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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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テムジンがいなくなってから、シマコもナタも何となく甘えん坊に戻っています。
末っ子で一番、人懐っこかった子なので、お姉ちゃんとお兄ちゃんの遠慮があったのでしょうか。

それにしてもこのブログ、かなり放置状態だったのに我ながら呆れます。
驚くかな、テムに関しての記事が全くないし、画像も一枚しか上がってない……(。-_-。)
twitterの方には、チョコチョコ上げていたみたいですが(´・_・`)
そういうい訳で今更ながら、テムジンの事でも書いてゆく事と致します。

 昨年の五月半ば、この子猫を保護して来たのは職場の人で、大和高田市内の公共施設に捨てられていたそうです。
犬を二匹飼っているので、猫はチョットと困っていたので私が引き取る事になりました。
この画像は、家に来て一週間にもならない頃です。
来た初日から、全く物怖じしないというか、『借りてきた猫』なんて言葉は何処吹く風の有様、シマコやナタに近寄って行っては怒られていました。

三日もしたら、ナタの方が遊びたいモードになりまして、一週間もする頃には一緒に取っ組み合っておりました。
これは二週間目位の頃です。
若い雄猫は案外、子猫好きが多いとの事で、良いベビーシッターになってくれました。
何せナタも一歳になったばかり、体格だけは一人前でも、頭の中は子猫モードも良いところです。

大きさの違いは、こんなもの。
一歳二ヶ月のナタと、二ヶ月半のテムジンというところでしょうか。
多分、ほぼ一歳違いなのだと思います。

それにしてもシマコにしてみれば、乱暴な雄の子猫が二匹に増えた……もしかしたら、更にストレスが増したのかも(;´д`)
とにかく、四六時中、逃げ回っておりました。
そのような訳で続く……m(_ _)m
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二年ほど前に橿原市のイベントで限定発売されて 、かなりの話題を呼んだのか、ネット上でベラボウな価格で取引されたとかいう御菓子です。
企画をしたのは地元の有志で、お菓子は橿原市内で製造です。
パッケージのイラスト及びおまけのシールのデザインを、かつて大ヒットしたチョコレートスナックのシリーズと同じデザイナーが手がけたのが、注目を浴びた要因だそうです。
シール収集に熱狂した世代が、子供時代を思い出して、同じように食いついてくれたようです。

イベントの後、定番のお土産として売り出す予定と聞いていたのですが、橿原市内では全く見かけず……今年の初めに奈良市の東向きアーケード入口近くのお土産物屋さんで、やや地味に取り扱っているのを見かけました。
どうやら昨年の初めから売り出しているようです。

上の画像の右側がイベントの時の商品、左側がお土産物屋さんで扱っている商品です。
それ程の大差はないのですが、中身の葛ボーロの量が減って、価格も下がっています。
そして、おまけのシールもホログラム状の台紙から、ただの金色に変更されています。
キャラクターはそのまま踏襲しているのかな?

この商品、とにかく取扱店が少ないようで、肝心要の橿原市では見かけた事がありません。
この度、奈良きたまちの『フルコト』さんが置いてくれるという事で、少しでも注目されるようになるのかなと、密かな期待をしています。
一応、企画者の人を若干一名、何となく知っているので応援したい次第です。
職場の中庭に、こんなものがあります。
「何や、これ?」とたまに聞かれますが、ストーンサークルではありません。
何やらのこぼれ種でより芽が出てきたので、目下、観察中です。

近くで見るとこんな感じ。
本葉が出て来ています。

すぐ近くには柘榴が生えているので、十中八九、こいつだと思います。
果たして、どの程度まで大きくなるのでしょう。
花くらいは咲いて欲しいですが、何年かかるのでしょうか?
ちなみに、我が家の椿の実生苗は、花をつけるまでに6~7年はかかっていると思います。
樹高は一mをゆうに超えてくれたし……
あまりにここを放りっぱなしにしているので、カテゴリーを増やして戯言を書く事に致しました。
別に『日常茶飯事の戯言』でも、内容に代わり映えはないのかもしれませんがσ(^◇^;)

大和盆地は田植えが遅い……
私の田舎では、GWが明けると田んぼに水が入っていて、辺りが眩しいの何のという風景になります。
こちらでは今週に入って、ようやく斯様な景色となってまいりました。
職場の周辺にも田んぼはまだまだ残っていて、先週末から諸処で耕運機が動いています。

