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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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何名かいる架空の人物の名前を確かめようと、以前に書いた話を少しだけ読み返しておりました。
最初の人物の名前は分かったのですが……この話の時点で、この人はかつて何をしたという設定になっているんだ?
表面上に見える事は割合に単純なんだが、主人公らが言っている、水面下で同時進行に起きていた事というのは一体どのような事で、幾つの事件が起きていたんだ??
何でこんなにややこしい話なんだ???

こちらの話は今考えている話の十数年後、既に息子の代に主人公が移っています。
この息子がかつて、父親がどのような事件に巻き込まれたのか、それによって自らがどのように人から見られ、何に利用されようとしているのか、これを知って足掻きまわっているような話なのですが、とにかく十数年前に父親の身に起こった事がややこしい……

一体この時の私の頭の中の構造はどうなっていたんでしょう(・_・;)
息子らは四つの事が起きていたと言うけれど、ざっと呼んでもそれ以上に細かい事が起きているような気がするんだが……(@_@;)
登場人物は何人いるんだ?
既に登場しているというか、名前が出ている人は……白壁王を含めても四人しかいない?
後の連中、どこで出せば良いんだ?

まだ、そこまで話は全然進んでいないのですが、これこそ知恵熱出そう(+_+)
一度、こいつを整理せにゃならんわいな……(ーー゛)
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昨日に引き続き川の話です。
今日考えていたのは木津川に掛かる橋の事。

国道24号線を北上して、奈良市を越えると京都府の木津川市に入ります。
ここ最近、何やかやと私もこの辺りに出かけております。
JR木津駅を過ぎて少しすると『泉大橋』という、かなり長い橋を渡ります。
私は時々、ここで渋滞に捕まりまして、橋の上で大型トラック辺りが対向車線を走ってくれたりすると、とにかく気分が悪い……あの揺れがとっても嫌いなんですわ。
昔々、首都高の湾岸の方でも、時々渋滞に巻き込まれて、この揺れを嫌と言うほど体験してから、どうも長い橋や高架での渋滞が嫌いなんですわ……いや、そもそも渋滞の好きな人は滅多にいないと思いますけれど。

それはともあれ、泉大橋を渡った先に『泉橋寺』という寺があります。
私は立ち寄った事がないのですが、行基和上の建立した四十九院の一つだそうです。
このお寺のすぐ西側の細い道が、行基和上の架けた『泉橋』から至るルートで、恭仁京右京の中心線の道だと推測されています。
左京の方にも、朱雀道が泉川を越す位置に橋が架けられているので、構造上はおかしくはありません。

ところがふと疑問に思ったのが、『泉津』との関係です。
昨年の秋にも上津遺跡』の現地説明会が木津川市教育委員会で行われましたが、この『宮ノ裏』の辺りがもしも『泉津』だとしたら、難波の方から来た物資を津に陸揚げをする場合、橋を超えなければならなくなるんですよ。
昔の事ですから、今のように川沿いに立派な堤防をかけて、その間に鉄筋の橋を渡すなんて事は絶対にありませんから、低い位置に何本もの橋桁に支えられた木造の橋が架かると思います。
こうなると船の往来はスムーズにできるものなのでしょうか……

川においそれと橋が架けられないのは、技術的な面や防衛的な都合に左右される事も多いと思いますが、昔々は大掛かりな荷物運搬は川をメインに行っているので、船の往来にも支障をきたさないようにされたのだと思うのですね。
これを考え始めると、『恭仁大橋』の前身となる橋も困るだろうなぁ……
今度は伊賀の方から入ってくる船を遮ってしまう事にならないかしら?
さて、この時代の橋の構造はどう考えたら良いものなのでしょう。
どうもこういう土木的な事にも不勉強で困ります。
そういえば以前、瀬田川の唐橋遺跡で昔の橋桁が出土してたかしら。
それから復元した模型を随分前に二上山博物館が借りて来て展示してたような……
ちょいとこれから、その画像を探してみましょうっと(~_~;)

さて、白壁王が泉橋院にいる行基和上を訪ねるのですが、恭仁京左京からは川の南側を通ったのでしょうか、北側を通ったのでしょうか……地図で見ると北側はがけ続き、南の河原の方が遥かに広いみたい。
いちいち、こんな事に関わってるから、書くべき話がスムーズに進まないのかしら(*_*;

