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紫香楽から京田辺辺りまで、帰りは広い国道を行こうと307号線をひたすら西に走っておりました。
信号も殆どなく、結構すいていたので、どちら様も平気で80キロ近い速度で流しておりまして、かなり気忙しかったです。
ところが宇治田原町の中心部辺りに来た時、急に渋滞が始まりまして、二進も三進も動かない状況……事故でもあったのかしら?
少し進んだところに旧道との交差点があったので、渋滞よりも多少細い道をチンタラ行く方がマシかなと、そこを左に入ってしばらく行くと右手前方に鮮やかな赤い鳥居と、うっそうとした社の杜が見えました。
それがこちらの『御栗栖神社』です。
綺麗な境内で、またもや溜息モノですわ……なんて開放的な場所なんだ。
時々、境内に入った途端、何か篭っていると思うものがあるのですが、こちらは掃除をしたばかりなのか、随分と清々しい感じです。
本殿は一間社の流造り、決して古い物ではなさそうですが、白木に桧皮葺、既に灯りも燈されて良い雰囲気に見えました。
御祭神は天津彦根命、宝亀元(770)年に栗林の傍らに御社を建てたのが始まりだそうです。
この神様は天照大御神と須佐之男命が誓約(うけい)をした時に生まれたそうで、山城国の守護神だと解説にありました。
そして栗林は、壬申の乱で大海人皇子(後の天武天皇)がこの地にやって来た折、村人から献上された焼き栗や煮栗を土に埋め、戦に勝つ事ができたならばこの栗が芽吹けと願をかけたところ、見事にその通りになったのだそうです。
なるほど、大海人皇子もここで誓約をした訳ですね(゜.゜)
さて、この後に恭仁宮跡の方に旧道を抜けて行ったのですが、とにかくすごい道でした(+_+)
狭いのならまだしも、アップダウン、カーブも激しいし、途中にガードレールもない箇所も多々あって、もしも対向車が来たら避ける場所がない……(ToT)
幸いにして対向車は全くなかったのですが、後方から二輪がずっとくっ付いて来ていて、かなり鬱陶しかったです。
そちらは小回り聞くだろうけど、こっちはそうも行かないんだぞ、少しは自重しろよな(-"-)
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恭仁宮跡を出た頃には既に日は沈んで薄暗くなっておりました。
この史跡は国道から一本北側の細い道に面しているので、そのまま国道に合流する所まで車を転がして行く事と致しました。
……と、途中で『恭仁神社』という看板がありましたので、暗くなるまでもう少し時間が有ると、参道に車を乗り入れますと右手に駐車場がありました。
名前を聞いた事があるし、割合に大きな神社みたいです。
石段を登って行くと、拝殿の前に舞台、その左右に氏子の仮舎のある、相楽郡独特の建物配置の境内に着きました。
拝殿からチョイト回りこんで見ますと、このように立派な御社が覗いているではありませんか。
この造りといいサイズといい、間違いなく春日移しです。
多分『恭仁神社』は、先日に春日移しの御社のある神社を調べている時に見た名前なのでしょう。
綺麗に塗りなおされていますが、屋根は檜皮葺きのままですし、千木の姿も実に綺麗です(~_~)
こりゃまた、近い内に再訪して、明るい時にゆっくりと見に来ねばと思いつつ、更に周囲を眺めますと……
社の横や後方に石灯籠が幾つか立っておりました。
『天満宮』と刻まれていますので、菅原道真公が御祭神ですね。
納得しつつ別の灯籠を見ますと『御霊大明神』?
う~ん、やっぱり天神さんか?
