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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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奈良町にいた猫様シマコではありません。
うちのシマコは、生憎とここまでは太っておりません。

少し前に、奈良町で会った御猫様です。
この毛色からすると、女の子でしょう。
寒いから毛皮が膨らんでいるのかもしれませんが、かなりメタボ体形と窺えます。

ところで原稿、プリントアウトするところまでは出来ておりますが、概要をまだ書いておりませなんだ(~_~;)
六百枚を二枚に要約せいって、かなり理不尽だと、いつも思うのですよね……
明日には、その辺もやっつけまして、土日の内にプリントアウトして、遅くとも月曜の朝にはポストに放り込みたいところですわ。
そういえば、土曜日って木津川市で現説あるんだっけ……その後、京都にも行かなけりゃ(゜.゜)
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石油ストーブの上でこれは何かと申しますと、その辺の包含層の土で作った筆置き用の馬です。
数日乾燥させた後、数日ストーブの上に置いておくと、素焼き状態になりまして出来上がりです。
昼休みなどに作って、意味もなく増やしておりまして、既に十頭くらいいるかな……使うの私だけなんですけどね、今のところは(~_~;)

まあ、これは別に仕事とは関係なく、休憩中のお遊びの一つです。
そして今日も今日とて休憩中、粘土をいじりながら遊んでいたのですが、頭の中でどういう訳か、氷高内親王が延々と愚痴を言っているんですね(ーー;)
仕事時間になりまして、今度は五世紀末くらいの埴輪を延々いじっていた(こっちは仕事ですよ)のですが、そこでも色々な人に絡んでいるシーンが頭に浮かんで来まして……

主に絡まれている相手は志貴親王なのですが、それが藤原房前になったり、長屋王になったり、軽王になったり、阿閇内親王になったり、春日王になったり、首親王になったり……
つまり年齢的にバラバラなので、ストーリーとして浮かんで来る訳ではないのですが、何でまた、急にこの女性の事が気になったのやら良く分かりませんわ。

次はこの辺をしっかり、自分の中で整理するためにも書けって事なのかしらねぇ(@_@;)
考えてみれば、志貴親王の後半生のプロフィールって、具体的に書いた事が全くないんですよ。
息子や孫の思い出の中には、かなり無茶苦茶な人物として出て来るのですが、実際はそこまで弾けた人ではないはずです。
多分、藤原右大臣と罵り合いもしなければ、長屋王ともつかみ合いのケンカはしていないと思いますし……

大きな馬の脚と尻尾を囲んで……何の騒ぎ?ところで、この馬は筆置きなのでかなり小型でして10㎝もありません。
最初は奈良時代の土馬のつもりだったのですが、筆が転がらないように鞍だのあおりだのを付けている内に、だんだん別物になって来たような……σ(^◇^;)
実際の土馬は20cmくらいはあります。
大きさの比較は、この程度のもの……馬じゃなくて、鼠に見えて来ます(+_+)

しかし、どうでも良いけど、今日のNHKの歴史秘話ウンヌンいう番組は、アプローチが気持ちが悪かったですわ……
途中までは、まあ、こんな路線ですよねと、気軽に見ていたのですが、後半の持って行き方が酷過ぎますよ。
歴史の話をかなり狭い範囲で、面倒な事を切り捨てて編集すると、ここまで意味不明のものになるという典型かもしれません……にしても下世話過ぎるんですよね。
私、『万葉集』、嫌いになりたい訳でもなんでもないんですけど、こういうの見させられますと、時々、マジでうんざりしますわ……・゚・(ノД`;)・゚・
六百枚越えの件の話、とりあえず書き上がっております。
三度目の読み直しに入ろうと思っているのですが、とにかく長くて吾ながら面倒な(ーー;)

ところで本当にどうでも良い事なのですが、この話の中で出てくる度に、悪口しか言われていないんじゃないのかという登場人物が何人かおります。
まずは、橘朝臣奈良麻呂……男前の狛犬とか呼ばれてます(-_-;)
そして、藤原朝臣仲麻呂……親子二代に渡って悪口言ってます、白壁王の家では(~_~;)
更には、大伴宿禰家持……山部王が言うのはまだ分かるんだが、藤原雄田麻呂市原王にまで言わせるなって(゜.゜)

この人たちって、いじられキャラ、もしかして??
一番のいじられキャラって、本来は主人公なんですけど(^^ゞ
それに藤原仲麻呂以外は、それ程登場してないしねぇ。
ちなみにこの御仁はいじられ役ではなく、主人公イビリに徹してますけどね。

