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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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はっきり言って、主人公がまったく動かない(@_@;)
徹底的に傍観者になりきってる(@_@;)
お陰で、まったく時代性をつかんでいない(@_@;)

今更主人公の変更はしないけれど、こいつの立ち居地を変更してやらないと、どちらにも踏み出せないって事になるわね……(ーー;)
別に汚れ役をしてもらおうという気もないけれど、多少ともダーティーに振舞ってもらおうか(ーー;)
こいつが自分で言い出したコンセプト
「息子は思いのほか、父親には冷たいのかもしれない」
これは、こいつ自身が思っている事ね。
顔も大して覚えていない父親、父親のように振舞おうとする人、父親になりたがっている人、そして父親の代わりになってくれた人、この四人を何れも裏切るような感じかな(-_-;)
ともあれ、良い子になるのはもう少し世間の荒波に揉まれてからかしら(-_-;)

う~ん、せっかく『篝の舞楽』に行ったのに、これもまた後回しかな……こうしてUPしていない記事が、やたらに増えて行くのでした(-_-;)
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何を一人で納得しているのかと申しますと、一年以上前に書いた記事の内容です。
それは→http://umena.blog.shinobi.jp/Entry/416/

この文書に出て来る人物は二名、一人は親王禅師、もう一人は藤原朝臣縄麻呂です。
そして日付は、宝亀十年十二月六日、これがどういう日なのかと申しますと、藤原縄麻呂が亡くなる一週間前です。
つまり、親王禅師は中納言の縄麻呂のために、東大寺に治療に用いるための四両請求している訳です。
文書の勉強なんてした事ないから、こんな簡単な事も分らないんですね、我ながら(-_-;)

それはさて置き、縄麻呂の病気の事は東大寺にいても分かるでしょうが、廟堂に居れば嫌でも知れる事でしょう。
要するに私の都合の良い解釈では、東大寺に居るよりも、中宮院でも東宮院でも西宮院でも良いのですが、宮中のどこかに置かれた内道場に居た方が、これらの情報をいち早くつかむ事が出来たという流れになります。

この頃、たとえ還俗していなくても東大寺は出ていた、この解釈は出来そうです。
そういう訳で、権別当の実忠和上は、既に東大寺に居ない親王禅師にわざわざ、様々な決定をする時に同意を求めたのかもしれません。

ところでこの時、良弁は既に遷化しているから、二代目の別当は誰なんだ?
良興で良いのかな?
これって『東大寺要録』に載ってるのかしら……テキストないからなぁ(T_T)

……にしても眠い、明日も仕事だから、さっさと寝るべしや。

昨日からやたら眠いです……クーラー風邪と夏バテなんでしょうかね。

一昨日は、パソコン持込OKのカフェにて半日仕事をしておりまして、冷えたの何のって……
ここはフリードリンクにケーキのセットでワンコインなので、とってもありがたいです。
20時まで開いているので、これから仕事帰りに仕事に行こうかな?(゚_。)?(。_゚)?

昨日は午後から奈良市に出かけて、本尊他の仏像搬出後の東大寺法華堂(三月堂)に行き、金堂(大仏殿)にもお参りして、氷室神社で今年もカキ氷を頂きまして、奈良博のミュージアムショップも覗いて、仕上げに奈良公園周辺で行われている『全国光とあかり祭in奈良』を見学して参りました。
こいつを昨夜UPしようと思ってたのですが、とにかく眠い……熱射病とは違うわよね。

ところで法華堂、仏様の半分は別の所(奈良博です)に出張したり、入院中だったりするのですが、残っておられる方々をかなり近くで(ガラス越しではありますが)拝見できるという、かなりありがたい配慮です。
せっかく、東大寺友の会にも入ってるんだし、次の締め切りをクリアしたら足繁く行きましょうかしら。
日光菩薩月光菩薩ともに、これほど間近で拝観したのは初めてですわ(^。^)

今日も今日とて、一昨日のカフェで一時間半ほど仕事をしておりました。
涼しいし、猫の邪魔もないからはかどる部分も多いのですが、私の場合は史料が結構必要なんで、こちらで書いたところを家に帰ってから確認して訂正する必要もあったりします。
まぁ、それでもはかどる方が大きいかな。
また週の中頃に行こうかしら。
……にしても、うちの早良親王、言う事ややる事が父親や兄よりも過激だ(-_-;)
放っておいたら、小黒麻呂なんぞ踏みつけて、自分が陸奥按察使になって出陣しそうだよ(ーー;)
そいう訳で、ただいま構想中は宝亀十一年でした……にしても眠い((+_+))

