事は、この御仁もそれなりに官界での存在感はあったのではないのかしら???
もしそうならば、この御仁の持っていた野心は何なの????
この御仁にとって、父親、祖父はどういう存在になるんでしょう?????
もしも父親がもう少し長生きしていたらという思いは、無いはずも無いでしょうしねぇ……

何かの折に、私が在原業平という人物を書く事になっても、きっと女性との逢瀬に明け暮れるよりも、自分の居場所を求めるために不器用に足掻くような、要領の悪い美男子になりそうな気がします。
というか、むしろ業平よりも父親の阿保親王の方が面白そうな気がするんですけどね。
こんな事考えていると、ますます、ズルズルと話が伸びてゆくじゃないの……(~_~;)

猿沢池にて
この催しは奈良市中心市街地活性化研究会という組織が主催しているそうで、多分、『バサラ祭』『なら燈花会』などにも同様、地元の方々の参加協力で行われているのだと思います。

実は22日から始まっていて、猿沢池で龍頭鷁首船の遊覧をしていました。
ちょうど一週間前の23日は一日雨で、船だけが池の中央に浮かんでいましたが、今日は晴天に恵まれて、この様に観光客の方々で賑わっているようでした。
この遊覧での収益金は、中秋の日に行われる『釆女祭』に使われるのだそうです。

遣唐使船です。昨日には50年前の遷都1250年を記念して作られたお神輿も出て、ギャル神輿や子供神輿もあったそうです。
そして今日の見所は、天平装束パレードだそうで、昼過ぎくらいに少しばかり見学して参りました。
ところが肝心の綺麗どころは、どういう訳か後姿ばかりでして……何故(-_-;)?
そういう訳で先頭を行く遣唐使船の画像でも(^。^)
本日は天気が良くて、パレードに参加の皆さん、かなり暑そうでした。

昼ごはん代わりに(^^)そして私は花より何とやら……
フラダンスなどのステージの横のマルシェで、この様な腹ごしらえをしておりました。
大和牛のハンバーガーと、オリジナルカクテルの『千本桜』です。
日本酒がベースなのですが、色々なリキュールやライムジュースなどが利いておりまして、かなり飲みやすいと申しますか、殆どジュース感覚で飲んでしまいましたσ(^◇^;)
相変わらず、何を見に行ったのやら(ーー;)

まずは、日々の戯言に拍手を頂き、大変ありがたく存じますm(__)m
これからも、ある事無い事、虚言、暴言、妄想、暴走交えて、性懲りもなく書き連ねるかと思いますが、ぬる~い目でお付き合い頂ければ幸いです 再m(__)m拝

さて、話変わりまして、奈良文化財研究所の飛鳥資料館で『キトラ古墳壁画四神 特別公開』が六月十三日まで開かれています。
後半になると忘れそうなので、特に予定の無い本日の午後に行って来ました。
HPの方で待ち時間のお知らせもしているので、チェックしてみたところ、昼過ぎで待ち時間なし。
そこから少ししてから出かけたのですが、資料館の前に着いてみても、入り口の待ち時間掲示は0分となっておりました。
しかし、すぐ前の駐車場(有料)は満車でした(~_~;)
昨年の『青竜・白虎』の時も同じような状況、そして私の取った行動は昨年に同様σ(^◇^;)

いざ会場内に入っても、普通の博物館の特別展なら、この程度は混雑しているという具合の人出でした。
いつもの常設展示の部屋を見事に片付けて、かなりゆったりとしたスペースで、青竜、玄武、白虎、朱雀の順で展示されていました。
今回が初めての展示となる朱雀ですが、実物はかなり褪色していて、実のところ写真などの方が鮮明に見えます。

それにしても初めて『白虎』や『玄武』が展示された時には、最高で二時間待ちが出たというのに、かなり話題性も下火になったって事でしょうか。
高松塚古墳の壁画修理の公開も、平日は定員割れしていたそうですしねぇ。
……で、石上神宮の七支刀の公開はどうなんでしょう?
何せ平日しか公開しないし、事前申し込み制だし、何年か前に奈良国立博物館で特別公開しているから、決して初めてという訳でもないしねぇ……(・_・;)