それとも末社に御霊神社があるのかしらと、再び拝殿の前に回りますと、ようやく解説の看板を見つけました。
祭神 崇道天皇
藤原太夫人
菅原道真公
あきまへんわ……つい、笑いが出てしまって(~_~;)
以下、解説によりますと
“もともと菅原道真公を祭った村社天満宮で本殿は、文久三年(1863年)に奈良春日若宮の社殿を移築したものである。
昭和四十年に、現在の恭仁京のあとに鎮座していた御霊神社と併合し神社名を恭仁神社と改められた。
祭神は、御霊神社から遷座された崇道天皇及び藤原太夫人ともともと天満宮に鎮座の菅原道真公の三神である。(後略)”
もう勝手にしてくれ……とのボヤキと共に、やっぱり近い内に再訪の可能性ありそうだわと確信するうめぞーでした。
今年度の『高麗寺』の現説、車で行ってやろうかしら(^_^;)
ちなみに今日、奈良町に行ったのはこの一連の流れもあってでした……その前に『寧估庵』にも行きましたけれどね。
こっちの写真はまた改めてσ(^◇^;)
そして十二月の半ばに山背国相楽郡恭仁郷に整備しつつあった宮に入ります。
やがてこの場所で朝賀を行い、国分寺建立の詔を発し、兵器を運ばせ、市も移し、五位以上の者は平城に住む事を禁じます。
そしてついには、この場所に大極殿や回廊も移築させ、『大養徳恭仁大宮』(やまとくにのおおみや)と号して都と定めます。
しかし十四年に入り、甲賀へと通じる東北道を開き、近江国甲賀郡紫香楽村に離宮の造営を命じた辺りからおかしな雲行きになって行きます。
これらの動きはどうあれ、ここがかつて恭仁宮の有った場所です。
こちらの画像は恭仁宮とは直接に関係ない、『山城国分寺』の塔跡です。
紫香楽での造営活動や甲賀寺での盧舎那仏建立が架橋に入ると、恭仁京の造営は中断されるようになり、都は難波に移ったり紫香楽に行ったりと、恭仁は都として見限られるようになって行きます。
そして天平十七年、天皇は平城京に帰る事となり、恭仁宮大極殿は山城国分寺の金堂として施入される事となりました。
おまけにその内の二つは既に動かされて、ベンチのようにやってきた人が休憩に使ったりしています。
逆に残りの良いのは、東側の芝生広場の一角に残る塔跡の礎石です。
先に紹介致しました『甲賀寺(近江国分寺)』の礎石に比べますと、かなり大きく造りも丁寧です。
山背国は藤原北家が勢力を広げていた国で、国司も北家関係の人が多いはずです。
一方、近江はといいますと、武智麻呂以来の南家支配は奈良朝後期になっても続いています。
この辺りを考えても、どちらの国分寺もそれなりの威容を示して造営されたのだと思うのですが……
それにしても度々思うのですが、ここの塔芯礎って舎利穴がないんですが、国分寺ってどこもそうでしたっけ(・・?
確か4枚を継ぎ合わせております。
この何も無い田畑が何かって?
これは滋賀県甲賀市の有名な『宮町遺跡』を遠望したところですね。
遺跡を見に行くと往々にしてこういう事はあります。
教育委員会の看板くらいはあるのですが、やっぱり何が何やら状況ですね。
山の中の小さな盆地に、本来ならば離宮として計画され、何か思うところあって高御座を移し、朝賀まで行う事となり、都が難波に移ろうが天皇はここに居座っていたという、遷都宣言はなくとも実のところ都に等しい場所となりましたのがここです。
高架を立てる工事の事前調査で、このすぐ近くで宮町遺跡にまっすぐ続く切り通しの道や建物跡を検出しています。
この場所は宮町遺跡と甲賀寺跡との中間点に当たるのだそうで、何らかの役所的な施設があったのだと考えられているようです。
その『新宮神社遺跡』の解説の看板が道端にあったので、車を停めて眺めていたついでに、その遺跡の名前の元になったこちらにもお参りして来ました。
少々古びた看板によりますと、御祭神は橘諸兄公だそうです。
左大臣橘朝臣諸兄は、恭仁遷都の推進者の一人です。
果たして諸兄公にしてみますと、決して都として望んでいなかったこの狭苦しい紫香楽の地に祭られる事が本望なのでしょうか……などと、ついいらぬ事を思う次第です(゜.゜)
国道307号線に入ってそのまま東へ向かいますと、狸だらけの陶芸の里に至ります。
狸を両側に見送りながら更に行き、牧東という交差点で左に入りますと、間もなく左手にこの史跡が現れます。
入り口辺りに車を停めまして、コンクリート張りの参道を上がってゆきますと、中門跡に着きます。
そこから階段を更に上がりますと、この画像のような金堂跡があります。
礎石を眺めて見ますと7間×4間、割合にオーソドックスなサイズです……国分寺だとしたらの話ですが(^_^;)
しかしここよりも更に北の『宮町遺跡』で、官衙配置の建物跡が検出されまして、宮跡はこちらだろうと言われるようになりました。
では、ここは何なの?
