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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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  聖霊会とは、聖徳太子の命日のお祭です。大阪の四天王寺では、毎年4月22日に大法要が行われます。
 ところがこの日は、午前中にどうしても休めない仕事が入り、午後からホウホウの体で出かけたというところです。到着した時には既に13時を回っておりました(´・_・`)

 
 左方舞の『春庭歌(しゅんていか)』が終わるところでした。この時には一舎利、二舎利共に六時堂と石舞台の間い置かれた高座に着き、それぞれ諷誦分(ふじゅもん)と願文を黙読しています。


 舞人が舞台を降りると、八部衆や童舞の舞人などによる『伝供(でんぐ)』が始まります。
 この後、菩薩と獅子の大輪小輪(舞台の上をゆっくりと二周する)となるので、お茶席に行って来ました。


 戻ってくると、『迦陵頻(かりょうびん)』が行われていました。


 そして番舞の『胡蝶』。
 二曲の童舞が終わると、法要も後半に入ります。そういう訳で其の弐に続く。
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  この度も忘れた頃に報告、橿原神宮の春の大祭のイベントの事。


 橿原神宮が行う『神武天皇祭』の神事は、毎年4月3日に行われています。
 ところがこの4年くらい、橿原市観光協会の主催で行う『春の神武祭』が大掛かりになっています。どうやら『記紀・万葉プロジェクト』の一環のようです。


 今年も4月13日~18日の間は夕方以降、境内や回廊のライトアップや、外拝殿の3Dプロジェクションマッピング、ライブやコンサート、そして19日が最後を飾る参道のパレードが行われました。




 今年の3D映像のテーマは『ネオ・ジャパニズム』だそうで、折り紙や和紙のイメージに市内の観光スポットの紹介も添えて、可愛らしく綺麗にまとまっていました。時間は5~6分というところ。この短さが、もう一度見たいと思わせる効果になっているように思えます。


 深田池の周囲でも、奈良芸術短大の学生さんたちのアイデアで、様々なアイテムと光を駆使した面白い試みを披露してくれました。これは光の船、虹色に照らされる水面に浮かんだ花と、対岸の光との間を漕ぎ渡って行きます。


 現在、橿原市では『境界の彼方』というアニメーションとのコラボレーション企画を行っているようで、こちらの会場でもプロモーション活動をしていました。
 このアニメ、あちらこちらに橿原市内の実際の場所が出てくるのだそうです。今月いっぱい、その周辺でスタンプラリーを行っていて、スタンプを4つ集めると記念品をくれるという事です。ところが、協賛している店舗の大部分が、アニメのファン層に行き易いとは言い難い処で、かなりハードルの高いスタンプラリーではないかと思われます||(-_-;)||||||
 私も3つまでは押してもらったものの、最後の一つが今の今まで埋まりやしないε-( ̄ヘ ̄)┌

 かつて興福寺の境内には多くの木が茂り、南円堂北円堂のある地区と東金堂五重塔のある地区が、別々の寺のように見えていたと聞いた事があります。そのため、南門の延長線となる伽藍の中軸に、中心となる金堂を建立する事が、長い間の悲願だったそうです。


 こうして目下建設中の中金堂は、大屋根の瓦も葺き終わり、4月6日から19日まで一般公開が行われました。私が見学に行ったのは12日ですから、これもひと月近く前の事です(´∀`)
 屋根の天辺両サイドには、金色の鴟尾(しび)が据え付けられていますが、まだカバーがかけられていて、はっきりと見る事はできませんでした。



 軒丸瓦軒平瓦も、発掘によって確認された創建期のデザインで再現されました。軒丸は線鋸歯文縁複弁蓮華文、軒平は均整唐草文という模様です。


 何故(?_?)なのか、またも画像が横倒しです……(ノω;)
 鬼瓦はこんな顔をしています。南都七大寺式とは顔が違いますね。



 裳階部分は、まだ杮葺きのまま、これから葺かれる瓦が下に並べられています。


 本当にどうして縦長画像は、横倒しになるんでしょう((+_+))
 軒下の組物は『三手先組物』といいます。軒の出が5m弱あるそうで、これを支えるために特殊な形のパーツを複雑に組み合わせていますが、実に整然として綺麗です。


