×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
つじつま合わせと記憶のすり合わせのために、またしても昔に書いた、やたらに長い話を読み直しておりました。
件の藤原雄田麻呂、十数年の間でのキャラクターに、ずいぶんと開きがありすぎるんですけど、さて、どうしましょうかね。
天平勝宝八年の頃にはかなり横柄な態度を取っていたくせに、宝亀二年くらいになると、必要以上に腰が低いのだけれど……って、うちのスメラミコトに対してです(~_~;)
まぁ雄田麻呂から見れば、昔は五つ年下だし無位で駆け出しの内舎人に過ぎないし、父親が干されているお陰で官界での後ろ盾も殆どない状況ですからねぇ。
でもその後は、たとえ年下だろうと皇族官人の中では出世頭、押しも押されぬ中務卿宮で侍従……言葉が完全に敬語になってるんですけどσ(^◇^;)
それに引き換え変わらないのは種継だわねぇ。
今も昔も「若翁!」だし……(ーー゛) “わかぎみ”と読んで下さい。
なんか読んでると、雄田麻呂(百川)の弟は蔵下麻呂じゃなくて種継の方みたいに思えて来ますわ。
式家の内部に限らず、種継が一番、とらえどころのないぶっ飛んだキャラクターですからねぇσ(^◇^;)
いずれにしてもうちの雄田麻呂は、この家の中に限らず誰よりも常識人かもしれませんわ。
一番の非常識?
そりゃ、志貴親王に決まってますわ(-_-)
一連の騒ぎの根本は、この御仁の行いにあるのだから……いや、この事を考えると、草壁皇太子の方が更に上かな?????????????????????
件の藤原雄田麻呂、十数年の間でのキャラクターに、ずいぶんと開きがありすぎるんですけど、さて、どうしましょうかね。
天平勝宝八年の頃にはかなり横柄な態度を取っていたくせに、宝亀二年くらいになると、必要以上に腰が低いのだけれど……って、うちのスメラミコトに対してです(~_~;)
まぁ雄田麻呂から見れば、昔は五つ年下だし無位で駆け出しの内舎人に過ぎないし、父親が干されているお陰で官界での後ろ盾も殆どない状況ですからねぇ。
でもその後は、たとえ年下だろうと皇族官人の中では出世頭、押しも押されぬ中務卿宮で侍従……言葉が完全に敬語になってるんですけどσ(^◇^;)
それに引き換え変わらないのは種継だわねぇ。
今も昔も「若翁!」だし……(ーー゛) “わかぎみ”と読んで下さい。
なんか読んでると、雄田麻呂(百川)の弟は蔵下麻呂じゃなくて種継の方みたいに思えて来ますわ。
式家の内部に限らず、種継が一番、とらえどころのないぶっ飛んだキャラクターですからねぇσ(^◇^;)
いずれにしてもうちの雄田麻呂は、この家の中に限らず誰よりも常識人かもしれませんわ。
一番の非常識?
そりゃ、志貴親王に決まってますわ(-_-)
一連の騒ぎの根本は、この御仁の行いにあるのだから……いや、この事を考えると、草壁皇太子の方が更に上かな?????????????????????
