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ここで矢鱈に目立つのは賑給(しんごう)記事です。
例えば天平神護元年二月十五日、
“相模・下野・伊予・隠岐等の国飢えぬ。これに賑給す”
三月二日
“伯耆国飢えぬ。これに賑給す”
三月四日
“参河・下総・常陸・上野・下野等の五国旱(ひでり)す。詔して、今年の調・庸十分が七八を復(ゆる)したまふ”
こんな具合にひっきりなしに出てきます。
賑給というのは、旱魃や疫病で農作業が出来ずに飢饉となった人々のため、公から米などを配給する事です。
しかし国によっては二年も三年も飢饉が続いているので、賑給米も底をつき、余剰のある国から融通する事となり、その国も旱魃などで米が取れなければ、ここの備蓄も枯渇する……このような不の連鎖を引き起こし、全国的に蔓延していったようです。
とにかくこの頃、全国的に少雨のようで、ようやく降りだしたかと思えば台風に見舞われ、揚句の果てには櫻島までが噴火して新たな島が出来たりします。
これら天災や飢饉の記事が若干減った頃に増えるのが瑞祥の記事です。
天平神護三年の六~八月にかけて、各地で景雲が見られたとの報告があり、八月十六日、神護景雲と改元されます。
景雲とは彩雲とか、環天頂アーク、環水平アークの事だと思われますが、見える時には結構見えるらしいです……私は彩雲は何度か見た事があるのですがσ(^◇^;)
そして改元の後、白い鹿、白い雉、白い亀、白い鴉、白い鼠といった具合にアルビノの動物が次々と献上されます。
この類の出現は天子の徳を現すのだそうで、不徳の致すところ……のはずの天変地異の後には都合が良いのやら、矛盾しまくっているのやら?(゚_。)?(。_゚)?
何せ、瑞祥とされる動物などを献上すると、見つけた本人も、そこの国司以下の御偉い様も御褒美(位だったり物だったり)を頂けるし、場合によっては年貢の免除もありますから、ここぞとばかりに探し出そうとしたのではないかと思われます。
とにかく、重祚した女帝の時代は、その前後と比べてもかなり異様です。
異様過ぎて、どう料理して良いのやら、ひたすらに迷っている状況です。
とりあえず、西大寺建立関係をもう少し調べてみますか……ε-( ̄ヘ ̄)┌
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え~、今までに何度か、非表示でコメントを頂いていた方が複数おられるようで、つい先程まで、全く気づいていない状況でした……大変な失礼をしていた事を、ここで御詫び申し上げますm(__)m
非表示コメントって、実は管理ページにも表面上出て来ないので、コメント一覧を見て始めて気がつくような状況なんです……重ね重ね申し訳ありませんでしたm(__)mm(__)mm(__)m
さて、ここより戯言……( -」)φ
それ以前の天平勝宝八(756)歳に描かれた有名な『東大寺山堺四至図』(正倉院宝物)には、まだ社らしき建物は描かれず、『山階寺東松林』と『御蓋山』の間に四角く囲われて『神地』の文字が見えています。
そのため、神護景雲二年より以前には、社はなかった可能性が大きいのかもしれません。
しかし、現在見るような回廊を持つ社殿が出来たのは、平安の終わりか鎌倉の始めくらいのようで、具体的に何年かは不勉強で分かりません……σ(^◇^;)
私は勝手に、平清盛が安芸国なんぞにどでかい御社を建ててくれましたので、藤原摂関家がボウボウに対抗意識燃やして、うちも建てちゃるわ!!と建設を始め、その後、相模国の方でも、うちも遅れちゃいけねぇぞと、八幡神を勧請して関東武士の底力じゃあぁ!!と張り合ってたんじゃないかと妄想しております。
まあ、好き勝手に思っている事なので、特に信じないで下さい( ̄▽ ̄)。o0○
いずれにしろ、当初は御社殿と言えるほどの壮麗な建築ではなく、御社に瑞垣を巡らせた、現在、若宮社などに見るような姿だったのだろうと言われています。
参拝する場所も、拝殿というよりも拝屋という方が近いのかもしれません。
こういう事を踏まえながら、淳仁天皇の頃から称徳女帝崩御前後まで、『続日本紀』で宗教関連の出来事を拾い出していたのですが、やはり女帝の時代の方が記述は倍近くなります。
大和十二大寺という言葉も見え、行幸で七大寺を始め、河内の寺々まで足を運んでいます。
それに比べ、神社関係は決して少なくはないのですが、殆どは伊勢大神宮関連ばかりで、時々、出雲国造やら、宇佐八幡やら、鹿島神社やらと、地方の神社が出てくる程度で、畿内はおろか大和の記事は殆ど見えません……高鴨神(ではなく、実は一言主)を葛上郡に再び祀るなんて記事はありますが。
石上の神に封戸を施入なんて記事もありますか(゜_゜)
まあ、女帝は天平宝字六年に出家して、それ以降は僧尼を近従させていたくらいですから、御寺関係が多くても特に不思議でもありませんが。
それで東大寺関係が多いかと思えば、大して見えませんで、一番多いのは西大寺です。
称徳女帝の勅願ですから、当たり前といえば当たり前ですか。
しかし、やっぱり、はっきりした傾向が見えてこない……宗教改革や何かは今回のテーマじゃないしなぁ(゜.゜)
三年坂美術館の常設展には絵画部門はないようで、こちらのコレクションが出るのも何年かに一遍の特別展の時だけ……(´・_・`)
それじゃまぁ、この辺にあわせて静岡に帰りましょうかねと、また変な下心が出ております。
まぁ、佐野美術館ならば、家から電車ですぐに行けますしね。
ついでに三島駅前の『大岡信ことば館』なんかも覗いてこようかなぁ、Ⅰさん、招待券持ってないかなぁ……σ(^◇^;)
ちなみに私は小村雪岱が大好き!というほどではありません。
同じ明治期の木版画ならば月岡芳年とか小林清親の方が好きです……って、三人とも全部ジャンル違うじゃんかn(ー_ー?)ン?
