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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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うめぞーと、舞楽に編曲したよ♪
でも、行幸するはずだったの。

*このエントリは、ブログペットの「てむじん」が書きました。
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古き都の方角を見るところで先日、このいい加減なパノラマ合成した写真を上げまして、この真ん中から右の方に横たわっている山塊は何なんだとぼやきましたが、方向といい大きさといい、こりゃどう見ても『鹿背山』ですわ……?(゚_。)?(。_゚)?
こいつが恭仁京を左京と右京に別けていた山です。
どうしてこんな山を挟んで、都を造らにゃならなかったんだろうなぁ……
その手前には泉川(木津川)が大きく蛇行して流れています。
この風景は『海住山寺』から見ていますが、このお寺の事は、また明日にでも。

本当ならば、お城の石垣になるべき身が……『浄瑠璃寺』を出まして、恭仁宮跡の方へ向かおうと、道を北上したのは良いのですが、JR加茂駅の前の道を前を走っていた車にくっついて、何も考えずに左折してしまいました……曲がる必要ないです、直進すればすぐに恭仁大橋だってのに(T_T)

そういう訳でさっさと引き返せば良いものを、そのまま木津川に沿って西に向かってしまい、真新しい鳥居のある『勝手神社』というお宮さんの駐車場に一旦乗り入れました。
これも御縁だと、やはり新しそうな春日作りの立派な御社に参拝して帰ろうとすると、道の向かいに『残念石』と書かれた古い木の看板が目に付いてしまいました。

今は河原の残念石(T_T)

何が残念なのかと申しますと、時は江戸時代初期、徳川の世になって大阪城の改築を命じられた藤堂高虎が、石垣を建造するための石をあちらこちらから求めたそうです。
加茂地域でも大野山から花崗岩を切り出して、木津川を運ぼうとしたのですが、何かの都合で河原のこの場所に放棄されてしまったのだそうです。

ここは木津川市大野、楔の跡や臍穴も生々しい巨石がゴロゴロしています。
大阪城内にも結構あって有名らしいのですが、小豆島にはかなりの数が放置されているそうです。
義淵僧正という方がおられます。
この方の弟子として上げられている僧侶に、玄昉行基良弁隆尊道鏡などがいます。
義淵は神亀五(728)年に亡くなっていますが、享年は分かりません。
ちなみにこの年、行基和上は六十一歳くらいでしょうか。

玄昉はこの十八年後に筑紫で亡くなりますが、その時には既に僧正の位は剥奪されています。
僧正に任じられた要因は、唐で重用されて、博学の士として日本に帰って来た事も大きいでしょう。
この人が遣唐使で入唐したのは、霊亀二(716)年ですから、義淵僧正の弟子であっても、特に疑問も感じません。
隆尊は慶雲三(706)年、良弁は朱鳥四(689)年生まれなので、義淵の弟子であっても、全く差し支えないでしょう。
道鏡となりますと、やはり隆尊と同年代でしょうから、義淵晩年の弟子の一人だと思われます。

こうして見て来ますと、何となく疑問に感じるのが行基和上なんですね。
本当にこの方、義淵の弟子なの?

行基和上の墓誌とされる『大僧正舎利瓶記』には義淵の名前は出てきませんし、飛鳥朝の壬午年に出家したと書かれています(と思う、だって白文のテキストしか手元に無くて(T_T))。
この飛鳥朝の壬午年というを調べた所、天武十一(682)年、十五歳の時です。
墓誌の冒頭にある、薬師寺の僧侶という辺りから、法相宗の僧侶だというのは分かるのですが、その事と義淵の弟子である事はイコールではないでしょう。
義淵師は元興寺智鳳師に法相を学んだとありますが、日本での法相の最初の師は飛鳥寺(後の元興寺)の道昭師ですから、最初はこの師に仕えていた可能性もあります。
何せ義淵師は大和国の高市郡出身らしいですから、飛鳥寺は超地元ですわ(^^ゞ

行基和上道昭和上の接点も実は良く分からないのですが、案外、義淵行基って、道昭の元で兄弟弟子の間柄だったんじゃないのかと、勝手に考えてます。
ちなみに道昭和上が遷化した文武四年には、三十三歳になります。
大体、僧侶はプロフィールの分からない人が多すぎるんですよ。
だからいつも苦労する……そして開成親王みたいな、独断と偏見に満ちたキャラクターが出来上がるんだろうなぁ、我ながら思うにσ(^◇^;)

