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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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ある日の東の空なにやらこのところ、天気予報が微妙に二転三転しております。
今日も午前中はまとまった量が降るとか何とか言っていたのに、朝早くには雨も上がって、昼過ぎには日が射しておりました。
それで明日は雨なのかな?
昨日の週間予報では、土日は曇りだったのに、今日の予報では曇り時々雨のようです。
予報し難い雲行きというところなのでしょう。
画像は、四月ごろに写した空です。
……にしても、フランス対南アフリカやってます。
マジにフランス、やばいかも(ーー;)
今回のヨーロッパ勢、かなり荒れてるとちゃう?
取り合えず、サッカーはひとまず置いておいて。

ただいままた、変な人物関係のドつぼにはまってます。
本来、何処でも仲が悪いと書かれている人をやや強引に馬が合う仲にして、何がべつの要因というか利害関係が、この二人を離反する関係に持っていってしまうという、まぁ、使い古されたセオリーを考えております。
こいつにかなり関わってくるのが、やはり一番の権力者なんでしょうけど、この人にとってはどちらも失う訳には行かない存在でもある……それじゃ、誰がこの状況の原因を作るんだ?
相変わらず、こんな事ばかり考えております。

……が、問題はここじゃない。
問題は、またもや主人公がどこかに失踪してしまったε-( ̄ヘ ̄)┌
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十三重石塔日本最古の厄除け霊場』と言われる由縁は、ここもやはり舎人親王が四十二歳の本厄の年に建立したという縁起に因るそうです。

境内の三重塔から更に上がって行きますと、『松尾山神社』があるのですが、ここでは奈良時代の遺構や瓦が出土したそうで、本来はここに古い山房があったのでしょう。
今では松尾大明神清滝権現などの神様が祀られています。

この画像は、三重塔のすぐ右傍にある、舎人親王の髪や御骨が納められているという石塔ですが、鎌倉時代の物だそうです。
石塔とは逆の方には水の神様を祀る『丹生神の社』もあり、周辺には西国三十三ヵ所の観音霊場を石仏で模しています。

ところでこちらは、山寺にはつき物(?)の修験の場としても知られているらしく、本堂の後方には護摩壇があり、背後の露出した岩盤の諸所に、不動明王役行者の石像が安置されています。
そして今回、こちらに来ました目的は相も変らぬ秘仏拝観σ(^◇^;)
しかし、本堂の十一面観音は今回は開帳されず、十一月にまた御出で下さいという事みたいですね(^_^)

本堂、なぜか脇から(^^ゞでは、特別拝観。
『七福神堂』には弘法大師の作と云われている最古の大黒天像がおられました。
本来のインドの神様が大国主命と混同される前の姿だそうで、確かに袋のような物を肩にかけてはおられますが、なかなかに厳しくも凛々しい表情をしておられます。
その両脇にはやはり平安仏らしき、二体の大日如来が座っておられます。
更には萎え装束に杓を持った恵比寿様やら、聖徳太子摂政像までありまして……(゜.゜)

更には『行者堂』、こちらには二メートルを超える役行者(室町時代作)と前鬼・後鬼、母親の刀良売様の像が安置されています。
余談ながら刀良売様は大和高田市ではチョッと有名人で、御墓も市内にあります。
こちらの行者像は九月の初めの『修験道祭り』の時にも拝観出来るそうです。

ここにはバラ園もありまして、まだかなり咲き残っていました。
その更に奥の建物では、御住職の墨書展も開かれていて、これがなかなか面白かったです。
実はこちらの御寺に来るのは初めてでして、来てみて良かったです。
それにしても季節がらなのか、やけにハイキングツアーの人が多くて、チョイト境内が慌しい状況でしたわ。
また、あまり人のいそうにない時に再訪してみたいと思います。
紫陽花が咲いていなければ『矢田寺』も絶対に空いているでしょうしねぇ(^_^;)
週間天気予報では週末は雨というのを見事に裏切ってくれて、昨日も今日も一日中、降りそうで降らない曇天でした。
昨日は殆ど、調べ物と近所の行きつけの喫茶店に行ったくらいで潰れましたが、今日はいい加減外に出ないと腐りそうなので、思い切って矢田丘陵まで出かけました。

先週末に奈良県で生まれ育った同僚に、『矢田寺』の方に出かけようかなといったところ、
「この時期に矢田寺は無謀ですよ」と、あっさりと返されました。
「牡丹の時期の長谷寺とか、紅葉の時期の談山神社みたいなもの?」と聞き返したところ、
「似たり寄ったりですね、多分」みたいな答えでした。