知っている人には、何を今更な内容です(~_~;)
平城天皇藤原薬子よりも年上の可能性があるんですねぇ……
ただしそう考えると、本当に薬子が尚侍だったのかという方が疑問になるのですが(・・?
まぁ、あの父親(?)の息子(?)がやる事ですから、エコヒイキなんてざらなのでしょうが。

薬子は御存知、式家種継の娘です。
種継に息子は五人いたらしいのですが、娘は何人いたのでしょう……分かりません(・・?
一応、薬子の他には、桓武天皇の後宮に入って甘南美内親王を生んだ女性もいます。
種継の長女か次女か三女かは分かりませんが、薬子は同じ式家の縄主(蔵下麻呂の長子)の内室となって五児(三男二女)の母になります。
縄主と安殿親王(平城天皇)の年齢差は十四歳です。
仮に薬子を安殿親王と同じ年齢と仮定して考えてみましょう。

この時代の女性は十三歳で結婚が出来たはずです。
薬子の長女が皇太子だった安殿親王に輿入れするという運びですから、例えば十六歳で生んだ娘が十三歳になった時は、何と母親は二十九歳ですか。
安殿親王は三十三歳で即位してますから、二十九歳の時は間違いなく皇太子です。
それで、三十歳前後までに五人の母親になる事は可能か?
まぁ、生物学的に不可能という事はありますまい……(-_-;)

ちなみに長兄の仲成は安殿親王よりも十歳年長のはずですから、薬子との年齢関係には特に無理はないでしょう。
安殿親王の皇太子時代の妃には、藤原百川の娘の帯子と、伊勢老人(おきな)の娘の継子がいますが、継子は二歳年上、帯子も多分年上でしょうか。
もしかしたら安殿親王の好みは、同世代で少し年上の女性なのかも(^_^;)
そうなりゃ、一回り以上年下の女の子よりも、その母親の方に目が向くのも分からない心理でもないような、あるような?????
それにしても、長年とまで行かなくても連れ添った奥さんに袖にされた亭主の心理は如何に?
確か、北家にも似たような人がおられましたねぇ……(~_~;)

ところで百川の長男は緒嗣で、三男は継業ですが、次男の名前って分かってるのかしら?
もしかしたら成人前に死亡して、名前は残っていないのかな?
長男と三男の年齢差は五つ、三男は父親の亡くなった年に生まれているから、末っ子で間違いなし?

ついでに……こんなもの見つけて笑ってんじゃねぇって(--〆)

きょうは、方面が大同された!
だけど、兼任しなかった。

*このエントリは、ブログペットの「てむじん」が書きました。

どこかの遊園地のアトラクションに乗ろうと言う訳ではありません。
乗って欲しいのは宝亀九年、唐から日本に戻る遣唐使船です。
この遣唐使、かなりいわく付きです。

大使や副使を任命して造船を始めたのは宝亀六年六月、節刀を賜ったのは七年四月、ここで唐に残留している藤原清河への書簡を託します。
この時の節刀大使は佐伯今毛人、副使は大伴益立藤原鷹取です。
閏八月には肥前国で風待ちをしていたのですが、結局、良い風を得られずに博多に引き返し、大宰府で次の夏まで待機を願い出ています。
このため、十一月には大使の今毛人は都に戻って節刀を返上していますが、副使や判官は大宰府に残っておりました。
しかし、この一月後、副使の益立が解任され、小野石根大神末足が新たに任命されますが、この理由は特に記されていません……で、鷹取はどうしたんでしょう、後は名前が見えませんが?
まぁ、大納言魚名の嫡子ですから、さっさと中央に呼び戻されて別の官職に就いたのでしょう。

大使と新たな副使が都を発ったのは八年四月なのですが、何と、大使の佐伯今毛人が羅城門まで来た時に、急に病気だと言い出す始末……仮病だと堂々と言う学者もおられます(~_~;)
それでも輿に乗って摂津まで行ったというのは、マジ、パフォーマンスに思えます。
そういう訳で、副使の小野岩根が大使の代行をする事となり、六月にようやく出航しました。

唐に着いたは着いたで、安史の乱の後ですから、まだ色々とわずらわしい事があったようです。
問題となるのは帰路のそれぞれに船の運命です。
この辺はこちらの記事の最後の方に、簡単に書いております。
ここで気になるのは、第一船に乗船していた女性の事です。

