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そして昼間には、夜に行われる神遊(かみあそび)に奉仕する芸能者たちが、威儀を正してお旅所へと詣でます。この風流(ふりゅう)行列が御渡り式です。
芸能者たちがやって来ると、神職の方々が若宮様に祭りが始まりますという挨拶をします。こうして、お旅所祭が始まります。お供え物を奉り、宮司が祝詞をあげ、勅使代行の日使(ひのつかい)が御幣を奉り、参列者代表が玉串を捧げた後、神遊(芸能)が始まります。
この辺りまでは、何とか日があるので写真も写るのですが、次の田楽あたりから暗くなって、かなり情けない事になります……( ;∀;)
それじゃ、次は情けない写真の集成で……続m(__)mく
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今年の日使(ひのつかい)は、株式会社神戸製鋼所代表取締役会長、佐藤廣士氏です。何故なのか、目線まで頂いてしまいましたm(__)m
この競馬のスタート地点には、馬出橋(まだしばし)という名前の小さな石の橋が架けられています。
これを見せて頂くには、横手に陣取らないとダメなんですね。
八月、一度の更新もないまま放っておいてしましましたσ(^◇^;)
果たして九月はどうなりましょうか。
そういう訳で、たまには執筆中の戯言でも。
延暦22年12月に、陸奥国大国造に任ぜられた道嶋宿禰御楯という人がいます。
多分この人の名前、征夷大将軍の坂上田村麻呂とセットで覚えている人も多いと思います。
道嶋宿禰氏は、陸奥国牡鹿郡の郡領を務める一族です。
この一族でダントツに有名なのは、道嶋嶋足という人。
嶋足さんは、何度か氏姓が変わっています。
最初は丸子嶋足、次に牡鹿連嶋足、更に牡鹿宿禰嶋足。
天平神護2年に道嶋宿禰嶋足となっていまして、この後、陸奥国大国造にも任命されています。
道嶋宿禰は、この人の縁者に与えられた氏姓で、この後は一族でも本家筋となるようです。
次によく目にする名前として、道嶋大楯という人がいます。
宝亀11年3月22日、陸奥国伊治城で起きた伊治呰麻呂の反乱の時、真っ先に血祭りに上げられた人です。
道嶋大楯は牡鹿郡の大領、伊治呰麻呂は上治郡の大領となっていますので、どちらも陸奥国の出身者で、陸奥按察使の信認を得ていたようです。
この時の陸奥按察使は紀広純、呰麻呂はこの人も殺害しています。
大楯は呰麻呂を常に下手に見ていたと書かれているので、この二人の間に何らかの確執があったのは確かです。
道嶋御楯の名前は、延暦8年6月3日の紀古佐美の奏上文に初めて見えます。
北上川での大敗戦時の、指揮官の一人だったようです。
次に名前が見えるのは延暦21年12月8日、鎮守軍監外従五位下で、陸奥国大国造に任命されています。
次は延暦23年正月28日、征夷副将軍の一人として見えます。
更に大同3年6月9日、陸奥鎮守副将軍に任命されます。
名前が大楯と御楯で、同じ楯の字が使われているところから見て、この二人は親子か兄弟といった近しい関係で良いのでしょう。
都で武官になっていたとしても、出身は陸奥国だと考えてもおかしくはないと思われます。
さて、こんな事を適当に調べておりますと、嶋足が最初に名乗っていた丸子氏、このご先祖は関東辺りの出身と考えられるという説にぶち当たります。
これを踏まえると、大楯が伊治呰麻呂を侮っていた理由が、何となく分かるような気がします。
もしかしたら道嶋氏は、陸奥国の人達と一線を画した位置にいたのかもしれません。
そこに都で衛士になり、武功を挙げて大出世した同族の嶋足が現れたのでは、その思いに拍車がかかっても不思議ではないでしょう。
呰麻呂の反乱が、陸奥三十八年戦争の途中で起き、その後の戦火拡大に繋がっているのは確かです。