川村巴水も吉田博も好きです。
気分だけ、芸術の秋です……ちなみに昨日は奈良博で“快慶”三昧(v^ー°)
さて、今日も備忘録的な戯言ででも……
先日の戯言で、和気王の謀反が発覚した頃、新田部親王家は全滅に等しい云々と書きましたが、確かに親王の息子の孫王らは、既に故人かもしれませんが、その次の世代に伏兵(?)がいる事を忘れておりました。
それが誰かと申しますと、不破内親王の子供達です。
その父親は塩焼王ですから、新田部親王家の三世王です。
神護景雲三年五月に起きた巫蟲事件に伴って、氷上志計志麻呂(ひかみのしけしまろ)という名前が出てきます。
この御仁を皇位に就けようと、内親王や女官らが事件を起こした事が発覚し、内親王は都の外に追放、息子は土佐国に流されます。
この事件によって母親の不破内親王が、厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ)などという変な名前に変えられているので、息子もやはり流罪になるに当たって、お間抜けな名前に変わっている可能性を指摘されていまして、本名は別にあるのだろうと考えられています。
そして次に出て来るのは、延暦元年閏正月、氷上川継(ひかみのかわつぐ)がやはり謀反を図ったという罪状で伊豆国三嶋に流罪になります。
この三嶋、伊豆国府の有った場所(静岡県三島市)ではなさそうで、現在の東京都大島郡、つまり伊豆諸島のどこかだろうと言われています。
確かに地元の伝承には、源頼朝や弘法大師はあちこちに出没してますが、都から流されて来た皇子の類は記憶にありません……って、私が知らないだけかσ(^◇^;)郷土史に疎いヤツ(ーー;)
しかし、氷上川継の変という事件も、事前にほぼ計画が漏れていたようで、完全に手の上で踊らされているというか、かなりお粗末な書かれ方をしています。
そして前述の志計志麻呂と川継は、同一人物かもしれないし兄弟かもしれないと、研究者の意見も分かれているところです。
それにしても、どちらの事件も主導権を握っているのは、息子よりも母親と思えるのは何故(?_?)
そういえば、この事件の後、不破内親王は娘と伴に淡路島に流されていますが、ここって、この当時の皇族の流刑地なんですかねぇ……
どっちにしても、外から捕って来なくても、うちの中にも生息してるってのに……
たしかゴキブリは『御器齧(ごきかぶり)』と書くんでしたっけ?
うちの祖母は『碗かじり』とか『油虫』と呼んでいましたが。
それにしても、どこの猫も、ゴキブリは結構、おもちゃにしていたぶってますね。
家の中で時々、パーツ(足とか羽とか)だけが落ちてたりしますからσ(^◇^;)
天敵のアシダカグモも、時々玄関辺りにいるので、できたらこいつは捕って欲しくないのに、この前も追い掛け回してたし……(+o+)
その前には三日連続でアマガエルも捕って来たし……
ちなみに昨夜は、3cmくらいあるエンマコオロギをゲットして来ました。
産卵管があったから、メスだな……
シマコは相変わらずヤモリが大好きですが、今年はトカゲやカナヘビも含めて、案外、捕って来ませんでしたねぇ……もしかして、家の周辺だけヤモリ壊滅状況?