これから書くつもりの話には、以前に書いた下敷きがあるのですが、こいつがまた酷くまとまりも悪くて要領も得ない、変に尻すぼみの内容で終わっています。
主人公も変えるつもりですし、恐らくはかつての三倍くらいの長さにして、要するに全面的に書き直しをしなければなりません。
そういう訳で、以前に書いた話はほぼ参考にしない方が良さそうです。
それでも一応、その頃にブログに書いていた与太事を読んでおりました。
そして、ある記事を読んで思った事……

私が軽く問題にしたのは、大伴古麻呂継人の父子です。
以前に書いた話でも、この親子、主人公たちの会話には出てくるのですが、彼らの行動には具体的に関わって来ません。
特に息子の方は、具体的な事件が起きるまでに名前が出てくれば良い様な存在でしか扱っておりませんでした。
ところがふと思ったのは、息子の方の事です。

この息子にとって、父親は果たして誇りに思える人だったのだろうか?

天平勝宝四年に遣唐副使としての使命を果たした父親は、恐らくは息子にとって自慢の父親だったのでしょう。
具体的な年齢は親子とも不明ですが、息子の方は到底、成人はしておらず、まだ幼かった頃の事だと思われます。
しかし、その五年後に父親は謀反への連座を問われて、刑死同然に亡くなっています。
この時に息子が成人していたか、この辺りも微妙なところでしょうが、その後の経歴を考えれば、粛清対象には入っていなかったと思われますし、まだ子供だったのかもしれません。

二十年後に父親同様に遣唐使に選ばれて海を渡り、命からがら帰って来た更に七年後、この人自身がまた父親と同様に罪を問われる事となります。
継人がもし、父親の事を幾ばくかでも恨んでいたのなら、処刑を目前にした時にどのように思ったのでしょうか……今回は、この辺りを具体的に書く予定はありませんが、何とも歯切れの悪い事件になりそうな気が致します。

それにしても、本当にあの主人公は働いてくれるのか?
変に小回りの利く白壁王の孫とは思えない腰の重さなんだが……(--〆)

うめぞーの「井上神社――奈良市井上町」のまねしてかいてみるね

日曜日に行ったの井上神社』に設置されたようで、それに由来し、この場所の『井上内親王と興福寺となって御霊を止めたい気分にはこちらの前にある寺になってしまい、御霊を移した?
由緒書きの社も類焼して扁額も類焼していました♪
延暦十九年になりますと興福寺と興福寺と、つい足を移したの争乱によって社を止めたい気分に由来して、この場所の看板も綺麗になりますとのお陰で、御社も綺麗に設置された。
延暦十九年には井上町の社も新たに元興寺が綺麗になります!
何と興福寺と興福寺と、その途中で久々にはこちらの争乱によって、宝徳二年前に勅命によって、それにある寺に行ったの看板も綺麗にはかなり寂れたもののようで、その途中で久々によりますと、鳥居が、つい足を止めたい気分に土砂降りの薬師堂町の御祭神は井上内親王と、翌年になりますと、御社も綺麗に元興寺が現在の薬師堂町の薬師堂町に構えたものの井上神社』の中、御霊を移した感じで、つい通り過ぎていましたの社にはかなり寂れたようで久々に設置されていましたようです。
由緒書きの前を移した感じで、翌年に、宝徳二年にはかなり寂れたもののだそうです。
延暦十九年に由来し、御社も類焼し、御霊神社』の前を通りましてしまうようですが綺麗によります♪
この地に社も新たに設置されたもののようで、御霊神社』のだそうですが、御霊神社』の社になっていました感じで久々に由来し、つい足を造ってしまうようです。
由緒書きのお陰で、鳥居が現在の薬師堂町に勅命によって、翌年に設置された感じで久々に塗り直されてしまうようで、それに、つい通り過ぎて扁額も類焼し、鳥居が、御霊神社』に、つい足を移したようで、翌年に土砂降りの前にある寺に元興寺が綺麗によりますとなってしまうようですが、鳥居が綺麗に元興寺が現在の薬師堂町の前によりますとなって御霊神社』にある寺になって扁額も新たに社を移したものの看板も新たに、宝徳二年に行った!!
この鮮やかな雰囲気だった感じで久々には井上町のだそうです。
延暦十九年前に勅命によって社に塗り直されてしまうようです?
何との看板も着け直されてしまうようで久々にある寺に土砂降りのだそうです。
由緒書きの中、鳥居が現在の井上内親王となってしまい、それに『御霊神社』の看板も新たに構えたの御祭神はかなり寂れたようですが現在の看板も類焼して、つい足を祀ったのようですが現在のようで久々になります♪
延暦十九年前に勅命によって、御霊を造って、つい通り過ぎてしまうような赤い色の中、御霊を造っていました感じで、翌年に土砂降りの争乱によって、この鮮やかな赤い色のだそうです。
由緒書きの社も着け直された感じで久々に由来していまして御霊神社』の井上内親王と興福寺と興福寺とこちらのお陰で、その途中で、それに、その途中で久々には井上内親王とのようですが現在の争乱によって、奈良市紀寺町になってしまうようで久々にある寺に元興寺が綺麗になっていました感じで久々によりますとの『御霊を止めたい気分に設置されて、奈良市紀寺町という名前はかなり寂れた!
一年に元興寺が、御霊神社』の争乱によって、この鮮やかな赤い色の中、奈良市紀寺町に社に由来し、それに設置されて扁額も綺麗に社に『井上神社』にはかなり寂れた。
この辺りの社も着け直されて、奈良市紀寺町に、御社も綺麗になってしまい、つい通り過ぎて御霊を祀ったの社に勅命によって社を祀った感じで、つい通り過ぎてしまうようで、御霊神社』の中、つい足を祀ったようで、その途中で久々に設置された。