月曜日に出勤してきたところ、駐車場に使っているスペースの一角、桜の木の根元あたりに、黒く細長い干からびた動物遺体が幾つか転がっておりました。
「田鰻、ですよね~?」
田おこししていて出て来たのを、農家の人が放り投げて、ここまで飛んで来たのか?
それにしちゃ距離がありすぎる、4~50mはあるよ。

翌日の午前中、窓の外をふと見ると、カラスが三羽フェンスにとまっておりました。
繁殖期らしく、カップリングの相談中(?)ではないかと思われます。
そして更に一羽、フェンスの下の花壇に飛んで来て、嘴で土をつつき始めました。
「ミミズでもいるのかな?カラスって鳥は、基本、肉食だよなぁ」

……こいつら、結構、でかくて獰猛です。
昆虫や爬虫類、小動物は勿論、小禽の卵やヒナどころか成鳥まで襲いますから。
なるほど、田を起こして出て来た田鰻なんぞは、格好の餌食になるのでしょう。
鵜の目鷹の目、鴉の目、2~30cmにはなる田鰻を見逃す訳もない。

かくして犯人は、高田川堤防周辺を活動場所にしている、ハシボソガラスではないかと結論づけられました。
西日本にはハシボソガラスが多く、四六時中、グヮ~グヮ~鳴いています。
関東ではハシブトガラス、クヮークヮーと鳴く奴らですね。

明日、職場周辺、燃えるゴミの日ですよ。
カラスに荒らされないように、収拾車の来る直前に出すようにしないといけませんわ(;´д`)

随分とUPするのが遅くなりましたが、春日大社の和舞の講座と奉納は4月29日の昭和の日です。
今年は雨でしたので、林檎の庭ではなく、弊殿の内で行われました。
こちらは『神主舞前歌』平成23年に復興されて以来、最初に奉納するようになりました。

あな愉(たの)し 今日の愉しさ 古(いにしへ)も かくやありけむ 今日の愉しさ
 
え~と、この画像は『諸司舞五段 宮人曲』でしょうか。
柱の御陰で良く見えませんね(^_^;)

平成4年までは和舞は、春日祭春日若宮おん祭の時だけ、東遊と共に奉納されていましたが、今では昭和の日にも行っています。
ちなみに江戸時代には、おん祭では東遊のみの奉納だったそうです。
そして明治19年に、春日祭では和舞のみ、おん祭では両方を行うように改定されました。

  さて、以前のブログの記事で、舞の前後や合間に歌われる歌について書いておりました。
ブログ自体がなくなってしまったので、この辺りをもう一度調べてみました。

歌方、地方の人たちは和舞音取(やまとまいのねとり)の後、進歌(すすみうた)で登場します。
少女(をとめ)らに男(をとこ)立ち添ひ 踏み平(なら)す 西の都は 万世(よろづよ)の宮
この歌は続日本紀の巻三十に出てきます。

神護景雲四年(宝亀元年)三月、称徳天皇の由義宮(ゆげのみや)行幸に際して行われた歌垣での歌われました。
ちなみにこの行幸の時、歌垣に続いて和舞も行われています。
“河内大夫従四位上藤原朝臣雄田麻呂以下、和儛を奏(つかへまつ)る”

神主舞(二人舞)に続いて諸司舞(四人舞)が行われますが、舞人の出入りに歌われるのが『交替歌(こうたいうた)』です。

春日野に斎(いつ)く三諸(みもろ)の梅の花 栄えてあり待て 帰り来るまで
万葉集巻19-4241に見える歌の作者は、藤原朝臣清河、北家房前の四男です。

この人は天平勝宝二年に遣唐大使に任命され、同四年に節刀を賜って出航します。
出航に先立って、春日野で天神地祇への祈祷が行われたようで、この時に光明皇太后が清河に歌を賜っています。
『大船に真楫(まかじ)しじ貫(ぬ)き この吾子(あこ)を唐国(からくに)へ遣(や)る 斎(いは)へ神たち』
清河の歌は、この歌への返答です。