これだけの長期にわたって戦乱状態にある第一の理由が朝廷の介入だとしても、他の要因がない事は絶対にないでしょう。
陸奥国内での、派閥や利害の対立はあってしかるべきもの、殊に朝廷から官位や役職をもらって優遇された人達は、嫌でも反乱勢力と対峙する事になります。
そのような人達でも、都から来た将軍らよりも、遥かに国内の事情は分かっているはず。
延暦20年、蝦夷の二人のリーダーが五百余名の同胞を率いて降伏したとあります。
この停戦交渉の際して、先のような陸奥生まれの官人らとの折衝は、必ずあったと思います。
ここで道嶋御楯が何をしたか、史料には何の記述もないので不明です。
しかし、いくら長年に渡って征夷大将軍が陸奥で指揮を取って来たにしても、この人だけでは在地勢力を抑える事は絶対に適わなかったでしょう。
朝廷側に付いていても、同じ地で育ち、同じ言葉をしゃべる人達の説得に耳をかしたのではないでしょうか。
この停戦の結果、二人の族長は京都に送られ処刑されるのですが、こうなると征夷大将軍以上に立場が悪くなるのが御楯たちです。
大国造の称号をもらい、鎮守副将軍にもなっている事からも、朝廷はこの人を陸奥経営の柱の一人に見ていますが、以前にも増して立場は微妙になって行く事でしょう。
果たしてこの後の道嶋御楯は、陸奥国に帰ったのか、都で生涯を終えたのか、これまた史料に残らないので不明です。
私は、この辺りを調べていると、ドラマや小説などに常連で名前の出て来る人よりも、この人がいつも気になるのですが……
果たして九月はどうなりましょうか。
そういう訳で、たまには執筆中の戯言でも。
延暦22年12月に、陸奥国大国造に任ぜられた道嶋宿禰御楯という人がいます。
多分この人の名前、征夷大将軍の坂上田村麻呂とセットで覚えている人も多いと思います。
道嶋宿禰氏は、陸奥国牡鹿郡の郡領を務める一族です。
この一族でダントツに有名なのは、道嶋嶋足という人。
嶋足さんは、何度か氏姓が変わっています。
最初は丸子嶋足、次に牡鹿連嶋足、更に牡鹿宿禰嶋足。
天平神護2年に道嶋宿禰嶋足となっていまして、この後、陸奥国大国造にも任命されています。
道嶋宿禰は、この人の縁者に与えられた氏姓で、この後は一族でも本家筋となるようです。
次によく目にする名前として、道嶋大楯という人がいます。
宝亀11年3月22日、陸奥国伊治城で起きた伊治呰麻呂の反乱の時、真っ先に血祭りに上げられた人です。
道嶋大楯は牡鹿郡の大領、伊治呰麻呂は上治郡の大領となっていますので、どちらも陸奥国の出身者で、陸奥按察使の信認を得ていたようです。
この時の陸奥按察使は紀広純、呰麻呂はこの人も殺害しています。
大楯は呰麻呂を常に下手に見ていたと書かれているので、この二人の間に何らかの確執があったのは確かです。
道嶋御楯の名前は、延暦8年6月3日の紀古佐美の奏上文に初めて見えます。
北上川での大敗戦時の、指揮官の一人だったようです。
次に名前が見えるのは延暦21年12月8日、鎮守軍監外従五位下で、陸奥国大国造に任命されています。
次は延暦23年正月28日、征夷副将軍の一人として見えます。
更に大同3年6月9日、陸奥鎮守副将軍に任命されます。
名前が大楯と御楯で、同じ楯の字が使われているところから見て、この二人は親子か兄弟といった近しい関係で良いのでしょう。
都で武官になっていたとしても、出身は陸奥国だと考えてもおかしくはないと思われます。
さて、こんな事を適当に調べておりますと、嶋足が最初に名乗っていた丸子氏、このご先祖は関東辺りの出身と考えられるという説にぶち当たります。
これを踏まえると、大楯が伊治呰麻呂を侮っていた理由が、何となく分かるような気がします。
もしかしたら道嶋氏は、陸奥国の人達と一線を画した位置にいたのかもしれません。