また第一の船は、海中にして中断し、舳(へ)、艫(とも)各々分れぬ。主神(かむつかさ)津守宿禰国麻呂、併せて唐の行官ら五十六人、その艫に乗りて甑嶋(こしきじま)郡に着く。判官大伴宿禰継人、併せて前入唐大使藤原朝臣河清(清河)が女(むすめ)喜娘ら四十一人は、その舳に乗りて肥後国天草郡に着く。

このように見えています。
清河が唐に行ったのは、天平勝宝四(752)年ですから、ここに見える喜娘が生まれたのはその後、唐の事でしょう。
そしてこの人が日本に来たのは宝亀九(778)年ですから、父親が唐に渡ってから早い内に生まれたのだとしたら、二十代半ばにはなりますが、そんな若い女性を大使の船(第一船)とはいえ、百人以上の男がすし詰めになっている船に乗せようなんて能天気、私でも思いません。
可能性としては、かなり若いと言うか、幼女だというところでしょうか。

「海を航海する船に女の人が乗れる条件って何だと思う?」このように友人に聞いてみたところ、
「女と見なされないような年齢とか、地位にいる場合かな?」というような答えでした(^_^;)
それこそ『男女七歳にして』ではないけれど、『七歳までは神の内』、この位の年齢がリミットなのではないでしょうか。

そういう訳で、ここからが私の妄想σ(^◇^;)
多分、喜娘は一人ではなかったと勝手に思っています。
もう少し年上の兄でも同行していて、その世話をしてくれる男性も乗船していたかもしれません。
この一行の内で生き残ったのが、もしかしたら五つ六つの幼女のみ……
幼い命をみすみす波にさらわせなどせぬ、命に代えても守り通してみせる、このように思った人は何人もいたのでしょうか。
もしかしたら、判官の大伴継人にもこのくらいの年齢の娘がいたのかもしれません。
こうして、生き残った幼い女の子は、藤原北家の誰かの家に引き取られたのでしょう。
やがて名前も日本風に変わり、一族の女性たちのように内侍や女孺として出仕をするようになった……『続日本紀』にたった一度だけ見える女性は、もしかしたら別の名前でその後も人生を送ったという可能性は充分にあるのだと思います。

思い返して具体的な根拠もないままに、私という作者に嫌われている登場人物は何人かおります。
多分思うに、主人公なり主要登場人物が嫌っているために、作者自身がマインドコントロールをされていまして、同様に嫌いになっているんじゃないのでしょうか(~_~;)

今年の始めに書いていた話の中では、藤原仲麻呂橘諸兄奈良麻呂の親子を嫌っておりまして、私もいつの間にかそれに乗せられておりました……(-_-;)
ただ今のところ、山部親王が異母妹の酒人内親王を嫌っておりまして、作者も同調しようとしております。
……っちゅうか、この人の性格のモデルが、私の大嫌いな奴ですかねσ(^◇^;)
こんな奴をモデルにされてしまった内親王に、今更ながら同情しないでもないのですがね(^_^;)

そんな奴の事はともかく、この女性は光仁天皇井上皇后の間に生まれた内親王です。
例の超当てにならない『本朝皇胤紹運録』によりますと、どういう訳か山部親王と同母と書かれています。
その代わりに能登内親王が皇后の娘にされていたりして…・・・(・_・;)

天平勝宝六(754)年の生まれですから、伊勢の斎宮に選ばれた宝亀三(772)年には数えで十九歳、この年まで誰にも嫁いでいないのは、皇后の娘として周囲が立場的に扱いかねていたためなのかもしれません。
一般の理解では、皇后の排斥が中央で起きた後に、この内親王が伊勢斎宮に選ばれた云々という事のようです。
天邪鬼うめぞーは、今回もこういうところに疑問を持っておりまして、『続日本紀』に見える十一月十三日は、斎宮に卜定された日というよりも、野々宮を卜定した日なのだろうと思ってます。
もしもこの人がある立場の人の考えの元に伊勢に追いやられたのだとしたら、母親が云々なので娘も追い払うというよりも、母親を云々するために娘を追い払ったという解釈です。

以前に書いていた話では、井上皇后他戸親王の立場を強化するために、その姉の内親王を当時の皇族官人のトップを走っていた中務宮山部親王に娶わせようとしたという展開になっておりました。
作者同様に天邪鬼な親王は、この据え膳に猛然と反発をしまして、それ以前から何となく嫌っていた異母妹をいっそう嫌うようになった訳です。

そして、内親王を嫌っているはずの皇太子が、何の心境の変化で後宮に迎えてしまうのか、こいつが今の問題ですわ(ーー;)
実は山部皇太子、自分ではなく別の人に押し付けるつもりだったのですが……これが大ハズレの展開となりまして、自ら火の粉を被るような失態(?)と相成ります(--〆)
何かこの御仁も、年を取るごとに性格悪くなってきますわね……(@_@;)