PR
『まなざしの変容 奈良から世界を変える』というテーマで、奈良国立博物館と県立大学が合同講演会を博物館で行ってくれまして、本日、イソイソと出かけて参りました。
何でもこの合同講演会、酒の席で発案されて計画したとかで、果たしてどうなりますやらと主催者がお笑いネタ(?)にしておられました……まぁ、何とかなるでしょう(^_^;)
今日のタイトルは『立ち上がる記憶』
最初の講演は、奈良県立大学の井原緑氏の『奈良公園に佇む』
このテーマの切欠は、近鉄奈良駅の近くで
「奈良公園はどこですか」と観光客の方に聞かれた事だそうです。
井原先生も私と同じように、興福寺や春日大社、東大寺などの境内と周囲の春日野や飛火野などの緑地、若草山や三笠山辺りを含む地域を公園の範囲だと、単純に考えていたそうです。
しかし調べてみると、県営奈良公園という規定で見ますと、寺社境内や博物館の範囲は含まれず、大方は春日野原始林などの山林から構成されるようです。
一方、名勝奈良公園となりますと、寺社の境内と、それをつないでいる周辺の緑地などとなるようです。
そもそも最初に奈良公園として公に認められたのは、廃仏毀釈の嵐の中で存亡の危機にあった興福寺の境内なのだそうで、明治十三年の事です。
ここに奈良町の人々の声が加わり、周囲の寺社境内のみならず緑地も公営化し、本来の地形に手を加えずに公園として申請して今日に至るのだそうです。
都市公園でもあり、歴史公園でもあり、自然公園でもある、多に例を見ない多元的な存在としての奈良公園は、神域の原始林の巨樹をはじめ、春日の御神鹿らによって保たれる芝地の草にまで歴史の宿る場所と言えるのでしょう。
奈良博の学芸部長の西山厚氏の公演は『大仏に逢う』
龍松院公慶上人による、元禄の大仏復興についてのお話でした。
この内容は、何年か前に博物館の特別展でも行いましたので、割合に理解はしやすかったです。
鎌倉復興の大勧進、俊乗坊重源に比べると、割合に知られていない公慶上人ですが、活動は重源上人以上といっても過言ではないでしょう。
松永久秀の南都襲撃以来、百年近く放って置かれた大仏と大仏殿の復興を何もない所から立ち上げた人です。
江戸復興は五代将軍徳川綱吉と桂昌院だと考えがちですが、幕府方が資金援助をしたのは大仏殿のみで、大仏そのものは公慶上人をリーダーにした南都の僧侶らの勧進によるものです。
奈良という場所には東大寺を始めとした歴史や人々が支えて伝えていった土地や場所、記憶が宿っています。
近代都市やテーマパークのように、歴史も記憶もリセットして築かれた場所というのは、どこか不安定で気分も落ち着かないものなのでしょう。
歴史と言えば堅苦しいと敬遠されても、土地に宿る記憶は人々の遺伝子のどこかに刻まれた記憶とリンクして、何かを常に訴えかけようとするものです。
1200年前、奈良は都でなくなった事により、古い記憶を残しているのかもしれません。
都は常に最先端の土地、千年の都の地位を築いた京都は、逆に平安の昔を忘れて、応仁の乱以降、大政奉還するまでの江戸の文化を残す町として存在しています。
そして江戸改め東京は、現在進行形の不安定さで常に変化をしています。
土地の記憶、人の記憶、他所がなくしてしまったものを今も残すこの奈良という場所が、外に向けて訴えてゆくものは絶対にあるはずです。
とまあ、こんな内容でしたか(~_~;)
西山部長いわく、「二十一世紀は奈良の時代」だそうですから、皆様、観光・歴史都市の奈良にぜひ注目していて下さいとの事でした。
大仏と鹿だけじゃないのよ……うちじゃ、ヘンなものばっかり紹介してるけどねσ(^◇^;)
何でもこの合同講演会、酒の席で発案されて計画したとかで、果たしてどうなりますやらと主催者がお笑いネタ(?)にしておられました……まぁ、何とかなるでしょう(^_^;)
今日のタイトルは『立ち上がる記憶』
最初の講演は、奈良県立大学の井原緑氏の『奈良公園に佇む』
