[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
本日は家で仕事をしていたのですが、昼過ぎ、死ぬほど暑くなってパソコンと資料を少しだけを持って脱出しました(・。・;A
何せ我家のクーラー(窓用の古~~いやつ)は、ここ何年か動かしていない(^_^;)
案内状を貰った市内のカフェでかき氷を食べながらパソコンを開き、以前に大安寺で頂いた『崇道天皇と大安寺』という冊子を眺めておりました。
ここに『水鏡』の桓武天皇の条が抜粋されていたのですが、この史料にしか見られない奇妙な事が書いてあるんですね。
私が特に気になったのが、佐伯今毛人(さえきのいまえみし)の出て来る件です。
おおよその内容としまして、天応二年(この年の八月に延暦元年に改元)、天皇が皇太子に政務を預けて行幸に出かけた時に、皇太子が佐伯今毛人を宰相に取り立て、これに「佐伯氏より宰相が出た事などない」と種継がクレームをつけた事で、二人が仲違いをした云々……
佐伯今毛人といえば、造東大寺司での働きが認められて、天平宝字元年には従四位下となり、左大弁になりますが、宝亀年間はチョッと不遇(?)、ところが桓武天皇の時代になりますと、再びクローズアップされてきたのか、延暦元年には従三位、同三年には造長岡宮司に任命され、参議にまでなります。
この人より以前の同族として佐伯毛人、全成、常人、百足、清麻呂、御方などの名前が見えますが、何れも五位、四位の人ばかりで、三位にまでなったのは、今毛人くらいだと思います……ってのか、調べてないんだけどσ(^◇^;)
兄の真守や息子の美濃も、確か四位止まりだったかな。
息子は父親よりも早くに亡くなっていますから、もしも長生きしたら父親に続いて参議入りしたかもしれませんが。
これらの人はともかく、今毛人を皇太子が勝手に宰相にしたといえるような事実は見つかりません。
延暦八年に骸骨を請い、翌年に七十二歳で亡くなっていますが、やはり参議止まりで、中納言にも大納言にもなっていません。
では『水鏡』の記述はどこから来ているんでしょう?????
佐伯今毛人ではなく、他の人かと言うと……多分違うでしょう(-_-;)
だってこの頃(延暦元年)の太政官、中納言以上は藤原氏、ほかの氏の参議として大伴家持、石川名足、大中臣子老、紀船守、紀家守、そして神王というメンバーです。
家持と神王以外は朝臣の姓、いずこの家も参議入りには珍しくない人達ばかりです。
念のため申しておきますと、神王は榎井親王の息子で、桓武天皇と同じ年齢の従兄弟です。
宰相もしくは参議になった年が違う、これは事実ですね。
参議に任命されたのは延暦三年の十二月、長岡宮造営の功労によるものです。
そして天皇は遷都はしてますが、特に行幸はしていません。
もう一つついでに申しますと、天応二年(延暦元年)ならば光仁太上天皇の諒闇の真っ最中で、誰が好き好んで喪服で行幸に行こうってんでしょ……八月までは全国に喪服を着用させてました。
もしも『八十島祭』を行ったとしても、次の年になったのではないのかしら、特に難波行幸の記述はないけれど。
さて次の可能性……宰相もしくは参議というのが違うのでは?
そこで性懲りもなく私が思ったのは、昨日からの続き……
娘か孫を皇太子に入内させようとしたのでは、と言う可能性です。
それも今毛人が斡旋したのではなく、皇太子の方から望んで……
う~~~~~ん、この展開って、巧く行くのかなぁ(?_?)
これで誰が何をクレームつけるんだ?
うちの連中、見回しても、天皇も皇太夫人も種継も五百井女王もつけそうにないんだが(~_~;)
ともあれ煮詰まってるから、明日は午後から平城宮跡に出かけて、夜には『光と灯りのフェア』を見てきましょうっと。
う~ん、やっぱり私は勘違いをしているのかも(@_@;)
大伴氏の内紛なんぞじゃなくて、ここの一族こそがスケープゴードか(・・?