奈良女子大学 記念講堂奈良女子大に行ったのは二年ぶりでしょうか、昨年は全然、講演会やシンポジウムには参加している余裕がなかったような気がしますから。

こちらで土曜日に研究会などをしてくれると、チョッと嬉しいんですよね。
何せ大学の学食は安くて結構リッチ、そしてこの女子大は特に美味しい(*^。^*)

ちなみに今回紛れ込んで来たシンポジウムは、
『都城制研究集会 都城の廃絶とその後
報告者の名前を拝見しますと殆どは考古屋さんですから、私には極めて分かりやすい内容だろうとの予測の元に出かけました。
予想は概ね当たっておりまして、今回の切り口は都城の廃絶ですから、特に文献に現れない部分を発掘によって明らかになった事実で補足してゆくという具合の試みになって行きます。
そういう訳で、事実報告以上に想像力がモノを言うと申しますか、頭の切り替えや柔軟さを要求されそうな雰囲気です。
しかし言われてみれば至極当たり前の事も多く、私が今まで件の与太話群を書くに当たっての疑問を研究者方々も当たり前に持つようで、取っ付き易いと同時に妙な安心感があったと申しましょうか、とにかく全体的に面白かったです。

それにしても最後の方で、会場より京都府で恭仁京の調査に携わっている先生が、留守官に関しての問題定義をされていまして、これがかなり目新しい視線だなと思いましたわ。
留守官を置くという事は、その宮がまだ見捨てられていない証拠と考えられるにしても、難波宮においては一度も留守官を置くという記述が見られないのは何故なのか、これは初めて聞いた指摘です。
確かに、聖武天皇紫香楽(甲賀)や難波への行幸に当たって、平城恭仁の両京には置いているのに、それどころか平城遷都に当たって藤原京にも置いているのに?
難波宮調査担当の先生は、留守官は首都に置くのであって、副都の難波には特に規定もなかったのではと言われていましたか……?(゚_。)?(。_゚)?憶えとらんのか(ーー;)

学食のデザート!ここで私が思い出した疑問が、天武天皇なり聖武天皇副都制を考えるに当たって、それぞれの都の主の存在を考えたかと言う事です。
副都という思想、中国王朝などの例に倣っているのでしょうが、こちらでは皇帝太子は同じ都に住まないという原則があります。
副都制は導入しようとしたのに、こちらの発想はどうだったのか、これを検討している例を私の不勉強なのか、殆ど聞いた事がありません。

私は勝手に、難波宮の主は氷高太上天皇だと思い込んでいるようなところがあるので、皇太子のポジションについても時々考えておりました。
天皇が東国行幸の後に恭仁に入った時、皇太子皇后は一緒だったのか、こいつが以前からの疑問です。

藤氏の氏長だった外祖父が、長安をモデルにして平城京のプランナーとなったとしたら、藤氏を否定したくても仕切れない孫の天皇は、洛陽をモデルに恭仁京を計画した……昔から良く聞く事です。
そしてこれを聖武天皇に吹き込んだのが、吉備真備でも玄昉でも良いのですが、この人たちこそ長年の唐暮らしで、皇帝と太子が別の都に住んでいる事を熟知していたでしょう。
天皇の大規模な東国行幸に光明子皇后は着いて行ったにしても、阿倍皇太子はどうなのでしょう?
この人こそ、平城を預かって留守官共々に残っていたのではないのかしら??

それから最近疑問に思うのが、太上天皇家政機関を持っているのかという事。
春宮坊皇后宮職のような司はあるのに、太上天皇の生活は宮内省が担当しているままなのでしょうか?
もしも氷高太上天皇が難波にいたのだとしたら、摂津職の中にそのような司が会った可能性はあるのか??
と言っても、太上天皇が難波にいたということ事態が、私の仮定なので調べようもないのですがσ(^◇^;)

結局、このたびも新たな疑問が、次々湧いて来まして、これからも前途多難だねぇと喜ぶ次第です。
ところで、基調報告の最後の先生がどういう訳か文学屋さんでして、万葉集についての話をされていました。
なにやら考古学的アプローチのオンパレードの後に、違う世界の話を聞いているようで……
この先生も少々気の毒に思ったのですが、ここでいつもの阿呆発言……
どうしてうちの連中が揃いも揃って歌を詠まないかが、この先生の言葉を聴いていて、何とな~く分かりました(@_@;)ε-( ̄ヘ ̄)┌