滋賀県甲賀市信楽町の辺りを流れているのは、ダム建設でも少し前に揉めた大戸川です。
狸だらけの陶芸の里の辺りはかなりの上流なので、本当に細い川で、こんな川にダム造ってどうするのさ……という印象を受けます。
三重県や京都府との県境の方から、大戸川は北に向かって流れて行くのですが、国史跡紫香楽宮跡(甲賀寺跡)の少し先で西に方向を変えて、そのまま平野部に向かい、ついには瀬田川に合流します。
この紫香楽宮跡の少し手前に『』という地名があります。
国道307号線を京都の方から来まして、道沿いに林立する狸の姿が見えなくなって暫くした頃に、この名前の交差点があるので良く覚えております。
ここを過ぎて橋を渡って最初の信号を左に入ると、紫香楽宮跡に着きます。

つまり大戸川上流の河川敷に『牧』という地名があるのですが、この地名はいつまで遡れるのでしょうか?
この地名、単純に考えると、河川敷で馬や牛の放牧をしていたので付いたと思われます。
しかし上流ですから、川は昔は狭い盆地をあっちに流れ、こっちに流れしていたので、大規模に牧が営めるものなのでしょうか?
例えば河内の牧などと比べてみると、どのような違いがあるものなのでしょう?
こっちは河内潟の周辺に広がっていたのかな?
まぁ、川は肥沃な土を運んで来て、豊富な草を育ててくれれば良いのだから、降雨期に多少の洪水があっても大丈夫なのかしら?
しかし、あの辺を走っていても、本当に狭い盆地の風景がずっと続いていたからなぁ……
いや、そもそも、ここに牧があったとして、運営していたのは誰なんだ?

今日も、直接関係ないところで脱線しまくって、全然話が進まないのでした。
いや、原因は牧よりも、阿倍内親王が出てきたからなのよね……情けないかな白壁王、完全に腰が引けてる(@_@;)

木津川を昔は『泉川』と呼んでいたのは、歌でも有名だと思いますが、この周辺の地名はかつては何といったのでしょうか。
『続日本紀』には度々、『甕原離宮』の名前が見えるので、甕原(みかのはら・万葉集では三香原)の地名が一般的なのでしょうか。
天平十三年閏三月九日、“平城宮の兵器を甕原宮に運ばしむ”と見えますが、この甕原宮は離宮の事なのか、新たにこの地に造られた王宮の事なのか良く分かりません。

恭仁宮の名前は十二年の最後、東国行幸の最終目的地として見えていますが、この名前も便宜的に書かれているようです。
何せ正式に『大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおほみや)』の名前が付けられるのは、十三年の十一月二十一日の勅ですから、それ以前に何と呼ばれていたかははっきり書かれていません。


ところでかなり一般的に流布していない名前に『布当宮(ふたぎのみや)』があります。
この名前は万葉集にのみ見えるせいか、私の頭の中ではいつも端っこの方に追いやられていて、話の中で使った事さえ忘れていて、先ほども読み返して思い出すような始末です。

甕原離宮の場所は木津川の南岸、現在の木津川市加茂町法華寺野の辺りにあったと考えられます。
字名から分かりますように、ここには昔、山背国分尼寺がありました。
一方、国分寺のある場所は元の恭仁宮、木津川の北岸です。
木津川を挟んで北が『布当』、南が『甕原』だったのでしょうか?

それにしても“みかのはら”に比べると、“ふたぎ”という名前の響きは、どうも田舎臭くてイケてませんわねぇ……あくまでも私の好みの問題ですが。
やっぱり『布当宮』という字面が良くないのもあるのかしら……
『甕原宮』に統一した方が良いかなぁε-( ̄ヘ ̄)┌

久々に『万葉集』なんて開いて何を見ているのかと申しますと……

巻第六、この終わりの方に恭仁京への遷都前後の歌が載っております。
この筆頭が、天平十二年の十月末から始まる聖武天皇の、伊勢を始めとした東国への行幸に随行した大伴家持(当時二十五歳・内舎人)の歌です。
気のせいか、この人、終始、どうでも良さそうに「うちの奥さん、元気にしてるかな~」みたいな歌ばかり詠んでおります。
まぁ、この時、新婚だったらしいですけどねぇ……ε-( ̄ヘ ̄)┌