この家は果たして確実に、天皇家に妃を出せたのか???
少なくとも天智天皇や天武天皇の時代には、入内した娘はいないようだし、それ以降も見当たらないぞ……
もしかしたら夫人(ぶにん)は愚か、嬪(ひん)ですら出せない家なのか?????
こういう氏族による制限と言うのが、もしかしてあるのかしら???????
私が現在、扱っている時代で后がね――皇后になれる娘を出せる家は、おっそろしく限られています。
はっきり申しまして、皇家と藤原朝臣のみ……橘朝臣は、次の世代です。
その外にいる一族は、后がねとまで行かなくとも、入内できるだけの娘を出せるような家と組む必要でもあるのでしょうかねぇ。
奈良時代に皇嗣を巡る謀反を未遂にせよ起こしたのは、皇族か藤氏か、やはり皇族の意識が抜けていない橘氏くらいでしょうか。
この時代の最後になって、皇位には昇りそうにもない生まれの天皇が出たから、それから外れるような人が謀反を起こすのか?????
この屁理屈って、出家の天皇がいるんだから、出家の大臣がいても良いじゃない……に通じるような気がするんですけど(-_-;)
いずれにしても挿げ替える首は皇族しかいない、このセオリーは貫いているように見えるのだけど、これももしかして何かのトリックなのかなぁ……(*_*;
考えれば考えるほど、釈然としないのが延暦年間の始め頃なのですが……
延暦四年に起きた二つの事件は、何れも仕組まれた事なのよ、という展開を昨日よりひねり回しております。
この前からぼやいている大伴氏の内部抗争と何か結びつかないか……みたいな展開(-_-;)
更には自らを先祖の大伴金村のごとく考えたい奴がいるのか……ってな感じ(ーー;)
そういう訳で、第三の人物みたいな人が必要になるのかな(@_@;)
それで、家持は必要な人なの、無用な人なの?????
「私ゃ、何か大伴氏に恨みでもあるのかねぇ」
「大伴の誰?」
「そうねぇ、家持とか?前世に何か因縁でもあったのかなぁ」
「そんな偉い人と知り合いの訳ないでしょう(・・?」
「そりゃ、ごもっともσ(^◇^;) 」
「平石古墳群でも行ってみたら、何か閃くものがあるかも??」
会話に多少の脚色アリですが、何か、すごいアドバイスを貰ってしまいました。
平石古墳群は大阪府河南町にある方墳を中心とした終末期古墳群です。
大伴氏の墓とも、蘇我氏の墓とも言われてますが、私の生まれる前の事ですので良く分かりません。
奈良時代の大伴氏の墓は……大伴寺のあった辺りかな?
確か俊乗房重源上人のお墓のある辺りに、元々は佐保大納言安麻呂が建立した氏寺があって、後に東大寺の墓所になった云々というのは、以前に聞いた事があるような……
三笠霊園の中でしたね、確か、重源上人のお墓というと。
この遺跡の現地説明会があったのは、八月七日ですので二週間も前ですね(^^ゞ
このところずっと、都城づいてましたが、久々に弥生時代です。
『弥生時代前期の水田と里山』というサブタイトルが示すとおりの遺構が出ております。
手前(北側)の白い線で引かれている四角い部分が小区画の水田群で、真ん中辺りにある東西の河道よりも上(南側)が広葉樹を中心とする森林です。
この画像は、直径が一メートル近くある榎の切り株です。
他にも橡、胡桃、栗などの食用になる実がなる木、山桑、椿、楓などの木の幹や根が残っている事が、樹種鑑定によって分かっているそうです。
水田も雑木林も人の足跡も土器や木製品も、洪水が運んできた川砂で埋もれていました。
土地は上の画像の右上から左下の方向に緩く傾斜しています。
昨年までの調査でも水田は検出されていて、更に北の低地にまで延びるようですが、ここで耕作をしていた人達の住んでいた場所が、まだはっきりと分かっておりません。
今後、集落遺跡が発見されましたら、2400年前の葛城地域の景観が、より鮮明に分かって来るかもしれません。
主人公は絶対に良い子で入られませんね。
まあ、若いのだし、汚れ役の一つや二つはやる?
