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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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 国宝薬師寺東塔の解体修理に伴い、橿原考古学研究所と奈良文化財研究所による基壇の合同発掘が行われています。 2月28日(土)、その成果の現地説明会が行われました。

 東塔は730年に造られた事が記録で分かっています。
 これは2010年の12月に写した写真です。昭和27年の解体修理で、基壇外装の石なども取り替えられてこのような姿になっていました。
 今回の解体修理では塔全体を解体した後、基壇化粧も外して、不同沈下を起こしている礎石の状況を調べる必要も兼ねて発掘を行い、今後の修理方針を検討する参考にするのだそうです。

 
    明治や昭和の修理では、基壇の本格的調査は行われておらず、今回が初めてだという事です。
この調査により基壇の外装は、創建当時が切石積(きりいしづみ)基壇、15世紀後半以降は乱石積(らんせきづみ)基壇、江戸時代には西面にだけ切石積基壇を施し(明治5年に写された写真に見える)、明治にはこれを取り払って、現在のような壇正積(だんじょうづみ)基壇にした事が判明しました。


 これらの外装は江戸期以外は壊される事なく、石敷きの犬走(いぬばしり)の部分を食いつぶして、外へと重ねられています。そのため、時代を追うごとに基壇のサイズは大きくなって行きます。
 東面の一部にはこのような、中世の石積の基壇外装が残っていました。
 基壇その物の残りも極めて良く、25層にも及ぶ入念な版築(はんちく)によって築かれている事も分かりました。版築の下の部分は粘土を突き固め、上の方は砂と粘土を交互に固めるという方法で作られています。上下で色の違いが見えるのはそのためです。
 薬師寺の建つ場所は、かつて龍神池だったという伝承があり、現在でも湧水量が多いそうです。その地下水対策として、粘土を多用したのではないかと考えられます。このようにすべて版築で基壇を築くのは、西塔、金堂、講堂も同様です。


 思いのほか残りの良いのが、創建時基壇の地覆石(じふくいし)です。石材は花崗岩(かこうがん)が多いのですが、閃緑岩(せんりょくがん)や斑レイ岩、安山岩なども交じっていて、ややカラフルです。ところが西塔では、すべて花崗岩だったそうです。花崗岩の使用は平城では珍しく、飛鳥の寺院に多く見られます。
 この画像は北西の方向から写しています。こちらのコーナーには、凝灰岩(ぎょうかいがん)の羽目石(はめいし)が残っていました。面白いのは、コーナーに来る石をわざわざ直角に削り出している事です。もう少し新しい寺院の基壇では、束石(つかいし)を置いて羽目石を支えていたと思うのですが、あまり見た記憶のない形です。更には地覆石の下にはもう一段、延石(のべいし)を廻らせる例も多いのですが、ここでは見られません。

眠くなったので、続きは明日(-_-)゜zzz…
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飛鳥寺の西側には何があったのでしょう?
『日本書紀』によると、『槻樹(つきのき)の広場』があったのだそうです。
以前の調査でも、石敷や溝が見つかっています。
2011年調査
2013年調査

 
 そして今回も、石敷は検出されていますが、余り残りが良くありません。

ところがここに予想外の、建物の跡が二棟分出て来ました。
明日香村教育委員会の発掘調査技師によると、槻の根っこや切株は期待しているけれど、建物の存在は想定していなかったという事です。
こちらが西側の建物跡です。

 
この画像の奥、右側に見えている三角の瓦屋根が飛鳥寺の御堂です。
飛鳥寺寄りになる東側の建物は、この調査区では東西2間分しか検出していません。
しかし、更に東側(説明を聞いている人たちの更に後方です)に開けたトレンチで東端の柱跡を見つけています。

そして、以前に調査した地区で南側の柱列を既に検出しています。

こちらが調査区の図面です 。
左側の少し薄く印刷されている部分が以前に調査した地区で、右側の濃い線で表されている地区が、今回の調査地区になります。
赤い丸が建物の柱跡です。
二棟とも桁行(東西)7間、梁行(南北)2間の長細い建物です。
柱間がやや不揃いで、2.4~2.7mで並んでいます。
柱が抜き取られているためか、検出した穴の形や大きさも33~116cmと様々です。
西側建物でいくつかの柱穴を半裁したところ、深さは30cm程度になります。