気が向いたら、こいつの紹介でもするつもりですが、これから何かネタになりそうな事を探すために、もう少し眺めて見ます。
しかし、本当に家持って一種の変人かもしれない……まあ、単純に空気読まないだけなのかな?それで歌詠むのって凄いのかな??いや、歌詠みって周囲はあまり見ていなかったりして???
なるほど、うちの連中がどうして歌を詠まないのか、何となく納得したような??(゚_。)?(。_゚)??
きょうてむじんはうめぞーは四天王意味された!
それできのううめぞーと、発願されたみたい…
それで藤原南家は代表するはずだった。

*このエントリは、ブログペットの「てむじん」が書きました。
奈良時代に、国中連公麻呂という偉~い仏師がおられました。
葛下郡国中村の出身だそうですから、現在で申しますと大和高田市民ですか?
ところで、この方って本当に仏師なんですかねぇ?
つまり、現在私たちが考える仏師と言いますと、ノミだの木槌だので仏像を彫り上げて行くのを想像してしまうのですが、この方の代表作品と申しますと、何をおいても東大寺金堂の御本尊、毘盧舎那仏です。

五丈(約15メートル)を超える大きさだったと言いますから、どうあがいても一人で行う仕事ではありませんし、後の工房のように親方の下での分業制を取っていたと考えるのも、何か違うような……
工房と言うよりも巨大コンビナートみたいなものでしょう、毘盧舎那仏の造営現場となると。
そうなると公麻呂さん、親方と言うよりも工場長、いや、現場監督かな?
技術者と言うよりも監督官とか、プロデューサーみたいな人だったのかしら??

そもそも、この人ってこの職に着く前には何してたのかしら?
大和の片田舎の渡来系技術者では、都に出てきたとして……(゜.゜)、どこかの金匠工房にでもいたのかしら、それとも造宮省みたいな土木関係の司に属していたのかしら?
どうも前者では似合わないような気がするのねぇ……
知識は人一倍あったでしょうが、技術の方は決してトップでなくても良かったのかも知れません。
金工技術者は配下には大勢いても、現場の総責任者であるこの人が、直接に手を出すような必要はなかったでしょう。

さて、では再び最初の疑問、この方の得意分野は何にしましょうか。
五丈を超える仏の座像をまず、塑像で造るのですから美術プロデュースか?
そして本格的に鋳上げなければならないのですから、鋳造技術者??
ここでは実に多くの工人が働く事になるのですから、その人たちを効率的に使う監督官??
やっぱり、どれも必要、総合技術プロデューサー????

そのようにのたまわれてお出掛けになったのは聖武天皇です(゜_゜)
天平十二年から十六年の初めまでに、留守官を置くという記述のある行幸が、実に十回ほどあります。
留守官の人数は一人しか書かれていない時から、数人の名前が連なっている場合まで、かなりばらつきがありますが、割合に高位の人、つまりは大臣から参議、閣僚クラスの人が多いようです。
実はこの時に、常連的に名前の見える方がおられます。
まぁ、置かれている立場とか、天皇の個人的な都合や好みを鑑みても、何となく多くなる理由も分かるような……σ(^◇^;)

そういう訳で複数回、名前の見える方を上げてみましょう。

 二回 : 橘諸兄(左大臣)  大伴牛養(兵部卿)
 三回 : 藤原仲麻呂(参議・民部卿)  紀飯麻呂(右大弁)
 四回 : 藤原豊成(参議・兵部卿)  巨勢奈弖麻呂(中納言)
 七回 : 鈴鹿王(知太政官事)

いけませんわねぇ……このような面子が並ぶと、とにかく滅茶苦茶物騒な妄想が沸いて来てしまいますわ(@_@;)
北宮王家はまだ、ある意味健在なのね、そして十数年後を見よって……( -」)φ~

御所市での現地説明会にも行かずに、奈良教育大学で行われた『よみがえる新薬師寺旧境内』というシンポジウムを聞いてまいりました。
正直申しまして、新薬師寺の事を名前と建立の切欠くらいしか知らない事に気付かされました。
何とこの寺、東大寺とほぼ同時に建立が始まっています。
どちらの寺も、最初は前身となる山房があって、そこに平地に建てられる大金堂が加わって大寺院に発達して行くのだそうです。
東大寺は二歳で亡くなった基王(某王)の菩提を弔う『金鐘山房』が最初、一方、新薬師寺は聖武天皇の病気平癒を願って光明皇后が発願した『香山堂』が最初の山房だったそうです。
新薬師寺という名前の他には『香山薬師寺』『香山寺』『香薬寺』『南寺』などの名称でも文書に見えるのだとか。
東大寺の法華堂(三月堂)の真南にあるので『南寺』と呼ばれたのでしょうか。
どちらも『造東大寺司』が造営の中心で、どうやら造東大寺司の内に『造南寺所』が置かれたようです。

