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甲賀市の紫香楽宮跡周辺まで、往復で200キロ弱、車を転がしておりましたが、途中で寄り道をした場所の一つがここです。
京都府相楽郡和束町にある宮内庁指定の安積親王和束墓です。
天平十六年閏一月十一日、
“是の日、安積親王、脚の病に縁(よ)りて桜井頓宮(かりみや)より還る。丁丑(十三日)、薨しぬ。時に年十七。従四位下大市王、紀朝臣飯麻呂らを遣して葬(はふり)の事を監護(みまも)らしむ。親王は天皇の皇子なり。母は夫人正三位県犬養宿禰広刀自、従五位下唐(もろこし)が女(むすめ)なり。”
それでも『万葉集』に大伴家持やら市原王らとの交友が見られるためか、はたまた何処かの先生の言い出した暗殺説が一人歩きしているせいか、それなりに名前は知られているようです。
私は再三申しますが、この方の暗殺説にはかなり懐疑的です。
藤原夫人(後の光明皇后)生出の親王が亡くなって、聖武天皇にとってはこの安積親王が唯一人の親王だったにもかかわらず、立太子もしないままに十七歳でなくなっているのは、確かに理不尽に思えましょうが、この親王を除く必要性が誰にも有りそうにない事は、よくよく考えてみれば分かるような気も致します。
それはともあれ、国道163号線から県道5号線を北東に上がって信楽方面に行く途中に、この小さな墓所はあります。
道から見上げれば、茶畑の高台にポツネンと見えているのですが、実際に登って行くとかなり小さな円墳である事が分かります。
奈良市田原の茶畑の中にも、志貴親王御陵や太安万侶墓などがありますが、それ以上に訪れる人も稀な墓所なのかもしれません。
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本日敬老の日?
今日は『志貴親王御忌』だってのに、白毫寺にも行かずに家におります。
本当なら、今日の晩には『芝能』のはずなのに、今年は開催しないようです。
で、何をしているのかって……友人からの連絡待ちですわ(~_~;)
連絡が入ったら神戸に行かにゃならんので、荷物が少々多いのを理由に、家の中で雑多な事をしております。
その一つが、頼まれているアクセサリー類制作ですが、やっていると必ずシマコかウメナの邪魔が入る(T_T)
先ほども最後の最後で、ビーズの入ったトレイをひっくり返してくれました(;O;)
それにしても先方も忙しいらしく……こりゃ、連休の渋滞に捕まってるかな?
昼前後には連絡をくれるという事だったのですがねぇ。
何せ仕事(彼女は一種の実業家?)で伊勢から神戸に移動しなけりゃならない予定らしく、世間の休みが逆に鬱陶しいくらいの状況のようです。
まぁ、そろそろ私も移動しますか。
どうせ神戸には西大寺経由で行きますので、奈良市には出て行く事になりましょうから。
そして私の明日の予定は、信楽まで車で移動。
陶芸の里を通り抜けて、それこそ何もないような所を放っつき歩いてくる予定です。
天気は何とか持ってくれないかな……和束越えの旧道を行く予定なんで(*_*;
今日は『志貴親王御忌』だってのに、白毫寺にも行かずに家におります。
本当なら、今日の晩には『芝能』のはずなのに、今年は開催しないようです。
で、何をしているのかって……友人からの連絡待ちですわ(~_~;)
連絡が入ったら神戸に行かにゃならんので、荷物が少々多いのを理由に、家の中で雑多な事をしております。
その一つが、頼まれているアクセサリー類制作ですが、やっていると必ずシマコかウメナの邪魔が入る(T_T)
先ほども最後の最後で、ビーズの入ったトレイをひっくり返してくれました(;O;)
それにしても先方も忙しいらしく……こりゃ、連休の渋滞に捕まってるかな?
