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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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現在書き直している話がそろそろ完了しますので、次は何を書くべしや~、二~三日前より何となく気にかけておりました。
すると今朝方の夢で、
新羅三郎義光(源義光)が長兄の八幡太郎義家(源義家)の加勢に行った時、次兄の賀茂次郎義綱(源義綱)は何をしていた……?
と、誰が囁いたんだ?(?_?)?

内容とは全く関係なく『石上神宮』この疑問、高校生くらいの時に、東京国立博物館で『後三年合戦絵詞』を眺めていて湧いた疑問でして、それ以来、忘れた頃に思い出しては、何度か調べてみたけれど、結局、話のネタになるような材料が見つけられなかったエピソードなんですね。

昨年の夏に書いていた話にも付き物でしたが、私は別に東北で起きた戦乱に興味があるという訳でもありません、念のために言っておきますと。
ついでに河内源氏にも興味があるかと申しますと、そちらも疑問?
だって、うち、坂東平氏だもの?(゚_。)?(。_゚)?マジ?

それで、そんな話を私が書くのか?
だいいち、後期摂関期よりも後じゃないの……(ーー;)
書くとしても、私は十中十まで、陸奥(藤原氏)や出羽(清原氏)の視点では書かないはずです。
そちらは、東北出身の作家の方が色々書いておられますしねぇ。
で、何、結局、公家と武家の騙しあい?!?(゚_。)?(。_゚)?!?(゚_。)?(。_゚)?!?
そもそも主人公誰さ?????
もしかして、あの安倍幸親(自分で書いていて懐かしい名前だわ)の身内か?!!?

多分、これ、考え直しだわσ(^◇^;)
次の夢のお告げでも待とうかしら( ̄▽ ̄)。o0○
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何を今更な事を申しますと、私は武道とはかなり無縁でして、大昔に居合道を少しかじった以外は、素養も教養もほぼありません。
もう一つ……この行事、昨年から私の手帳に、この日の11時と書かれているのに、いつ、どこで知って書いたのかの記憶がイマイチありません?(゚_。)?(。_゚)?
酩酊している時にでも書いたのか?(?_?)?

外院斎庭にてそもそも『百々手式』とかいて“ももてしき”と読む事が分かっていないのですから……
分からないなりに、ネットで検索して見ましたところ、
こちらに解説がございました<m(__)m>
ともあれ、付け焼刃で散歩がてら(失礼な物言いです、我ながら)に行って参りました。

橿原神宮の外院の庭は何の準備やら、テントが行く張りも並んでいて、この場所でも何かするのかと思いきや、一堂参拝された後に外拝殿前の庭に並べられた床几に着かれまして、これより儀式が始まるようです。

蟇目の儀この冬一番の冷え込みとも天気予報が言う本日、天気は良いのですが、昨夜来の強風が止む気配もありません。
かなり難しい条件下だというのは、素人でも分かります……何せ的が途中でひっくり返るほどでしたから。

先ずは先立って『蟇目の儀』が行われます。
蟇目鏑といえば魔障退散ですね、このくらいは私でも分かりました(^^ゞ
解説もして頂いたのですが、とにかく寒い……その時には成るほどと思いはしても、吹く風や~とばかりに片端から忘れておりまして、さて、何を書いて良いものやら、まぁ、こちらの男前の殿方達でも御覧下さい。

武道は所作が大事とは、大昔に散々に聞かされはしたのですが、本格的なものを見せて頂くと、雰囲気や装束も交えて、流れるように綺麗で溜息まで出るものです。

百々手式そして直垂烏帽子を着けた射手の方々が、八人ないし七人(水干姿の女性も七人、参加されていました)、横に並び、一つの的を少しずつ間合いを変えて射て行きます。
このウェーブのような動きが、やはり見惚れます。

射手の方々が手にしている弓にも種類があるそうで、巻かれた籐の数などによって、初心者か上位者かも分かるのだそうです。
両端の方が持っている弓が『重籐』というそうで、最も格の高い物だそうですが、この画像ではチョッと分かりませんね。

何というか、いつもながら単純な私は、この類を見ると癖になる……
四月には春日大社でも行われるとの事でしたので、これは覚えておかねばσ(^◇^;)
それまでに、もう少し知識つけねば(~_~;)