西側(先の図面では上)建物の北側(右側)柱列の途中に、三連で並んだ柱穴があります。
この真ん中の穴は柱列には載っていますが、柱間に合わず、対応すると見られる穴もないようで、建物に付随するか否かは不明だという事です。


こちらも半裁した柱穴です。
埋土が赤く見えるのは、焼け土が混じっているためだそうです。
穴の横や手前に見える石も、火を受けているようです。
今回見つかっている石敷きは、これらの柱穴を埋めた後に敷かれたという事です。

このようにやや雑な作りで、撤去された後は再び石敷きの広場に戻された事からも、短期間だけ使われたような、仮設の建物だった可能性を指摘されています。
いずれにしても、この遺跡で建物跡が出て来たのは今回が初めてで、年代を特定できるような遺物の出土も少ないそうなので、飛鳥時代に建てられたものとしか、確実な事は言えそうにありません。

 昨年の八月に静岡に帰った時、実家にいた子猫(どちらも捨て猫を拾ったとの事)



 一昨日、こんな感じで椅子の上に寝ておりました。
 しかし、ナタとタムを見慣れた目には、どちらも小柄に映るなぁ(。-_-。)

 報道で大々的に取り上げられた、明日香村教育委員会による『都塚古墳』の墳丘調査の現地説明会が行なわれたのは、8月16日ですから、既に四ヶ月半ほど前になりますσ(^◇^;)

  この都塚古墳ですが、1967年に石室内の調査が行われています。墳丘の造られた場所は南東から降りて来る尾根筋の上で、横穴式石室は南西に開口しています。両袖式の石室は飛鳥石、くり抜き式石棺は二上山の凝灰岩と、地産池消(?)の石材を駆使して作られています。
 飛鳥における蘇我氏の本拠に立地するので、当然ながら一族の有力者の墓所と考えられています。そして墳形も蘇我氏の例にもれず方墳です。

 

 長々と並ぶのも邪魔くさいと、現説終了時刻の30分前を目安に、14時半過ぎに到着したところ……考えが甘かった"(-""-)"

 今回の調査成果で注目されたひとつが、墳丘階段状に造られていると判明した事です。

 この調査区は墳丘の北側コーナーを含む北東面に当たりますが、開口部(正面)から見ると反対側なので、造りはやや雑です。画像の上の方に見える溝が周濠ですが、幅は1m程度、深さも40cmほどの空堀です。その奥に石を置いて護岸を築いています。
 手前が墳丘の初段になりますが、写真が悪いのや貼り石の残りが悪いのを差し引いても、石の大きさバラバラ、並べ方も乱雑……


 こちらは北西側(正面から見て左側)に開けた調査区です。
 墳丘の初段は、礫混じりの地山を削りだして、河原石を貼りつけています。ここで見る限り、石の大きさを揃え、墳丘裾のラインも良く残っています。しかし、裾に特に大きな石を並べた訳でもなく、法面にも目地らしい目地も通っていないような印象を受けます。

 画像の向きが180°逆になってしまい分かり難いですが、先程と同じ側の二段目裾を検出した地区です。この段も地山を削りだして成形しています。
 こちらは向きが合ってますね、先の程の調査区のアップです。この画像の右側で、二枚上の画像の裾が出ています。その間に見学通路を作っている事(上の画像参照)からも分かるように、初段はかなり幅広いテラスを持っています。
 二段目には、多少大きな石を使っているようですが、あまり残りは良くありません。全体に散らばって見える細かい石は、元々の地面(地山)に含まれている礫です。

 ここでは南東側(正面から見て右側)の墳丘裾が出ています。北西側よりも残りが悪いのか、造りが雑なのか……
 
 墳丘の置かれた尾根は南東に上がって行くので、島庄(石舞台古墳などがある地域)から見ると、裏側になります。そのために手を抜いた可能性もあるのでは、という事です(^^;)

 そしてこれが、南東側、墳頂に向けて開けたトレンチです。四段の石積みを確認しています。さらに下方に数段はあると思われます。

 今回の調査で分かった墳丘裾の位置などから大きさを割り出すと、東西が約41m、南北約42m、高さは4.5mとなるそうです。更には、道が昇って来る西側から墳丘を見上げると、見かけは7m以上に見えていた事にもなるという事です。下から見上げられる事を意識して、造られているのではないかと考えられます。