天平十五年十月、聖武天皇は恭仁宮において『大仏造営の詔』を発せられ、甲賀寺が造営される事になります。
その『甲賀寺』の場所がここになるのだろうと、今は大筋で言われています。
畿内では割合に身近に、奈良時代くらいの寺などの礎石を見る事ができますが、もっと綺麗に加工されて、更に大きな物の場合が多いはずです。
そしてこの金堂のサイズでは、本尊は丈六仏くらいが相応しいでしょうか、少なくとも大仏さんは納まりません(^^ゞ
果たして甲賀寺の御本尊は、どのくらいの大きさで計画されていたのでしょうか?
『続日本紀』を読んでいますと、盧舎那仏の体骨柱を立てる記事はありますが、堂などの造営は見えません。
現在、東大寺大仏殿に行きますと、大仏さんは一段高い場所に蓮華座を置いて座っておられます。
体骨柱はそのような須弥壇となる予定の基壇の上に立てられて、本尊が出来上がった後に御堂を建てる計画だったのでしょう。
もしかしたら、この礎石配置の金堂から北の部分、講堂の辺りに須弥壇を置き、更に周辺の僧房も含む広い平坦地全体を本尊が安置される金堂にと考えていたのかもしれません。
それでもこの史跡の寺跡が乗っている丘を全体に活用すれば、東大寺に匹敵する大きさの寺院を造る事は可能なのだそうです。
しかしそれも、相次ぐ天災、人災によって造仏造寺を中断せざるを得なくなり、天皇は天平十七年に平城の都に戻ってきます。
この後に寺地は再整備をされ、現在見るような伽藍配置の国分寺もしくは、それに匹敵するような寺院が造営されたのかもしれません。
と、まぁ、私はここを純然たる『甲賀寺』だとは思っていない訳なんですわ。
甲賀寺の後に造られた『近江国分寺』で良いのではないのでしょうか。
国分寺か否かは別にしても、やっぱり大方の意見でも、聖武天皇の甲賀寺を再利用した寺と考えているのだと思うのですが(@_@;)
以前に五條市(奈良県)のこの神社をやたらに尋ねた事がありますが、ここ南山城においてそいつを行おうという気は毛頭有りません……(@_@;)
こちらは旧相楽郡加茂町(現在は木津川市)の『御霊神社』です。
木津川市内の同神社は、先日の現地説明会の時に訪れた木津宮ノ裏町の御社の方が有名らしく、ネットなどで検索してみますとこちらばかりがヒットします。
ところが私の持っているロードマップには加茂の方の御社は載っているのに、宮ノ裏の御社は載っていません。
この神社の御祭神は、崇道天皇、井上内親王、他戸親王、藤原吉子、文屋宮田麻呂、橘逸勢、吉備真備、火雷神(菅原道真)と案内板にありますので、いわゆる『八所御霊神社』のようです。
しかし、このメンバーを見ていますと、もっと別の方を御祭するべきじゃないかと、常々思うのですが(*_*;
そして、どうしてここに御霊とは関係なさそうな吉備真備が入ってくるのかに関しては、これは吉備違い……恐らくは吉備内親王の事だろうと言われていたのは永井路子さんでしたでしょうか(・・?
それらはともかく、こちらの御社は奈良市の氷室神社から移された南北朝時代のものだそうで、とても優美な桧皮葺の三間社流造りです。
恐らく最近に塗りなおしたらしく、白い漆喰に朱の色も鮮やかです。
御社の前には陶製らしき狛犬も座っていました。
こちらも昨日の信楽行きの途中で寄り道をした場所の一つです。
『山城国風土記』によれば、葛城の賀茂建角身命が山城国の賀茂社(上賀茂神社)に移る途中で、ここに立ち寄ったのだとか。
しかし、葛城の鴨と山城の賀茂って、果たして同じなのかという疑問は、大昔から私の中に有りまして……というのは、このたびも脇に置いておきましょう(~_~;)
考え始めると“鴨と烏と蚕のドつぼ”にはまってしまいますからσ(^◇^;)
この画像に見るように、簡素な拝殿の向こうには二つの同じサイズの一間社が見えています。
この見事な春日造りは、間違いなく春日移しの社でしょう。
境内に入って一目見た瞬間、思わず感激の声を上げてしまうほどに綺麗な社です。
向かって右側が岡田鴨神社、御祭神は賀茂建角身命です。
左側は天満宮となっています、御祭神は言うまでもなく菅原道真公ですね。
こちらの神社、昔はもっと木津川に近い所にあったそうなのですが、度々の水害でこちらに移って来られたのだそうです。
訪問したのは九月二十日の事です。
