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かくして早起きができなかったため、蟹満寺関連のシンポジウムではなく、春日大社の記念講座に行って参りました。
しかしですよ、先月の『装束の歴史』も上げてないし、今月の初めの『ちゃんちゃん祭』も上げておりませんね……
そういえば現地説明会も全然、報告しておりませんし、このところサボり気味というか、サボり癖が蔓延しておりますね。
それはともあれ本日の講座は、昨年度に修復を完了した、春日大社に伝来する『国宝 赤糸威大鎧(あかいとおどしおおよろい)梅樹に蝶、鶯金物』に関するものです。
ちなみに一昨年には、『竹に雀、虎金物』の赤糸威の大鎧の修復が行われて、昨年にシンポジウムや講演会が行われました。
今年はまた、別の鎧(確か胴丸)の修復が行われる予定だと聞いております。
日本で鎧の存在は、弥生時代からあるのですが、やはり一番保存の類例も多く、復元品なども目にするのは当世具足という戦国時代のものですね。
しかし今回の解説は、平安時代から鎌倉時代に公家や武家が着装し、それらの人たちが春日大社を始めとした神社などに奉納した大鎧に焦点が当てられていて、それだけでも予定していた時間では全然足りない……というくらい、こちらの分野も奥が深~いようです。
『日本甲冑武具研究保存会』という、かなりグローバルに活動をされて由緒もある団体があるそうで、こちらで解説に使われている冑などは、この団体で復元されたものだそうです。
しかし鎧の類例は、古墳時代と平安後期の間の物が全く残っていないので、その時代の物は当然ながら復元できないそうです。
さて、華麗と豪壮を合い併せ持つ大鎧ですが、装飾的に見えるパーツなども実に機能的に作られ、弓矢や刀、馬具などとの兼ね合いも考えられているとの事。
例えば草摺(くさずり)が前後左右の四つに分かれて箱型になっているのは、馬に乗った時に鞍の前輪、後輪(しずわ)に固定される形になり、方にかかる重量がかなり軽減されて、上体が動かしやすくなるのだそうです。
それにしても、この類の知識って、あまり学ぶ機会がないので、かなり面白いです。
これでまた、大河ドラマ(結局、ここに来るんかい)でも見て突っ込みどころ満載を楽しめそうな、ろくでもない予感もあったりして……( ̄▽ ̄)。o0○
しかしですよ、先月の『装束の歴史』も上げてないし、今月の初めの『ちゃんちゃん祭』も上げておりませんね……
そういえば現地説明会も全然、報告しておりませんし、このところサボり気味というか、サボり癖が蔓延しておりますね。
ちなみに一昨年には、『竹に雀、虎金物』の赤糸威の大鎧の修復が行われて、昨年にシンポジウムや講演会が行われました。
今年はまた、別の鎧(確か胴丸)の修復が行われる予定だと聞いております。
日本で鎧の存在は、弥生時代からあるのですが、やはり一番保存の類例も多く、復元品なども目にするのは当世具足という戦国時代のものですね。
しかし今回の解説は、平安時代から鎌倉時代に公家や武家が着装し、それらの人たちが春日大社を始めとした神社などに奉納した大鎧に焦点が当てられていて、それだけでも予定していた時間では全然足りない……というくらい、こちらの分野も奥が深~いようです。
しかし鎧の類例は、古墳時代と平安後期の間の物が全く残っていないので、その時代の物は当然ながら復元できないそうです。
さて、華麗と豪壮を合い併せ持つ大鎧ですが、装飾的に見えるパーツなども実に機能的に作られ、弓矢や刀、馬具などとの兼ね合いも考えられているとの事。
例えば草摺(くさずり)が前後左右の四つに分かれて箱型になっているのは、馬に乗った時に鞍の前輪、後輪(しずわ)に固定される形になり、方にかかる重量がかなり軽減されて、上体が動かしやすくなるのだそうです。
それにしても、この類の知識って、あまり学ぶ機会がないので、かなり面白いです。
これでまた、大河ドラマ(結局、ここに来るんかい)でも見て突っ込みどころ満載を楽しめそうな、ろくでもない予感もあったりして……( ̄▽ ̄)。o0○
そのように語っていたのは、我等(?)が大覚寺統のホープ、世康親王でしたか。