 このような位置関係からも、6世紀後半の構築年代からも、石舞台古墳(7世紀初頭築)に先立つ墳墓として、報道各紙も被葬者の名前をこぞって上げたようですが……まぁ、被葬者論はまたその内に(しないと思うけど)m(__)m
 11月24日に行われた橿原考古学研究所による、 県道工事の事前調査です。
 橿原神宮前から明日香村に抜けるルートはいくつかあります。最短で甘樫丘の南麓に抜ける県道124号線は、狭い、アップダウンはある、途中から一方通行という、かなりの難有りの道です。重要な生活道路ではあり、桜井行きの路線バスも通るので、何とかならないのかとは、以前から言われていました。

 少し北の平坦な場所にバイパスを通す案は以前から出ていたようです。しかし、国道169号線とアクセスする場所に、このような『芋洗い地蔵尊』の祠があったので、反対意見もあって着工が遅れたと聞きました。

 道を通すにあたっては、御地蔵様が安置される場所を確保し、綺麗に整備する事で、この場所での工事も始まりました。この画像の上の方、移植したばかりの木が何本か並んでいる場所に、御出で頂く予定です。ちなみに現在、御地蔵様は近くの久米寺で預かって頂いているという事です。


 さて、事前調査の現場ですが、西端の四坊に当たる地区は、自然河道の大当たりですσ(^◇^;)
 先の画像内の絵図にも見える『芋洗い川』は、この川の名残だと考えられます。この旧河道をたどると、暫くは道の下を通っていますが、もう少し東(左手方向)に行くと、南へとルートを変えるそうです。

 河道からは、弥生時代から14世紀前半までの遺物が出土しています。以前の調査でも、この川の中から未完成のまま放置された、鎌倉時代くらいの『修羅』(木製のそり)が見つかっています。
 

 新聞などで報道された東西に長い建物の東端の部分が、二坊に当たる地区で検出されました。この建物については、今までの調査で西側の14間分が見つかっていました。今回の東側2間分を合わせて、梁行2間×桁行16間の長大なものである事が分かりました。
 この図で見ますと、建物の真ん中よりやや東を西二坊坊間路が貫いている事になります。少し見にくいのですが、道の両側に有った側溝が検出されています。建物の柱の跡は、この溝が埋められた後に掘られています。区画整備をして道を潰した後、この建物は建てられた事になります。

 この場所もあまり地盤が良いとは言えず、砂混じりの氾濫原を整地して利用しています。整地層から見つかった土器は7世紀後半の物が最も新しいので、この時期に地盤整備をしています。そして道を通し、その後に建物を建てたという順番です。周囲で見つかった建物などとの関係からも、大型建物は藤原宮期後半以降の物だと言えそうです。
 掘立柱を建てるに当たっては、柱が沈みこまないようにと、石を敷き詰めています。柱穴の底は既に砂混じりの地盤だそうです。


 手前のピンクのテープが、建物の東端です。柱の跡はまだ掘っていません。奥には塀になると思われる柱穴が二列並び、さらに奥には、並行して溝が見つかっています。
 この大型建物ですが、藤原宮以外の京内では、最も大きな規模になります。到底、一般庶民の住宅の範囲ではなく、役所か寺院に伴うものではないかと推測されています。

 近くにある和田廃寺の瓦が遺物としてあります。しかし数はあまりに少なく、整地層からの出土なので、瓦葺の建物が伴っていたという事にはなりません。


 既に舗装の済んだ道路面に置かれている筒は、大型建物の西端の柱位置を示しています。奥に見えるテントの左側が調査地です。さらに奥の木立は『馬立伊勢部田中神社』の杜です。
 道路は社の杜を迂回するように、ここで南にクランクして、飛鳥川の堤防へと向かっています。この道ができれば、桜井方面へも抜けやすくなり、橿原神宮前駅や五条野周辺の渋滞も、少しは緩和してくれるものと、地元住民は期待しておりますm(__)m
 12月14日に行われた奈良文化財研究所の、飛鳥藤原第183次調査の現地説明会です。
 藤原宮は平城宮とは違い、ほぼ正方形をしています。その中央に大極殿院が置かれ、左右に官衙群が広がっていると考えられます。
 今回の調査は内裏東官衙に隣接する、東方官衙北地区の南西部の一角です。


 この遺構図の実線で囲まれた183次と書かれている個所が、今回の調査区です。色分けは時代分けを示しています。青紫が藤原宮期、赤が7世紀後半から宮造営期、緑は同時期でも赤の遺構に切られているので、それより古い時期になります。グレーはそれ以前の7世紀前半から中期、黄色は西方位に乗らない事もあり、古墳時代かそれ以前の遺構だと考えられます。