昨夜、メールチェックをしていましたところ、突然バックグラウンドでウィルススキャンが始まりまして、それも完全スキャンするなんぞと、表示がのたまうておりました。
簡易スキャンでも小一時間かかるってのに、完全なんていったら、一晩かかるんじゃねぇか?
本当に、これをやられますと、動きが悪くなるんですよね……早々に諦めましたわ(ーー;)

浄瑠璃寺の庭園と本堂そういう訳で、昨夜書こうとした事を今更ながら。

昨年の春に『浄瑠璃寺』に行きました時、御住職が、ここは御堂自体が九体の阿弥陀様の厨子を兼ねているので、屋根もやや低く、前面もあまり広く造られていない、現在では一般の方も堂内に入る事が敵うけれど、本来は僧侶以外は入ってはいけない場所だった、という事を言われていました。

また『新薬師寺』の発掘調査報告でも、金堂の南面に取り付けられた例を見ないほどの広い階段部を差して、堂内に入る事の出来ない僧侶や参拝者が、ここに並んだのではと言っていたのは、え~と、菅文だったかな(?_?)

法要などの時、僧侶以外の人は金堂などに入る事が出来たのか??
こいつが今日の疑問ですわ(゜.゜)
例えば、天平宝字元年(天平勝宝九歳)五月二日に、聖武太上天皇の一周忌法要東大寺で行っています。
昨年の『聖武天皇祭』 (東大寺)この時に招いた僧侶が一千五百余人とありますので、金堂内はおろか、出来たばかりの回廊も僧侶で埋め尽くす勢いです。
上位の僧侶と、女帝皇太后皇太子(大炊王)は金堂内にいたとしまして……
ここに五位以上の官人も出席していたとして、右大臣(藤原豊成)や大納言(藤原仲麻呂)も前庭の天蓋の下にでもいればよい方かもしれません。
こうなりますと、この時点で内舎人をさせられているうちのスメラミコトなんて、炎天下(旧暦の五月は、梅雨の最中、真夏です)で法要中、ずっと立ちっぱなし??
一体何人、熱射病や貧血でぶっ倒れたんでしょうσ(^◇^;)

法要ではなくても、何かの儀式の時にはどうなのでしょう?
昨日来、疑問に思うのが、例えば落飾する息子に母親は立ち会う事が出来るのか?
そもそも落飾という儀式に、家族であれ一般人は、どのようなポジションで立ち会う事が出来たのでしょうか?

そして出家した兄に弟が会いに来たとしまして……場所は東大寺(-_-)
まあ、この兄弟、一応は皇族ですので、新発意だといったところで割合に自由に振舞えたかもしれません……何せ、大徳はこの兄弟の父親に借りがある(という、とんでもない設定)
この時、金堂の本尊の周囲にはまだ足場が組まれ、技術者が色々な仕事をしておりました。
毘盧舎那仏蓮華座兄は弟を連れて作業中の足場に上がって行き、本尊の蓮華座の花弁に彫られようとしている須弥山世界の話を始めるのですが……
安直に、こういうシーンを考えておりまして、またも疑問。
この時、まだ寺の内には造東大寺司の役人どももウロウロしていたのでしょうが、ここに勝手に僧侶が出入りしても良いのかな?
まあ、それは良いにしても、本尊の前では四六時中、何かの法要が行われるのですから、そういう時は才伎の作業は中断するのかしら?
本尊は膝元まで足場が組まれていて、その内には光背の制作も始まるのだから、相変わらず金堂内は工事現場さながら……やはり堂内ではセレモニー的な事は行わないのかしら?

この辺り、直接には書く必要も無い事なのですが、何かの折に引っかかるんですよね。
金堂内で燈明に油を注いでいる如法師に主人公が会うシーンとかも、以前に書いたのですが、ここも変更した方が良さそうですわ。
さても、相変わらずどうでも良い疑問が、やたらに湧いて来て困ったものですわε-( ̄ヘ ̄)┌

御祈祷を受けた方は、持ち手と栞の着いた杯です。日曜日、木津川市の現地説明会の後、午後から大安寺の『光仁会笹酒祭り』に行って来ました。
昨年は土曜日、今年は日曜日だったので、かなり混んでいました。