橿原神宮 外拝殿の雪景色本日は建国記念の日、橿原神宮では『紀元祭』が行われるのですが、この日は正月三が日以上に、神宮周辺は混雑するとされています。

例年ならば神宮の方向から凱旋車とやらに取り付けたスピーカーが、騒がしくがなり捲っているはずなのですが、今年はやけに静かです。

家から外を見れば一面雪景色……
昨夜23時くらいには降っていなかったと思うのですが、一晩で見事に積もりまして、11時くらいになっても降り続いていました。

内拝殿前、祭主退出出かけようか否か、車まで行って傘を取って来たり、なにやら用事をした後、12時前くらいに散歩がてらに様子を見に行ってみました。

さすがにもう、祭典は終わる頃だろうなと思っておりましたが、ちょうど祭主の方々が退出するところでした。
勅旨さんは先に退出されているでしょうから、これで人が空くかな……と言うほど、境内も混雑していませんし、外院の庭のテントの下の席も、割合に空席が目立っていました。
それにしても、まだ雪は降り続いています。

今年は、こういう方々も少ないです。それじゃ、御参りして、神武天皇陵を経由で帰ろうかねと思っていたところに、こういう方々が列を成してやって来られまして、カメラマンの格好の被写体になっているようでした。

今日は午後から広瀬大社の『砂かけ祭』があるのですが、果たして行われているのやら……この分じゃ、河合町も積雪で砂かけではなく雪合戦状態になるのでは?
私の車はノーマルタイヤしか履いていないので、遠出は禁物。
そろそろ雪も止み始めているようですので、一段落したら近所に買い物などに出かけようかしら。

実際に明日香村でレンタサイクルなどを借りたり、歩いて散策された方は分かると思いますが、ここは全体的に緩い傾斜の土地です。
勿論、石舞台の方へ上がって行けば山になりますので、急峻な場所もあるのですが、1300年以上前にこの地に都があった時は、なるべく平らで広い空間が取れる場所に宮地を置いた事になります。
池の岸辺は石敷きでした。それにしても南から北へ下がり、東から西へも下がって行くので、後の時代の例から見ると、少々奇妙な場所に都を置いたものです。

この苑池飛鳥浄御原宮より一段下がった河岸段丘の上にある事になるのでしょうか。
この池、渡り堤を挟んで南北の二つに別れ、北池からは更に水路が北に延びて途中で西に折れ曲がるだろうと、これまでの調査で判明しているようです。
今回の調査では、この北池の北東のコーナーが検出され、池の範囲がほぼ定まりました。
上の画像の右上、色が黒く変わっているところが北池です。

護岸は石を積んでいます。検出した池を西から見ますとこんな感じ。
左上の方の石の列が池の東岸になり。右側の列が北岸です。
ちなみに底まで掘りきれてはおりませんで、手前の水中ポンプを突っ込んであるトレンチ、この深さでようやく底の石組みが出ているようです。
まぁ、私の身長くらいは優にありそうですね。

このくらいまで掘ると湧水レベルを超えますので、とてもよく水が沸くそうです。
何でもここの小字は『出水』、池の水の供給源は東の山からの湧水のようです。
そして排水は、一段下がった飛鳥川に流れて行くのでしょうか。
現在の地形で見ると、北の水路から川は少し遠いようにも思えるのですが。

石敷きと建物の雨落ち溝?

池の東側はゆるい傾斜で上がって行きますが、ここは全面に小石を敷いた広場になっていたようです。
一番上の写真の調査区では、あまり石の残りは良くありませんが、東側の調査区ではこの画像の右側のように、かなり良く残っています。
ちなみに左上から手前に伸びている石組みは、恐らく建物の屋根からの雨水を流すための溝、雨落ち溝ではないかと考えられ、この東側(左側)には更に建物か築地塀のような構築物があったと推測できます。

奈良県では、この苑池を史跡指定したので、公園として整備したいのだそうです。
昨年の遷都1300年祭で、北の方ばかりが注目されておりますので、中南和にも重要な遺跡があるんだよ~と、再びアピールして活性化して欲しい訳なんですね、地元としても。
それにしても埋蔵文化財という観点から見て、明日香や桜井はまだ活気があるけど、橿原はどうなんでしょうねぇ……ε-( ̄ヘ ̄)┌
植山古墳の整備、どうなってんだ??
翁と天狗と牛、田んぼを耕します。大和の三大奇祭のトップを飾るのは、二月の第一日曜日に行われる、飛鳥坐(あすかにます)神社の『おんだ祭』です。
御田ですから、前半はこのような御田植え神事です。
御百姓さんはどういう訳か、天狗
御田植えと三番叟がミックスしたような、奇妙なキャストです。
にカラスキやらマンガやらをひかせて、田を起こし畦を作り、水を引きます。