 調査区の西側の地区を南から見ています。ここで目立つ遺構は、宮に先行する道路の跡です。どうやら、宮のエリアを決定する以前に、道の普請を始めたようです。それどころか両側の側溝を掘った後、道幅を広めに変更したのか、新旧の溝が切り合っています。

 この画像は、同じ地区を北から見ています。地区の西端(右側)に、藤原宮として機能した時期の建物遺構が、二軒検出されています。これらは、道の側溝を埋めて整地した後に建てられています。
 いずれも掘立柱建物で、大きな方の建物(奥の水色のテープ)は梁行2間、桁行4間以上ある事が、以前の調査結果からも確認されています。大きな柱穴の間に、小さな柱穴が二つ並んでいるのは床束と考えられるので、この建物には床が張られていたようです。
 この建物の北側(手前の水色のテープ)にも、やや小さな柱穴が並び、別の建物があります。

 これは調査区東側エリアを東から見ています。ここには梁行3間、桁行4間の礎石立ちの総柱建物(水色のテープ)、それに先行する掘立柱の側柱建物や塀(ピンクのテープ)、更に古い(緑のテープ)が見られます。そして、塀よりも古い、道路の側溝らしき東西溝も検出されています。
 この総柱建物、先程の床束のある建物は中心線がそろいます。その線をさらに西に伸ばすと、大極殿(奥中央の茂み)にも乗って来ます。宮造営の当初より、計画的にこれらの建物は配置されていた事が分かります。

 総柱建物は一棟しか見つかっていないので、倉庫なのか楼閣なのか分かりません。礎石を置いて柱を建てていますが、周囲から瓦はあまり出ていないので、瓦葺ではなかったようです。切り合う柱穴がないので、建て替えも行われていないようです。礎石は宮地の廃絶後に撤去されて残っておらず、下に置かれていた根石が幾つか見られます。


 遺物は須恵器がありますが、全体的に少ないようです。特筆すべき遺物として、礎石抜取穴の一つから、このような佐波理鋺(さはりわん)の口縁部破片が見つかっています。飛鳥時代の物で、厚さは0,3~0,4㎜しかないそうです。見つかった抜取穴の位置で、平安時代の耕作溝が止まっているので、その頃にはまだ礎石が残っていたようです。

 東方官衙地区は、まだ調査範囲が狭く、全体像は全くつかめていません。未だ田園風景が残るだだっ広い場所に、本当に宮殿や役所が整然と並び、官人がひしめいていたものなのか、容易には想像ができない状況です。
 11月30日に行われた、橿原市教育委員会の今井町環濠調査の現地説明会です。

 今井町には二重(一部分は三重)の環濠が巡っていた事が絵図などで分かっています。昭和初期までは実際に生活排水を流すなど、実用で使われていましたが、徐々に埋め立てられて市街地化し、全体像は分からなくなってゆきました。

 橿原市では発掘調査で判明した環濠の様子を復元し、周辺を公園化して往時の景観を再現しようと努めています。

 
 今回の調査地は 今井町の西側環濠の南半分に当たります。奥に畝傍山が見えているので、この画像は南側から見た状況です。
 中央の高く平らな場所は江戸時代の道路面です。その左側(東側)に環濠が掘られています。これ外環濠です。東側の肩は既に判明しているので、内環濠と共に復元されています。しかし今回検出するはずだった西肩は、昭和に入ってからの配管工事で既に壊され、一部分での検出に留まっています。

 今井町の環濠は、新旧の二時期が存在します。旧環濠は幅が30m近くある事が分かっています。これが一重のものか二重なのかは、今のところ不明です。これが埋め立てられたのは、16世紀後半です。

 元々は石山本願寺派、御坊の称念寺を中心とした一向宗の門徒だった今井町は、環濠土塁を巡らせた城塞として機能していました。しかし、1570年代に織田信長の軍勢と睨み合い、土塁を潰して環濠を埋める事で、そちらの軍門に降ります。記録では、実際に戦闘は起きていないようですが、埋土からは銃弾などの当時の遺物が出土しています。