JR奈良駅からシャトルバスが出ていたのですが、道がとにかく渋滞していて、バス通りから御寺には入る細い道も駐車場待ちの車が列を作っていました。

しかし、振る舞いの笹酒があるのにマイカーで来る人も結構いるみたいです。
そういう人たちは、水筒などを持参して、竹の杯に注いでもらう度に、移し変えて持ち帰っているようです。
更には、ドライバーの方でも雰囲気を味わってもらおうと、笹酒ならぬ『笹水』の振る舞いもあります。

拝観料を払うと竹の杯を貰え、これで御酒を頂けます。こちらの御寺は『癌封じ』を謳っているので、御祈祷を受ける方もとても多いようです。
御祈祷を申し込みますと、節の所の枝を取っ手のように残して赤い栞を結びつけた、チョッと洒落た杯を頂けます。
上の画像の御婦人が持っているのがこのタイプですが、チョッと分かり難いですね。

拝観料を払うと、私が去年も貰ったような竹を切った杯を頂けまして、これで綺麗な若い女性たちから、笹酒を頂けます。
こちらの男性が持っているタイプですね。

この笹酒祭り、夏にも行われているそうですが、今年は何曜日になるのかな?
この日曜日は、チョッと体調が思わしくなかったので、あまり飲んでおりません(~_~;)
まあ、酒飲みに行くだけが目的では無いのですけれどね……そもそも、私にしても、誰の命日だと思ってるんだ??(゚_。)?(。_゚)??

「情報操作で仲間割れを促すなど、藤氏に限らず公卿には当たり前の戦術ではありませぬのか」
「まったく、汝は大学で何を習うて来たのかと、時々思いとうなるわ」
「違うのですか」
「違うてはおらぬ。皇太后に限らず、永手辺りでも考えそうな事だ。今頃は小者に揺さぶりをかけて、一番の大物をおびき寄せようと機会を窺うておろう」



平城宮址で行われた騎射例によって、山部王白壁王の会話です。
これが親子の会話ですから、本当に恐れ入る家庭環境ですわ(ーー;)
父親は父親で、権謀術数は御家芸とか何とか、平気でノタマウような人ですし……(~_~;)
それにしても放蕩息子、大学で『韓非子』でも習って来たんですかね(?_?)

手嶋王が「俺たちが思うている以上に、父上も伯父上も恐ろしい人だよ」なんぞと、さり気無く言ってくれるのですが、本当にそういう人になって来ています。
何せ父上は、二十九歳の時から貴方方の父上をやっているし、伯父上は三十五歳の時から伯父上をやってますからねぇ……敵うはず、ありませんってε-( ̄ヘ ̄)┌

そして昨日辺りにようやく気付いたのですが、作者は光明子皇太后にすっかり騙されていたようです……(@_@;)
『続日本紀』の記述、特に宣命などの内容を馬鹿正直に受け取ってはいけません。
やはりこの人は、藤氏の大物も平気で脇にやるくらいの曲者ですσ(^◇^;)

それにしてもうちのキャラクターって、男女関係無く、四十過ぎると漏れなく腹黒くなるんとちゃうんか?(゚_。)?(。_゚)?
そして画像は、今日も内容とは殆ど関係ありません<m(__)m>

二×一間の奇妙な建物?先週末の新聞に、恭仁京内で初めて同時期の建物と側溝が検出されたと、新聞に載っていた遺跡の現地説明会です。
京都府道の建設に伴う事前調査という訳で、担当は京都府埋蔵文化財センターです。

どこぞの都城屋の先生も、つい本音を漏らしているのを聞いた事があるのですが、恭仁宮関係ですら遺構は結構ショボイです。
こんな事、調査担当の方に正面切って言ったら怒られそうですが(~_~;)
この調査は宮内ではなく、京内域、右京に当たるエリアで行われています。
そして奈良時代後半の土器を伴う、100メートルに渡る南北の正方位に乗ったと、やはり正方位をとる掘立柱建物が三棟ほど検出したため、今回の説明会となったそうです。

上の画像、見学の人たちのすぐ足元に、幅1メートル内外の溝が続いていますが、これは恐らく道の側溝になるのではないかと推測されています。
溝の上層から出土した土器は、奈良時代の後半の物ですが、墨書もなく、須恵器が転用硯として使われた形跡も見つからないので、役所関係ではなく、ある程度身分の高い人の屋敷の端っこの方でも引っ掛けたのかもしれないという発見のようです。
見たところ、水はけの良さそうな所なので、木簡などの有機物の資料は残っていない可能性が高そうです。