このテーマの切欠は、近鉄奈良駅の近くで
「奈良公園はどこですか」と観光客の方に聞かれた事だそうです。
井原先生も私と同じように、興福寺や春日大社、東大寺などの境内と周囲の春日野や飛火野などの緑地、若草山や三笠山辺りを含む地域を公園の範囲だと、単純に考えていたそうです。
しかし調べてみると、県営奈良公園という規定で見ますと、寺社境内や博物館の範囲は含まれず、大方は春日野原始林などの山林から構成されるようです。
一方、名勝奈良公園となりますと、寺社の境内と、それをつないでいる周辺の緑地などとなるようです。
そもそも最初に奈良公園として公に認められたのは、廃仏毀釈の嵐の中で存亡の危機にあった興福寺の境内なのだそうで、明治十三年の事です。
ここに奈良町の人々の声が加わり、周囲の寺社境内のみならず緑地も公営化し、本来の地形に手を加えずに公園として申請して今日に至るのだそうです。
都市公園でもあり、歴史公園でもあり、自然公園でもある、多に例を見ない多元的な存在としての奈良公園は、神域の原始林の巨樹をはじめ、春日の御神鹿らによって保たれる芝地の草にまで歴史の宿る場所と言えるのでしょう。
奈良博の学芸部長の西山厚氏の公演は『大仏に逢う』
龍松院公慶上人による、元禄の大仏復興についてのお話でした。
この内容は、何年か前に博物館の特別展でも行いましたので、割合に理解はしやすかったです。
鎌倉復興の大勧進、俊乗坊重源に比べると、割合に知られていない公慶上人ですが、活動は重源上人以上といっても過言ではないでしょう。
松永久秀の南都襲撃以来、百年近く放って置かれた大仏と大仏殿の復興を何もない所から立ち上げた人です。
江戸復興は五代将軍徳川綱吉と桂昌院だと考えがちですが、幕府方が資金援助をしたのは大仏殿のみで、大仏そのものは公慶上人をリーダーにした南都の僧侶らの勧進によるものです。
奈良という場所には東大寺を始めとした歴史や人々が支えて伝えていった土地や場所、記憶が宿っています。
近代都市やテーマパークのように、歴史も記憶もリセットして築かれた場所というのは、どこか不安定で気分も落ち着かないものなのでしょう。
歴史と言えば堅苦しいと敬遠されても、土地に宿る記憶は人々の遺伝子のどこかに刻まれた記憶とリンクして、何かを常に訴えかけようとするものです。
1200年前、奈良は都でなくなった事により、古い記憶を残しているのかもしれません。
都は常に最先端の土地、千年の都の地位を築いた京都は、逆に平安の昔を忘れて、応仁の乱以降、大政奉還するまでの江戸の文化を残す町として存在しています。
そして江戸改め東京は、現在進行形の不安定さで常に変化をしています。
土地の記憶、人の記憶、他所がなくしてしまったものを今も残すこの奈良という場所が、外に向けて訴えてゆくものは絶対にあるはずです。
とまあ、こんな内容でしたか(~_~;)
西山部長いわく、「二十一世紀は奈良の時代」だそうですから、皆様、観光・歴史都市の奈良にぜひ注目していて下さいとの事でした。
大仏と鹿だけじゃないのよ……うちじゃ、ヘンなものばっかり紹介してるけどねσ(^◇^;)
この御仁は果たして一般的な古代史ファンからはどう思われているのでしょう。
うちではかなり人間くさい御仁です。
生まれたのは慶雲三(706)年ですから、後の悪友、白壁王よりも三つ年上になります。
従五位下に叙位されて史書に現れるのは天平六年、二十九歳の時です。
二つ年上の同母兄の豊成が二十一歳でさっさと同じ位をもらったのに比べると、嫡子と庶子の違いは大きなものです。
ともあれエリートの典型とでも申しましょうか、この御仁の出世街道は内舎人より始まります。
格に従えば、二十一歳の時のはずです。
そしてその三年後(実は二年半後)には白壁王が同僚となりまして、この二人の腐れ縁的悪友ライフが始まるのです(~_~;)
この頃の仲麻呂は、白壁王の言葉を借りるなら
“垢抜けた美男で、口達者な切れ者”