そういう訳で、混雑していたらさっさと引き返そうと、斑鳩経由で矢田山方面に走って行きますと、国道25号線はいつもの渋滞、中宮寺の交差点を北に曲がっても、それ程混んではいませんでした……というのは甘かった(~_~;)
バス通りを北に曲がった途端、車が前に進まない……
『矢田寺』の駐車場(有料)は目と鼻の先だというのに、まったく進みませんわ。
三分くらいして、ようやく一台程度進んだ……これじゃ、駐車するまでに一時間はかかるわ!
そういう訳で早々に諦めました。

山の中の古刹そして一度引き返して『松尾寺』に行って見ました。
こちらはあっさりと駐車場(無料)にも入れましたが、どういう訳なのか団体様だらけ……落ち着かないわ(/_;)
こちらの様子は項を改めまして。

ともあれ私が一番行きたかったのは、矢田寺のもう少し上の方にある『東明寺』という小さなお寺です。
これが地図で見ると、すごく細い道を入って行かなければならないんですね。
事実、対向車が来たらかわす場所がない……ような道を上がって行く羽目になりました。
幸いにして対向車は無かったのですが、こんな小さなお寺に既に数台の車が停まっているじゃぁありませんか(・_・;)

お堂一つの小さな御寺ですが由緒はあります。
何せ舎人親王の勅願所といわれているそうです。
縁起書には、少々首を捻るような事が書かれていますが、御本尊の薬師如来は平安時代初期の作、堂々としていながら柔和な顔立ちの御方です。
脇侍の毘沙門天吉祥天も、平安中~後期の御方だそうです。

拝観の方も少ないのを幸い、しばしボケ~ッと眺めておりますと、にわかに御堂の外がにぎやかに?
「着きましたよ~、若くて男前の住職さんが居てはりまっせぇ」って、何処の御一行?
まぁ確かに、御住職はかなり若い方でしたけど(^^ゞ
十数人の団体さんがドヤドヤとやって来ましたので、この辺でおいとましました(^_^;)

帰りも対向車に遭う事無く下って来ますと、田植えの終わった田んぼにアマサギがおりました。
この鳥が来ると、夏だなぁと毎年思いますわ。
そして『矢田坐久志玉比古神社』に寄って(これもまた項を改めまして)、混雑している25号線を避けようと裏道を行ったところ、途中で道を間違えまして……久々に呼ばれました(@_@;)
何でこんな所に『御霊神社』があるの?????
続きはまた明日??????
天邪鬼のうめぞーが、諸所で今回の主人公に持たれているイメージを眺めていて、何となく思ってしまった感想です。
これってやはり、二十年近くも鄙に流されていた事と、帰京の後の妙に無欲にも思える後半生の史書の記述に因るんでしょうかね。
かく言う私も、確信を持てるほど『日本後紀』などの史料に当たっている訳でもないのですけれどね。

諸所に散見される仮定として、この人(今回もしつこく名前を書かない事には、大してポリシーはございません)と大伴家持が親密であった云々があるのですが、若い頃のこの人と父親の友人は果たして、どの程度の付き合いがあったんでしょうね。
この人は間違いなく、成人前に父親を亡くしています。
母親は白壁王の娘、つまりこちらの祖父母は皇族と倭史氏、父方の祖父は安貴王、祖母はさて誰でしょう……大伴氏という可能性が全く無い訳でもありませんが。
よほど無理をして考えないと、この人と大伴氏には親族関係がありません。
まぁ、若い頃に迎えた内室を大伴氏にする事も出来ましょうが……(ーー;)
要するに、成人前のこの人の最も身近にいた大人は、母親の親族だと思う訳ですわ。

京都市 藤森神社 090505この人と家持を結び付けるもう一つの要因は、御霊関係から来るんでしょうか。
まぁ、ぶっちゃけて申せば崇道天皇との関係ですわね。
伝承では、崇道天皇の御霊を大和に迎えたのは、この人だという事になっております。
崇道天皇を祀る上御霊神社の小栗栖氏にしても、藤森神社の藤森氏にしても、この人の子孫ですからねぇ……
そして、早良親王と呼ばれた頃の崇道天皇の春宮大夫が大伴家持、そういう訳でこの二人は盟友だ??それって安直に成り立つ仮定なの?????
皇太弟傅という訳ではなく、春宮という家政機関の長官なのよね。

この辺考えて、果たして上記の三段論法、本当に成立する訳なの?
もっとはっきりとした確証を私が見落としているだけ??
ようやく主人公に何とか辿り着こうとしているところに、またもや新手の障害(?)が出てきてしまいましたわ(~_~;)

ところで夕方、西の空が少しばかり赤かったけど、明日は雨は降らないのかしら?
もしそうならば矢田丘陵、行こうかしら……今日一日、史料相手に腐ってたし(--〆)
そんな事よりも、日本対オランダ、キックオフだわね!!!!!
ある夕方の西の空このところの意味不明な画像、今日もいつぞやに撮影した西の空です。
畝傍山の向こうでどっしりと構えているのはどなたでしょう。
山越の阿弥陀の風情には程遠い御姿です。