 信長の庇護の元、今井町は商人の町としての繁栄を迎えます。『大和の金の七分は今井にあり』とされたのは、安土桃山時代から江戸時代前期にかけてで、新環濠もこの頃に掘られています。
 しかし、18世紀には全国的に天災などで経済力も落ち込み、今井町もその煽りを受けています。異常気象も多く、かなり大規模な水害が起きて環濠も埋まってしまいます。
 調査で見つかった江戸時代の道は、この洪水砂層の上に盛土をして造られています。幅は3.5m程で、外側は農耕地として利用されていたようです。


 環濠も掘り直されていますが、この時期には繁栄にも陰りが出て、八木近辺が中和の中心となってゆきます。経済の衰えは環濠の整備にも反映しているようで、その後は急速に生活雑器などが投棄されて埋まってゆきます。

 新環濠の埋土からは、江戸時代後期から近現代までの多彩な遺物が出土しています。説明会で並べられた遺物を見た限りですが、この時期によく見られる焼き継ぎなどの修復痕が見られません。衰えが見えるとは言え、まだ流通の中心でもあった地では、新たな製品が容易に手に入ったのでしょうか。修理するよりも手軽に、購入できたのかもしれません。
 中和地域の中心を成した一大環濠集落の興亡は、この後も続けられる調査で、より明らかになってゆくものと思われます。

 私は音楽の素養はほとんどないと自覚しております。ところが楽器は好きなようです。 武道の経験はかなり浅いけど、武具や武器は好きな事も同様だと思っております。

 この画像は、橿原市内の遺跡から出土した古墳時代の琴です。箏は十三絃ですが、上古の琴は五絃が多いようです。

 この画像の女性は、県立万葉文化館の地階展示室にいます。この人の弾いている琴は六絃です。六絃の琴は現在も演奏されていて、和琴と呼ばれています。しかし、私が実際に見た事のある和琴とは、ちょっと違っています。正倉院にも和琴が残されているので、それをモデルにしているのかもしれません。形だけでなく、弾き方もちょっと違います。

 私の知っている和琴は二例くらいしかありませんが、一つはこちらです。春日大社で和舞や東遊の伴奏に使っている琴です。
 年の知れる事を申しますと、三十年近い昔からこれを見ています。そのため和琴とは、このように両側を支える人がいて、立ったままで演奏するものと思い込んでいた節があります。


 もう一例は橿原神宮の久米舞の伴奏に使われている和琴です。こちらは台の上に置いた楽器を椅子に腰かけて弾いています。
 この二例に共通しているのは、琴柱に二股になった楓の枝を使用している事です。そして胴の細くなった側に、龍手という短い脚が付いています。演奏には琴軋(ことさぎ)と呼ばれるピックを使用します。


 こちらも春日大社での演奏です。滅多に見る事はありませんが、座って弾く例です。演奏者は安座し、右膝の上に左足を乗せます。その上に龍手を乗せて、膝の上に横たえる形で演奏するそうです。
 これらのスタイルは、雅楽の国風歌舞(くにふりのうたまい)が確立する過程で定まって来たものだと思われます。そう考えると、万葉文化館の女性がこの形で琴を奏でていたら、違和感を感じるかもしれません。

 琴を弾く人物埴輪の例はいくつかあります。ここでの演奏者は全て男性です。上代、神下ろしをする時、男性は琴を奏で、女性はトランス状態で舞い狂う(仲哀天皇と神功皇后の例を参照?)のだそうです。
 天平時代となると、琴は既に神器ではなくなるのでしょうか。あの展示のように、果たして女性が琴を弾いていたのか、類例を思い出せないので何とも申せません。

 前日からの強風が思いだしたように吹いてくれるので、この日のお旅所では篝の焚けない状況でした。もう、寒いの何のって((((;゚Д゚))))
 田楽の始まる頃には日も完全に沈んで、奈良の夜の底冷えが始まります。


 細男(せいのお)は、他では見る事のできない不思議な舞です。装束も舞も楽も、極めてシンプルです。


 これらの芸能の内、一番新しいと思われるのは神楽式でしょうか。平たく言いますと略式の翁舞です。翁は面を着けず、千歳も省略されています。装束は三番叟も共に浄衣です。

 神楽式が終わると舞楽が始まります。ここから先は、まともな写真がほぼありませんσ(^◇^;)
 曲目としては、『振鉾(えんぶ)三節』『萬歳楽(まんざいらく)』『延喜楽(えんぎらく)』『賀殿(かてん)』『地久(ちきゅう)』ここまでが平舞です。