昼前後には連絡をくれるという事だったのですがねぇ。
何せ仕事(彼女は一種の実業家?)で伊勢から神戸に移動しなけりゃならない予定らしく、世間の休みが逆に鬱陶しいくらいの状況のようです。
まぁ、そろそろ私も移動しますか。
どうせ神戸には西大寺経由で行きますので、奈良市には出て行く事になりましょうから。
そして私の明日の予定は、信楽まで車で移動。
陶芸の里を通り抜けて、それこそ何もないような所を放っつき歩いてくる予定です。
天気は何とか持ってくれないかな……和束越えの旧道を行く予定なんで(*_*;
お陰で昨日は家の中をボチボチと片付け、友人に頼まれた物を用意する程度で終わり、今日は昨日の続きと、京都府木津川市で行われた現地説明会に行って来ました。
『上津遺跡』は“こうづいせき”と読みます。
木津川は昔は“こづがわ”と呼ばれたそうで、“こうづ”はそれが転訛して現在の地名となったのだと考えられるのだそうです。
この場所は昔々の泉津、恭仁京造営に伴って発達し、都が山城に移ると衰退して行った事が、これまでの調査で分かりつつあります。
今回の調査はマンションの建設の事前調査だそうで、面積はあまり広くはなく、上の画像でも分かりますよう、ひたすらに柱穴ばかりの遺構です。
そういう訳で、市内在住のイラストレーターの早川和子氏が、いつものように復元イラストを描いて下さっています。
泉川(木津川)より水揚げされた材木を始めとした物資の中継場所として、いわばコンテナーヤードのように利用された場所なのかもしれません。
遺構としては、総柱らしき掘立柱建物の一部が二棟分検出されているのですが、こいつの一棟が正方位に乗っていないんです。
この時代に正方位に乗らない建物って、さて、どう考えるべきなのでしょう?
木津川の河川敷の遺跡なので、砂交じりの崩れやすいベースを遺構が切っています。
かなり調査がし難そうに見えますし、建物の建て替えも頻繁に行われたようで、この狭い場所ではあまりはっきりした事は言えそうにありません。
遺物としては奈良時代後期の須恵器の長頸壺が多数、こいつの内部には漆が付着し、掻き取られた様子も見て取れます。
当時の漆一升は米一瓢にも相当したそうで、かなり高価な物だったようです。
税として納められた漆をここに集積し、都や周辺に分配したのだろうと考えられています。
木津川市木津宮ノ裏の『御霊神社』です。
私の持っている地図には載っておりませんで、こちらの神社の由緒書きも文字が完全に飛んでしまって、誰が御祭神なのか分かりませんが、ネットで調べたところ、藤原広嗣、伊予親王、早良親王を御祭しているそうです。
ちょっと変わった面々ですね(^^ゞ
先日に行きました『岡田国神社』に同様、拝殿前の庭の両側に氏子の詰め所があるのは、この相楽郡辺りに多い建物配置のようです。
ちなみに本殿は一間社の流造り、今回は春日造りではないですねσ(^◇^;)
本殿も含め、建物はいずれも新しく、『岡田国神社』『田中神社』と共に、氏子の方々の御努力で再興された神社のようです。
字名の“宮ノ裏”はまさに、この神社の周囲を表しているようです。
この周辺にもちょっとメジャーな人々所縁の地があるのですが……そいつはまた別稿で(~_~;)
相も変らぬ御影石の柵やら白い神宮鳥居、これじゃ何処やら分かりませんか?