神亀五(728)年九月十三日、皇后が産んだ皇太子が二歳で亡くなり、十一月三日に智努王を長官として『金鐘山房』の建立が命じられ、同月二十八日には智行に優れた僧侶が九人、こちらに住まうようになります。
この山房が天平十三(741)年三月の『国分寺造営の詔』によって、大和国分寺になったという記録は無いのですが、『東大寺要録』によれば、天平十四年には『金光明寺』に寺名が替わっています。

国分寺という寺の正式名称は『金光明四天王護国之寺』ですから、天平十五年の正月に聖武天皇の行幸が見える『金光明寺』も、この寺の事と考えられます。
ちなみに『毘盧舎那仏造営の詔』が発せられるのは、この年の十月なので、『甲賀寺』が形になっていたとは思えませんし、山背国や近江国の国分寺の存在もこの時期は不明です。

さて、国分寺には二十人の僧侶、国分尼寺には十人の尼僧を置くようにという命令が、やはり建立の詔の中で命じられています。
最初は九人でスタートした山房も、十四年後には倍以上の僧侶の住む国分寺になったようです。
ところで、この二十人という僧侶の人数は、当時の寺としては多い方なの、少ない方なの?
こいつが本日の疑問……(@_@;)

現在の檀家制度の元でのお寺でしたら、かなり大きな部類なのでしょうけれど、この当時にはそんな寺はありませんし、氏寺や知識寺の規模も良く分かりません。
しかし、各国ごとに大般若経(全600巻)を写経して揃えろだの、一丈六尺(約4.8mですが、座像ならこの半分の高さ)の釈迦牟尼仏を造れだのの後に、七重の塔を建立して金光明最勝王経妙法蓮華経を書写せよと命じた国分寺の造営ですから、二十人の僧侶は、きっと少ない数字ではないのでしょう。
皇太子とはいえ、たった二歳(満一歳以下)の小児の菩提のために皇家が発願した寺に、九人の僧侶というのも、何となく多いのではないかと思うのですが……

そしてこの後、この寺がどうなるのかと申しますと、『東大寺』と呼ばれるようになり、毘盧舎那仏もこの寺にて完成する事になります。

ここがお寺の門です。浄瑠璃寺に行ったのは、さて何年振りでしょう。
最後に行った時は、間違いなく春でした。
早咲きの桜が咲いていまして、そこから岩船寺まで石仏めぐりをしながら歩いて行きましたっけ。
う~ん、大昔の事だわ(~_~;)

ところで浄瑠璃寺を詳しく
紹介しているページによりますと、こちらには少し前まで、案内犬の「じんべい」君がいたそうです。
今は、このようなキジトラの猫さんがいます。
この子は女の子、駐車場の近くから門前まで、観光客の方を先導するように小走りにやってきまして、このように門の前に座ってポーズもとってくれました。
こちらでは親子で猫さんがいるようで、お母さんらしいキジトラさん(この子にそっくり)と、兄弟らしいキジトラ白君と赤トラ白君もいました。

本堂は塔と池を挟んで向かい合います。こちらのお寺の別名は『九体阿弥陀寺』、細長い本堂には九体の阿弥陀如来がおられます。
正面は十一間、その内の九間はそれぞれ一体ずつの阿弥陀様の正面に対応していまして、この堂全体が九体の仏の厨子となっているのだそうです。

ところで浄瑠璃寺の名前は、東方にある浄瑠璃浄土に由来しているのでしょうか。
西方浄土には阿弥陀如来がおられますが、東方の浄土には薬師瑠璃光如来がおられます。

これが浄瑠璃浄土の三重塔です。
そういう訳で池を挟んだ向かいの三重塔の御本尊は薬師如来です。
こちらは秘仏で、毎月八日に開帳されるそうですが、ただ今は修復を終えて、本堂の方に厨子ごと移されていました。

秘仏と言いますと、ここでもっとも有名な仏様は『吉祥天女』ですね。
確か1月は1日から15日までの御開帳だと記憶しておりまして、イソイソと出かけた次第です。
鎌倉時代に御生まれになった、お美しい方です。
3月21日から5月20日まで、10月1日から11月30日にも御開帳なので、また機会がありましたら会いに行こうかと思っています。