そこに都で衛士になり、武功を挙げて大出世した同族の嶋足が現れたのでは、その思いに拍車がかかっても不思議ではないでしょう。
呰麻呂の反乱が、陸奥三十八年戦争の途中で起き、その後の戦火拡大に繋がっているのは確かです。
これだけの長期にわたって戦乱状態にある第一の理由が朝廷の介入だとしても、他の要因がない事は絶対にないでしょう。
陸奥国内での、派閥や利害の対立はあってしかるべきもの、殊に朝廷から官位や役職をもらって優遇された人達は、嫌でも反乱勢力と対峙する事になります。
そのような人達でも、都から来た将軍らよりも、遥かに国内の事情は分かっているはず。
延暦20年、蝦夷の二人のリーダーが五百余名の同胞を率いて降伏したとあります。
この停戦交渉の際して、先のような陸奥生まれの官人らとの折衝は、必ずあったと思います。
ここで道嶋御楯が何をしたか、史料には何の記述もないので不明です。
しかし、いくら長年に渡って征夷大将軍が陸奥で指揮を取って来たにしても、この人だけでは在地勢力を抑える事は絶対に適わなかったでしょう。
朝廷側に付いていても、同じ地で育ち、同じ言葉をしゃべる人達の説得に耳をかしたのではないでしょうか。
この停戦の結果、二人の族長は京都に送られ処刑されるのですが、こうなると征夷大将軍以上に立場が悪くなるのが御楯たちです。
大国造の称号をもらい、鎮守副将軍にもなっている事からも、朝廷はこの人を陸奥経営の柱の一人に見ていますが、以前にも増して立場は微妙になって行く事でしょう。
果たしてこの後の道嶋御楯は、陸奥国に帰ったのか、都で生涯を終えたのか、これまた史料に残らないので不明です。
私は、この辺りを調べていると、ドラマや小説などに常連で名前の出て来る人よりも、この人がいつも気になるのですが……
昨年の秋に最初の花が終わったので、ホームセンターで半額処分になっていました。
大きめの鉢に植え替えてやったところ、かなり元気になりまして、次々に花をつけてくれました。
霜に合うと枯れてしまうという事なので、冬場は職場の玄関(ちょっとした温室状態)に入れて、天気の良い日は外に出してやったので、今の季節までずっと花が咲いていました。
スカイブルーの花は既に終わって枯れてしまったのですが、このナイトブルーとローズピンクが細々と咲き残っています。
ところで、これってこぼれ種で次の年も出てくれるのかな?
種が出来ているように見えないのだけれど……(。-_-。)
とにかくヒョロヒョロと花茎が伸びて、鮮やかな水色の花が次々と咲き続けています。
この類のサルビアは、種が出来ても良さそうなのに、案外出来てくれない花が多いような気がします。
メドーセージにしても、チェリーセージにしても、パイナップルセージにしても、あまり種を見た記憶がありません。
これからは黄色い花の盛りになりそうなんですが、もう少し青い花が咲いていますので、また続きを。
アガパンサスです。
職場に植えられている種類は、葉が常緑で立派なので、花が咲いていなくても変に存在感があります。
おかげで時々邪魔者扱いされ、冬などはバッサリと刈り込まれています。
先週にはちょうど花盛りでしたが、一昨日までの雨でほぼ散ってしまいました。
何故なのか鉢を青紫蘇に半分占領されており、花が終わった今は何が植えてあるの?という状況になっています(*_*)
しかし、暑くなるにしたがって株も大きくなり、花芽が何本も伸びて来て、ようやく先週から花が咲き始めました。
夏が越せれば来年も咲くはずですが、種は取れるのかな?
取れたら、秋にまた蒔いて増やしたいです。
買って来た時にはすでに蕾がついていたので、蔓が伸びだすのに前後して、すでに開花してしまいました。
しかし、かなり生長の早いマメ科の植物ですので、梅雨明け前にしっかりしたネットを張ってやらなければいけません。
ところで、画像が縦にならないんだが、どうしてなんだ(。´・ω・)?