こちらは奈良市矢田原町にある『田原西陵』、別名を『春日宮天皇陵』といいます。
まぁ、平たく言いますと、宮内庁の定めた『志貴親王陵』ですわ。
私が年に何度も出没する場所……という割には、ここ最近は半年に一度も訪問していませんね(-_-)
馬鹿正直にここを本当に親王の御陵だと信じているのか否かは別としまして、なかなかに風光明媚、茶畑の真ん中の静かな御陵です。
周囲を巡ってみますと、終末期古墳にしてはやや大きめの円墳のようです。
御陵に限らず、古墳の類には墳丘があるのですが、これがこの様に大抵は木々に覆われているため、形が定かではありません。
遠望した時、この墳墓で言えば一番高くそびえているこの木が目に付くでしょうか。
そのせいかこの木を墓所のモニュメントのように見てしまう事が多いような気がします。
鳥居や石碑よりは、何となく親しみも湧くような気が致しまして(^_^;)
こちらは奈良市日笠町の『田原東陵』こと『光仁天皇陵』です。
大きな声で言う事ではありませんが、このくらいのサイズの御陵は、周囲をぐるりと巡る道がついている事が多いです。
一つには宮内庁の職員の方が見回るためのルートにもなっていますし、ご近所の方が裏側に抜けるルートにもなっています。
まぁ、墓陵の中に立ち入る訳ではないので、私も時々歩いております。
ところがこの御陵の周囲の細道、この夏の間に草刈をしていなかったのか、途中までしか行く事ができません。
周囲の畑との間にはワイヤーの柵が張られているので、そちらに入る訳にも行かずあきらめました。
それにしても御陵というところは色々な動植物に逢う所のようで、田原西陵、東陵共にシマヘビが出てきてくれました。
西陵の方は30センチもないような子供の蛇ですが、東陵では1メートル近い奴でして、すぐ手前に脱皮した皮まであって、鎌首もたげて日向ぼっこをしている様子でしたが、こちらに気づいて草むらに入っていってしまいました……済まん事をしたかな(~_~;)
もう一つ面白いことに、この辺り、まだセミの声がかなり聞こえます。
メインはツクツクホウシですが、時々ミンミンゼミも混じっていましたか、街中ではとうに鳴き止んでしまっているというのに、標高の高いところではまだ生きているんですねぇ。
つい、アップロードしてしまったので、記事を変えまして(^^ゞ
こちらは奈良市八島町の『嶋田神社』の本殿ですね。
一昨日にもあげました社を別のアングルから見たものです。
やはり銅版で屋根は覆われていますが、同じ造りで、サイズも『御霊神社』や『崇道天皇社』と同じくらいでしょうか。
享保十二(1727)年、もしくは慶長十八(1613)年の造営に伴う移築だそうで、春日大社本殿の第二殿だそうです。
やっぱり分かりませんわ……比べた三つが良く似ているのは、同じ建築様式を取っているからですしねぇ。
そういうわけでもう一つ駄目押しに(~_~;)
こちらは奈良市高畑町の『鏡神社』です。
奈良市教育委員会の解説看板によると、この本殿は、享保十三(1728)年に春日大社本殿の第三殿として建立され、延享三(1746)年に第四十七次式年造替によって移築されたのだそうです。
春日大社の場合は『式年造替』というんですか、一つ利口になったかなσ(^◇^;)
こっちは完全にアングルが違いますね。
でもサイズとしては確か同じくらいだったと思います。
他の神社に同様に一間社春日造りです。こうしてみていると、『御霊神社』本殿も可能性があるような……
いずれどなたか、この方面に詳しい方に聞いてみますか。
県内にはまだ幾つも、確実な『春日移し』の御社はあるそうですしね。
確か柳生にも二つ三つあったような……その内見に行きましょうっと(^_^)
一昨日にもあげました社を別のアングルから見たものです。
やはり銅版で屋根は覆われていますが、同じ造りで、サイズも『御霊神社』や『崇道天皇社』と同じくらいでしょうか。