……と言う訳には行かないのか?いや、させるべきか?
もう一つ、この展開だと大伴家持にポジションはなさそう。
でも大伴継人のポジションはあるな。
そしてこいつらは共謀しない。
大体作者には、この二人が協力するような要因が見えないの。
ところで今回、一番得をするのは誰なの?
う~ん、誰かいる?????
話変わりまして……私はつい最近、とんでもない事に気付きました。
山部王と吉備泉が大学頭と亮になるのは無理?!
だって、山部王が従五位上大学頭の頃って、泉は既に正五位下か従四位上だもの?!?!
「大臣の息子だろうが、やっぱりぶん殴る!」by山部王
しかし今年のイメージは全体的に地味でしたか?
いつも真っ先に行く浅茅が原会場に行かなかったのもネックだったかな。
まあ、今回はチョッと時間がなくて駆け足でしたしね(~_~;)
場所は『博物館会場』、『浮雲園地会場』、『春日野園地会場』でしたので、ついそちらに先に行ってしまい、浮御堂の方に足が向かなかったんですね(^_^;)
どこかで見た事ある絵柄だと思ったら、昨年、一昨年のものも使われていたので……
昨年までは『万葉集』の歌を万葉仮名で書いてあったのに、今年のは『古事記』のヤマトタケル命の歌でしたわ。
こいつに釣られて、また来年も行きそうですσ(^◇^;)
まぁ、この行事もすっかり奈良の夏に定着しましたね。
天応元(781)年の年末、ようやく作者の待ちかねた開成親王が現れてくれました。
この人が出てくると誰が調子付くって……同世代のおじさんたちですわね。
私の設定上では、開成親王は天平九(737)年生まれですから、山部親王、神王と同じ年齢で四十五歳(数え)になります。
ちなみに鴨王も同じ年の設定なのですが、この時には既に故人です。
ここに加わるのが、四つ年上の壱志濃王……四十九歳(数え)
東宮院では太上天皇が危篤だというのに、何でこの御仁ら、内裏で円陣組んで酒酌み交わしてるんでしょう??
参考までに申しますと、開成親王は出家の身です……生(--〆)臭
更に申しますと、ここに十三歳年下の早良皇太子と、二十三歳も年下、息子の年齢の主人公もいたりします(ーー;)
天皇(山部親王)に言わせますと、
「このように形も態度も大きな暑苦しいのが、雁首を並べていると皇太夫人(おおみおや)が鬱陶しがる」為なのだそうです。
皇太夫人とは勿論、母親の高野朝臣新笠です。
もう一つついでに申しますと、この人達、喪中です。
つい数日前に、異母弟の薭田親王が亡くなっていますので……(・_・;)
おまけに壱志濃王にいたっては、治部大輔なので親王の喪を監護しなけりゃならない立場なのに、こんな所で酒呑んでいて良い訳??(゚_。)?(。_゚)??
別に私としては、不真面目なオジサンたちの話を書いている訳ではありませんが、なぜか開成親王が出てくると、話が弾け(?)始めるんですよね。
これに件の藤原種継が加わると、収拾つかなくなるかも?(@_@;)?
昨日は昼過ぎくらいから、時々利用しているパソコン持込可のカフェで仕事をしていました。
この日は『なら燈花会』の最終日でしたねぇ……先週に行った時の画像でもアップしませんと。
今日は今日で、橿原考古学研究所付属博物館と葛城市歴史資料館に行った後、橿原市内のマクドナルドで仕事してました。
しかし、こちらは休日だけあって、家族連れやら若い人のグループが多くて、何とも落ち着きませんわねぇ……(~_~;)
今日は春日大社万燈籠に東大寺万燈供養ですねぇ。
今年はお休みですわ(/_;)
それにしても、案の定、藤原種継が軽い……(・_・;)
若い時は、かなり軽い男で良かったのだけど、今回はこいつもそれなりの年なのだし(-_-;)
それよりも何よりも、今回のこの人のイメージが変???