六世紀の竪穴職住居

むしろ遺構として見たならば、こちらの方が面白そうというのがこの画像。
古墳時代の竪穴式住居跡で、先程の奈良時代の遺構とは別の区画で検出されています。
出土遺物として、六世紀のなで肩になり始めた締まりのない須恵器の杯(本当は土へんですわ)が出ていましたので、新しい方は六世紀、古くても五世紀後半のようです。

説明している女性の足元に、L字型の煙道を持ったかまどが出ていますが、割合に残りは良い方です。
この形式のかまどは、奈良県では明日香村や高取町、つまりは檜隈(ひのくま)地域で良く見られます。
この遺跡も上狛(かみこま)という地域にあり、近所には『高麗寺跡』もありますし、やはり渡来系の人々が多く住んでいた地とされています。

恭仁宮で使われたのと同じ軒平瓦相変わらず奈良時代の遺構の方には、井出左大臣こと橘諸兄の名前が出されていたのですが、それが藤原北家でも式家でも良いのですが、やはり圧倒的に文書も考古遺物も資料不足の感は否めないようです。
いわゆる聖武天皇の彷徨の数年間、これを掘り下げると、かなり面白いんですよσ(^◇^;)
何せこいつが、東大寺という一大宗教施設の建立につながり、更には奈良時代後半の政治的な流れに大きく関わってきますからね。
この影の薄い都、決して無くても良い場所ではなかったのでしょう。
考え始めると、ドツボにはまって、さあ大変(@_@;)
この前後に見えるクーデター紛いの事件、殆どこの辺りと関係しますからねぇ……

若草山山麓にてこの何年かは横着して、近鉄奈良駅のビル内から見ておりましたが、昨年は浮雲園地、今年は山麓まで行って来ました。

今日は午後から東大寺会館で、森本長老の御話を聞いておりまして、終わったのが十六時前でしたので、大仏殿や二月堂をうろついた後、そのまま野上神社まで行きましたところ、ちょうど神事の始まるところでした。

ここで見るのは二十年ぶりくらいですかね(~_~;)
ここ何日かに比べると、あまり寒くなくて助かりました。
大かがりの割合に近くにいたので、更に暖かかったのかもしれません。

今年は空気も乾燥していたし、適度に風もあったので、あっと言う間に燃え広がってくれました。
明日、大安寺辺りから見たら、きっと黒く焦げてるでしょうね(*^。^*)
そういう訳で、明日(とうの昔に今日)は、大安寺の光仁忌です。

知人から現在、京都国立博物館で開催されている『筆墨精神-中国書画の世界-』という特別展の招待券を頂きました。
多分、私行っても分からないσ(^◇^;)
もし書道をやっておられたり、造詣のある方で見に行きたい方がいたら、譲りたく思うのですが……
というか、私考えたら、奈良博の会員証で見に行けるんですわね、この特別展も(@_@;)

この二日ばかり、ちょっとした事ですぐにネットがダウンしまして、何でしょうと思っていたら……
何て事ない、一番有り触れた症状でした。
LANケーブルのプラグの爪が折れかけてたんですね。
そういう訳で、近所の電気屋さんで500円で解決しました(~_~;)

知り合いの職場でも、最近こういう事があったそうです。
普通は抜けそうにないケーブルが抜けていて、部屋中のネットがダウンして、本社との遣り取りが暫く出来なかったとか何とか。
多分、ハブの一番近くに座っている人(かなり体格の良い女性らしいです)が、しょっちゅう足を引っ掛けているとかいないとかで、常々、負担が掛かっていたのだろうと推測されているそうです(ーー;)
こちらもケーブルを新しくしたら解決したそうです。

そういう訳で二日ぶりに、こちらにも書き込みしてみました<m(__)m>

吉野宮瀧にいた風神
昨日にコメントを頂いていたようで、気付かずに申し訳ありません。
『生まれましながら(仮題)』の再開、さて、目処が立ちますものか……もし始めるとしたら全面書き直しになる事は必定です(~_~;)
もしかすると、あの狂言回しの現代人たちが、スッパリと切り捨てられるような展開になるかも?
そうなると、白髪太子らの生年を繰り下げている理由もなくなるし……(@_@;)困った(@_@;)
ともあれ、はす様、ありがとうございましたm(__)m

そして今日も内容とは関係のない画像です。
随分前に吉野宮瀧に行った時、道の脇にこのような木彫の像が展示されていました。
今もあるのかな??