享保十二(1727)年、もしくは慶長十八(1613)年の造営に伴う移築だそうで、春日大社本殿の第二殿だそうです。
やっぱり分かりませんわ……比べた三つが良く似ているのは、同じ建築様式を取っているからですしねぇ。
こちらは奈良市高畑町の『鏡神社』です。
奈良市教育委員会の解説看板によると、この本殿は、享保十三(1728)年に春日大社本殿の第三殿として建立され、延享三(1746)年に第四十七次式年造替によって移築されたのだそうです。
春日大社の場合は『式年造替』というんですか、一つ利口になったかなσ(^◇^;)
こっちは完全にアングルが違いますね。
でもサイズとしては確か同じくらいだったと思います。
他の神社に同様に一間社春日造りです。こうしてみていると、『御霊神社』本殿も可能性があるような……
いずれどなたか、この方面に詳しい方に聞いてみますか。
県内にはまだ幾つも、確実な『春日移し』の御社はあるそうですしね。
確か柳生にも二つ三つあったような……その内見に行きましょうっと(^_^)
これが奈良町の『御霊神社』の本殿です。
正面には拝殿があるために、斜め方向か横から写すしかないし、周囲の柵や木々で全体が見渡せないので、ロクな写真がありませんん(ーー゛)
屋根が銅版で覆われています。
これは良くある事で、多分この下には桧皮葺の屋根があるのだと思いますが、傷みがひどくなって来たためにこのような姿になったのかもしれません。
それでですね、こいつが『春日移し』かという事になりますと……
確かに一間社春日造りの堂々とした御社です。
何せ私は建築には全く暗くて、どこをどのように見るべきなのか分からないのですわ(+_+)
そういう訳で、他の例と比べてみるのが良いのかもしれません。
こちらは元和九(1623)年の式年造営により、春日神社の若宮社を移した物です。
で……比べるにしても、アングルが全然違うんですが(@_@;)
こちらの御社こそ、瑞垣がぐるりと建て巡っていて、屋根くらいしか見えないんですよね。
正面は完全に拝殿にふさがれていますから。
しかし屋根の形は同じです。
そりゃ、同じ春日造りですからねぇ。
そういう訳で、もう少し別のやつも見てみますか(^_^;)
一番肝心の神社を忘れていますね。
私が奈良町でいつも立ち寄る場所、つまり『御霊神社』でしょう。
確かここの本殿、かなり古くて、室町時代の終わりくらいの物だと聞いています。
しかし、こいつもうろ覚えの範疇なので、もしかしたら別の所と勘違いをしているかもしれません。
少しばかりネットで調べてみたのですが、それらしい記事も見当たりませんし(*_*;
でも一間社春日造りの見事な御社の事は間違いありません。
この大きな社を中心にして、左右に小さな社が並んでいるはずです。
本殿にしても、きれいに塗りなおされているので、あまり古いという印象を受けないのですがねぇ……
こちらの本殿の画像があるようでしたら、改めてあげ直す事と致しましょう。
考えてみれば式年造替は二十年に一度、春日大社の本殿は四つ、それに若宮社まで加えれば、一世紀の内に二十五棟もの御社が建て替えになるのですから、あちらこちらに春日移しの社殿があっても、そうそうおかしくはないかもしれません。
今度気が向いたら、春日移しツアーしようかしらσ(^◇^;)
昨日の日曜日に、久々の墓参ツアーに行って来たのですが、明日以降に気が向きましたら、この記事でも。
でも、行った所は半年前と殆ど同じなんですけどね(~_~;)
私が奈良町でいつも立ち寄る場所、つまり『御霊神社』でしょう。
確かここの本殿、かなり古くて、室町時代の終わりくらいの物だと聞いています。
しかし、こいつもうろ覚えの範疇なので、もしかしたら別の所と勘違いをしているかもしれません。
少しばかりネットで調べてみたのですが、それらしい記事も見当たりませんし(*_*;
