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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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若草山の花火以前には若草山山焼きといえば、成人の日だったと記憶しています。
日中には春日大社の舞楽始式に行って、夕方からは若草山山焼きだったかな?
昨年まではもう少し早い時期だったのですが、今年から第四土曜日になったようです。
そういう訳で今年は今日、23日です。

今年は平常遷都1300年祭だという訳で、18時からの花火もちょいと凝っておりました。
打ち上げ花火で「1」「3」「0」「0」を連続して上げて、その後に「せんと君」らしき顔も上がるんですが、ほとんどが斜めになってしまってよく分からないσ(^◇^;)

今年は良く燃えました。そして18時15分に点火。
一昨日の午前中に雨が降ったわりには、その後の日が風が強くて空気が乾燥していたので、枯れ草も良く乾いていたらしく、今年はなかなか盛大に燃えてくれました。

それにしても寒かった……
日中は『大安寺』の『笹酒祭り』に行って来ました。
こいつの報告はまた後ほど、記事を改めましてm(__)m

 

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恭仁京の坊条復元図を見ておりますと、左京朱雀道を挟んで左右に二坊ずつしかなく、二条大路に当たる道は泉川を越えておりません。
実は私が想定した白壁王の屋敷は、この二条大路を更に東へたどって、河を越えた広めの河川敷、つまり京外に住んでいる事になっています。
おまけにこの二条大路、途中で丘にぶち当たって、恐らくは西に伸びきってはいないようです。
そうすると、白壁は王宮から自分の屋敷に帰る時どうしたんでしょうσ(^◇^;)

まぁ、丘の麓をたどる細い道くらいあったかもしれませんが、泉川はどうして渡ったのかしら?
何とか渡れる程度の橋が架かってたのかな?
しかし、航空写真で見ても、あの辺りは東西に流れていた川が南西に蛇行する所に当たっているから、たやすく橋なんて架けられないかもしれませんわ。
そうすると、馬ごと乗せてくれるような船か筏でもあったのかなぁ……? 
変な設定をすると、不必要なところで悩むという悪い例でした(@_@;)
てむじんは塩焼しなかったー。

*このエントリは、ブログペットの「てむじん」が書きました。

年が明けてからネット上では引き篭もり(?)も甚だしく、どちら様にも挨拶に出向いておりません。
重ね重ねの御無礼をお詫び申し上げます_(._.)_

リアル生活では、休みの日に家にいる事の方が少ないくらいだってのにねぇ(^_^;)
こんな生活も二月に入ったら、逆になりそうな気がします。
土日は家に篭って、さっさと執筆に勤しまねばなりませんので、途中、ネットに逃避する可能性が大きいでしょう。
そんな事してるから、書くべき話がちっとも進まないんだよ(--〆)

ところで今も、いささか強引に人物を登場させております。
その一人、中務大輔の白壁王が名前を思い出せない内舎人……育ちの良さそうな顔に不自然に尊大そうな表情を貼り付けて、右大臣に頼まれた御使いに来るのですが、さて、これは誰でしょう(-_-)
この時は天平十四年の二月、この内舎人は二十五歳くらいでしょうか。
どうも私は、文人扱いされる人を変人扱いする傾向があるようです。
かつての長屋王のサロンに集った人も、後の市原王の周囲に集まる人も、大方が変人集団になるのかなσ(^◇^;)

皇后宮大夫は天平九年からしばらくの間、誰の名前も見えません……そういう訳で変更。
湯原王は恭仁京遷都の頃には、既に皇后宮大夫。
もちろん、天平十七年にもこの地位にいる予定です。
これで少しは動かしやすいかな。

やっぱり私が皇家の人間を書いていると、小悪党というよりも大悪党になってきますわ。
今回の一番の悪党は……う~ん、聖武天皇だったりして??

大昔、野坂昭如氏が「ソ、ソ、ソクラテスかプラントンか~」なんて変な歌を歌っているCMがあったとかなかったとか、「み~んな悩んで大きくなった~!」と最後に叫ぶのだとか。
この方、相変わらず斜に構えてちょい悪親父で通っているようですが、そろそろ八十歳になるのだそうです。まさに戦争を知っておられる世代ですからね。

それはともあれ、そういう(どういう?)訳でうちの連中は、悩むよりも企む方でBIGになろうとしております。
特に先般から困ってるのが湯原王ですわ。
このまま書いて行くと、左大臣(橘諸兄)を脅迫するのは、白壁王ではなくこの兄上の方になりそう。
異母弟からは嘘が下手だと言われていますが、嘘などつく必要のない立場なのかも?
この兄弟を藤原南家の兄弟は、傍から指をくわえて見ているような事態になりかねない??
こうなると、この御仁の息子(壱志濃王)も一筋縄じゃ行かないのかも……(@_@;)

まったく、湯原王といい、市原王といい、大伴家持といい、、もちろん志貴親王といい、どうしてどいつもこいつも歌は詠まずに権謀術数にばかり手を染めてるんだ?

あまりに書く速度が上がらなくて難儀中です(/_;)
白壁王が当初の予定よりも重要ポストについてしまったのが、原因の一つかもしれません。
これじゃ兄の湯原王よりも立場が上の可能性ないか?