後期南北朝の頃には、大覚寺統は再び吉野に御所を構えていたので、京の都の人々が吉野に詣でるのは、いうなれば反逆罪に等しい行為、花を詠むと吉野の桜でもめでようものならば、同等に見られても仕方がない、そういう状況だったはずです。
大和の生まれなのに吉野の桜など知らないという三郎(後の世阿弥元清)に、吉野の宮から抜け抜けと京にやって来た親王がこのように言うシーンが、昔書いていた話の中にあったはずです。
歴史モノに其の手の事(って、だから何なの?)を書かないとか申しましたが、この話は例外も良いところで、結構そういう(どういう?)事を書いていたような気が致します。
ここ何日か、血迷ったような事を平気で書いているので、もう一つついでに戯けた事でもほざいてみましょうか。
と笑う親王を十八歳になる三郎が、答える代わりに押し倒した揚句、
「どうも其方は、立場が分かっておらぬようだ」
と逆に押し返されて位置が逆転したところに、
「細川よりの使者が参りました」
と、襖の外から声がかかる……一体、何のシーンなんだ、こりゃ(*_*;
確か、世康親王という人は全くのノーマルで、18~9歳の時にさっさと結婚して娘がいるような人でしたっけ。
そしてある種の頭のネジが緩んでいるのか抜けているのか、周囲の野郎どもからそういう(だから、どういう?)目で見られてもほぼ気がついていないのか、あえて無視をしているのか……
まぁ、こういうヤツを臆面なく書いておりましたが、今現在書いているような話には、絶対に出てこないシーンですわ。
何せキャストがいないσ(^◇^;)
掴み合いの喧嘩ならばしてくれるような輩は、いくらでもいるんですけどね。
山部親王なんて、どう見ても体育会系だなぁ……一応、武道系よ。
東大寺の毘盧舎那仏よりも以前に、最大クラスの金銅仏といったらどのような例があるのかと、昨日来考えておりました。
飛鳥寺の釈迦如来から始まって、山田寺の仏頭だの、法隆寺の釈迦三尊仏だの、薬師寺の薬師三尊像などが思い出せたのですが、大きくても丈六仏のサイズでしょうか。
一丈六尺(約4.8メートル)といっても、立ち上がった時の高さがそれなので、坐像は約半分、2.5メートル前後というところでしょうか。
立像としては、薬師寺の日光、月光菩薩で3メートルくらいでしょうか。
何せこの時代、銅を調達するのが一苦労どころの騒ぎじゃないでしょうから、仏師が丈六仏を造るとしても、塑像だったり乾漆像だったり、木彫像あたりが多くなるでしょう。
聖武天皇が未だかつて無いほどの巨大な尊像を造ろうと考えた時、どうして五丈を越えるサイズがいきなり出て来たのか、こいつをまた考えておりました。
まぁ、一番よく言われるのは、唐帰りをひけらかす玄昉とかいうろくでもない坊主がいて、唐の洛陽郊外にある石窟寺院の話をして云々……要するに龍門石窟の毘盧舎那仏石造のサイズを意識したのではないかという説が有力です。
世界遺産にもなっている、武即天をモデルにしたという伝承のある磨崖仏ですね。
これが確か、17メートルを超えていたと思うので、15メートルを超えていたという奈良時代の東大寺毘盧舎那仏に匹敵する訳です。
しかし、石窟寺院ですから岩壁を掘りぬいている訳で、東大寺のように平らな場所に基壇を築いて、そこに骨組みになる柱を立てて、土や何かを盛り上げて型となる像を作って……というような工程とはかなり違うんですよね。
2~3メートルの像や梵鐘くらいしか造っていなかった技術者達に、いきなり15メートルの大仏を造れと命じる過程は、果たしてどういうものだったのやら、今度はそれが分からなくなって来ます……(゜.゜)
かの国中公麻呂も、理屈としては八回程度に分けて鋳造して行けば可能と判断したにしても、決断するまでにどれだけの紆余曲折があったんでしょう(・・?
実際に始めたら、その何十倍何百倍もの困難があったのでしょうけど……
この時期の二官八省その他の人事を、もう一度検討してみないとなぁ(゜_゜>)
今日の画像は、職場の近くにある石仏で、高さはせいぜい40センチ程度です。
チョイト見難い場所にあるので、歩きながら変な御地蔵様があると眺めていたのですが、立ち止まって見直してみれば、こりゃ、役行者像ですね……?(゚_。)?(。_゚)?