でも一間社春日造りの見事な御社の事は間違いありません。
この大きな社を中心にして、左右に小さな社が並んでいるはずです。
本殿にしても、きれいに塗りなおされているので、あまり古いという印象を受けないのですがねぇ……
こちらの本殿の画像があるようでしたら、改めてあげ直す事と致しましょう。
考えてみれば式年造替は二十年に一度、春日大社の本殿は四つ、それに若宮社まで加えれば、一世紀の内に二十五棟もの御社が建て替えになるのですから、あちらこちらに春日移しの社殿があっても、そうそうおかしくはないかもしれません。
今度気が向いたら、春日移しツアーしようかしらσ(^◇^;)
昨日の日曜日に、久々の墓参ツアーに行って来たのですが、明日以降に気が向きましたら、この記事でも。
でも、行った所は半年前と殆ど同じなんですけどね(~_~;)
雨の中を開き直って八嶋御陵まで行きました。
前池にカイツブリが泳いでいるのをはじめ、ここに来るといつも鳥がいるような気がします。
この日も雨の中、あちらこちらから鳥の声が聞こえて来るのですね。
地形的には東からの山がなだらかに下りてくる端の所、東と南は山に塞がれているけれど、北と西には土地が開けています。
特に西側に下って行く地形なので、展望は良く開けています。
この画像は御陵の前にある件の岩座なのですが、改めて眺めてみますと、こりゃやっぱり、後期古墳の石室でしょう(^^ゞ
奥の真ん中の前傾している石なんて、どう見ても石室の奥石ですわ。
左側の一番大きい奴も一面が平らに加工されてるし、こいつらが一段目として、その前の方に転がっている奴らは二段目以上、枕のような形の奴は裏込めか間に込めた石でしょうか。
奥壁の石がほぼ元位置だとしたら、南向きの斜面に、南を向いて開口している事になります。
この石の感じからして六世紀の半ば以降かな?
早良親王の改葬によって御陵を造るとしたら九世紀初の事、時間差はかなりあります。
天井石や羨道部の石は、とうの昔にどこかに運ばれて二次利用されていてもおかしくないでしょう。
まあ、私は横穴式石室に詳しい訳じゃないから、本当にそうなのかと言われると、断言はできないのですがね(~_~;)
この画像も、以前の記事と殆ど変わりませんねぇ(^_^;)
ただし解析度が違うので、クリックして頂ければ社殿の前の燈籠の『崇道天王社』の文字が分かりやすいと思います。
奥の方に、厳つい顔した狛犬も見えています(~_~)
この社殿の前で拍手を打っておりますと、左手の木の梢でガサガサと大きく騒がしい音がしました。
カラスかなと思いきや……社務所(なのかな?)の屋根の上に、茶色い猫くらいの影が?!
何でこんなところにニホンザルがいる!?!?
尻尾がなかったので、間違いなく日本猿ですわσ(^◇^;)
あまり大きくなかったので雌か子供でしょうか、拝殿の横に木に飛び移って行きました(*_*;
ところで、紀寺町の『崇道天皇社』や高畑町の『新薬師寺』の隣にある『南都鏡神社』に同様、こちらも春日移しの社殿ですから、正真正銘の春日造りです。
私が見に行った事のある、この三つの神社はいずれも御霊さんを祭る社です。
御祭神として志貴親王(春日宮天皇)や春日王が祭られているので、この名前は別に何の不思議もありません。
藤原氏の氏神たる春日大明神と、こちらの春日の神が同じだとは思いませんが、このような名前の一致と、『春日大社』の社殿を移す事と何か関係があるものなのでしょうか?
とは申せ、志貴親王家の人たちで御霊さん扱いされている方は、まず『御霊神社』に御祭されていますからねぇ……
で、御霊社で春日移しってあるのかしら?
五條市に見に行った内では、特に思い当たらないのだけれど……
何か気になる、もう一度、調べてみませんと(@_@;)
ところで春日で思い出したのですが、今年は『芝能』が行われないんですよ!!!