 足場にはビュースポットも設けられていました。このように境内を俯瞰し、遠方をも見渡せます。
 このように外観はかなり完成に近づいています。この後は壁の塗装や、内装を行ってゆくそうで、すべての完成にはまだ3年を有するとの事、落慶は平成30年を予定しています。

 

 春日大社の『御田植神事』は、毎年3月15日に行われます。そういう訳で、これも一月半前の行事( ̄▽ ̄)。o0○
 御田植は三か所で行われます。最初は『林檎の庭』、そして『榎本神社』の下で、更には『若宮社』でも行います。これらの画像は、『榎本神社』でのものです。


 御田植ですので、まずは牛が出て来て田起こしをします。


 そして、お百姓さんが均します。


 八乙女の登場。神職の方々が奏する意味深な歌に合わせて、御田植の舞が始まります。赤い襷と袴がとても鮮やかです。腰に下げている籠は、形が蛙に似ているので蛙籠というそうです。よく見ると目らしき黒い点が付いているのですが、チョッと分かり易い画像がなくて残念。


 振りは何となく盆踊りを彷彿とさせて、鄙びた感じが可愛らしく思えます。いつも拝見する社伝神楽とは、かなり雰囲気が違います。御囃子の「ヤーレー、ヤーレー」という言葉が、随分と頭の中で回ってくれますσ(^◇^;)


 そして苗を植えます。松葉の苗と殻付きの稲籾、更には細かく切った餠を蒔いています。縁起物として、参拝の方々がこぞって拾って行きました。
 私も頂いたのですが、田んぼもないのに宝の持ち腐れ、相応な知人に差し上げました(^^)


 この後、若宮社に場所を変えて、同じ御田植が行われます。


 つつがなく神事の舞も終わって、御巫さんも神職さんも大宮の方へと帰って行かれました。拝者の服装を見ると、まだ寒そうな頃でしたねぇ……(-_-)

春日大社の最も重要なお祭りが『春日祭』です。
行われるのは、毎年3月13日ですから、一月半も前の話ですねσ(^◇^;)


天皇陛下の御名代として、御勅使が御出でになられます。
黒い束帯姿の方が御勅使、宮内庁章典職の北島清仁氏です。


御一同、二の鳥居を潜った所にある祓戸神社(はらいどじんじゃ)にて『祓戸の儀』を行います。
ここでは権宮司のご奉仕で、御勅使辨代の方に身を清めて頂きます。
この後、着到殿(ちゃくとうでん)に進まれ、『着到之儀』が行われます。
終わりますと社頭に参進されます。
この時、勅使、辨代のいずれかが藤原氏の出身の場合は、再び戻って来られて、剣先道を通って藤鳥居(ふじのとりい)を潜り、慶賀門(けいがもん)より入られます。
しかし、今年は御二方とも異姓でしたので、南門よりの参進となりました。


招待者以外の見学者も、南門の額塚の手前辺りから、儀式を垣間見る事が出来ます。
これは神様に御供物を差し上げているところです。
黒い束帯が御勅使、赤い束帯が辨代で、第一殿への御奉仕です。
このように神職以外の方が神殿の御前まで神饌を運ぶ例は、極めて珍しいのだそうです。
御棚神饌(みたなしんせん)と呼ばれ、黒木を組み合わせて作られた、とても質素な棚に乗せられています。
二殿以下は神職の方々が運ばれます。
更に酒樽(しゅそん)などを運び、神饌と共に神様にお勧めするのだそうです。
この辺りは瑞垣の内です、全く見る事は出来ません。


次に机が用意され、内蔵寮官人代御幣物を御供えします。
これを宮司以下の神職が、神様の前に運びます。
二人の人が運び出そうとしている、脚の付いた櫃に御幣物が入っていました。
机などが片付けられると、御勅使が幣殿に入られます。
ここで御祭文を奏上されるのですが、門の外からは全く見えない場所になってしまいます。
読み終わった祭文は、宮司が神前に運びます。