 この幽霊みたいな写真、何……(。´・ω・)?
 実は地久の途中で一臈の鳥兜が落ちてしまいまして、途中で付け直しているところです。ごくたまにこういう事もあります。 
 ところで賀殿の二臈の人が、すごくうまいなぁと眺めていたら、今回の日使の陪従(べいじゅう)の笛方務めていた方でした。
 昨年あたりから、舞楽の舞人が全般、若い人になったそうです。という事は、この先、どんどん上達して見ごたえが出てくるはず、楽しみです(^^♪

 
 平舞が一連終わりますと、和舞(やまとまい)が始まります。神主舞(二人舞)一曲と諸司舞(四人舞)が二曲。諸司舞の一曲目が終わると、舞台の上で片袖を脱ぐのが印象的です。

 そして走舞(わしりまい)が始まります。
 競馬の勝敗は赤(左方)の勝ちとなったので、先行は『蘭陵王』、続いて『納曽利(なそり)』『散手(さんじゅ)』『貴徳(きとく)』『抜頭(ばとう)』『落蹲(らくそん)』となりますが、私は貴徳の終わったところで退散しました……この頃、また風が出てきて、寒いなんてもんじゃない"(-""-)"
 この画像は『貴徳』です。出手(ずるて)を舞った後に矛を置いて徒手で舞うのですが、この部分がすごくリズムが取りにくくて、本当に難しいんだなぁと思えます。それにしても、今回の貴徳公は滅茶苦茶にキレが良くて男前だった~(^^)/
 この瓦窯は高市郡高取町大字市尾字天満にあるので、この度の調査では『市尾瓦窯跡』と呼ばれています。
 元より表採資料として、藤原京時代の瓦の存在が知られていたので、この辺りに窯がある事は確実視されていました。奈良文化財研究所では、近辺を高台・峰寺瓦窯として、今までにも調査がされて来ました。
 今回見つかった窯は一基だけですが、北側にもう一基あった事がすでに確認されています。
 この画像は、焚口の側から見たところです。奥壁のように見えているのは未発掘の部分で、この埋土を取り除いてしまうと、天井が崩れてしまうので残してあります。その上には、煙道の穴が丸く見えています。

 天井部分は落ちているのですが、高さとしては成人男性の胸のあたりまでですね。

 焚口の右側にやや白っぽい粘土が見えますが、山の斜面のこの部分までを掘り込んでいます。燃焼室や焼成室は日干し煉瓦状の粘土ブロックを持ち送りにして、ドーム天井を築いています。横穴式石室の石積みの代わりに、粘土ブロックを積んで造っている様な状態です。そして、裏込めに白っぽい粘土を充填しています。
 このような方法で窯を造る例は珍しいそうで、工法からも土地柄からも、渡来系の技術者が関わっていたものと考えられます。

 ドーム天井の上の部分は、何層にも粘土を貼り付け、棒で突き固めて仕上げています。窯の中に水が入らないようにと、念入りに仕上げたものと思われます。このような工法は、終末期古墳の石室を造る時にも見られます。



 こちらは焼成室、瓦を入れて焼く部屋を上から見ています。横の壁が途中から、持ち送りのアーチに作られているのが見て取れます。

 この窯はおそらく三度は使われたようで、今見えているのは最後の焼成後の状況です。手前は窯の造り方を調べるために掘っていますが、左側の壁を見ると、積まれた粘土と裏込め粘土との境界がよく分かります。
 焚口と焼成室の高さを比べると、それ程の差はないそうで、途中に段は設けず、床は約15度のスロープ状に作られていると思われます。
  かなり大きな丸瓦や平瓦が並んでいますが、特筆すべき遺物は馬の下顎の歯です。歯の下に、天井を崩したと思われる焼土のブロックが入っているので、窯が廃絶した後、御供えのように、馬の頭を置いたのではないかと考えられるそうです。
 古墳時代から馬は、水に関する祭祀には使われますが、窯のように火を使う場所での類例はないという事で、極めて珍しい例です。


 更に重要な遺物としては、藤原宮大極殿に葺かれた軒丸瓦です。奈文献の分類で6273型式と呼ばれる軒丸瓦だそうで、燃焼室から一点だけ見つかりました。この瓦のおかげでこの窯は、大極殿の瓦を焼くために造られた事が証明されたという貴重な成果です。
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