ここ最近、御能にはかなり疎遠で、天気さえ良ければ見に行きたいと思っていたのに(;_;)
とか何とか言いつつ、今日の大淀町での演能には行きませなんだが。
だって『隅田川』みたいな暗い話、苦手なんだもの(+_+)
行き先はいつものように田原方面なのですが……
そのまままっすぐ行くのも芸がないと、途中で寄り道でもする事に致しました。
先日から少し気になっているのが、奈良市北永井町にある『崇道天王社』です。
この辺りには三つ四つの同じ御祭神の神社がありまして、こちらが唯一、私の持っているロードマップに載っているんですね。
近くの小学校に停めてやろうかと思いきや、神社の前が少し広くなっていたので、少々強引に車を寄せました。
しかし鳥居に扁額がない……本当にここなのかと見れば、このように燈籠に名前が彫られていました。
ちなみにこちらの由緒来歴の説明はなし。
どうしてここに早良親王を祭る神社があるものやら、良く分かりません。
社の前に古そうな御行儀の良い狛犬がいるのですが、拝殿から中へ入る事ができないので、スゴスゴと引き上げてきました(T_T)
公民館のすぐ隣と聞いていたので分かりやすいのですが、こちらもどこに車を停めようか……少し先の道の広くなった辺りにハザードを点けて停めておきました。
神社建築にはまるで詳しくないのですが、御霊関係の神社ってもしかして殆どが春日造りなのでしょうか?
流造りはあまり記憶にないような??
こちらも北永井町の神社同様、拝殿に鍵がかかっていて本殿に近づけません。
そしてこちらにも来歴を記すような説明書きが一切ないのです。
しかしどうして、私ゃ、こんな神社に来ているんだろう、そろそろ雨も降り出しているのに?
変な言い訳ですが、どうも良く分からないんです。
実はこの近くにもう一つ、同じような神社があるそうで、大体の位置は分かるのですが地図には載っておりません。
適当なところで引き返そうと、路地を出ようとした時に見たバックミラーに、この燈籠と鳥居が映っているんですよ……(*_*;
嫌だなぁ~~、ここ最近、呼ばれるんだよ、五月の初めに変なモノを拾って京都に置いて来てから……
これでもかとあつらえた様な社の森、気味は悪くないんですけど、さてもどうしましょう。
鳥居に扁額はないのですが、燈籠に寄ればこちらの社の名前は『崇道天王社』、例によって説明書きはありません。
この頃になると雨は本降り、この状況で田原まで山道を行く気はスッカリ失せました(;_:)
車に戻って地図を眺めておりますと、大安寺の近くに『御霊神社』の文字が見えるじゃありませんか。
塔跡の現説に行った時、御寺の横手にある駐車場に停めて、そのすぐ横に『推古天皇社』があったのは良く覚えていますが、『御霊神社』はそのすぐ北側にあるんですね。
車なら大した距離でもないから行ってみようか……と、到着した時には土砂降り。
ところがこの小さく真新しい祠を持つ神社、高オカミ命(字が出ません)と善女竜王命を祭るそうです。
『元岩清水八幡宮』の別名があるそうで、どうやらいくつかの社が合社された結果、神社の名前と祭神が入り乱れてしまっているようです。
いずれにしても『大安寺』自体が早良親王が出家した寺ですから、ここに関係の神社があっても何ら不思議はないのですけれどね。
かくして完全に開き直った私は、一路、八島町へと向かうのでしたσ(^◇^;)
『嶋田神社』じゃ、日枝山王社でもあるまいに猿まで出てくるし、一体、私ゃ、何かからかわれてるのか、こちらの御仁に……その報告は後にでも(~_~;)
昨夜、NHK教育テレビの『劇場中継』で、鶴屋南北の『桜姫東文章』を現代劇にした芝居をやっておりまして、脚本が長塚圭史、演出が串田和美だという訳で悪くないかもと見始めました。
そもそも原作がかなり打っ飛んだ話のところを、上記二名の本と演出ですからトンでもない……舞台が南米?
桜姫がマリア、清玄がセルゲイ、権助がゴンザレス……白菊丸をジョゼと呼んでいたかな?
ところがこの何日かの睡眠不足が見事に祟りまして、セルゲイがマリアの赤ん坊を抱えて追っ手から逃げ出す辺りまでしか覚えておりません……目が覚めたら、現代劇のはずが歌舞伎の舞台になっている??