丈六の金銅仏といえば、次の日曜日(15日)に京都府の木津川市で『国宝 蟹満寺釈迦如来坐像の再検討』というシンポジウムがあるんですね。
行こうかな~と思っていたのですが、この日は春日大社の国宝の大鎧の修復が終わったので、記念の講演会もあって、そっちに随分前から申し込んでいたのでした……
さて、どちらに行くべきか……蟹満寺の方は10時に始まるので、家を出るのが平日と変わらない(゜_゜)
少しでも寝坊したら、春日大社だわねε-( ̄ヘ ̄)┌
こちらの画像は石像つながり(?)で、今時珍しい二宮尊徳こと金次郎さんです。
現代バージョンにしたら、本の替わりにスマホいじってる像になるのかな( ̄▽ ̄)。o0○
飛鳥寺の釈迦如来から始まって、山田寺の仏頭だの、法隆寺の釈迦三尊仏だの、薬師寺の薬師三尊像などが思い出せたのですが、大きくても丈六仏のサイズでしょうか。
一丈六尺(約4.8メートル)といっても、立ち上がった時の高さがそれなので、坐像は約半分、2.5メートル前後というところでしょうか。
立像としては、薬師寺の日光、月光菩薩で3メートルくらいでしょうか。
何せこの時代、銅を調達するのが一苦労どころの騒ぎじゃないでしょうから、仏師が丈六仏を造るとしても、塑像だったり乾漆像だったり、木彫像あたりが多くなるでしょう。
まぁ、一番よく言われるのは、唐帰りをひけらかす玄昉とかいうろくでもない坊主がいて、唐の洛陽郊外にある石窟寺院の話をして云々……要するに龍門石窟の毘盧舎那仏石造のサイズを意識したのではないかという説が有力です。
世界遺産にもなっている、武即天をモデルにしたという伝承のある磨崖仏ですね。
これが確か、17メートルを超えていたと思うので、15メートルを超えていたという奈良時代の東大寺毘盧舎那仏に匹敵する訳です。
しかし、石窟寺院ですから岩壁を掘りぬいている訳で、東大寺のように平らな場所に基壇を築いて、そこに骨組みになる柱を立てて、土や何かを盛り上げて型となる像を作って……というような工程とはかなり違うんですよね。
2~3メートルの像や梵鐘くらいしか造っていなかった技術者達に、いきなり15メートルの大仏を造れと命じる過程は、果たしてどういうものだったのやら、今度はそれが分からなくなって来ます……(゜.゜)
かの国中公麻呂も、理屈としては八回程度に分けて鋳造して行けば可能と判断したにしても、決断するまでにどれだけの紆余曲折があったんでしょう(・・?
実際に始めたら、その何十倍何百倍もの困難があったのでしょうけど……
この時期の二官八省その他の人事を、もう一度検討してみないとなぁ(゜_゜>)
今日の画像は、職場の近くにある石仏で、高さはせいぜい40センチ程度です。
チョイト見難い場所にあるので、歩きながら変な御地蔵様があると眺めていたのですが、立ち止まって見直してみれば、こりゃ、役行者像ですね……?(゚_。)?(。_゚)?
行こうかな~と思っていたのですが、この日は春日大社の国宝の大鎧の修復が終わったので、記念の講演会もあって、そっちに随分前から申し込んでいたのでした……
さて、どちらに行くべきか……蟹満寺の方は10時に始まるので、家を出るのが平日と変わらない(゜_゜)
少しでも寝坊したら、春日大社だわねε-( ̄ヘ ̄)┌
こちらの画像は石像つながり(?)で、今時珍しい二宮尊徳こと金次郎さんです。
現代バージョンにしたら、本の替わりにスマホいじってる像になるのかな( ̄▽ ̄)。o0○
これは志貴親王以来の家訓だとか何とか、それを藤原太政大臣が見習って、孫、曾孫の代まで、双方の家では余程の極寒期でない限りは、戸も蔀も開け放ってヤバイ話をしております。
おまけに、殆どの場合、前に酒の支度でもないと話が盛り上がらない?