諸司舞の後、『立歌(たちうた』で舞人は下がります。
皇神(すめかみ)をよき日祀れば 明日よりは あけの衣をけ衣にせむ

実は、この歌が何処に出て来るかが分かりませんので、字も良く分かりません(ーー;)
どなたかご存知の方がおられましたら、是非とも御教授願います。
 
三年ほど前から、和舞の最後は復曲された『槲酒(かしわさけ)歌』が行われるようになりました。

和舞が終わると東遊が奉納されます。
この舞は『求子(もとめご)』です。
春日大社では東遊は男の子が行います。
この辺りの事は、昨年までの記事で再三述べておりますので、そちらを参照下さいm(__)m
今日もしつこく続く……
先の記事に書き忘れましたが、南都楽所は4月にベトナムのフエ市で行われた芸能フェスティバルに参加されたそうで、そこで林邑八楽に含まれる曲の演奏を行ったという事です。
今回の演目も、フェルティバルで奏した曲を選んだのだそうです。
童舞の『迦陵頻』も林邑八楽の一つです。

林邑とは現在の南ベトナムにあったチャンパ王国の事で、天平八年に僧侶の仏哲師が伝えた曲を『林邑八楽』と称しています。
『迦陵頻』『陪臚』『胡飲酒』『蘭陵王』『安摩』『菩薩』『抜頭』『万秋楽』がこれに当たります。
ところが四天王寺では『蘇獏者』も含まれるとしているようで、八楽ではなく十楽になってしまうのだとか……あと、一曲は何なのでしょう?
 この辺の事は東大寺要録にあるとかないとか……(。-_-。)
 
『陪臚(ばいろ)』
鉾と楯を持ち太刀を履いた四人の武人の舞で、東大寺の大仏開眼会に行われたと記録にあります。
見るからに左方舞とおもいきや、実は右方舞になっています。
その証拠に、楽頭さんは三鼓を打っていますし、登場した舞人は右足優先に動いて、一臈はしっかり右側のポジションにつきます。
ところが他の楽器を見ると、笙に龍笛、ついでに夜多羅拍子……安直な私は、ずっと左方だと信じておりました(→o←)ゞ痛い

『胡飲酒(こんじゅ)
真っ赤な顔は酔っぱらいの胡人、手にした撥は酒の杓、相当の酒豪と伺えます。
酔漢にしては実に豪快に舞いますので、胡国の王様の舞とも云われているそうです。
金の金具の着いたおしゃれな黒い沓は、烏皮沓(うひのくつ)というそうです。

面白いのは、手にした撥を時々、左手に持ち替え、またしばらくすると右手に戻す、そのような動きを何度か繰り返します。

ところで、今年は四天王寺の聖霊会でも『陪臚』が行われました。
こちらがその様子です。
装束が微妙に違いますが、一番目立つのは冠でしょう。
そして面白い事には、四天王寺ではこの舞を左右で一緒に行うのだそうです。
一臈と三臈が左方、二臈と四臈が右方の幕舎から出て舞台に上がります。
曲も左右の楽舎で奏されるので、実に賑やかです。

このように楽所によって、舞や曲が少しずつ違うという事は結構あるそうです。
あちらこちら無節操に見に行くのも、それなりに勉強になります。
と、今日も意味不明に……m(_ _)m
毎年5月5日は、春日大社の萬葉植物園で雅楽の演奏会が行われます。
ところが今年は雨、昨年の11月3日の雅楽会も確か雨でしたか(。-_-。)
この度も、感謝・共生の館で行われました。

曲目は、管絃の部が『壱越調音取(いちこつちょうのねとり)』『迦陵頻(かりょうびん)破』です。
ちなみに、上の画像は管絃ではなくて、最後の『長慶子(ちょうげいし)』の演奏の模様です。

 
舞楽の部はいつものように『振鉾(えんぶ)』から始まります。
舞台を清める意味合いも込めて、左右の楽人がそれぞれ、乱声(らんじょう)に合わせて鉾を振るいます。
時間の関係からか、三節目は省略。
 
 そして子供の日恒例の童舞(わらべまい)
まずは左方の『迦陵頻』です。
 
そして右方の『胡蝶』
どちらも案外、背の高い子達が舞人を勤めていたました。
女の子が三人いましたが、どの子も可愛かったです。

まずはここまでで、またもや続く(ーー;)
今年も下鴨神社の流鏑馬神事を見に行って参りました。
毎年同じような画像を上げていますが、今年も同じような写真しか撮っていません(^_^;)
相変わらず社頭の儀には行かず(行き損ねて)、馬場入りの儀を眺めていました。

