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藤原雄田麻呂が百川と改名したのは、恐らく光仁朝の始めの頃だと考えられています。
一昨日から書き直しを始めている話でも、初っ端から山部親王が「雄田麻呂」と呼びかけて、「百川です」と答える詰まらないシーンがあります。
これをこの一家が、いちいち繰り返してくれるという、更にどうでも良いような場面もあったりします。
何やら、奈良時代の後期には、名前を変える事でも流行ったのでしょうか?
皇族が賜姓されて名前が変わるのも多いのですが、藤原仲麻呂が藤原恵美押勝になり、藤原八束が真楯になり、千尋が御楯になり、宿奈麻呂が良継になり、文室智努が浄三になり……他にも例があるはずなのですが、あまり思い出せませんσ(^◇^;)
随分以前から疑問に思っていたのですが、この頃って幼名は平安時代ほど普通にあったのでしょうか?
推古天皇の幼名を額田部皇女といったと、日本書紀に書かれていたと思うのですが、いつ名前が変わって、何と呼ばれたものなのでしょう?
炊屋姫皇女?
しかしこの女帝のおくりなは豊御食炊屋姫天皇ですから、果たしてそれで正しいのやら……?
さっさと書き進めればよいものを、どうもこういう事に常々引っかかって、手が止まってしまうのが良くない傾向のような気が致します(~_~;)
以前に知人に『スピコン』とやらに引っ張ってゆかれてから、スピリチュアルという言葉に何となく抵抗があったりしたします。
そこでこの言葉を辞書でひいたところ、
アメリカで民衆の中から発生した宗教的性格を持つ歌。ホワイト・スピリチュアル(白人霊歌)、ブラック・スピリチュアル(黒人霊歌)及びゴスペル・ソング(福音賛美歌)など。
……とありました。
間違っても、誰もゴズペルなんざ歌っちゃあいなかったぞ(ーー;)
するってぇと、現在巷で若い者らが特に好んで言うスピリチュアルたぁ、どういう意味なんだ(?_?)
まあ、スピリチュアリズム(精神主義)の事なんでしょうかね。
何を今更、変な事を言い出すのかと申しますと……
何となく手相関係のサイトを興味半分で眺めておりました。
すると、スピリチュアルな三大相とかいう線が載っておりまして、こいつが仏眼相、神秘十字、気付き線なのだそうです。
????(゚_。)?(。_゚)????
私、三つともあるんだけど、ここでゴスペルでも歌う必要ある?
??????(゚_。)?(。_゚)??????
仏眼相って、うちの家族、全員、両手の親指にあったような気がするんだけど、誰でもあるものじゃないの???
そういう(どういう)訳で、画像は奈良国立博物館の如意輪観音さん。
鎌倉時代の、滅茶苦茶美形の御方です。
私もかなり以前から、何度も見かけた事がありますが、二~三頭が一緒にやっている事もありますので、目撃率はかなり高いのではないでしょうか(^^ゞ
鹿はさて置きまして、ここ何日か『続日本紀』で大宝から養老年間を眺めておりましたが、やっぱり何か引っかかる事件がないんですよね……いえ、出来事はそれこそテンコ盛りにあるのですが、今回の主人公の行動が直接に大きく関わる事件につなげられないと言いますか、うまくストーリーが流れ出してくれないのが困りものです。
そこで気を取り直して、以前に書いたものを読み返してみましたら、これが見事に悪い方に当たりました、いや、考えようによっては良い方にかな(?_?)
はっきり申しまして、ひどいストーリー展開です。
どういう状況で、私ゃ、こいつを書いたんだろう……自問するのも情けないかな、細かい展開がほとんど分からない、いやむしろ書かれていない(@_@;)
何ちゅうか、昨年の春にNHKでやっていた某古代史ドラマを思い出すような、ストーリーの不明さと御都合主義にまみれておりますわ(T_T)
こんなもの読んだら……書き直しちゃるわい!!!!!!!!!!
そういう訳で、主人公は藤原百川のままで良いのかな~(・・?