*このエントリは、ブログペットの「てむじん」が書きました。
綺麗になった社日曜日に土砂降りの中、奈良市紀寺町にある璉珹寺に行ったのですが、その途中で久々に『井上神社』の前を通りました。
何と、鳥居が綺麗に塗り直されて扁額も着け直されたようで、御社も綺麗になっていました。
一年前にはかなり寂れた感じで、つい通り過ぎてしまうような雰囲気だったのですが、この鮮やかな赤い色のお陰で、つい足を止めたい気分になります。

由緒書きの看板も新たに設置されていまして、それによりますとこちらの御祭神は井上内親王他戸親王となっていました。
延暦十九年に勅命によって、この地に社を造って御霊を祀ったのですが、宝徳二年に元興寺と興福寺との争乱によって社も類焼してしまい、翌年に元興寺が現在の薬師堂町の『御霊神社』に、御霊を移したのだそうです。
この辺りの井上町という名前はこちらの社に由来し、この場所の社も新たに構えたもののようです。
とり合えず藤原恵美朝猟による多賀城の改築は良いから、宝亀十一年三月の伊治砦麻呂による多賀城の焼き討ちの方に、目を向けなければならないんですよね。
朝猟が改修をした多賀城は、四方の築地に四脚門や長屋などを設けていたようで、まぁ多分、親父殿の唐風かぶれを反映したような物だったらしいです。
この築地や門が焼け落ちるのが、件の反乱に因るのだそうですが、構造上、攻め易かったのかもしれません。
この辺を本日、電車での移動中にボケラ~ッと考えておりました。
超タカ派(の予定)の早良親王が、応急の方針として多賀城再建に当たっては、旧来通りの最低限のサイズで門を構えるべきの云々と、既に摂政の宮となっている皇太子(つまりは同母兄)に提言しているようなシーンを何となく想像していたのですが……
この場に主人公っていられるの?
こいつが侍従になるのはもう少し先じゃなかったか??

猿沢池にて本当に今更ながら、こいつを主人公に選ぶと話が進め難いの何の……(T_T)
でも数年前には、この辺の話の主役はこいつに決まってたんだよね。
おまけに、当初から早良皇太子と仲が悪いのに、どうして最後にはああなるのか、全く作者として整理がついてないのですから……ってのか、藤原種継とも不仲なのよね(~_~;)
誰か仲良しの相手を設定しないといけませんわ、粟生江内親王以外に(/_;)
えっ、大伴家持の息子??(?_?)??
多分、一回り以上は年上だし、う~~ん、辛気臭そうなキャラクターになりそう……
藤原永手の息子……とも、気が合いそうに無いような(ーー;)
ところで、こいつ呼ばわりされている主人公って誰?σ(^◇^;) ?

蛇足ながら、上の画像は猿沢池に浮かんでいた龍頭鷁首の船、天気が良ければ池の遊覧をするはずなのですが(多分、次の日曜日まで実施)
おまえは誰か
HN:
うめぞー
性別:
非公開
自己紹介:
明日は歴史作家!

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