さて、昨日に引き続き混乱中ですが、藤原氏と大伴氏の婚姻関係等は一先ず置いておきましょう。
これを調べ始めると、決して少なくありませんからねぇ。
少し前から何となく気になっているのは、容疑者らが引き立てられて訊問が始まってからの表現なんですよね。

右大臣藤原朝臣豊成、中納言藤原朝臣永手ら八人に勅して、左衛士府に就(ゆ)きて、東人らを勘(かむが)へ問はしめたまふ。

これが七月三日の記述です。
勘問』を辞書で引いてみますと、“罪状を調べながら訊問すること、責め問うこと”とあります。
そして四日の記事には、

詔して、更に中納言藤原朝臣永手らを遣して、東人らを窮め問はしめたまふ。

窮問』が辞書にないんですよね……『糾問』ならば“罪状を厳しく問いただすこと、悪事を問い調べること”とあります。
『窮』は“つきとめる”という意味ですから、『糾問』と同じ意味に取って置いて良いのでしょう。

是に一ら皆獄に下す。また、諸衛を分ち遣して逆ふる党を掩ひ捕へしむ。更に出雲守従三位百済王敬福、大宰帥正四位下船王ら五人を遣して、諸衛の人等を率い、獄囚を防衛りて拷掠・窮問せしむ。

獄令』によりますと、最初は人的、物的な証拠を提出しての取調べから始まるようです。
何やら、ドラマで鬼刑事が机を叩きながらする訊問と、御白洲での糾問が一緒に行われているような印象を受けるんですが(ーー;)

凡そ察獄の官は、先ず五聴備へよ。又諸の證信験へよ。事情疑はしく似りて、猶し実首さずは、然うして後に拷撩せよ。訊毎に相ひ去らむこと廿日。若し訊畢へずして、他司に移して、仍ち拷鞫すべくは、前の訊を通計して、以って三度に充てよ。

この後、囚人が死んだならそれぞれの長官に報告する事、何ともあっさりと書かれています。
この辺を調べて行きますと、一般的に思われているような、自白するまで痛めつけろ的な展開は最終段階なんですよね。
言っちゃ悪いが、オッサンが書いた話ほど、訊問の最初からこういう展開で書かれているような気がするんですけど……(ーー;)
朱雀門閉門橘奈良麻呂の変』のキャストについて、つい最近まで私は変な勘違いをしていた事に気付きました。
そもそも、奈良麻呂が天平十七年に佐伯全成
大伴、佐伯の族(うがら)、この挙(くわだて)に随(したが)はば、前に敵無からむ
などと言って誘っている辺りからの勘違いだと思います。
何をどのように勘違いしていたのかと申しますと、それは大伴古麻呂の登場する時です。

何せこの御仁、謀反の密告があり、喚問が始まった当初から名前が出てくるので、小野東人黄文王同様に最初からの連座者だとばかり思っておりました。
ところが佐伯全成の証言を読んで行きますと、全成が古麻呂に初めて会うのは謀反発覚の前年、つまり天平勝宝八歳四月の事です。
他の連座者の自供内容を見ていても、それ程以前の内容には触れていないので、これらの供述に見る限りは古麻呂という御仁の関与は、割合に後になってからの可能性もあるようです。

それにしてもですよ、天平勝宝七歳11月に(万葉集に寄れば)奈良麻呂の屋敷で宴が開かれた時の出席者に、この御仁は果たしていたのでしょうか?
この宴席で左大臣橘諸兄が不敬発言をしたとして、天皇はこれを不問にしていますが、ここには佐伯全成と美濃麻呂の二人がいた事は窺えます。
では大伴氏の出席者は……さて、家持がいたところで、別段不思議でも何でもありませんが。

この大規模な謀反未遂事件、登場人物はかなり多いのですが、主要な二十人足らずの内にはどうしてだろうと思う人も若干います。
その一人が、大伴古慈斐なのですが、この人のポジションってさっぱり分かりませんわ(~_~;)
結構な年寄りだし、何と行っても故藤原太政大臣の娘婿だったり……

何やら混乱気味なので、考察は明日に続く……とは申せ、この話、今月中にやっつけないと、来月から別の事が割り込んで来るような兆しですし(@_@;)
おまえは誰か
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うめぞー
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