とにかく時代背景を説明せにゃならんから、必然的に枚数は増えるだろうなぁ。
取り敢えずは、もう一度、宝亀年間の流れやら人物の関係を頭に叩き込みなおさなければ。
明日から、少しは忙しくなるかな……六百枚越を手放してから一週間、やっぱり何か書いていないと落ち着かないですわ、これって何中毒?σ(^◇^;)?
講座の参加者、恐らく八割方は女性でしょうか……和裁や着付け関係の方々も参加されていたようです。
しかしですよ、女房装束と申しますか、五衣唐衣裳服と申しますか、平たく言えば十二単ですから着付け教室の範疇ではなく、既に衣紋道です。
衣紋道の知識なんぞ、私にはこればかりもこざいません(~_~;)
山科流と高倉流があるくらいは、有職故実なんぞを調べている時に、言葉としては知っていても内容はまったく分かっておりません。
前半は女房装束に限らず、公家の装束が成立するまでの歴史、後半が実際に山科流の女房装束の着付けとなりました。
モデルを御方(おかた)と呼ぶそうですが、今回に御方となるのは画像ような若い可愛らしい女性で、二人がかりで着付けて行きます。
髪型も江戸時代以降はこのような垂髪ではなく、皇族女性方の成人式や結婚式の時に見るような、大垂髪(おおすべらかし)になります。
考えてみればお雛様も大垂髪ですから、もしかして現代で女房装束と言うとそちらを思い出す人の方が多いかもしれません。
それにしてもいわゆる十二単の着付けを見たのは三回目ですが、憶えている限りでは五衣(いつつぎぬ)は既に数枚を糸で縫い合わせた形で、そのまま着る事ができる形式になっておりまして、今回のものも同様でした。
まぁ、以前に聞いたところでは、これら現存している装束の最も古い物でも江戸時代を下らないそうなので、それを基にして復元しているのでしょう。
今回の襲(かさね)は山吹の匂(におひ)かな?
表着(うわぎ)はクリーム色の亀甲地紋に赤紫の浮線綾紋、唐衣(からぎぬ)は薄紅梅の襷地紋に、薄い黄色の向蝶の丸紋でしょうか……色の名前が良く分かりません(+_+)が、若い女性にはとっても似合う彩りですね。
……にしても、平安時代からはかなり遠ざかっているから、襲だの紋だの色だの、咄嗟に思い出せなくていけませんわ(^^ゞ
あっ、後姿の画像を載せるのを忘れてますね……後ほど、気が向いたら追加しますかσ(^◇^;)
そして明日からは本行の始まりとなります。
土曜日に東大寺の管長さんの御話を聴きに行った後、観音堂(二月堂)付近に廻ってみたところ、参籠所の前には、このようにお松明の竹が並べられていました。
観音堂の周囲は竹矢来で囲われ、周囲にも結界が張られていました。
この結界の注連縄は、練行衆が試別火に入った次の日、堂童子さんたちによって二十一日に張られるそうです。
こちらは開山堂の注連縄です。
このような注連縄は、行に参加される僧侶や童子の方々の家にも掲げられるそうです。
これは勿論、俗と聖を分ける物、シキミの葉と紙垂という神仏混合の象徴だったりもします。
この辺を見ていると、やっぱり日本の仏教って、かなり早い内から神道との融合が始まっていたのかもしれないなぁと、やや明後日の事を考えつつも、今年はお松明、見に行けるかな~?
何せ五日が仕事なんで……終わったらすぐに逃げようかしら(@_@;)
奈良の町中で色々な人と出会う事で学んでみようと、開かれている『奈良ひとまち大学』に初めて参加して来ました。
ジャンルも場所も講師も様々、コンセプトは色々な意味で奈良に根を下ろしている人に会って話をしてみよう、見識を広めて、活動を知る事で理解を広めよう、といったと事でしょうか。
本日、私が参加したのは『私が阿修羅を運んだ男です!~美術品輸送のエキスパートに迫る~』というタイトルで、日本通運の海老名和明氏が講師として、奈良女子大学の記念講堂で授業が行われました。
講演会とは少々違う、人数も多からず少なからずで、聴講者からの質問も遠慮なく受け付けてくれて、一方通行にならない、なかなか面白い授業でした。
それにしても、自らの仕事に誇りを持っている人というのは、月並みな表現ですが、実にカッコいいです。
たとえ外見はどこにでもいそうなオジサンだとしても、仕事をしている時、仕事について語る時の姿は、そうですねぇ、オーラが違うっていうのはこういう事?!