“友好的な相手には、愛想を欠かさぬ律義者”……は普通の評価、
“ふてぶてしい態度を取るが、結構、神経質で細かい”
“普段が歯切れ良い分、落ち込むとかなり鬱陶しい”
“実はそうとう、根に持つ”、
“酔うとネチネチとしつこく絡む”……などなど(@_@;)
思うに、性格は悪くないはずです。
家柄云々を問われれば確かに藤原南家、しかし、それを笠に着ていては出世などできません。
後ろ盾が大してない祖父が若い頃にしたような根回しや人への気遣いは、天性の性格としてよりも、自然な計算の許に容易くできるようなキャラクターだと勝手に思っております。
兄に比べれば確かに出世はもたついていますが、一般的な上位官人の例からすると、かなり早い部類に入ります。
何せ三十八歳の時には参議となって、中納言の兄と共に太政官における南家の地位固めを始めますから。
父親が生きていれば、この辺りの出世も、もっと早かったのかもしれませんが。
後半生の評価はどうあれ、この御仁の若い頃は曲者と呼ぶには、ややインパクトに欠けるかな……
これが私の与太話に登場する、藤原恵美朝臣押勝と呼ばれるよりもかなり以前の人物設定でした。
しっかし、山部王と関わる頃には、結構、意地悪いオヤジになりつつあるような……(^_^;)
うちではかなり人間くさい御仁です。
生まれたのは慶雲三(706)年ですから、後の悪友、白壁王よりも三つ年上になります。
従五位下に叙位されて史書に現れるのは天平六年、二十九歳の時です。
二つ年上の同母兄の豊成が二十一歳でさっさと同じ位をもらったのに比べると、嫡子と庶子の違いは大きなものです。
ともあれエリートの典型とでも申しましょうか、この御仁の出世街道は内舎人より始まります。
格に従えば、二十一歳の時のはずです。
そしてその三年後(実は二年半後)には白壁王が同僚となりまして、この二人の腐れ縁的悪友ライフが始まるのです(~_~;)
この頃の仲麻呂は、白壁王の言葉を借りるなら
“垢抜けた美男で、口達者な切れ者”
“友好的な相手には、愛想を欠かさぬ律義者”……は普通の評価、
“ふてぶてしい態度を取るが、結構、神経質で細かい”
“普段が歯切れ良い分、落ち込むとかなり鬱陶しい”
“実はそうとう、根に持つ”、
“酔うとネチネチとしつこく絡む”……などなど(@_@;)
思うに、性格は悪くないはずです。
家柄云々を問われれば確かに藤原南家、しかし、それを笠に着ていては出世などできません。
後ろ盾が大してない祖父が若い頃にしたような根回しや人への気遣いは、天性の性格としてよりも、自然な計算の許に容易くできるようなキャラクターだと勝手に思っております。
兄に比べれば確かに出世はもたついていますが、一般的な上位官人の例からすると、かなり早い部類に入ります。
何せ三十八歳の時には参議となって、中納言の兄と共に太政官における南家の地位固めを始めますから。
父親が生きていれば、この辺りの出世も、もっと早かったのかもしれませんが。
後半生の評価はどうあれ、この御仁の若い頃は曲者と呼ぶには、ややインパクトに欠けるかな……
これが私の与太話に登場する、藤原恵美朝臣押勝と呼ばれるよりもかなり以前の人物設定でした。
しっかし、山部王と関わる頃には、結構、意地悪いオヤジになりつつあるような……(^_^;)
関西弁で言うと、「笑かしてくれるやんか」なのかな?
友人がブログで『ヒロイン傾向占い』というやつを紹介していたので、面白がってやってみました。
http://u-maker.com/53796.html
「うめぞーさんは策略家ヒロイン型です!」だそうです(ーー)
以下、ページをそのまま貼り付けですので、レイアウトが変です(^^ゞ
----------------------------
これって私の事じゃなくて、うちのスメラミコトと違うのか???
まぁ、やつはヒロインじゃなくてヒーロー(願望)だろうけどさ。
ついでにラッキー楽器は月琴かな?
