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コケに胞子嚢でもついているようにも見えますが、改めて見ればシロツメクサです。
どうしてこうも丈が低くて、花も葉っぱも細かいのかと申しますと、恐らくは鹿に頻繁に食べられるためだと思われます。
こいつは奈良国立博物館の芝生の中に咲いていました。
周囲にも多少咲いているのですが、ことごとくがこの画像のごとく……
シロツメクサの若芽は、食用になるそうですので、鹿にとっても恰好の食事なのでしょう。
替わってこちらは、興福寺南円堂の前の右近の橘です。
南円堂には左近の藤、右近の橘がありますが、藤棚の方はとうに花は終わっています。
今月の初めの藤の花の盛りの頃には、橘は殆ど蕾も膨らんでいない状況でしたが、今日は既に大方が終わって、わずかに数輪が咲き残っていました。
それにしても、今年の花の着きはあまり良くないようで、今年の秋の実りは少ないかもしれません。
この日とは、天応元(781)年四月三日、皇太子とは山部親王です。
この翌日には、同母弟の早良親王が立太子しています。
そして八日、司召しと県召しが臨時に行われているのですが、奇妙な事に各司の次官クラスの人ばかりの任命です。
このような人事は、私の記憶ではかなり稀ですが、何か特別な意味があるのでしょうか?
だからと言って、この時に任命されているメンバーを見たところで、この先の出来事のキーパーソン的な人もいないのですが。
むしろ注目すべきは、十四日の東宮関係の人事でしょうか。
中納言従三位藤原朝臣田麻呂を兼東宮傅とす。中務卿は故の如し。右京大夫正四位下大伴宿禰家持を兼春宮大夫。従五位下紀朝臣白麻呂を亮。
延暦四年辺りまでを眺めてみますと、何れもかなり胡散臭い(?)メンバーです(・_・;)
式家の氏長となった藤原田麻呂、この人は一見、無難な人事にも見えるのですが、姪の乙牟漏の立后がこの人の薨去の一ヵ月後というのは、どう考えるべきなのでしょうか。
考えようによってはこの御仁、前時代的に保守傾向にあったとも取れますが……
そして大伴家持は言わずもがな、紀白麻呂も延暦四年九月の事件には、連座を問われています。
紀氏としての縁戚が分からないので、この人をどのように捕らえるべきなのかが、今のところ全く決まっていないのですが、紀氏にしろ大伴氏にしろ一枚岩の結束なんて事はほぼ無いでしょう。
藤氏にいたっては、四つの家の足並みは当の昔にバラバラ、各家の事情も穏やかならぬ状態のような気が致します。
しかし、このメンバー、どいつもこいつも主役はれるのはいないような気がするわね……
今までの主役が出世しすぎたので、若い甥を主人公に任命したところ、どうも周囲が良く見えない様な気がしまして、作者としては全くの足踏み状態です。
まあ、今回こそ、主役交代は無いと思うのですが……(-_-;)
本日、当麻寺(葛城市)に行き、ようやく三重塔の内陣を拝観して来ました。
そちらの報告は、また項目を改めまして(~_~;)
それでこのよもぎもちって暖簾は何なのかと申しますと、当麻寺駅前にあります『中将堂』です。
當麻の御土産といえば、こちらの『中将餅』、ヨモギモチに漉し餡がかかっています。
勿論、お持ち帰りがメインですが、店内で食べる事も出来ます。
餅が二つに、温かいお茶か冷たいお茶かを選べまして300円。
甘さ控えめで、出来立てですから、とっても軟らかくて美味です(^。^)
近鉄南大阪線の当麻寺駅(急行が止まらないので注意)を降りてすぐの場所にあります。
駐車場もありますので、マイカーで御出での方にもお奨めです(^^)
何せ今まで、ずっと避けていた人が何人か、全面的に出て来るんですよね。
この人達に関わると、従来の登場人物の人格がかなり変わりそうな気がしますから。
一人は言わずと知れたうちのスメラミコトの同母弟……兄弟仲は殆ど他人(ーー;)
特に弟の方に、その意識が殆ど無いんですよ。
多分、両親に対しても同様な感情を持っていそうな気がします。
それなのに、両親や兄から押し付けられたも同然の妃には、何がしかの愛情を持っています。