一方の私はといえば、このところ天皇からの覚えが芳しくない中務卿の塩焼王の代理を任せられたようなもので、ほとんど内裏に詰めている事が多い。侍従への取次ぎや省内の事は、少輔の藤原清河に放り投げている。まだ若い清河にしても上官二人が諸王である事がかなり煙たいと見え、この馴れ合いを歓迎しているように見える。そして塩焼王は、どこの司でも諸王は厄介者だと更に愚痴を言う。

私というのが白壁で、つまりは中務卿の代理?
一応は中務大輔という事にしております。
つまり侍従よりも上……ちなみに湯原は中務省の下の皇后宮職、もうすぐ大夫になる予定。
それにしても、何となく不真面目にこういう事を書いてしまいましたが、もしかして聖武天皇、娘婿いびりをしているのか?
塩焼王は不破内親王の夫です。

予告(?)通り、奈良国立博物館の『春日若宮おん祭の舞楽』を見に行ってきました。
三年前にも同じ催しがありまして、確か昨年にもあったようですが、毎回、楽曲が少し違います。
今年の曲目は、和舞(やまとまい)、蘭陵王(らんりょうおう)、落蹲(らくそん)です。
三年前には写真撮影は出来たのですが、今年はご遠慮下さいとのこと、まぁ、当たり前ですかね。
やはり写真など撮るよりも、集中して見て下さいという事なのでしょうか。

おん祭りの和舞です。和舞は『国風舞(くにふりのうたまい)』に分類されるそうで、舞楽のように海外から曲や舞が入って来たのではなく、日本独自の歌と舞だそうです。

青摺の細布衣(たへのころも)を着、紅の長紐を垂る

このように『続日本紀』は舞人の姿を記しています。

そういう訳で、こいつはかなり昔の『おん祭』の時に写した『和舞』の写真です。
四人の舞人による『諸司舞』ですが、二人しか写ってませんねσ(^◇^;)
それに、ストロボをたいているお陰で、衣の模様が飛んでますね(~_~;)
和舞』に関しては、こちらにも少し書いてありますのでご参照頂ければ幸いです。

蘭陵王』については、今更、解説は不要かな?
三年前の『舞楽始式』でも舞われましたので、画像はそちらをごらん下さい<m(__)m>
そして『落蹲』は、四年前の『舞楽始式』で(・_・)

落蹲』は二人舞ですが、同じ舞を一人で舞いますと『納曽利(なそり)』と呼びます。
ところが四天王寺宮内庁をはじめとした他の楽所では、二人舞が『納曽利』、一人舞が『落蹲』と呼んでいるとのことです。
『枕草子』に 落蹲は二人して膝踏みて舞ひたる とあるそうで、南都楽所が伝統に則っているのだそうです(^.^)

天平十三年九月八日、大赦の詔によって筑紫での謀反(藤原広嗣の乱)への連座者が全て赦免されるという記事が見えます。
この事件で捕えられた者らへの処刑は、この年の正月二十二日に判決がなされたようですが、当事者らは都からの指示を待つ前に処刑されていますから、かなりの権限は大将軍に委任されていたのでしょう。

ところで藤原宿奈麻呂(良継)や田麻呂は、この事件への連座によって伊豆や隠岐に配流されますが、九月の大赦によって十四年には都に戻ってきているようです。
しかし都って恭仁の事なのか、平城の事なのか……まぁ良いか、今回は。
この二人、当たり前だけど、都で連座を問われてしょっ引かれたのでしょうね。

私の勝手な想定には、二人の弟(綱手と清成)は筑紫に下ったとしてあります。
綱手の処刑は広嗣と共に行われているのですが、清成はどうしましょうね。
こいつを一言も書いていない事に先ほど気づきまして…・・(・_・;)
まぁ、直接に物語に関係しないから、一~二行ですむ事なんですけれどねぇ。
戦死か病死か、自刃って可能性もあるかな……

この方も生死は別としても、十三年の大赦で放免されているから、息子らへの咎は及ばなかったと解釈して大丈夫なんだろうなぁ。
何せ一人息子(という想定)の種継は、まだ四歳ですから。

書いていてイマイチ想像のつかないものが多々あります。
例えば、灯明を一つ燈したような部屋の暗さもそうですし、客人がやって来た時に酒以外に出される飲み物……白湯以外だったら何だろう、肴は季節によって違うだろうしなぁ。
おかげでうちの連中は、昼日中からしょっちゅう、酒をカックラってます。
家の中や、各人の職場の様子も具体的な想像が、ほとんど沸きませんわ。
中世の家のように、廊下で各建物がつながっている訳ではなし、別の建物に移ろうとする時、主や家司のような人ならともかく、資人や侍女のような忙しい人は、いちいち靴なんて履いたり脱いだりするのかしらねぇ。
そもそも、使用人クラスはどの程度の人までが、履物を履いていたんだろう。

まぁ、こんな程度の事は多少のはったりが利きますが、まったくチンプンカンプンが儀式の類です。
法要ならば何となく、それらしい事を並べもできますが、節会などになると……だって現在、皇室でも行われていないような類もありますよ。

一月十六日、踏歌節会……舞人の女性(男性も行いますが)が出てくる前って、皆何をしていたの?
そりゃ、酒が出てきて、次に食べ物が並べられて……でもほとんど分からん(-_-;)
大体私ゃ、踏歌なんて見た事も聞いた事もないんだよ(ーー゛)
平安時代以前でも、男女の踏歌は別の日だったの?
大安殿の庭に公卿らが参内する時間って、何時ごろ?
それで、どの程度の時間で終わるの?
この間って中座する事はできたの?

困った事に、うちの連中は大概逃げ出して、よそで駄弁ってます。
これが閣僚や参議なんだから……こんなのってあり(@_@;)?

おまえは誰か
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うめぞー
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非公開
自己紹介:
明日は歴史作家!

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