束帯姿ばかりでは何ですので、道楽を奏でる楽人の方々でも。
ちなみにこれは、流鏑馬奉納が終わって帰って行く時です。

 長官以下が馬場殿に入り、諸約も所定の位置に着いて、伝送代が伝送文を相乗します。
その後、馬場殿から長官代が、馬場末から一の射手が馬道脇を進み、二の的と三の的の間辺りで落ち合います。
長官代の「流鏑馬神事、始めませ」の言葉に、一の射手が「応」と答えます。

ところで束帯の射手らは、このように袖をくくって騎射に臨みます。
なにせ、あの広い袖では弓は引けないでしょう。

馬場末より戻り、馬場殿の前で神禄を賜る時には、このように袖は解いています。
これは拝舞を行っているところですね。
騎手はこの時、鐙の上に足を踏ん張って、馬の背から腰を浮かせています。
矢を射る時にも腰を浮かせ、更には上体を大きく前に倒しているので、足腰のみならず背筋も腹筋も半端な鍛え方ではないと思われます。

流鏑馬を行う武家装束の方々は、束帯に比べますとかなり行動的に見受けられます。
そのため武家の装束の時には、的が少し小さくなるのだそうです。
今回は最後に再び、束帯の方々が登場しましたが、的の大きさはどうだったでしょう?

流鏑馬の奉納が終わりますと御本殿に向かい、無事に終了できた事を報告に行きます。
余談ながらこの画像の一番右端、楽人の横に写っている人が、俳優のI氏と思しき方です(^_^;)
 舞楽の内でも格段に長くて派手と申しますか、演奏時間は序破急で45分近くあります。
聖霊会にはなくてはならない舞の一つで、天王寺では左右の楽人が演奏を受け持ちますから、とにかく賑やかと申しますか面白いです。

 出手では舞人たちが一人づつ入場し、鉾を振るって舞いながらそれぞれのポジションにつきます。
序では鉾を置いて徒手で舞い、破では再び鉾を取ってまさに振り回すように動き回ります。
最も楽しい(?)のが急。
徒手で始まるのですが、途中で四人の舞人は太刀を抜き放ちます。
これを合図に、舞台四方に当たる池の欄干に下げられた篝に火が入ります。
現在では午後4時くらいなので明るいのですが、昔は太平楽が演じられる頃には暗くなっていたという事です。
太刀を抜いた舞人は、合歓塩(がっかえん)という八多羅(やたら)拍子の曲で舞台上を踊り回るといった感じ。
南都楽所でも天理大学でも、このように飛び跳ねる舞い方はしませんので、久々に見ると魂消ます。
そして八多羅拍子の曲は、とにかく耳に残るというか、しばらく頭の中で繰り返してくれますから始末に悪いというか脳天気になるというか……
 
急の舞の途中で衆僧は六時堂を退出し、舞の終了をもって法要も終わります。
この後の舞は『入調(にゅうじょう)』といい、法要に参加された方々へのお礼に演奏されるのだそうです。


今年は『陪臚(ばいろ)』です。
この舞は林邑(りんゆう)八楽にも入るので、当然左方かと思っていたのですが、実は右方舞になります。
ところが天王寺楽所では、左右の楽人が二名ずつで舞う事になっているそうです。
楯と鉾を持って現れた舞人は、まずそれらを置いて徒手で舞い、途中で楯を手にして抜刀し、最後は鉾を打ちふるいます。
この曲も夜多羅拍子なので、とてもノリが良いです。

こうしてすべての法要と舞が終わると、日は西門の石の鳥居方向に傾いています。
最後の方は左方側の席にいると眩しくて仕方がないのですが、今年は終日曇り気味でした。
御陰で見学には、案外良いコンディションだったのではないでしょうか。
 四箇法要に先立って、三綱職による祭文の奏上が行われます。
その後に衆僧は六時堂をでて、石舞台情に整列します。
そして四箇法要が始まります。
唄匿(ばいのく)、散華の後に一旦、舞台を降り、替わって右方の舞楽が演じられます。

ここで行われる舞と、蘇利古の次に行われる舞は幾つかの舞が順番になっているようです。
昨年は『綾切(あやきり)』で、その前は『林歌(りんが)』だったような気がします。

今年は『登天楽』です。
この衣装を見ていると左方舞に思えるのですが、右方高麗楽で日本で作られたとされています。

さて、舞が終わると再び衆僧が舞台に登場し、梵音(ぼんのん)、錫杖が行われます。
この四箇法要が終わると、高座に着かれていた両舎利が降座され、六時堂に入られます。

そして法要の最後の舞楽『太平楽』が始まります。
その(どの?)ような訳で、また続く……
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