横に風船カヅラのプランターを置いていますが、成長速度が全然違います。
昨年は冬を越せずに枯れてしまったので、今年は気を付けなければ……(-_-)
この花と『ルリマツリモドキ』がよく混同されると聞いていましたが、こうやって並べてみると、案外、似ているようで違うところも大きいかなと思えます。
ハレーション気味の画像ですが、後ろが『ルリマツリモドキ』、手前の一輪が『ブータンルリマツリ』です。
『ルリマツリモドキ』は数年前から育てていて、今までにも何度か株分けしているので、家でも職場でも知人宅でも咲いているようです。
暑さにも寒さにもタフで、地中で茎を伸ばして、とんでもない所から出てくる悪さもしてくれます。
よくやってくれるのが、植木鉢の水抜きスリットから芽を出す事です。
底の一つ穴の鉢では育てた事がないのですが、ミニプランターのように底が一部メッシュ状になっていたりすると、横の方の穴から這い出して来ます。
一つ一つの花は一日で萎むようですが、次々と開花するので花の時期は長いです。
数年見ていても分からないのが、蕾と咲き終わった花の違いです。
おかげで秋になると、終わった花がいつまでも切られずに残っているような、やや見苦しい状況になっています。
何せ、思い出した頃に一つ二つ咲いてくれたりしますから(゜_゜>)
ともあれ、夏の盛りには鮮やかな青が嬉しい花である事は間違いありません。
この横の方にも、また二本ほど芽が出ていましたが、さて、何本が育ってくれるやら。
今のところは害虫被害にはあっておりませんが……(゜_゜>)
ランナーで増えた方ではなく、こいつもこぼれ種です。
今、花茎が伸びて、次々と開花しているので、今年も種が落ちる事必定。
斑入りではない葉なので、一瞬、エノコログサやヒメシバと間違えて抜きかけました。
斑入りだと欲しいという人は結構いるのですが、こいつはいまいち人気がありません。
誰か欲しい人、いませんか……(´・ω・`)
この他にも、ハーブ類(紫蘇とか薄荷とか)、ルドベキア、金鶏菊、紫つゆ草、オシロイバナ、風船カヅラ、イソトマ、黄花コスモス、マリーゴールド、西洋桜草、クリサンセマム等々、植えた覚えもないのにあちらこちらに生えている花が、職場にはあふれております(^^♪
先ほども『肆』の字が出なくて、延々と変換キーとカーソルを打ちまくってました。
デスクトップの壁紙もテムジンの写真にしまして、ようやく少し落ち着きましたか。
後はフォトレタッチソフトのインストールですわ。
寒い頃は、いつもシマコとストーブの前を占領していました。
おかげでかなり仲良くなりました?
ナタも寒いと一緒にいましたが、大体、私の膝の上で丸くなってましたか。
ウメナがいなくなった時も、そんな感じだったなあ(´・ω・`)
シマコは少々、鬱陶しがっているようですが。
というよりも、成長期は子猫も子犬もあまり太ってはいないと思いますが(^_^;)
とにかく、この頃が一番スマートで白っぽかったようです。
それにしてもコイツは野良猫の子だったのか、生まれつきと思われるウイルス性の鼻炎持ちです。
くしゃみ、鼻水、涙目で、時々咳もしていました。
大人になって、症状もなくなる子も多いのですが、テムの場合は少々微妙。
何度も獣医さんに連れて行ったのですが、一時的には治まるのですが、また少しすると再発。
四六時中、目薬のお世話になっていました。
雄猫ってのは、どうしてこういう格好で伸びているんでしょう?
ナタも子猫の頃、変な格好でばかり寝てたような(;´д`)
実家にあった『猫とあなたの星占い』(タイトル、ちょっとうろ覚え)によると、射手座の飼い主と最も相性の良いのは、牡羊座の猫だとのことです。
シマコは2009年の5月始くらいの生まれなので牡牛座?
ナタが2012年の3月末の生まれなので牡羊座。
テムジンも2013年の3月後半から4月始めの生まれで良いと思うので、こちらも牡羊座となるようです。
そのせいなのか、この二匹は割合に仲が良いようです。
ナタの時は、しつこいくらいに絡んでいたので、すっかり嫌われました(;_;)
テムの毛色は、ブルーリンクスとでもいうのでしょうか。
写真に撮るとかなり灰色に見えますが、実際は薄めの焦げ茶色の方が近いと思います。
この頃までは案外白っぽかったのですが、涼しくなって冬毛になるに従って、濃い色になって行ったように記憶しています。