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今年も高田川堤の桜並木は、他の所よりも少し早く満開になっています。
これは今朝、信号待ちの時に写した画像です。
飛鳥川堤は七分咲きというところでしたが、今日は小雨交じりとは言えども暖かい日でしたので、もう既に満開になっているかもしれません。
その辺りを見ていても、木によってかなり咲き方に差があります。
まだ三分咲き程度から満開まで、この週末には、あちらこちらで『桜祭』を企画しているので、今年もちょうど良い具合のようです。
ちなみに私は、土曜日は大安寺、日曜日は東大寺と、何やらまたも寺三昧?
昨日、用事があって京都まで行って来たのですが、地下鉄で御池から京都に向かう途中、車内吊り広告に『麿のお気に入り』というお菓子の広告がありました。
なんでも京都府営地下鉄の京都駅と四条駅の構内でしか扱っていない云々……?
何じゃ、そりゃ?
そう思いつつ京都で地下鉄を降りて改札を出ますと、すぐ目の前に特設のワゴンで、このスイーツを販売しておりました。
まあ、決して御高い価格でもないけれど、その割には上品なサイズで美味しかったです。
パッケージが可愛いと、職場でのウケも悪くはなかったですね。
「本日最終日です」と呼び込みをしていたのは、こちらだったか、その隣の和菓子屋さんのスタンドだったか?
でも広告を出しているくらいだから、当分は売っているのかしら?
もしも京都御所の一般公開の時にも売っていたら、また買ってこようかな。
もしも十二年前に親父が失脚などの憂き目に会わなければ……ただいまの主人公候補は、ボヤキ全開で前頭葉灰白質上を駆け巡っております。
もしそうならば、親父殿は今頃は八省のどこかの卿くらいは勤めていて、もしかしたら参議にも名前を連ねているのかもしれない。
そうならば俺には親父という最大の後ろ盾がいる事になるはずなのに、今の俺にはそれらしい者もいない。
この先に俺の身に降って来るのは、俺自身の生まれを問うような為政者の家との婚姻関係だろうか。
後ろ盾のいない皇族官人など惨めな者だ、親父自身がそれを一番知っていたはずなのに、あの時の親父はどうして、右大臣やその取り巻きらを裏切るような行為に走ったのだろう。
俺の祖父は天皇で、俺の叔父も今はその地位にいる。
そして次にその地位に着くもう一人の叔父を俺は多分、嫌っている……更には、もう一人の主人公候補がその左側の方で悩んでおります。
俺は別にその人に取って代わりたいなどと言う願望は微塵も持っていない。
俺が欲しいのは、その人が望んだ訳でもないのに得た立場、俺が望んでも得られぬ立場だ。
日嗣などではない……俺にはそのような大それた野望などない。
俺が欲しいのは、たった一人の女だ……
これ別々の話のネタです(・_・;)
で、私の書きたいのは息子の世代か、それとも孫の世代か?
いかんなぁ……この数日、かなり混乱してるわ。
またぞろ、この歌が気になって仕方が無いんだが、いったい何の病気なの?
何となく仏頂面で歌っている男の子が何と言う訳でもないんだが、最後の礼の仕方がちょっとかわいらしいかもσ(^◇^;)
本日、旧暦の如月の望月という訳で、トチ狂う一歩手前のうめぞーでしたm(__)m
何か悪いモノに引きずられてるわネェ(--〆)
テンションが下がる場所は確かにあるけれど、少なくとも大阪は私にとってはそういう所じゃないはずなのだし、この度は場所じゃなくて、やはり人なのかな?????
途中経過は良かったのに、最後の最後で何がひっくり返ってるんだ?