さて、こちらにはもう御一方秘仏の大日如来がおられます。
こちらの開帳日がなんと、1月8日から10日の三日間だけとの事で、(゜.゜)、こいつは春から縁起が良い。
灌頂堂におられるそうで、そちらに行きますと、どういう訳かキジトラ白の男の子が仏間に控えていて、拝観に来た方々の膝や肩に乗って甘えておりました。
私が大日さんに対面している間も、ずっと膝の上で喉を鳴らしておりました。
この子達の存在もポイント高いですよ、こちらのお寺さん。
そういう訳で、今度誰か遊びに来たら、車出すから行くぞ~!と誘うべきかなσ(^◇^;)

必ず最初に行われる舞です。毎年、成人の日の13時から、春日大社の林檎の庭で行われるのが、南都楽所(なんとがくそ)の舞楽始式です。
今年は少し曇り気味で肌寒い日でしたが、結構な賑わいで始まりました。

舞楽の始まる前に神事が行われるのですが、これこそ拝殿の向こうの事ですので、私が陣取っていた直会殿(なおらいでん;要するに有料席です)からは、全然様子が伺えません。
伶人方々も、拝殿の入り口の所に控えた神職の方が笏拍子で合図を送って、低頭したり直ったりしておられました。

そして神職の方々が席(今年は直会殿の内に設けられていました)に着きまして、いつものように『振鉾(えんぶ)三節』が始まります。


左方平舞のうちでも、結構華やかな曲です。今年の二曲目は『賀殿(かてん)』です。
元々は唐の琵琶曲だったそうですが、日本で雅楽に編曲されて舞いも着いたのだそうです。
やはり左方の平舞の内でも、華やかで見栄えが良く、動きも早い舞です。
舞楽始式に限らず、舞われる機会は結構多いように思います。
『賀』の字が着きますので、お祝い事の時には特に好んで舞われるのだとか。
見た目の特徴としては、(かさね)装束の両肩を脱いで、鳥兜を被っているので分かりやすいでしょうか。

今年の舞人の方々は、とても良く揃っていて、切れも良かったように拝見いたしました。


このように拝殿前の庭で舞われます。『賀殿』は何度も見た事があるのですぐ分かるのですが、分からなかったのがこの舞……
春日大社のHPには『長保楽(ちょうほらく)』とありました。
ところが私の記憶とちょいと違う……

どうしてかと申しますと、私が記憶していたのは四天王寺楽所の舞人の姿だったんですね。
どう違うのかと申しますと、右方の緑色の襲装束鳥兜だと思っていたのですが、南都楽所の舞人は、蛮絵(ばんえ)装束の片袖を脱いで、巻纓(けんえい)老懸(おいかけ)というスタイル?
『登天楽』もこんな装束だったかしら、『春庭花』は左方舞だし……それとも『仁和楽』かな、もしかして??
他に蛮絵装束の舞って何があったっけ???


後姿がとても綺麗です。結局、いろいろ調べてみましたが、南都楽所の『長保楽』は、このスタイルで舞われるようです。
この舞が、装束も含めて、とても綺麗なんですよ。
最近、南都楽所は装束や面などを少しずつ新調しているようで、この装束も新しそうです(^^ゞ

右方の舞といいますと、緑色の装束が多い印象を受けますが、このような濃い縹色の装束も見かけます。
蛮絵装束は右方が縹色、左方が金茶色で、これらの色がなかなか、私は気に入っております。
それに巻纓に老賭の武官装束は素敵ですね。
実に単純な理由ですσ(^◇^;)

余程気に入ったと見えて、写真をパソコンに出してみましたら、半分近くがこの舞を写しておりました。

最後は必ず走舞です。舞楽始式は毎年、最初は『振鉾三節』、そして左方の平舞、そして右方の平舞(番舞(つがいまい)になる事が多いようです)、最後が走舞(わしりまい)となります。
干支にちなむ曲があれば、それが行われる場合もあるそうです。