この辺、政略結婚の相手を決して嫌わなかった同母兄と同じですが、感情の表し方は多少違うでしょうねぇ……ってのか、作者自身がまだちゃんと考えてない(*_*;
そういう訳で、この人にはもう少し腹を割れる相手が必要なのですが、これがまた一筋縄じゃ行かない設定なんですわ。
こうしていつも、自分で自分の首を絞めているうめぞーでした(/_;)(T_T)(/_;)(T_T)(/_;)
まずは、拍手をありがとうございます。
これからも、大風呂敷広げた与太事を飛ばしまくりますが、ぬるい目で見守って頂ければ幸いですm(__)m
えーと、これは画像が悪いです……赤いバックのために左のワインの色が曖昧ですが、白ですσ(^◇^;)
このワイン、『遷都1300年祭』を記念して、香芝市内の酒屋さんで開発した商品だそうです。
白が『聖武』、赤が『光明』、まぁ、実にダイレクトなネーミングですね(^。^)
醸造元は大阪柏原市にあります『カタシモワイナリー』です。
大阪や奈良では、割合に知られた老舗のワイナリーで、『近つ飛鳥博物館ワイン』もこちらの商品だったかな?
ここ最近、買いに行っていないのでチョッと曖昧(-_-;)
さて、写真、撮り直してみました(~_~;)
これで間違いなく白ワインだと分かるでしょう。
柏原市は聖武天皇が大仏の発願を決めたとされる、河内の知識寺のあった場所でして、この辺も商品開発の切欠なのだとか。
白は和食にも合うとの事、ただいま我家の冷蔵庫で冷やしておりますので、その内、おいしい物でも買って来まして(自分で料理しないのか?)開ける事と致します。
右の小さな瓶は葛城市にあります『梅乃宿酒造』のスパークリングリキュールです。
日本酒ベースですが、それ程アルコール分は強くなく(5%)、殆どジュースです。
お陰で夕飯がてらに空けてしまいました(・_・;)
奈良は結構、地酒がおいしいそうで、ここ最近は若い人にも気軽に飲んでもらえるような商品も、少しずつ増えているそうです。
しかしこの人は、奈良時代の前半の代表的な武官です。
養老四(720)年以降に多賀城の前身になる多賀柵が作られ、恐らくそこに置かれた鎮守府に将軍として赴任しています。
天平元(729)年に功労者への叙位を奏上していますので、赴任はそれ以前です。
恐らくは神亀元(724)年の反乱以降になるのでしょう。
そして出羽柵が秋田村に移ると、そこまでに至る経路を開拓したいと申し出て、天平九(737)年に持節大使として、兵部卿の藤原麻呂が1000の騎兵を率いて着任します。
藤原麻呂は中央から派遣された総責任者で、道の開通のために実際に軍を率いて行くのは東人です。
そして麻呂に率いられて来た副将や、陸奥に派遣されていた官人たちは、この行軍の後方支援のために、玉造や新田、牡鹿などの柵(き)に配備されます。
東人は二月二十五日に多賀柵を出発して、四月の初頭までに百六十里を開通させたが、残雪が多く、農耕期にも入ってしまったため、兵士らを解散させたと四月十一日に報告しています。
恐らくは、これを四月十四日の日付で麻呂が中央に言上して、その後に都に帰っているのだと思うのですが……時は天平九年、都ではこの何年か続いていた豌豆瘡流行のピークを向えることとなります。
壊滅的になった太政官組織の再編のため、東人も召還された可能性があります。
天平十一年四月、この時に陸奥按察使、鎮守府将軍に加えて大和守でもあった東人は、参議に任命されていますので、在京だったのは間違いありません。
そして次に大野東人の名前が出てくるのは、天平十二年九月、大宰府で藤原広嗣が兵を起こし、その鎮圧のために大将軍に任命される時です。
亡くなるのはこの二年後ですので、決して若かった訳ではないはずです。
父親の果安(はたやす)も壬申の乱の時に名前が出て来る武官です。
東人自身も若い頃から、武官として過ごして来たのでしょう。
この人の息子たちは、殆ど目立った活躍もしていないようなのですが、娘の仲智(なかち)は藤原永手の内室になって、尚侍(ないしのかみ)兼尚蔵(くらのかみ)として後宮の最大実力者に上り詰めています。
子供たちの内で、一番父親に似ていたのが、案外この人かもしてません(~_~;)
12時過ぎに入場して、17時まで目一杯かかって、図録や何かを買う暇も無いって……何でそういう事になるんだ?