御田植えをする宮司。そして普通の御田植え祭では、早苗を植えるのは早乙女なのですが……何故か宮司が植えています。
そしてこの後、後の三人が観客に向かって、この苗(例に漏れず松葉の束です)を投げます。
縁起物ですので、皆さんこぞってキャッチしてました。
それにしても、後で牛が座っているのが、かなり笑えます。


浦安舞前半終了後、若い美人の巫女さんが『浦安の舞』を舞ってくれます。
巫女神楽にはあまり詳しくないのですが、昭和になってから作られた舞いで、御祭りなどでは一番一般的に行われます。
本来は裾を引きずるくらいの装束で舞うのですが、ここでは略装束ですね。
巫女さんの登場と退出の時に、檜扇で顔を隠すのが奥ゆかしくて可愛いです。


お多福さん、登場!ところで翁や天狗はどこに行ったかと申しますと、お多福を迎えに行っています。
お多福さんは天狗殿の嫁御で、翁を仲人に神前結婚が行われます。
面白い事にお多福役の人は、毎回、このように一番体格の良い人です。
この三人が登場すると、祭りの後半の始まりです。
そしてこの後半があるからこそ、三大奇祭に数えられている訳です。
宮司も、諸役も笑ってますが、さて……

然るに、繁栄と豊穣の祭りです。『おんだ祭』といえば、このシーンでしょう?
思わず、「がんばれ!」という声援まで飛んでおりました。
翁が何をやっているのかって?
天狗の腰を後ろから押しております。
この露骨さに、周囲からは大喝采。
この行為の後に使用した紙が、また御利益があるという事で、これまた皆さん、喜んで投げて貰っていました(-_-)

この辺りの解説を若い神職さんが、真顔でやってくれるのが、これまたひたすら笑えます(~_~;)


一度と言わず二度目もさあ、無事に……と思いきや、翁が手を上げて、もう一回とゼスチャーで示します。
今度はお多福さんが積極的、舞台の上も下も喜んでいるようですね(^。^)y-.。o○

この『おんだ祭』の頃は大抵寒くて、3~4年前には雪が降った記憶があるのですが、今日はとても暖かい日でした。
宮司が最後の挨拶で「お寒い中」と言うと、皆が笑う始末……日が当たっている間は、結構暑かったです。

さて、来週の11日は、やはり三大奇祭に数えられている河合町の広瀬神社砂かけ祭』が行われます。
これはなかなかヘビーな祭りでして、身の危険(?)も感じますわ。
気が向いたら、橿原神宮の『紀元祭』の後で行こうかな~(゜.゜)
それよりも午前中の橿考研の現説もUPせにゃ……

この展覧会の招待状を頂いたのは昨年の夏でしたか……場所は東京の日本橋高島屋?
実は巡回展で、年明けには京都、二月には大阪高島屋に来るという事で、どこの会場で見ても大丈夫という代物でした(゜.゜)
そういう訳で忘れた頃に行って参りました。
現代日本画に疎い私としましては、この方の作品を殆ど知らないんです。
ここ何年かの東大寺の大きな法要の時に、散華の絵を書いていた方だな~という認識(~_~;)
後は、今回の展覧会にも出品されていた、聖武天皇と光明皇后の御影ですね。

平城遷都1300年 光明皇后1250年御遠忌 東大寺本坊襖絵完成記念 小泉淳作展
これが正式のタイトルのようです。
東大寺が創建以来、初めて襖絵の制作を依頼したのだそうで、これらは本坊に納められるのだそうです。

そういう訳で会場に入りますと、ご挨拶の複数のパネルをすごした後、襖16枚にもなるような『蓮池』です。
これだけで圧倒されます……凄いと思うのは、花や葉の形は徹底的なスケッチ!
何でも全て種類の違う蓮の花を描いているのだとか。

そして次の部屋には、ひたすら満開のです。
更には上段の間に掲げられる聖武天皇光明皇后の御影、飛天鳳凰などの障壁画と続きます。
見覚えある絵ですね……昨年の法要の散華に使用されていましたから。