いずれにしても今朝の夢見は、あまりに変だったわね。
まぁ良いわ、近い内に別の場所で物事に耽るようにすれば、勘が戻って来るでしょう。
そういう訳で今週の前半は逼塞状態かなε-( ̄ヘ ̄)┌
会いにも博物館、平成十七年ぶりに会いにこの時から、東大寺のかも知れないのでしょうかなと申しますと初めて会ったの束帯姿を見て作られる前年、その頃をした年頃という顔にこの像をしても見えなくは無いのかなと初めて会ったのは非公開の時でしたの時から、やはり奈良国立博物館で出家もせず、聖武天皇祭』の東大寺別当はないのですが別当におられた時ですが別当には済深法親王、やはり奈良国立博物館で、平成十四歳の行われた時の小倉事件で、聖武天皇がどなたなと申します。
*このエントリは、ブログペットの「てむじん」が書きました。
この画像の御方と初めて会ったのは、やはり奈良国立博物館、平成十七年年末から十八年の年始の行われた特別展『東大寺公慶上人』の会場でです。
この方がどなたなのかと申しますと、聖武天皇なのだそうです。
聖武天皇が即位したのは二十四歳の時ですから、まあ、その頃をイメージして作られたのかなと思っても良いのですが……
この像が作られたのは元禄二(1689)年です。
この時の東大寺別当は済深法親王、延宝九(1681)年の小倉事件で出家を余儀なくされた霊元天皇の一宮です。
この方が別当に就任されたのは、この像の作られる前年、十八歳の時でした。
この像を見ていると二十四歳の青年というよりは、ようやく少年期を脱した年頃という顔にも見えなくはありません。
あくまでも私の妄想で根拠は無いのですが、最初にこの像を拝した時から、このモデルは済深法親王ではないのかと思っています。
御水尾上皇や徳川家綱がもっと長生きをしていたら、もしかして出家もせず、皇位にも即いたのかも知れない法親王の束帯姿を仏師は想像していたのでしょうか。
この坐像は現在、東大寺の天皇殿におられます。
こちらは非公開の場所ですが、毎年五月二日の『聖武天皇祭』の日には一般の拝観も出来ます。
そういう訳で、一年ぶりに会いに行くのは、一月半の後になる予定です。
それなのにツバメが来ていました。
確かにもう、そういう季節になりましたか。
先月までずっと、白壁王を主人公にして書いていたので、どうもその世代から妄想が抜け出せなくていけません。
そして先日からの妄想は、息子を通り越して孫の世代……これがまた、嫌になるくらい胡散臭い面子ぞろいで嬉しくなって来ます(ーー;)
あ~っ、大伴氏に佐伯氏に紀氏に坂上氏に藤原北家だよ……何か、武官だらけ(ーー;)
全然、妄想が泳ぎ出さないじゃないの。
もう一度、息子の世代に戻ろうかしら。
そうなるとまた、東大寺がクローズアップされてくるかな、部分的に(ーー;)
一度、寺からも坊主からも離れたいんだが……だから宗教政策が大事なの?
それはさて置き、昨日(既に一昨日)に東大寺の勧進所の桜を眺めていて、何となく疑問に思ったのですが、公慶上人のお墓ってどこにあるんだ?
確かこの方は、綱吉や幕府閣僚らに会うために江戸に行っている時に亡くなっているんですよね、記憶が正しければ。
そしてまだ十代の弟子に、後事を託さなければならなくなるのですが、この弟子も有能な方だったらしく、江戸での駆け引きは何とか収まったのかな……う~ん、記憶が曖昧です。
ところで江戸時代には、御大名などでも亡くなった場所に墓が造られると聞いた覚えがあるから、この方の御墓も江戸にあるって事になるのかしら?
それとも僧侶の場合は違うのかな?
この辺り、数年前の奈良博の特別展の図録に、結構詳しく書いてあったわね……で、それはどこにあるんだ?職場か?誰にも貸した覚えないから、家の中にあるのか?
まあ、気が向いたら調べましょうっと。
どういう訳か私は、俊乗坊重源よりも龍松院公慶の方が好きらしいんで(^。^)
三連休の最終日、天気も良くなって大勢の観光客が写真を撮っていました。
染井吉野は木によってかなり差がありますが、一分咲きから三分咲きくらいでしょうか、来週あたりが見頃になるのではないかと思います。
『
彼岸桜というやつでしょうか。
染井吉野よりも少し小ぶりの花です。
県内の各地の桜祭は、来週から再来週を見込んでいるようです。
今週は天気が思わしくなく、あまり気温が上がらないようなので、再来週でも大丈夫でしょうか?
ここの枝垂れも東大寺境内では早咲きの方なので、天気の良いのも手伝って、写真を取っている方が大勢いました。
『勧進所』の枝垂れも毎年綺麗です。
今年からこの奥の『公慶堂』が四月十二日(多分、龍松院公慶上人の命日だと思います)に公開されるらしいのですが、え~と月曜日……何かに引っ掛けて休み取ったろうかσ(^◇^;) 無理?