別に、入場制限もなければ、混雑しすぎていて列が前に進まないなんて事は、ほぼなかったのに(~_~;)
まぁ、また今月中に一度くらいは奈良市に行くと思うので、図録などはその時に買えばよいでしょう。
しかし、重そうな分厚さだわね。
こちらに関する与太事は、そいつを買って来てからにしますわ。
あのように通して見てみると、東アジアの情勢も勿論、国内での勢力均衡など、かなり面白い事が分かりますね。
ちなみに画像は、特に関係なく、この日の夕方に見る事の出来た天体ショーですね。
恐らくはこのこの時代以前から、陸奥や出羽への半強制的な移住が、北陸や関東の諸国に課せられ、かなりの規模での開拓が進んでいるのだと思います。
城(き)や柵(さく)という単位の村が、入植者らによって蝦夷の地に作られて、国司の管理下に置かれるようになり、これに対して蝦夷の人々が反乱を幾度が起こしています。
神亀年間まで書き出してみたのですが、その三十年弱の間に、三度も反乱の記事が見えます。
これに隼人の反乱も加えれば、四度ですね。
特に藤原不比等の亡くなった年、養老四(720)年の二月には大隈の隼人が国司を殺害、中納言の大伴旅人が大将軍に任命されるものの、太政官のトップの死去を受けて呼び戻されています。
更に九月には陸奥で蝦夷の反乱、按察使(あぜち)が殺害される事件も起きています。
翌年の七月に、筑紫からも陸奥からも征討軍は戻って来ていますが、聖武天皇が即位して間もない神亀元(724)年の三月に陸奥国の海道(太平洋岸に住んでいる)の蝦夷が、またもや国府の役人を殺害して反乱を起こしています。
ここで大将軍に任じられるのは藤原宇合です。
ところで養老四年の反乱以降に『鎮守府』の名称が散見されるようになります。
多賀城の発掘などによっても、鎮守府がある程度形になったのはこの時代で、更に整備されたのは藤原恵美朝狩(仲麻呂の四男)が赴任した後だろうという事が、判明しているそうです。
しかし、まだ、そこまでの道程が遠いの何の……この後、藤原麻呂による街道の整備なんぞもあるはずだし、結構、頭に入れて置かなければならない事だらけ。
宝亀十一年なんて、遥かな先ですわ……(/_;)
本当に、こういう方面に弱くていけません。
ボチボチと過去の記事にも拍手を頂いているようで、この様な埒も無い事を言い散らしている(書き散らしている)所にまで御出で頂き、重ね重ね御礼申し上げますm(__)m
この後も、大枚妄想、ハッタリ、嘘八百を交えて与太事を吐き続けますが、ぬる~い目で見逃してやって下さい(・・?
いえ、参考までに申し上げますと、勝手に観光案内などは決して虚構ではありませんので、こちらもよろしく御願い申し上げますm(__)m