白壁王の息子にも拘らず、曲者の要素が見当たらないって、チョッと私には痛い御仁ですわね。
史書に名前の見える光仁天皇の親王は、山部親王早良親王稗田親王他戸親王(以上、年齢順)の四人ですが、うちではもう一人、一番上に開成親王がいます。
この人、私の設定では山部親王の向こうを張るくらいの曲者ですσ(^◇^;)
それはともかく、稗田親王ですね。

『続日本紀』に見える記事は三箇所のみ。
最初は宝亀六年二月に無位から四品に叙位された時。
次は天応元年四月、異母兄の山部皇太子の即位に伴い、三品になった時。
最後は同年十二月、薨去の記事です。
ここには享年が三十一歳と見えていますので、生まれたのは天平勝宝三(751)年となり、早良親王よりも一つ年下になります。
件の超当てにならない『本朝皇胤紹運録』によりますと、生母は尾張女王と見えるそうです。
尾張女王はやはり『紹運録』に、湯原親王の娘と見えているそうです。

稗田親王の子供としては、大同三年に亡くなった葛野王が稗田親王の四男と記させているとか。
三十一歳で亡くなったにしても、少なくとも四人の子供がいたって事ですね。
他には高橋王という人もいたみたいです。

ともかく胡散臭い『水鏡』にでしたか、他戸親王が廃太子された後、新たな皇太子を選定するに当たって、藤原浜成(京家)がこの親王を推したという記事が見えるのは。
一応理由としては、母親の身分を上げているのですが、浜成の失脚時に氷上川継との縁戚関係を上げているところから見ると、もしかして稗田親王にも娘を嫁がせている可能性は否定できませんねぇ。
その娘の子供を後押しして、自らが外祖父として納まろうというパターンですね、既に親王は故人ですから。
いずれにしても、本人は殆ど表に出てこない、これでもかと言うほど影の薄い人です……

天理大学雅楽部『太平楽』昨日の『平城遷都1300年祭』では『大極殿広場』で『献氷式』がありまして、そちらはチラホラとニュースで報道していたようですね。

ところで私はその頃、同じ平城宮跡の『交流広場』で『
全国雅楽フェスティバル』を見ておりました。
これって2006年からやっている『斑鳩国際雅楽フェスティバル』とは別物のようですねぇ。
こちらはこちらで9月23日『
いかるがホール
』で行う予定だそうですから。

どうでも良いけど、せんとくん雪ダルマ午前中から始まりまして、13時過ぎに昼の休憩があったので、軽い腹ごしらえの後に大極殿広場に行ってみましたところ、献氷式は既に終わっていまして、献じられた氷が置かれていました。
そして、南門の前には『せんとくん雪ダルマ』が鎮座していました。
人口降雪機も繰り出して、にわか雪原で子供たちが雪合戦をして楽しんでいるのが、チョッと良い風景でしたね。

私はと申せば、ニチレイフーズが協力に配布してくれたカチワリ氷をタオルに包んで首に巻き、更にはカキ氷の蜜をかけてもらって、溶けたところをすすっておりました。

午後は14時半から始まるのですが、『なりきり体験館』でデジタルアーカイブシステムの公開が行われていると聞きまして、そちらにも足を伸ばして帰ってきましたところ、結構プログラムが進んでおりまして……

南都楽所『蘭陵王』それにしてもやはり雅楽の会は、殆どが関西にあるんですねぇ。
『南都楽所』や『雅亮会』のような基盤があるだけあって、奈良県や大阪府には多いですね。
天理教関係でも力を入れていますので、そちらの関係者では、子供から年配の方まで参加している様子が良く分かります。
この方面で一番、伝統や実力が伴っているのは『天理大学雅楽部』でしょうか。
私も長年、舞楽の類を見ておりますが、三大楽所のほかで最も安心してみていられるのがこちらです。

でも一昔前に比べると、どちらの団体も実力が伴っているように思えます。
とか何とか言いましても、一番面白いのはやっぱり四天王寺楽所『雅亮会』でしょうか(^^ゞ……派手で騒がしいのが良い?

きょううめぞーは、内親王へ記録しないです。
それで兼任したいです。
でも、説明したいです。
それで避難♪
だけど、遷都したかったの♪

*このエントリは、ブログペットの「てむじん」が書きました。
おまえは誰か
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うめぞー
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自己紹介:
明日は歴史作家!

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