色気の全くない連中ですみませんm(__)m
以前に知人と話をしておりまして、上代、政の話は閨の内で行われる事もあった云々……
参考までに、男女で政の話をするって訳じゃないんですね。
まぁ、こいつが武家社会にも町人社会にも引き継がれる訳でして、明らかにこれ(どれ?)は一つの文化だという訳ですか。
それにしてもですよ、その辺りでゆる~く、大河ドラマの話で盛り下がっておりまして、私の病気の一つが相変わらず出て来たりしております。
何の病気かって……人様のお話に、勝手に続編やら何やらを作りたがる事σ(^◇^;)
「いや、しかし、御身の物好きにも甚だ呆れるものよ」
「物好きとは、播磨守の子息の一件かな」
「物好きでないのなら、悪食とでも言うべきか」
「何を言うか。御身とて山海の美味ばかりでは食傷しようというもの、たまには路傍に生えた野蒜でも食してみとうなろうものを」
「ほお、野蒜とな」
「格別、悪いものでもない。一度、御身も試してみては如何か」
「まあ、気が向いたらと言うておこうか」
なんて事ない会話です、はい。
そもそも私は歴史モノでは、そのテ(どのテ)のシーンを入れたくない派だし、現代モノでそのテを書かせても、全然、色気も何もあったものじゃありませんからε-( ̄ヘ ̄)┌
この前のドラマの中で、内府はあっさりと本人に、
「兄ではなく汝を取り立てたのは、汝の方が御しやすいと踏んだからに過ぎぬ」と言う類を明かしておりましたが、これはチョイトいただけない……
まぁ、物語の進捗上、さっさと家盛の死去へ持って行かにゃならんから、こういう展開になったんでしょうけれど。
で、私ならば、この暴露をどこで行うかと申しますと、内府と別の愛人(勿論、公卿クラスだな)との閨話に持って来る訳ですわね、当の本人は抜きで。
「御身、今しがた私を悪食と言われたが、さすがの私でも、あのホコリタケを食そうとは思わぬ」
「それもそうだ。あのような者に手を出してみよ、父親のドクササコともども、こちらの命取りになろうというもの」
* ホコリタケ(兄の事です)は食用できますが、ごく若いモノだけで、チョッと日が経つと臭くて食べれないのだとか( ̄▽ ̄)。o0○
ちなみにドクササコは、紛れもない毒キノコです(^_^)v
中和では有数の染井吉野の名所となっておりまして、大和高田市内の中心部にも近いので、平日はわざわざ花見に来る人よりも、仕事の行き帰りなどに眺める人の方が多いのではないでしょうか。
もっとも、桜並木は河川敷に多いので、日本全国に多様な状況だとは思いますが(^_^)
しかし、地元の天気予報を聞いておりますと、奈良公園や法隆寺は七分咲きだとの事、やはり北和はこのあたりよりも開花が二日三日遅かっただけあって、満開も雨の後になるのかもしれません。
そうなると今週末はまだ、見頃という事になるのかな?
こちらも相変わらずの大河ドラマの批判なんぞをしておりましたところ、もしかして、あのテの文化に批判的?と聞かれてしまいました。
あのテってのは、衆道とか男色とかいうヤツね。
別に批判的じゃありません、社会的に余裕があるからそういう文化も生まれるのかと、勝手に理解しております。
私が何に否定的かと申しますと、物語の根幹がグズグズなのに、そちらの興味で御茶を濁そうという制作側の安直な意図にですわね。
まぁ、登場人物が登場人物なりに、そういうネタは充分に有りですけどね( ̄▽ ̄)。o0○
何の愚痴を零すかって、カテゴリーに寄れば鑑賞したものに?
そんな大層なものじゃなくて、昨夜にながら見していた大河ドラマですわ。
当初より忠盛父さん、変な人、困った人だと思っていたけど、今回ほど呆れた回はないかも(゜_゜)
まずこの人に思い出して欲しいのは、貴方は伊勢平氏という一大勢力の総帥だという事!
それを息子どもの兄弟げんかに口も挟まず、兄の捨て台詞に何もアクション起こさず、弟の迷走に差し出す手も忘れて、家の中のトラブルをそのまま外へと持ち出させてしまって……
それって、正妻の顔色伺いだと言う訳???
そもそも、四位だ三位だと位階にこだわり、公卿にも登ろうと都で生きる事を決めた人が、どうしてこうも間抜けになっているのやら??
院に仕え、蹴落とすべきターゲットを摂関家に絞って、あわよくば成り代わろうという一群に、平氏も巻き込んだのは忠盛のはず。
それなのに息子らに、敵を知り己を知ればの兵法の初歩すらも教えていない。
この場合の兵法ってのは、戦術よりも戦略、兵力に頼れるという時代では、まだありませんよ。
まずは、公卿らのやり方を学んで、自らの戦法も考えなければ、財力だけでは太刀打ちができませんって。
それをおめおめと、家庭内のトラブルを外に知らせるような失態をして、海千山千の摂関家に、どうぞ付け入って下さいとアピールしてどうするんですか?!
藤氏としてみれば、相手の内輪での歪みに着け込んで、情報戦で内部崩壊に持って行かせるなんて、大織冠以来の御家芸、そこを見逃す訳ないじゃありませんか……(・.・;)
武者の組織力は、院政期より前から公家社会も認めるところ、それによって生み出される莫大な財力を公家らに吸い上げられるのでは、武者はいつまでたっても社会の頂点を目指せない。
一族郎党の結束をはかり、時代の歪をとらえて打ち込む楔となれ。
親父様、自分ではこれを理解していると思うのだけれど、どうして息子に全く教える事ができないの?