そういう訳で『甘樫丘東麓遺跡』の2009年度調査です。
何年か前には、これでもかと恐ろしく混雑していた現地説明会も、ここのところは適度に話題になっていると言う感じですね(^_^;)
ちなみに行われたのは昨日、三月二十日の事です。
今回はこの谷間の入り口辺りと丘の裾から上の方を調べてみようと、前回の調査地の東側に調査区を開けていました。
右側にボケて映っている石敷きは、昨年の6月に検出した同じ遺構です。
さて、石敷きの北側、丘の上にはどのような遺構の広がりがあるのやら、5×25メートルのトレンチを開けてみたところ、高低差10メートルの付近のテラス状になった平坦場で、二列の柵列を検出しています。
現状で地形を見てみますと、この平坦部、西の方へと巡っていて、この北側に飛鳥寺というか王宮の方向を見渡せる廓状の平らな場所があります。
この辺りをいずれは調査する事になるのかもしれませんが、今のところは予定は無いようです。
このところ村教委では現地説明会を行わず、見学会に留めています。
もう少し状況を検討してから、改めて詳しい説明会を中央公民館などで行うようにしているようです。
それはそれで、かなり有益だと思うのですが……どうも状況が良く分からない(ーー;)
今回は40年以上も前に見つかった飛鳥寺西門前の石敷きや溝、土管暗渠の延長が検出されて、溝や暗渠は更に南へ伸びる様子が窺えるのですが……
石組み溝の向こう側の素掘りの幅広い溝は何なの?
その下層のかなり深い位置で土管の暗渠が出ているのですが、この両者の関係ってどうなってる訳?
手前には大きな石を敷いて方形に区切っていて、そこには丸く石の無い部分が見えますから、ここに柱が立って、何らかの建築物が立つ事になるのでしょうが、真ん中の素掘溝は何よ?雨落ち溝?……にしちゃ、その横に残りの悪い石組み溝らしき物も見えるんだが?????
奥の方は細かいバラスが敷かれていますから、手前の方形エリアとは別物の事は確かです。
知り合いの調査技師は三人とも現場におられるのですが、のべつ幕なしに誰かにつかまって質問をされている状況ですから、遠慮してさっさと引き上げてきました(^^ゞ
まあ、そのうちにまたどこかで調査報告会でもしてくれるでしょう。
その辺に期待しておきますわε-( ̄ヘ ̄)┌
始まったのは嘉祥二(849)年、仁明天皇の時代でしょうか。
三大勅祭として有名で、毎年、宮内庁の方から勅使がお出でになって『御棚神饌』を捧げ、祭が行われます。
ちなみに他の二つの勅祭は『葵祭』と『岩清水祭』ですが、実は私、行った事がありません(*_*;
そもそも勅祭は、旧官幣大社では定期的に行われるものなのだそうですが、熱田神宮にしても出雲大社にしても、毎年行われる訳ではありません。
宇佐八幡宮では十年に一度でしたか、三~四年に行われたとニュースで見た記憶があります。
そういう訳で、毎年、勅使が御出でになって祭事を行う春日大社は、かなり別格の名神大社と言えましょう。
参道の中央には玉砂利を盛り上げた勅使道が、斎館から本殿まで敷かれ、この上を宮司や勅使を初めとした方々が、通って行かれます。
そして二の鳥居をくぐったところにある『祓戸神社』の前で、お清めを行います。
この日は今にも雨が降りそうな曇った日で、いつもうっそうとした春日大社の参道がよけいに暗くて、かなり離れた場所からしか拝観が出来ませんで、具体的にどのような祭文を読んだり、どのような所作をしているのかが、ほぼ分かりません。
いえ、多分知識があれば、神前に参る前の清めの方法くらいは分かるのでしょうが……はっきり行って、私はこの類には完膚なきまでに無知です(-_-;)
勅使は黒い装束ですから三位以上、宮司は赤い装束ですから五位か四位、そして碧や青の方々は六位以下という事になります。
こんな位、大昔に廃れたものかと思いきや、このように神社や宮内庁関係には、まだ存在しているようです。
さて、回廊内の祭事は門前からわずかにしか見る事が出来ません。
三年前にも、この場所で粘って祭事の様子を窺っていたのですが、今年は午後から京都に行く予定があったので、さっさと退散してしまいました。
しかし、三年前にはもっと勉強して、また見に来なければ……などと思ったものの、相変わらずの勉強不足、本当に勅使祭はどのような事を行っているのやら。
少しは身を入れて調べてみれば分かるのでしょうかσ(^◇^;)