ヤモリは『家守』、イモリは『井守』だから捕っちゃだめだって、子供の頃、お祖母ちゃんに教わらなかったのか(メ・ん・)?教わったのは私です(-_-;)
昨年なんて、ほぼ毎日、捕って来てましたからねぇ……
ちなみに今年の獲物は、スズメ、アブラゼミ、アブラコウモリ、トカゲ、ヤモリといったところ。
そろそろ、アキアカネとかショウリョウバッタとかも捕って来るかもしれません。
まだ当分、狩猟シーズンは続きますε-( ̄ヘ ̄)┌
「今より以後、舎人親王を追ひて皇(すめら)とし、崇道尽敬皇帝と称し……」と見えています。
淳仁天皇(大炊王)という人は、○○皇帝という尊号を送るのが好きなのか、その前の年にも譲位した女帝に宝字称徳孝謙皇帝、更に先の天皇には勝宝感神聖武皇帝という名前を贈っています。
いわゆる、称徳・孝謙天皇と聖武天皇です。
後に自らを『今皇帝』と称させた御仁もおられますが、皇帝はひとまず置いておきまして、私の意識の内では舎人親王に天皇位が贈られたという事が常々飛んでおりまして、この尊号の事なんぞ、全く失念も良いところ、ほぼ記憶にありませなんだσ(^◇^;)
草壁皇子や、志貴親王、早良親王らへの贈位は、案外、気にしているんですがね……
ここで使われている『崇』という文字、勿論、崇拝の崇ですから、尊び敬うという意味です。
聞きかじりの俗説だと思うのですが、『崇』という文字が諡号に着く天皇は、悲劇的な亡くなり方をしている云々……どうも、この類には私は疎いです(゜.゜)
これって多分、崇峻天皇と崇徳天皇、ついでに崇道天皇(早良親王)の事に限って言ってるんでしょうかねぇ。
何せ私、真っ先に思い出したのが崇神天皇(御間城入彦五十瓊殖)ですから(^_^;)
この御仁が果たして百二十歳まで生きたかは存じませんが、悲劇的な最後を向かえたとは記憶にありません。
舎人親王にしても、悲劇的な要素があるのか否かは分かりませんが、ひょっとしたら豌豆瘡で亡くなっているかもしれません。
こんな事を思い出していて、舎人親王系の諸王らを何か引っ掻き回せないかなどと考えたものの、大炊王と和気王以降は、殆どが臣下に下ろされてしまって、来歴不明も良いところ、清原氏の話じゃ時代が違いすぎるし……再び座礁・゚・(ノД`;)・゚・
ところで先日の戯言に、和気王の事件の時、道鏡禅師は小僧都でしかない云々という意味の事を書きましたが、これ、実は間違いです(^^ゞ
天平宝字八年の変(恵美押勝の変)の後、大臣禅師という位をもらったりしております。
「出家の天皇がいるんだから、出家の大臣がいたって良いのよ」という、女帝の一存だったりします。
それにしてもこの時の太政官、右大臣が藤原豊成、大納言が藤原永手、中納言は白壁王と藤原真楯、参議にも矢鱈に濃~い面々が連なっております。
女帝がいなけりゃ、やっぱり道鏡禅師にゃ勝ち目はないような……(・.・;)
鼻炎カプセル(アレルギーじゃなくて、夏風(・_・;))を飲んだせいだと思われます。
先程まで『月曜ゴールデン』とやらの枠で、二時間のミステリードラマを見ておりましたが、30分弱でリタイアしました。
理由は眠いじゃなくて、アホ臭い……
こういう業界モノ、迷惑なんよね(ーー;)
見てる端から
「んな奴ぁ、いねぇよ……」とか、
「ないない、絶対、ありえない、あんたら公務員やろが」とか、
「そして周囲から、総スカン喰らうぞ」とか、
「基礎知識がないんとちゃう?あんた?」とか、何分かごとにぼやきたくなる。
多分、原作に問題があるんでしょう、俳優さんは決して悪くないのにねぇ。
そういう訳で、本日は早々に寝ますか(p_-)眠い……
流罪になっている皇族を都に呼び戻す事と、仇敵の男女二人の死を望むという内容なのですが、ここで言われている人たちは、さて、誰の事なのでしょう。
和気王という人は舎人親王の孫です。
父親は嫡男の三原王、和気王はその嫡男なので、親王家の直系という事になるようです。
一旦は岡真人を賜姓されて臣下になりますが、叔父に当たる大炊王(淳仁天皇)が即位して舎人親王に天皇位を送った事で、再び孫王として皇族の列に加わります。
この事件の時、既に三原王は故人で、和気王も既に四十代ではないかと思われます。
叔父の大炊王は舎人親王の末子で三十二~三歳、こういう年齢の逆転は別に珍しい事でもないでしょう。
ちなみに大炊親王は既に廃帝として淡路に配流されていて、二人の異母兄の船親王と池田親王も一族もろとも流罪になっているようです。
和気王が都に呼び戻したいとする皇族は、この舎人親王家の人たちで良いのでしょう。
何せこの頃には、新田部親王家の孫王らは全滅に等しいし、長親王家の人たちは文室真人を賜姓されていますし、誰も流罪にはなっておりません。
では、和気王の仇敵とされる男女とは誰?