左右の馬寮官人が南門から出て来ると、外で控えていた二頭の白馬が曳いて来られます。
御馬の牽廻』といって、神様に馬をお見せするために庭を三周廻ります。


これが終わりますと、『直会の儀』となり、林檎の庭では和舞が奉納されます。
直会殿の内でも、色々な儀式が行われているそうですが、これこそ全く見えません(ノД`)・゜・。

和舞の諸司舞が行われている途中で、南門前を開けて下さいと、見学者は退散させられてしまいます。
今年は御勅使、辨代共に南門からの御退出なので、階段の下まで下がって見学していました。
昨年は雨儀となってしまったようですが、今年は実に良い天気に恵まれました。

5月2日、天理市で道路の事前調査で巨大な石を積み上げた石室が発見され、現地説明会が行われました。


既に盗掘され、天井石や羨道部の石の一部も失われていますが、巨大さは充分に伝わる発見です。


何度かあげ直しても、画像が横倒しになってしまいますね(゜.゜)
チョイと見苦しいですが、玄室部の石は二段積みで2.6mを計ります。
奥壁の幅は2m、下部にはベンガラが残っています。
側壁も二段に積まれ、長さは4.9mあります。


羨道部の残りは壁面で4.5mありますので、石室の残長は9.4m、かろうじて両袖式です。
床には長径30cm程の石が敷かれています。


またも横倒しです||(-_-;)||||||
羨道部床面の一部にもベンガラが見られます。
釘も多数出土しているので、木棺による追葬が行われたと考えられます。
また玄室部からは、多くの凝灰岩の破片が出土しているので、石棺が置かれていたはずです。


石室内からは13~14世紀の瓦器碗が見つかっているので、この頃に大規模な盗掘を受けて、石材も運び出されたのかもしれません。
その後、この場所は山城が築かれたそうで、この大きな溝は薬研堀のようです。
運び出し損ねた石材が、底に幾つも転がっていました。
楔の後が残った石も見られます。


上って来る途中には、山城の土塁が残っています。
所々に廓状の平坦面も見られました。


玄室部に残っていた石棺片の一番大きな物です。
平坦に削られた面には、ノミ跡も見えます。
組み合わせ式の石棺でしょうか?


石室の床面に置かれていた須恵器です。
7世紀前半から半ば位の物でしょうか。


更には大刀の部品や鉄鏃も見つかっています。
釘は羨道部の木棺の物です。
上に見える瓦器碗の破片が、盗掘のあった時期を示しています。

全体を発掘した訳ではないので、墳丘の全貌は分かりませんが、直径30m程度の円墳の可能性があるそうです。
布留遺跡や石上神宮を見下ろす位置に、石上・豊田古墳群の最末期に単独で造られた墓だという事です。
眼下の遺跡に大きな影響力を持つ、有力者が埋葬されている可能性が大きいと考えられます。
『釿始之儀(ちょうなはじめのぎ)
本来は林檎の庭が執行の場なのですが、雨儀なので幣殿(へいでん)にて行われました。
 
  
 
「上奉行、下奉行、承仕、木守、番匠、葺師、左官ノ各役、社頭へ出仕す」と式次第にあります様、関係する諸役が入場し、宮司以下の神職も御出でになりました。

かつてならば、奉行は興福寺方から出されたそうです。
番匠たちも専任の宮大工として組織されていたのですが、今は造替を請け負う工務店の棟梁以下の方々が、それぞれの役を担われています。

幣殿には料木(さめぎ)と呼ばれる白木の角材が4本並べられています。
春日大社には四柱の神様が座し、御本殿も四棟並んでいます。
そのために四本の科木で、それぞれに作法を行います。
第一殿の作法を行う方は『惣大工(そうだいく)』と呼ばれ、衣冠を着ておられます。

 

私が見ていた場所は、第二殿の科木の前でしたので、上の画像のように見えていました。
何をしておられるのかと言いますと、墨打ちの所作をしているのですが、手元が全く見えませんね、これではσ(^◇^;)



そして「四方を拝して
(ちょうな)を打つ事三度す」と、科木の両端と真ん中に打つ動作を行います。
各科木に、二人の匠が同じ所作を行います。



こちらは第四殿の科木での墨打ちです。
所作を行うだけなので、墨壷には済は入っていませんし、道具も装飾がされています。
四本の科木で墨を打ち釿を打った後、葺師(ふきし)が登場します。