友人がブログで『ヒロイン傾向占い』というやつを紹介していたので、面白がってやってみました。
http://u-maker.com/53796.html
「うめぞーさんは策略家ヒロイン型です!」だそうです(ーー)
以下、ページをそのまま貼り付けですので、レイアウトが変です(^^ゞ
----------------------------
| 不言実行を信条とするタイプです。 自分の意図を他人に知られる事を嫌い、常に裏の裏を隠し持っています。 的確な判断力で周囲の信頼が厚く、リーダー的才能はピカイチ。 恋愛にはやや淡白ですが、一度好きになると激しく燃え上がる傾向があります。 基本的に、道理を深く考える思索派で、意思が堅く、独立心旺盛です。 【ヒロイン的傾向】 基本的には恋愛に興味を示しません。 相手のアプローチには当然気づいていますが「だから?」と一刀両断してしまいます。 しかし好きな相手が出来たら一変、まずは情報収集から始め、ありとあらゆる状況を考慮、 徐々に範囲を狭めていき、必ずや相手を掌中に収めます。 狙われた相手はもはや釈迦の手の上の孫悟空、逃げ道はありません。 情報だけが全てではありません、時には何も考えずに体当たりしてみましょう。 ●好相性● 弱気、強気。 |
| ● | うめぞーさんのラッキー楽器は、尺八です! ======================= |
これって私の事じゃなくて、うちのスメラミコトと違うのか???
まぁ、やつはヒロインじゃなくてヒーロー(願望)だろうけどさ。
ついでにラッキー楽器は月琴かな?
問題になるのはホームページというやつ。
お絵かきが全然できない今日この頃、そしてリアルでの物書きに手一杯な現状におきまして、こいつが無用の何とかになっている事は否定致しません。
お絵描きができないのは、時間が取れないのじゃなくて、根本的に手が動いてくれない(T_T)
物書きができないのは、こちらのネタに構っている間がないというか、頭の切り替えができない不器用さが災いしていますわ……(ToT)
取り敢えずは当分、放っておくことに致しますが、気が向いたらぶった切るというのも充分あり得る選択肢だわね。
とか何とか言って、更に気が向いたら更新するかもしれませんしねぇσ(^◇^;)
で、ネタある訳?????(?_?)?????
お絵かきが全然できない今日この頃、そしてリアルでの物書きに手一杯な現状におきまして、こいつが無用の何とかになっている事は否定致しません。
お絵描きができないのは、時間が取れないのじゃなくて、根本的に手が動いてくれない(T_T)
物書きができないのは、こちらのネタに構っている間がないというか、頭の切り替えができない不器用さが災いしていますわ……(ToT)
取り敢えずは当分、放っておくことに致しますが、気が向いたらぶった切るというのも充分あり得る選択肢だわね。
とか何とか言って、更に気が向いたら更新するかもしれませんしねぇσ(^◇^;)
で、ネタある訳?????(?_?)?????
『日本と朝鮮半島2千年⑤―日本海の道』という訳で、メインになるのは渤海との関係です。
この国の名前を正直に日本語読みすると、“ぼっかい”ですが、どういうわけか私は昔から“パルへ”と呼んでおります。
ハングル語読みだと思います。
番組中でロシアの学者さんが、この国名を何と呼んでいるのかがイマイチ聞き取れませんで……モヘイとかモハイとか言っている様な?
もしかして中国語読みなのかしら??
『続日本紀』では常に『高麗』の名前で出て来るせいか、私の頭の中ではこの国は韓族による国だと勝手な解釈ができておりまして、間違っても靺鞨の国だとか、中国の古代国家だなんて認識がないのですね(^_^;)
それはともあれ……何か腑に落ちない内容なんですよね。
今回は誰に気を使ってるんだ???
もしかして中国?