また予定が合いましたら、他の授業にも参加してみたいと思う催しでした。
講師の方の魅力も勿論、スタッフの方々の尽力にも頭が下がります。
講師として参加して下さる人材が数多くいるという事も、奈良という町は捨てたものじゃないですね。
中和でもこういう催し、してくれないかなぁ……と思えども、中心になる場所や組織がないんでしょうかねぇ。
この数年、奈良町はかなり人気スポットとして注目されていますが、橿原市の今井町と言っても、県外の人は殆ど知りませんからねぇ……
それでも、以前に比べたら今井町にも町屋を利用したスペースも増えてきましたから、少しずつ活気は出ているとは思うのですが。
ところで、下の画像は『お雛様カプチーノ」、近鉄奈良駅構内のカフェにて(^^ゞ
昨夜より東大寺修二会の試別火に入っています。
26日には惣別火入りし、28日には練行衆は参籠宿所に入り、3月1日から本業が始まり、15日まで毎晩、観音堂に入る僧侶の足元を照らす大きなたいまつが上がります。
この修二会を始めたのは、奈良時代の名僧として知られる実忠和上(じっちゅうかしょう)です。
最近では『頭塔』を造った人として、クローズアップされる事も多いようですが、実忠さんといえば『お水取り』、こちらの方が、今でも通りは良いかもしれません。
この画像は先日の『なら瑠璃絵』の時に、奈良国立博物館の新館にプロジェクターで映し出されていた『二月堂縁起』に描かれた実忠和上です。
『二月堂縁起』に寄れば、実忠和上は笠置寺の龍穴から都卒天に行き、十一面観音の悔過の行法を学んで、それを戻って来てから実践されたそうで、この行法が今に至るまで修二会として続いているのだそうです。
『東大寺要録』に寄れば、この方は神亀三(726)年に生まれて、没年は不明ですが、弘仁六(815)年には有名な『東大寺権別当実忠二十九ケ条』を記した事になっているので、九十歳までは生きていたという事になります。
和上が十一面悔過法要を始めたのは天平勝宝四(752)年、大仏建立と同じ年だという事です。
この時にはまだ二月堂は当然ながらありませんので、前身となる金光明寺の頃の観音堂ででも行ったのかもしれません。
そして大同四(809)年まで、約六十回(計算では五十八回)にわたって参籠を続けたと縁起は言っています。
修二会を始めた時は二十七歳(数え)、最後の参籠は八十四歳(数え)……大した御方です。
ところで私は、この実忠和上と唐招提寺の如法師がしょっちゅう、ダブるんですわ。
まあ、私の書いた与太話の中で、実忠師と親王禅師(早良親王)、如法師と開成親王が常にコンビを組んでいるようなところがあるので、これも原因なのですが、実忠師も如法師もコーカソイド系の外国人らしいんですね。
これで昔から、この二人を時々、ゴッチャにするような所があった訳です。
如法師は鑑真大和上の弟子なので、いつ日本に来たのかははっきりしているのですが、実忠師となりますと、本当に外国人なのかも実のところ良く分からないようです。
確か、以前に書いていた話の中で、二十数年ぶりに東大寺を訪れた五百枝王が、この実忠師に再会して早良親王の事を話すようなシーンを書いていたのですが、ここでも不思議な色の目をした老僧とか何とか、言わせていたはずですわ(^^ゞ
実のところ、実忠さんって本当に外国人だったのでしょうかね?