このように、科木の上に檜皮を置く事で葺いた所作となります。



それを更にひもで縛る事で、葺師の仕事は完了。
これを第四殿まで行います。



最後に左官役の人が出て来て、御本殿に拝礼して仕事の完了となります。



この後は仕事の完了を報告し、宮司以下の神職一同も本殿に拝礼した後に退出をします。
これは、神職の退出を匠一同が見送っているところです。



番匠らが退出した後、神職さんが第一殿の科木に墨書で書付をします。
このようにして、一連の儀式は番匠座に扮した大工さんたちが中心となって、無事に執り行われました。
春日大社第六十次式年造替の『仮殿遷座祭』に伴う事始の儀式として、『木作始式(こづくりはじめしき)』が三月一日に行われました。
既に一月半が経っておりますσ(^◇^;)

鎌倉時代以来、春日番匠座(かすがばんじょうざ)と呼ばれる宮大工の人々によって執り行われた祭祀なのだそうです。
ところが文久二(1862)年以来途絶えていて、先の御造替の時に再興されたそうです。
祭祀を行うのは番匠座の人々で、神職は横で立ち会うのみ、神社側に記録が残っていないので苦労したという事です。



まずは朝から三笠山の麓、石荒(いしこう)神社御前で『荒神祓之儀(こうじんばらいのぎ)』が行われました。
実を言うとこの日は、早朝から丸一日雨天……まったく止む気配なし・゚・(ノД`;)・゚・
雨儀でしたので、見学する側もレインコート(傘は御遠慮下さい状況)は着ていてもずぶ濡れ……まともな写真は撮っておりません(;_;)

傘を差して関係者一同が神社の前に御出でになり、陰陽師代の神職が祓いを行い、祝詞を読み上げ、再び傘を差して退出するという流れです。



石荒神社は、この岩座です。

 
そして感謝共生の館にて、権宮司さんのお話、その後場所を変えて昼食(直会)です。
 


この極めてシンプルな食事は『ほうそう献』というそうです。
メインディッシュはなんと……焼き豆腐に蒟蒻です(゜_゜)
ご飯は御赤飯ですが、中世の人たちは何とも粗食だったようです。

この後は回廊内、御本社東の庭で『釿始之儀(ちょうなはじめのぎ)』となるのですが……続くm(_ _)m

 北葛城郡王寺町の西安寺跡調査の現地説明会に行って来ました。
 西安寺という名前は、小字名と古代・中世の文献に見えるそうです。そこに当たる場所には、現在は舟戸神社があります。
 神社の境内や周辺では、飛鳥時代から中世の瓦が採集されると、昭和初期から報告があります。記録では明治14~5年くらいまで、御社に向かって左手前辺りに、塔の心礎をはじめとした礎石と思われる巨石が残っていたようです。しかし、その後に大和川に架けられる橋の基礎工事に使うために運び出されてしまったという事です。


 鳥居を入って御社前に進むと、左手側に調査区が開けています。御社はほぼ北向きに建っているので、調査区は東西に開けています。
 あまり広くはない境内で、木を切らずに調査するという事で、拡張も最小限に留めています。これは西から見た様子です。

 
 上の画像の手前の部分に近寄ってみますと、このような穴になっています。これは北から見ているので方向が違いますが……
 ここにかつては、心礎四天柱があったはずです。真ん中部分、周囲よりも更に浅く一段下がっている所に心礎がありました。そして心礎の跡を取り囲むのが、四天柱の抜取穴です。裏込めの根石なども運び出したのか、あまり大きくない割られたような石が散乱しています。


 礎石は抜取穴より東側に二つ見つかっています。右側の礎石1は、円形の柱座(はしらざ)から左右に地覆座(じふくざ)が作り出されているので側柱だと考えられます。どちらも花崗岩です。
 周囲の土も、礎石自体にも火を受けた痕があります。しかし火事が起きたというよりも、寺院が廃された後に倒壊した材などを、この場所で燃やしたようで、基壇上面には12~3㎝の厚みで炭化層が検出されています。この層から焼けた壁土凝灰岩破片が少し出土したそうです。
 礎石周辺や更に奥で白土も出土しています。炭の下になっていたので、ここでは黒いシミのように見えています。壁に塗られていた物とも思えますし、塔の内部の床が白土仕上げになっていた可能性もあります。