発掘調査で判明したのは、桁行きがやたらに長くて細長い金堂の存在です。
二度にわたる調査では南大門の遺構が出ておらず、かなり南にあるのか、もしかしたらないのか……他の建物の存在もまだ不明です。

いずれにしても、現在に残っていたり確認されたりしている大寺院に比べると、イレギュラーなサイズや構造の建物の可能性が高いようです。
前面に幅50メートル近い階段が取り付くというのも凄いし、復元案では十三間の桁行きに四間の梁行き(十一間×二間の身舎に四面廂がつく)というサイズも、奈良時代後期には異例です。
この御堂に七体の薬師如来にそれぞれ二体の脇侍仏、更には十二神将や四天王も安置されていたのかもしれません。
そして壁には壁画か刺繍仏のタペストリーが架けられ、柱は丹塗りの上から更に法相華やら鳥やら飛天やらの画像が描かれていたとも考えられます。

現在の寺院といいますと、どうしても禅宗寺院を思い出すせいか、侘び寂び……全体的に渋いモノトーンの印象を受けますが、奈良時代の寺は内部もセレモニーもビビット、極彩色の超ド派手空間が広がっていたと考えられます。
不謹慎な事を申し上げますと、現在の御僧侶にも派手好きな方が少なくないですが、奈良時代の華厳宗だの法相宗の僧侶は、更に派手だったのかも知れませんσ(^◇^;)

考古、建築、文書、美術史などからのアプローチだったのですが、分野によってはほとんど分からん……つい、こういう軟らか系の想像に頭が流れてしまって((+_+))
この類のアプローチしてくれる先生もおられましたので( -」)φ~

かつてはとても大きな寺でした。奈良時代の大安寺』は、南都四大寺の筆頭に上げられる国家寺院でした。
飛鳥・藤原京時代には『大官大寺』と呼ばれていました。
かつては左京六条七条の四坊を丸々閉めるほどの広さで、『東大寺』建立以前は、間違いなく平城京で一番大きな寺でした。

本日(既に昨日)一月二十三日は、こちらのお寺が最も賑わう『光仁会 癌封じ笹酒祭り』の日です。
私は始めて行ったのですが、今年は土曜日でしたので、特に人が多いのかなと思いきや、ご近所らしい方々が、夏にも癌封じの祭りをやるようになってから、以前よりは混雑しなくなったと言われていました。

竹の杯です(*^_^*)ご祈祷を受ける方以外は、拝観料(かな?)を払うと、こちらのような真竹(かな?)を切った杯をいただけます。
そして下の画像ように若くて綺麗な女性たちが、竹筒でお燗を付けた日本酒を注いでくれます。
これがちょうど良い具合のぬる燗でして"^_^"
おまけにおかわり自由?
何杯か頂いた後、少し境内をふらついて、また戻ってきて更に一献といわずσ(^◇^;)
いえ、こういう事をするのは私だけでなく、注いでもらったお酒を水筒などに移して持ち帰られる方もおられましたから……
私も、もしかしたら三合くらいあけてたか( ^^) _U~~

このようにお酒を注いでくれます。ところで何故、こちらの御寺で『光仁天皇会』を行うのかと言いますと、これは延暦元(782)年十二月二十三日に太上天皇(光仁天皇)の一周忌斎会を大安寺に設けたという『続日本紀』の内容によるためだそうです。

当時としては七十三歳での崩御はかなりの長寿です。
何に書かれているのか、白壁王(光仁天皇)は「林間酒を温める」という飲み方を好んだそうで、笹酒はその事や長寿にあやかって振舞われるのだとか。

ところで大安寺といえば、光仁天皇の第二親王である早良皇太子が出家時代に過ごした寺の一つとしても知られています。
宝物殿で護摩祈願を申し込んで、仏像を拝見しておりましたところ、係りの方が『崇道天皇と大安寺』という冊子を下さいました。
昭和60年(1985年)といいますから25年前、こちらでの崇道天皇1200年御忌の際に刊行された物のようです。
この御仁に関しては、まったくの不勉強が祟りまくってますので、これから目を通しまして少しは勉強せねば(~_~;)(^_^;)(@_@;)
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