確かに奈良時代の始め頃、東北辺りに漂着した渤海使は、新羅と唐に挟み撃ちをされかねないと、海を隔てた日本への軍事同盟を持ちかけます。
確かこの時は、二代目の王様の大武芸だったかな。
日本側はと申しますと、もちろん聖武天皇の若い頃なのですが、太政官を牛耳るのは左大臣の長屋王……(ーー゛)
これで果たして交渉は巧く行くかと思う通り、日本側はハッキリとした返事をしていないはずです。
ところがこの直後、長屋王は謀反の疑いで失脚します。
そして次のトップは大納言、多治比池守なんて年寄りは押しのけて、藤原南家の武智麻呂が台頭してきます。
かくしてここに、最初の新羅攻撃の計画が持ち上がり、渤海側にも色好い返事をしようという動きに出るのですが……
障害となるもの、それは新羅から遣って来た……豌豆瘡、つまり天然痘の流行です。
これによって太政官は壊滅状態、国内がシッチャカメッチャカだってのに、国外になんて構っている暇はありませんわ(@_@;)
そして約二十年の後、再び新羅征討への声が上がるのですが、既に時代は大きく動いています。
まずは日本の天皇も、渤海王も世代が代わっています。
渤海や新羅の盟主たる唐は、安禄山による謀反で国の根幹はガタガタ。
これによって、元々国内が不安定な新羅(三国史記によれば)も青息吐息。
日本国内には渤海の誘いなんぞなくても、親父の世代が画策した(?)新羅征討計画が再燃してきます。
この頃にも渤海使は何度も日本に来ています。
既に冊封されている渤海は、唐の皇帝の名前で兵力の供出を命じられていて、この辺りの真偽も確かめたく、日本にも情報交換のために使節を送っているようです。
こういう複雑な国際背景が、再び日本と渤海を政治的にも近いものにして来ます。
この類を端折りますと、結構時代が見え難いんですわね。
今回の番組も、あえてそういう所には踏み入らずに話を進めているので、結局は出羽やら越での公でない交易に焦点を当てざるを得ないような内容になっているような気が致します。
番組作りは色々と革新的な内容にも思えるのですが、どうも切り口が腑に落ちない、何か片手落ちに思えるのですが、あまり高望みをするのも間違っているのかもしれません(-_-)
金沢学院大学の先生が簡単な時代背景を解説しておられましたが、果たして本当に太政官トップが積極的に新羅への出兵を唱えていたのか、こいつには個人的に反対なんですけど……まぁ、良いか、その辺は(^^ゞ
その代わりに何時も履いているのは、こちらの画像のようなスニーカーやトレッキングシューズです。
いずれも有名メーカーの靴ですが、かなり古いモデルですので、同じメーカーでも同様な物は作っていないかもしれません。
大体において私は、3~4足の靴を適当に履き回しているので、靴の持ちはかなり良いはずです。
何せどいつも10年近く前のモデルですからσ(^◇^;)
ちょっとサイズが大きいから、明日にでもインソールを買って来ないといけません。
ついでに天理市の靴屋さんの閉店セールでサンダルも半額で買ってしまいました。
最初はワンシーズンの履ければ良いような安物で良いと考えていたのですが、実際に履き比べると全然違うんですよね、それなりに良い値段の物は。
でも半額だったから、まぁ、良しと致しましょう。
しかし若干、ヒールがあるんですよね、こいつ……
国宝の本殿や回廊も有名ですが、何と言っても昔から今に至るまで、さまざまな人々によって寄進された燈籠の多さには目を見張るものがあります。
こちらには約1800基の石燈籠があるそうです。
本殿の吊り燈籠もあわせると3000を超えると聞いています。
昔は毎晩、この燈籠に火が入ったそうです。
まさに毎晩が万燈籠という状況だったそうです。
燃料の油料をまかなうための燈明田が、大和のみでなく各地にあったという事です。
さて、おびただしい石燈籠に刻まれた神社の名前なのですが、大多数は『春日社』となっています。
ところが極少数、『春日大明神』と刻まれた物があります。
この具体的な数は覚えていないのですが、総体数からするとかなり少ない事は確かです。