 更に奥で、基壇の端を検出しています。花崗岩の平らな面を外に向けて並べているので、乱石積基壇だと思われますが、凝灰岩の破片も多く見つかっているので、基壇外装に使われていた可能性もあります。


 これ、本来縦の画像なのですが、どうしても横になってしまいます(゜_゜>)
 ともあれ、東から見るとこういう具合です。礎石が二つ出ている事で側柱の柱間が2.15m、基壇の端が検出された事で、側柱からの出も3.27mと分かります。これによって一辺が12.99mの基壇が復元できます。これは法隆寺の五重塔とほぼ同サイズだという事です。
 基壇自体が造られた年代を決定するような遺物の出土は見られないのですが、礎石が露出していた時期があるという事からも、飛鳥時代の終わり以降の建造かと推測ができます。


 また画像が横ですσ(^◇^;)
 時代を示す遺物としては瓦があります。古い物は法隆寺若草伽藍と同じタイプ、飛鳥時代の物が見られるので、寺院はこの頃に創建されたと考えて良いのでしょう。


 そして新しい方では、鎌倉時代の巴文軒丸瓦が出土しています。この画像の右側の瓦ですが、横に走っている線は版の傷です。版型が割れても使用しているのが、何とも見事です(^^;)
 寺院としてはこの頃に廃絶したものと思われます。

 文献には現れるのですが、今まで遺構が確かめられなかった西安寺が、今回の調査で塔の位置や大きさが判明しました。
 塔の南側にも調査区を開けたそうですが、こちらでは遺構は全く見られなかったという事です。現地形などから見ると、寺院の正面は西になるようです。北側に金堂を置く程の平らなスペースもあるように見えます。これらから伽藍配置は、向かって右に塔、左に金堂を置く法起寺式になるものと考えられます。
 調査は今後も続けられ、更に西安寺の具体的な姿が分かって行くものと期待されます。

 解体前の塔では、西側にしか階段がありませんでした。しかし、今回の発掘調査によって、各面から階段を作り出す盛土地覆石が見つかり、四面に有った事が分かりました。
 
 
 各礎石ですが、心礎四天柱側柱共に創建当時の位置から動いていない事も判明しています。裳階柱だけは、明治の修理で置き直したようで、古い据付け穴を新しい据付け穴が切っている様子が見られます。
 西塔の心礎には舎利穴が見られたのですが、こちらにはありません。二つの塔がある場合は、どちらかの一方に舎利を収めたようです。東塔心礎の上面は、このように浅く削られています。これは江戸時代の修理で、破損していた芯柱の根元を切って、根継石を入れたため、その底の形に合わせて削ってしまったからだという事です。


 こちらがその根継石です。楔の跡も生々しい花崗岩の塊で、綺麗に仕上げているとは、御世辞にも言い難い物ですσ(^◇^;)


 そしてこれが、西塔の心礎の原寸大レプリカになります。このように芯柱を収める穴の中心に、舎利穴が開けられています。


 全て版築で仕上げた基壇ですが、礎石を置くためには据付け穴を掘らなければなりません。この土が恐ろしく固いそうで、発掘の時にも通常の道具では歯が立たず、石工用の鑿まで使ったのだとか。
 そして礎石を置いた後に土を入れて固定します。この土の表面も3㎝程度の径の棒で、これでもかという程に突き固めている様子が、至る所の穴で見えます。

 今回の発掘により、東塔の基壇はかなり残りの良い状況で、創建時から何度かの修復が加えられて行った事が分かりました。そして基壇外装に使われた石などが、西塔とは異なる事も判明しています。これがどうしてなのかは、これからの研究材料となるのですが、まずは解体、発掘の成果より、今後の修復の方針を明確にして行くのが先決です。


 そして再び、このように二つの塔が並び立つ姿が現れるのは、数年先の事になるという事でした。
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