だって主人公に大伴氏と陸奥の情勢の話をしている時、私の頭の中で深沢さん(村上弘明;『ゲゲゲの女房』参照)の顔してるのよ……意味分からん、我ながら(@_@;)
もう一つ奇妙なイメージとして、「陸奥の人達が大嫌いだった」と子供時代を語る坂上田村麻呂。
あまり伸びない薄い顎鬚を短く刈り詰めて、そいつを引っ張りながらぼやいているのですが、こっちは伊勢谷友介の顔してる?????
この辺の脇役のケッタイなイメージはさて置き、相変わらず主人公が話の中心に出て来ません。
これを何とかしなければ。
こいつもようやく侍従だし、官界でもう少し自由に動かしてやらないといけません。
それにしても、どの程度、この若造が太政官を中心にした場所で動けるんだろ(・・?
まあ、明日もいつものカフェで閉店まで仕事しましょうかね。
家よりも涼しいし、お猫様の相手もしなくて済むから、書くだけは進みますしね。
鎮守府将軍を務めた駿河麻呂が亡くなった後の大伴氏の一臈は伯麻呂で良いのでしょうか。
ようやく気付いたのですが、この人と家持はもしかして同じ年?(゚_。)?(。_゚)?
ただし家持よりも伯麻呂のほうが、歴代天皇の覚えが良かったらしく、出世街道は常に先を歩いているようですねぇ。
光仁天皇とは酒豪同士で気が合ったんだろうか(^_^;)
奈良時代の終わり頃を眺めていますと、大伴氏の人々は何人も出て来るのですが、表面的に見ていると各人がバラバラな印象が否めません。
それぞれの人々を系図上で探してみますと……なるほど、殆どが別々の家の人ですか。
遡って、室屋大連、談連、金村大連、そして次を継いだのは多分、咋連でしょうか。
この人の三人の息子(長徳、馬来田、吹負)がそれぞれ家を興して分家し、長徳の息子たちもそれぞれに家を興しているようです。
御行は高市大卿、弟の安麻呂が佐保大納言なので、もしかしたら大伴高市の家、佐保の家とでも呼ばれたのでしょうか、この辺、史料をあまり当たっていないので分かりません。
要するに大伴氏も、家持よりも三代も前から分家が盛んになって、藤原氏同様にそれぞれの家が他との連携など出来ないほどに分れて行くようです。
御行の息子には兄麻呂と古麻呂がいるとしまして、兄麻呂の息子は駿河麻呂に潔足、古麻呂の息子は継人(伴善男の祖父)となっています。
他の奈良朝後期に見える人の系統を見て行きますと……
家持は勿論、長徳の曾孫、安麻呂の孫、旅人の息子ですね。
古慈斐はと申しますと、吹負の孫、祖父麻呂の息子です。
そして古慈斐の息子が『伊治呰麻呂の乱』に際して征東副将軍に選ばれた益立です。
伯麻呂はと申しますと、馬来田の孫、道足の息子のようです。
各人物の生年が殆ど分からないので、この人達が父親の嫡子なのか庶子なのかが分かりませんが、何となく年を取ってからの息子が多いような気がするのですが(-_-;)
旅人にしても家持にしても、嫡男が生まれたのは決して若い時ではありませんし。
さて問題は、後の藤原北家の九条流のように、決定的な覇権を勝ち取った家があるか否かです。
平安時代の事は、情けないくらいに不勉強ですが、一体何人の人が公卿として見えるのでしょう?
ところで伯麻呂の姉って藤原小黒麻呂(北家、鳥養の次子)母親なんですねぇ……
益立は古慈斐の息子だし、天応元年の陸奥への征東軍に見える将軍ら、何か根本的な確執があるみたいですねぇ……(ーー;)
家持と古慈斐って仲良かったのかなぁ?
古麻呂の事もどう見ていたのかなぁ?
『橘奈良麻呂の変』の周辺を見ていても、既にこの家の連携は怪しいように見えるんですけど(~_~;)
意地悪く見ると、古麻呂も益立もスケープゴードに思えてきて……(@_@;)