その一つがこの画像の物。
三十分程度、あちらこちら眺めていたところ、幾つか見つけました。
以前にこちらの権宮司さんが言っておられたのですが、一日で五基以上(三基だったかな?)見つけると良い事があるのだとか(^_^)
七~八基は見つけましたけどねぇ……一つは磨耗が激しくて良く分かりませんでしたが、他の物は確実です。
それで良い事って、何があるのかしらねぇ、楽しみにしときましょうっとσ(^◇^;)
私は勝手に『春日の森の大王』と呼んでいますが、分かりそうで分かりにくい所にあります。
『二の鳥居』を潜ってすぐの右に入る道を進んで行くと、左側の少し高くなった辺りにありますが、木を隠すには森の中、他にも大きな木があり過ぎて、気をつけなければ行過ぎてしまうかもしれません。
そうですね、『中の禰宜道』のごく入り口辺りにあると言えば、少しは分かりやすいでしょうか。
この道をずっと南下して行くと、高畑町の『新薬師寺』の近くに出ます。
この辺に行くには、かなり近道だと思っているので、私はいつもこのコースをたどっています。
これらの写真を撮ったのは昨日の日曜日なのですが、この日も変な日だったような……
『元興寺』の地蔵盆(夕方の五時から)に行くつもりで、昼くらいに奈良についてフラフラしていたのですが、何となく春日大社に行きたくなって、上記の『石燈籠』を探し始め、ついでに『大王』に挨拶をしにいったまま、つい高畑の方まで歩いて行き、『新薬師寺』を通り越して、何気なく『白毫寺』方向に歩いて行った辺りで、小さな神社の看板を見つけ、そちらに足が向いてしまいました。
こいつが春日大社の摂社で……気が向きましたら、次はそいつの紹介でも(^_^;)
鳥居にかけられた扁額は『氷室神社』、文字通り、この場所に昔々、氷室があったためにこの神社ができたようです。
ここは奈良で一番最初に開く枝垂桜の花で有名ですが、全国の製氷業者の信仰を集めている事でも名高いそうです。
その枝垂桜の木を右手に見て階段を上って門から入ると、正面に神楽殿があり、その向こうに赤い社殿が覗いています。
この画像で見るよう、この暑い盛り、屋根の上から霧を吹き、毎日、奉納された氷を神前に供え、そのお下がりを参拝者にカキ氷にして振舞ってくれます。
とてもありがたい事です(^^ゞ
鳥居をくぐって少し進んだ右手側、手水場に並んで、このように彫られた石製の井戸枠があります。
これには『鷹乃井』とありますね。
そもそも『鷹の井戸』というのは、ウィリアム・バトラー・イェイツの戯曲です。
これが近代になって創作能として上演されるようになったのですが、あいにく私は見た事がありません。
観世流だと『鷹姫』だったでしょうか。
不老不死を求める老人と伝説など信じない若者が、鷹の乙女の守る井戸の前で鉢合わせて……
詳しいストーリーを知りません(^_^;)
これの元になったのは、どうやら謡曲の『野守』のようです。
「鷹は池の中にいる」
不思議に思って池を覗くと、木の枝にとまる鷹の姿が映っている……この池を“野守の鏡”と言うと、老人は語って姿を消します。
そしてその夜、僧の前には野の神が現れ、人の心を映して見せるという“野守の鏡”を示すのです。
どうも謡曲のストーリーというのは、謂れが分からないと意味不明のところがありますねσ(^◇^;)
“野守の鏡”は古来、人の心を映すものという伝承があって、謡曲にはこれも取り入れられている訳です。
そしてこの物語の舞台は、奈良の飛火野だといわれています。
“野守の鏡”の池は、今の奈良国立博物館の辺りにあったとされます。
だから、すぐそばの『氷室神社』が、謡曲の『鷹の井戸』と関連付けられたのかもしれません。
この井戸枠に『鷹乃井』の文字を刻んだ人って、お能や演劇に造詣の深い方だったのでしょうか。
それとも全然別の伝承が、この地にあるのでしょうか。
学生の頃に『春日芝能』で、この『野守』を見た事があります。
満月から何日もたたない月の明るい晩で、白頭(本来は赤頭)の後シテが大きな銀色に光る丸い鏡を掲げて舞っていたのを覚えています。