だから長男はいつまでたっても阿呆のまま、次男はボンボン育ち、三男以下は……知らん(-_-;)
内大臣(なのかな、まだ)が平氏の御曹司押し倒すようなサプライズは要らないから、もう少し平氏一族をしっかりさせてよね。
今のところ、源氏の若頭領のほうが、まだ武者とは如何にあるべきかを理解しているように見えるんだが。
もしかして、このような高望みをする私が間違っている?
だって、忠盛父さん以前に、作者がこれらの事を理解していないのかも……
そんな大層なものじゃなくて、昨夜にながら見していた大河ドラマですわ。
当初より忠盛父さん、変な人、困った人だと思っていたけど、今回ほど呆れた回はないかも(゜_゜)
まずこの人に思い出して欲しいのは、貴方は伊勢平氏という一大勢力の総帥だという事!
それを息子どもの兄弟げんかに口も挟まず、兄の捨て台詞に何もアクション起こさず、弟の迷走に差し出す手も忘れて、家の中のトラブルをそのまま外へと持ち出させてしまって……
それって、正妻の顔色伺いだと言う訳???
院に仕え、蹴落とすべきターゲットを摂関家に絞って、あわよくば成り代わろうという一群に、平氏も巻き込んだのは忠盛のはず。
それなのに息子らに、敵を知り己を知ればの兵法の初歩すらも教えていない。
この場合の兵法ってのは、戦術よりも戦略、兵力に頼れるという時代では、まだありませんよ。
まずは、公卿らのやり方を学んで、自らの戦法も考えなければ、財力だけでは太刀打ちができませんって。
それをおめおめと、家庭内のトラブルを外に知らせるような失態をして、海千山千の摂関家に、どうぞ付け入って下さいとアピールしてどうするんですか?!
藤氏としてみれば、相手の内輪での歪みに着け込んで、情報戦で内部崩壊に持って行かせるなんて、大織冠以来の御家芸、そこを見逃す訳ないじゃありませんか……(・.・;)
武者の組織力は、院政期より前から公家社会も認めるところ、それによって生み出される莫大な財力を公家らに吸い上げられるのでは、武者はいつまでたっても社会の頂点を目指せない。
一族郎党の結束をはかり、時代の歪をとらえて打ち込む楔となれ。
親父様、自分ではこれを理解していると思うのだけれど、どうして息子に全く教える事ができないの?
だから長男はいつまでたっても阿呆のまま、次男はボンボン育ち、三男以下は……知らん(-_-;)
内大臣(なのかな、まだ)が平氏の御曹司押し倒すようなサプライズは要らないから、もう少し平氏一族をしっかりさせてよね。
今のところ、源氏の若頭領のほうが、まだ武者とは如何にあるべきかを理解しているように見えるんだが。
もしかして、このような高望みをする私が間違っている?
だって、忠盛父さん以前に、作者がこれらの事を理解していないのかも……
今日は暖かかったので更に開いて、明日は更に暖かいという事なので、そろそろ散り始めるかもしれません。
そして水曜日は雨……早咲きの桜には花散らしになるでしょうか。
やはり中和よりも北和の方が遅いようで、昨日の段階では郡山城は五分咲き程度、平城宮跡は三分も行っていないのでは?
佐保川も似たようなものですが、今日の風もない晴天でかなり開花が進んでいるでしょうか。
昨年も同じ頃に公開があったのですが、あの時には染井吉野が満開を少し過ぎたくらいで、枝垂桜も良い具合になっていました。
ところが今年は、染井吉野がようやく一分咲き?
枝垂桜によっては蕾がようやく膨らんだ程度でした。
ついでに東大寺ミュージアムで、先日から展示の始まった不空羂索観音の宝冠を見学して来ました。
間近に見るのは十年ぶり、奈良国立博物館で開かれた『東大寺のすべて』展以来です。
人があまりいなかったので、かなりマジマジと見てきましたが、あそこに使われている硬玉製の勾玉も、瑪瑙製の勾玉も、やっぱり4~5世紀の作り方に見える……輪っかを作って二つに割って、それぞれの形を整えるって方式のヤツね。
平城京造営時に破壊された古墳(続日本紀の記述でも、発掘調査でも確認されています)に埋納されていた玉類を供養を兼ねて、仏像の冠に着けたのだろうと推測する研究者もいますからねぇ。
しかし、水晶の切子玉は妙にドンくさいんだが……正直、玉類は良く分かりませんわσ(^◇^;)