『十二夜』だと……?
シェイクスピアを歌舞伎にしてる訳……?
って事で、案の定、蜷川幸雄の演出でしたε-( ̄ヘ ̄)┌
まあ、名作オンチの私でも『十二夜』の大まかなストーリーくらいは知っております。
そのまま適当に見ていたのですが……やっぱりこの最後の二重のハッピーエンドは無理があるような?
ヒロイン(ヴァイオラはビワ姫とかいっていた?)の小姓姿に惚れてしまったオリヴィア姫が、双子の兄と都合良く結ばれるのは良いにしても、このお兄ちゃん、いきなり初対面の良家の姫君にお慕い申していますと激白されて、さっさとそれじゃ夫婦の契りを……って、何も考えてないの????
そしていつも身近で気にかけていた小姓が、うら若い乙女と知った途端に公爵(左大臣とかいっていた)は、それじゃと、さっきまで熱烈なプロポーズをしていたオリヴィア姫の目の前で、この娘と結婚するぞって……
双子の兄妹が一目ぼれをする性質だとしても、一番節操ないのは公爵、あんただよ(~_~;)
それにしてもその展開以上に笑えないのは、姫君の家の叔父や家来たちの悪ふざけ、笑い者にするべきターゲットはこれでもかと弄りまくる……それを知っても女主人は笑って済ますって、某児童文学の登場人物にも感じたのですが、イギリス文学に出て来る苛めって、かなり陰湿で容赦ないような気がしますわ。
これじゃコメディなんて通り越して不愉快になってくるんだけれど(+_+)
夜中にテレビなんぞ見ていた挙句の感想が、こういう埒もないものでした。
私にゃ古典は似合わない、理解出来ないって事??????
そもそも原作がかなり打っ飛んだ話のところを、上記二名の本と演出ですからトンでもない……舞台が南米?
桜姫がマリア、清玄がセルゲイ、権助がゴンザレス……白菊丸をジョゼと呼んでいたかな?
ところがこの何日かの睡眠不足が見事に祟りまして、セルゲイがマリアの赤ん坊を抱えて追っ手から逃げ出す辺りまでしか覚えておりません……目が覚めたら、現代劇のはずが歌舞伎の舞台になっている??
『十二夜』だと……?
シェイクスピアを歌舞伎にしてる訳……?
って事で、案の定、蜷川幸雄の演出でしたε-( ̄ヘ ̄)┌
まあ、名作オンチの私でも『十二夜』の大まかなストーリーくらいは知っております。
そのまま適当に見ていたのですが……やっぱりこの最後の二重のハッピーエンドは無理があるような?
ヒロイン(ヴァイオラはビワ姫とかいっていた?)の小姓姿に惚れてしまったオリヴィア姫が、双子の兄と都合良く結ばれるのは良いにしても、このお兄ちゃん、いきなり初対面の良家の姫君にお慕い申していますと激白されて、さっさとそれじゃ夫婦の契りを……って、何も考えてないの????
そしていつも身近で気にかけていた小姓が、うら若い乙女と知った途端に公爵(左大臣とかいっていた)は、それじゃと、さっきまで熱烈なプロポーズをしていたオリヴィア姫の目の前で、この娘と結婚するぞって……
双子の兄妹が一目ぼれをする性質だとしても、一番節操ないのは公爵、あんただよ(~_~;)
それにしてもその展開以上に笑えないのは、姫君の家の叔父や家来たちの悪ふざけ、笑い者にするべきターゲットはこれでもかと弄りまくる……それを知っても女主人は笑って済ますって、某児童文学の登場人物にも感じたのですが、イギリス文学に出て来る苛めって、かなり陰湿で容赦ないような気がしますわ。
これじゃコメディなんて通り越して不愉快になってくるんだけれど(+_+)
夜中にテレビなんぞ見ていた挙句の感想が、こういう埒もないものでした。
私にゃ古典は似合わない、理解出来ないって事??????