小泉氏はかなりの大器晩成の画家のようで、五十歳を過ぎてから水墨画家として有名になったそうです。
確かに二~三十年前にはモノトーンの冬枯れの荒涼とした風景画を多く描かれていたようです。
それから比べますと、蓮も桜も鳳凰も、本当に同じ方が描かれたのかと驚かされます。

それにしても『吉野の桜』という襖絵は、私にとっては不思議に思える作品でしたわ。
東大寺本坊の桜』にしても『しだれ桜』にしても、上空は紺色の夜空に見えるのですが、幹の向こうは明るい緑、間違っても桜の下闇ではないんですね。
この絵をぽや~っと見ておりますと、
いつぞに書こうとしていた話を思い出しましたわ(+_+)
あの話の中で主人公の親王が子供の頃、吉野山の奥で『西行桜』のシテみたいな老人に会うシーンを考えていた事があるのですが……
この主人公と、今書いている一連の話の主人公達は、完全に人種が違うかもしれませんわ。
つくづく、桜は似合わない連中です(@_@;)

もう一つ……『蓮池』の襖絵を眺めていて、ろくでもない間違いに気付きました。
東大寺金堂の毘盧舎那仏の蓮華座の花弁に描かれているのは、どう考えても『蓮華蔵世界』ですわね(ーー;)
『須弥山世界』じゃありませんわ、多分σ(^◇^;)

相変わらず、延々とルビを振りながら読み返しております。
しかし、一昔も前から気付いているけれど、うちのキャラクターは本当に良くしゃべる。
なるべく説明口調にならないように、しかし状況説明を会話で流して行くと、やたらにしゃべり続けるんですよね、この連中……

手嶋王山部王の兄弟もひたすら、胡散臭い話を延々としていますが、もっと凄い人達がおります。
それが湯原王(55歳・宮内卿)と藤原朝臣仲麻呂(52歳・紫微内相)ですわ(~_~;)
話している内容が、きな臭いなんて通り越して、やたらに恐ろしい……
山部王(21歳・内舎人)、萎縮しまくってます。



諸兄(派の残党にとっては都合の良い解釈だ。自らが画策した事を相手の仕業として吹聴したいか。諸兄とて太上()天皇の手前、そこまでは出来なかったものを」内相は苦笑する。

「何れにせよ、短慮な若い者を唆すには、身内の不幸を大袈裟に吹き込む。なかなか悪い手ではないのやも知れぬ」伯父も鼻先で笑う。




このオジサン二人(紫微内相と宮内卿)にとっては、この程度の会話は序の口ね。
かつて皇后宮職と摂津職がとある場所で、とある事件を巡って、事実の隠蔽と改竄を競って行っていたみたいな事を平気で暴露してくれます……場合によっては騙す相手は太政官(+_+)
おまけに黒幕は複数いるから、とにかく話がややこしい((+_+))

昨年、東院庭園で行われた『曲水の宴』あぁ~、ホントに私の書く話って、華も色気も有ったものじゃないわねε-( ̄ヘ ̄)┌

そういう訳で、内容とは関係ない画像は、多少とも華のあるやつでも?
昨年の遷都1300年祭の時に、東院庭園で行われた『曲水の宴』の様子です。

えま様、拍手とコメントありがとうございました。
奈良時代の刀剣ならば、正倉院に実物が、最高の保存状況で多数残っています。
これが一番優れた資料だと思われます。
さても、この話、400字詰めに換算すると何枚になるんでしょう?
書き直す前は615枚だったのですが、シーンが若干増えていますし、人によっては登場回数も増えてますし、700枚は行かないと思いますが、いつも書いている枚数の倍近くなってますわね。

これの推敲がてらにルビをふりはじめたのですが、こいつが生半可な作業じゃありません。
固有名詞も多いし、普段は使わないような言葉も多ければ、専門用語もしつこく出てきます。
まぁ、歴史モノなんぞ書いているのが原因ですがね。

それにしても、私が言うのも変ですが、うちのスメラミコトも二十歳前後の頃って、結構可愛げがありますわ。
これが親王宣下される頃には、父親からも可愛げがなくなったといわれてますからねぇ(^^ゞ
半年前に書いていた話じゃ、既に四十代後半ですから、そんなものどこ吹く風……
まったく、うちの連中のメインテーマって
やっぱりこの歌ですわね。
ちなみにここ最近のカラオケでの私の十八番だったりするんですがσ(^◇^;)
おまえは誰か
HN:
うめぞー
性別:
非公開
自己紹介:
明日は歴史作家!

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