現在の地名の“そうらく”、もしくは旧名の“さがらか”と読んでしまいそうですが、こちらの名前は“さがなかじんじゃ”です。
御祭神が足仲彦命(たらしなかつひこのみこと・仲哀天皇)、誉田別命(ほむたわけのみこと・応神天皇)、気長足姫命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)となっていますので、本来は八幡神社のようですが、この辺りの産土社でもあるようです。
不勉強なのですが、こちらの神社に残る御正月の行事はかなり有名らしく、中世の宮座祭祀の形式をよく残しているとして、京都府の無形民俗文化財にも指定されているそうです。
ホント、民俗関係には疎くて……(*_*;
境内に入って真っ先に気づくのは、この相楽郡周辺に多い建物配置です。
本殿の前に拝殿、その前には本来ならば舞台があるのですが、ここでは斎庭になっています。
その庭の両側には氏子座となる仮舎が建てられています。
本殿は三間社の流造り、室町初期のもので重要文化財だそうです。
その左側には春日造りの若宮社も鎮座しています。
大きな道路に面し、隣は小学校か何かですが、社の杜に一歩入ると実にきれいな空間です。
最近、こういう場所に来ると「ああ、成る程な……」と、根拠不明の実感が湧くのですが、ここもそのような場所の一つでしょうか……別の実感を覚える所もあるんですけどね、この前の出屋敷町の『崇道天王社』のように(+_+)
ここを訪れたのは18日、田原西御陵、東御陵に参り、奈良豆比古神社を詣で、佐保山東御陵、西御陵を巡った後です。
今は閉園した奈良ドリームランドの入り口脇の細い道を上がって行く途中に、この小さな墓はあります。
奈良市法蓮佐保山の那富山墓、ここは聖武天皇と光明皇后の間に生まれた皇太子の墓所です。
基親王、某王などと呼ばれていますが、たった二歳、実は満一歳になる前に亡くなってしまいました。
神亀四年閏九月丁卯(29日)、皇子誕生す。
そして十一月二日には立太子しますが、翌年の九月丙午(13日)には、“皇太子薨しぬ。壬子(19日)、那富山に葬りまつる”の記事が見えています。
三日間の政務の停止は行われていますが、決まりにより七歳に満たない者には喪礼は行わないので、皇太子とは申せ、それに従ったようです。
ここ最近、このお墓の門は殆ど開いていない様子で、私が行った時にも鍵がかかっていました。
そういう訳で門越しに何とかこの程度は見えます。
このお墓には隼人石と呼ばれる、線刻画のある石が置かれていることで有名です。
ネズミやウシの顔をした半裸の人物像が線で描かれているのですが、拓本が本などで良く紹介されていますので、御存知の方も多いかと思います。
本来は十二支、十二方位が揃っていたと考えられますが、今では四つしか残っていないそうです。
墓参と申せば一昨日の続き、ここは京都府木津川市にあります藤原百川とその内室、諸姉の墓所とされている所です。
実は一昨日の現説の後、すぐ近くにあるはずの『和泉式部の墓』および『平重衡の墓』を訪ねようと思っていたんです……が、その場所の地図を忘れて来まして、駅まで戻ってみたのですが、観光案内のようなものは見つけられずに、それじゃ『相楽神社』にでも行ってみようかと、JR学研都市線が程なく来たのを幸い、西木津駅に向かったのが、ここを久々に訪れる切欠でしたσ(^◇^;)
この辺は、持っていた地図に載っていたんですね、幸いにして(^_^;)
こちらの神社は、御祭神からしても八幡宮ですか、三間社の流造り、実にきれいなお社です。
気が向きましたら、その画像もいずれあげたいと思っています。
そこから近鉄京都線の山田川駅までフラフラと歩いて行く途中の、住宅地の中にこの墳墓は忽然と現れます。
ここが百川夫妻の墓所と定められたのは明治二十七年の事だそうで、真偽のほどは殆ど分からないようです。
盛り土も墓所として整備するに当たってきれいにしたようで、本当に円墳なのか、はたまた方墳なのかも見た限りでは分かりません。
しかし住宅地内の公園として整備され、定期的に掃除もされているようで、桜の時期などにはご近所の方の気軽な花見場所にもなっていそうです。
ブランコがありましたので人のいないのを幸い、いい年をして漕いでおりましたσ(^◇^;)
いつぞに長岡宮大極殿跡でも、同じような事をしていたっけ……(~_~;)
たまに乗ると気持ち良いんだよ、こういう遊具ってのは。