木曜日か金曜日の新聞に載って、土曜日に現地説明会でしたか。
3次調査以降、こちらの遺跡は京都府ではなく、木津川市教委が担当しているようですね。
そういう訳で今回の第5次調査では、3次調査の時に確認された仏堂の西側、一段高くなった平坦部から斜面の裾にかけて、平坦部の背後の斜面から山頂部にかけての広い範囲に、実に17本のトレンチを入れたそうですが、その内の14本からはまったく人為的な痕跡は確認されず、この寺が山岳修行とは無関係だろうという事が分かったようです。
西側の斜面から弥生土器の破片や石包丁が出て来たそうで、寺院よりもかなり古い時代に高地性集落があった可能性は在りそうですが、本来、山頂部にあるといわれていた古墳群は、どうやら無い事が確認されたようです……何で、遺跡地図に古墳群で載っていたんでしょう?(゚_。)?(。_゚)?
今回も木津川市在住の早川和子さんの再現イラストが受付に掲げられていましたが、2次調査の時の夜の法要の場面に、何と細身の三重塔が書き加えられていました!天(~o~)晴!
今回の調査で確認された遺構は、この塔の跡です。
上の分かりにくい画像、三つの礎石が写っていますが、手前の大きな物が塔の芯礎、後の二つと、手前の抜き取られた二つのくぼみで四天柱になるのかと思いきや、側柱なのだそうです。
柱間は一間(180cm)程度ですから、人の入れるような空間は殆どなく、それにも拘らず周囲の遺物の出方から、7尺(210cm)もの軒が出る可能性があるのだとか……かなり異様な姿の気がするのですが(゜.゜)
もう一つ不思議なのが、基壇の作られた様子がトレンチ断面を見てもない事です。
見た感じ、地山直上で礎石があるような……抜き取り穴のそこはどう見ても地山だよねぇ?
しかし、ここの土って馬見丘陵にそっくりで、掘り返された後にまたつき固められると分かりにくいんですよね……ベッタベタの粘土で(T_T)
それはともあれ、この塔も火災にあった事がはっきり分かりまして、壁土が焦土化して礎石の周囲に堆積し、礎石そのものも赤く変色して破損していました。
この塔の付属品と思われる陶製の相輪の破片と、ミニチュアサイズの木製の巻斗が、2次調査の時の曲水池から出土しています。
こちらの画像は、今年の『発掘された日本列島』展に出されていた巻斗です……本日、大阪歴史博物館で見て来ました。
今回の出土遺物としては、薬師寺式の軒丸瓦と平瓦、和同開珎に万年通宝、鉄釘といったところですが、瓦類は普通の寺院に使われるサイズで数も少ないので、今回の小さな塔の屋根に葺かれていたとは考え難く、一部分に何らかの形で使われていたのかもしれないと推測されています。
さて、いつもながらにこの寺院は誰が何の目的で建立したのか……時は奈良時代の後半、場所は推定恭仁京右京の最南端?
極めて高貴な御方のプライベート空間としての宗教施設に位置付けられるのでは……調査担当の方々は、控えめながらそのように言われていたのですが、調査はまだ続き、既に史跡としての登録も勧められ、整備の計画も持ち上がりつつあるのだそうです。
来年度以降の調査では、さて、どのような事が分かりますものやら、期待しましょう(゜_゜)
どこかって、丹波橋から一番近い陵墓といえば柏原陵です。
相変わらず墓参という態度ではありません(ーー;)
そしていつものように、三々五々人がやって来て、不思議と一人になる事がないんですわ……近所の人の散歩コースなのかしら?
相変わらず夕方のせいか、鴉があちこちで鳴いているのですが、ここはハシブト鴉が多いのでしょうかねぇ?
訪問したのは昨年の五月以来、次の予定は多分、今年の五月三日σ(^◇^;)
それにしても昨年と同じように、北東の方向だけ木の梢がざわつくのは何故?
風の通り道になるような地形なのでしょうかね?
確かに参道を歩いていると、風の変わる場所があるのですが、これは明らかに地形のせいだと思いますわ。
特に桃山御陵の方へ行く道の手前辺りで、それがはっきり分かりますから、そちらに風が抜けるのでしょうね、ってのか吹き付けて来る時の方が多いかな?