そして今年はこちら……舞人が現れた途端、思わず
「わっ、抜頭(ばとう)だ……」と呟いてしまいまして、隣にいた女性に「何?」という顔で見られてしまいました(*_*;
実は私、この舞が結構苦手かも……曲は割合に好きなのですが(だ太鼓の連打が良い訳、ここでも単純な理由です。)、屈んで這いずったり伸び上がったりする動きの連続が、何とも見ていて重々しくて駄目なんです。
でも、この舞も良く行われますねぇ……(~_~;)
それでも例外もありまして、昔々、ケルン大学の学生さんの舞を見た事があるのですが、こいつが変に直線的でアッケラカンとしていて面白かったかな。
何時ぞやの雅亮会(四天王寺楽所)も悪くなかったかな。

それはともかく、それなりに見ごたえのある舞である事は否定致しません。
最近、あちらこちらの神社などで、独自の楽所を開設されているようで、学生さんなども活動されているようですが、やはり見慣れた南都や四天王寺の楽所は安心してみていられるという所ですね。

右の社殿の前に、カワラヒワの番がおりました……それだけの事(゜.゜)いい加減、今日くらいは大人しく家で仕事をしようと思っていたのですが、どうも何かに呼ばれているような気がして(こういう事を書いていると、我ながらかなり危ない奴に思えてくる……(ーー゛))、ちょいと出かけようとマイカーに乗って北上致しました。
何となく行こうとしたのが、どういう訳なのか『八嶋御陵』でして、それなのに橿原バイパスを降りてからも東に行かずに、そのまま北に向かってしまったので、奈良公園の方に進路を変えまして登大路の渋滞を抜けて奈良坂に向かえば、やっぱりここに着きます。

これ何処かって、『奈良豆比古神社』です。
古いお守りを返して、新しいのを買おうと思ったのですが、宮司さんはお留守の様でした。
そしていつもの狛犬は、珍しい事に涎掛けをしておりませんでした。
こういう姿を見るのは、もしかして初めてかな?

ここまで来たのだからと向かったのは、京都府木津川市加茂町の『浄瑠璃寺』です。
確か十五日まで秘仏の吉祥天女像の公開をしているはずと目星を点けておりましたので(^^ゞ
そしてそこから『恭仁宮跡』に行きまして、更に『海住山寺』にも行ってしまい、更に『恭仁神社』まで行ってしまいました。
『八嶋御陵』はどうなったかって……奈良市内に戻ってきた時は既に17時を回っていまして、日が暮れるどころか暗くなり始めてました。
今から度胸試しに行く気もないので、また機会を改めまして(・・?

加茂盆地を見下ろしてそういう訳で、この性懲りも無いパノラマ画像は、海住山寺から見た加茂盆地です。
ここへ行った目的の一つは、恭仁京の一帯を眺めてみたいというところだったのですが……このお寺は真南に展望が開けてない(*_*;
この方向は多分、南西です。
だって生駒山が見えますからσ(^◇^;)
手前に横たわっている丘は何なんだ?
もしかして岡田国神社の裏山と違うのか??

と、わざわざ南山城まで出かけて何をしているのやら(~_~;)
この辺のレポートでもボチボチ上げてゆきますか……『修禅寺』も忘れてるのに?
おまけに明日は(既に今日)は、春日大社の『舞楽始め式』だよ!!
虎は猫科ですね。今年もスロースターターぶりに拍車をかけて、今頃年賀状なんて書いてます。
ようやく、存亡の危機にあるHPに、今年の年賀状を上げさせて頂きました。
気が向きましたら、リンクの方から覗いてやって下さい。
管理人のワンパターン振りが知れるというものです。

それにしても↓の方でもボヤイテますけど、私の守備範疇での年男年女を見つけるのに、結構苦労します。
もう少し真剣に探せば、いない事はないはずなんですけどねぇ……
もっとも、一昨年までは、そんな事考えてませんでしたけどね(~_~;)
ようやく年賀状のお絵描きをして、パソコン内で合成だけ致しました。
死火山状態のHPに上げようとしたのですが、明日にしますわ。
今何時だ……午前3時半??
いくら明日は休みだからってねぇ(ーー;)

葉書に印刷もまだしてない……
松の内ってのは昨日までなのかなσ(^◇^;)
七草もお粥、食べてないから、11日に春日大社の荷茶屋で食べようかなぁ。
ともあれ、連休中にはポストに投函するようにしますわ。
それにしても、今年も酷い絵だわ(T_T)
おまえは誰か
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