定説では称徳女帝と道鏡禅師だとされていますが、これが何となく疑問(゜レ゜)
のちの事を考えても分かるように、女帝が居なくなれば道鏡禅師など簡単に覗ける存在でしょう。
この時に道鏡は法王はおろか、太政大臣禅師などというチャラけた位にも就いておりませんから、実質的な階級は僧綱の内でしか通用しないのでは?
以前にこんな事を踏まえながら、この辺を書いていたのですが、次はそれを引きずって何か見えて来ないかなぁと、無味乾燥にも見える記事を眺めているのですが……さても、如何せん(メ・ん・)?
ただ今、座礁中です゚(゚´Д`゚)゚
現在、京都国立博物館で行われている『大出雲展』も、来週、九月九日までに迫ったので、重い腰を上げて行って来ました。
この特別展、出雲大社の平成の大遷宮(平成25年に本殿遷座祭)と、古事記1300年の両方を記念して企画されたそうで、文書関係も結構出ておりましたが、圧倒的に埋蔵文化財資料の展示で占められていた感が強かったです。
出雲の方でもロビー展示で写真可なのですが、あそこは明るいせいか、どの方向から撮っても映り込みが激しくて……
三本の柱を束ねて本殿の棟持ち柱としている絵図があるのですが、これが出土するまで具体的な構造がはっきりしなかったそうで、この柱の直径は三メートル、柱穴の掘り方は六メートルにもなるそうです。
しかし、どの方向から撮っても三本が収まりませんσ(^◇^;)
さすが、“雲太、和二、京三”(出雲大社、東大寺大仏殿、平城京大極殿ですね)
禰宜装束の神職が階段の途中や柱の根元にいますが、それを見ても信じられないサイズです。
何せ記録では48メートルあったと言いますから。
更には『見返りの鹿』に代表される、畿内にも遜色ない古さと造形を誇る形象埴輪とか、荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡から出土した銅剣や銅鐸、出雲地方の誇る花仙山の碧玉や瑪瑙の玉類など、有名なところもしっかり押さえていましたが、それ以外にも地元の埋文センターにでも行かないと見られない類の、妙にそそる遺物もかなり並んでいました。
この類で結構、エネルギー消費しまして、後半の中世以降の宗教関係の展示も興味深かった割には、チョイト印象に残りませんでしたか……( ̄_ ̄ )。o0○
いつもながら京博の特別展は、かなり性根が入っていまして、今回も四時間も見ておりました。
御陰で今日も、どこにも寄らずに真っ直ぐ帰って来ました。
昨日は満月、欧米で言うところの『ブルームーン』でしたか。
青い月ではなく、稀有な事、という意味でして、一月の間に二度、満月の晩がある事が何年かに一度ありまして、最初の満月は「ファーストムーン」(今回は8月2日)、次の満月が「ブルームーン」というそうです。
昨日は夕方から雨、家に帰りつく頃に橿原では月の出でしたが、面白い事に橿原は雨が降っていても、桜井や榛原の方は晴れているようで、決して青くはない薄赤い大きな月が東の山の端にかかっておりました。
こりゃ、写真撮らにゃと思いきや……駐車場に停めてカメラを出している内に雲に隠れてしまいました・゚・(ノД`;)・゚・
夜半にはよく晴れてましたけどねぇε-( ̄ヘ ̄)┌
我ながら、時々意味不明箇所が出てきます(・_・;)
多分こういう箇所は、後から挿入したり書き直したところでしょう。
これもワープロソフトの悪いところかもしれません。
簡単に出来るので、前後をしっかり確認しないで文章を加え、読み直してみると同じ事を二度言っていたり……σ(^◇^;)
もっとひどいのは、ある物事について、前にも後にも説明がない……(ーー;)
例えば藤原小黒麻呂の母方の叔父について、何やら言っているのですが、それって一体誰の事??
父方の叔父ならば永手なり八束なりの事で、しっかり話の中にも登場しているので分かるのですが……
小黒麻呂の母親は大伴道足の娘なので、出世街道に乗っている母方の叔父とは、伯麻呂の事となります。
確かこの御仁、白壁王の飲み友達の一人という設定があるのに、一度も具体的に登場していない人だわ(^▽^;)
それにしても、藤原種継が出て来るとノリが軽くなるのは何故(・・?
もっと軽いのは坂上苅田麻呂だったり……?(__!)?(!__)?
山部王も酒が入ると、時々、キャラクター変わるしなぁ……( ̄_ ̄ )。o0○
本日の意味なし画像は、平城京天平祭で踊ってたせんと君……少初位なんだよ。