それはさて置き、悪友候補何人かの経歴を眺めておりますと、つまらない落とし穴に気付きます。
この連中って、若い時は地方官がやたらに多いみたいな……(~_~;)
それもまだ従五位下程度の官位ですから、国守ではなく介です。
天応~延暦年間は、国守と中央官の兼任がかなり増えているので、守は殆どが遥任の可能性があります。
つまり介が現地に赴いて実務に当たっている事になるのでしょう。
……って事は、こいつら都にいるのか、果たして(・_・;)
藤原園人は延暦二年に少納言を拝命しているから、もう備中からは帰って来ているな。
内麻呂こそ、関東の方に行っていそう……甲斐守か?
縄主は中衛少将だけど、三年には伊勢介?続いて美濃介??
葛野麻呂はどうなんだ?まだ六位だなぁ。
紀梶長はどうなのでしょう、この人は武官だから衛府のどこかにいないかしら??

こういう事にかまけていて、主人公の所在が無いんだが……お前、侍従、クビにするぞ(ーー;)
きのうはうめぞーの一緒みたいな治したいなぁ。
それで経営された!

*このエントリは、ブログペットの「てむじん」が書きました。
きょうてむじんが逆算したかったみたい。

*このエントリは、ブログペットの「てむじん」が書きました。
ある日の西の空今日も内容と関係ない画像を上げております。
何日か前の夕方、畝傍山の向こうで、大きな蛟が気を吐いておりました。

それはさて置き、天平宝字四年生まれの主人公の悪友候補として、何となく三人に絞って考えているのですが……
まずは同い年の藤原縄主、それから四つ年上の藤原内麻呂、更に五つ年上の藤原葛野麻呂あたりが無難かななどと、かなりイージーに眺めております。

縄主は式家の蔵下麻呂の息子、多分、武官のスタートで、近衛府か中衛府の所属。
内麻呂は北家の八束(真盾)の三男で、やはり官界での生活は、武官から始まっていそうです。
葛野麻呂は北家の小黒麻呂の長子、この人こそバリバリの武官だと思われます。
まぁ、主人公からして武官なのだし、どの人でも悪くは無いかな。
しかし、縄主と内麻呂って経歴が何となく似ているような気がするのですが……嫁さんに逃げられる事とか?????

しっかし、この週末、また雨続きのようですね……(T_T)
せっかく、大和郡山市の山の方で特別拝観のハシゴ(またもや言う事が不謹慎です)をしようかと思ったのですが、天気が悪いと気分も乗りませんわね。
雨の中、矢田丘陵まで運転するのも、チョッと鬱陶しいかな。
誰か付き合って行ってやるという物好き、おらんだろうなぁ( ̄Д)=3
毘盧舎那仏の膝元政権が変われば、主要人事も変わるのは至極当たり前の事ですね。
先日、桓武朝初期のやたらに多く見える人事関係の記事は、もしかして一種のトリックかもしれないと書きましたが、天応元(781)年の五月に行われている人事は、明らかにかなり大規模な入れ替えです。
これが何に伴うのかと申しますと、ズバリ、桓武天皇の即位(五月三日)です。

それなりに年寄りをリタイアさせて、若い人を抜擢したような動きはありますが、別に今まで役職についていた人が干されたというような露骨な例はあまり見られません。
ところがその後に、ジワジワと旧勢力への包囲網を縮めて行く動きが見えます。
その一つが、かなり以前に書いた、藤原氏の二人の高官を排除する事件です。
京家の浜成と北家の魚名(左大臣)を大胆に追い払った後、藤原四家のトップに立つのは式家の田麻呂(右大臣)です。
ところがこの田麻呂も、延暦二(783)年には亡くなって、次の氏長となるのは南家の是公(右大臣)、その次に続くのは同じく南家の継縄となります。
継縄の異母弟の乙縄も、この後に控えているのですが、この人は天応元年の六月に亡くなっています。
同じく次席を狙って、北家の小黒麻呂家依、そして式家の種継が続いているのですが、延暦四年に家依と種継が相次いで亡くなり、気が付けば藤氏の勢力は前時代に比べると、一歩も二歩も後退したような感があります。

この包囲網、決して藤氏にのみ向けられたものでない事は周知の通り……この時代というのも考えようによっては、聖武天皇の時代以上に天皇権力が大きくなって行くように思えます。
この二人の専制君主、かなり共通点がありそうな気がするのですが、もう一度見直してみませんといけません。

画像は御存知、東大寺金堂の本尊、毘盧舎那仏の膝と手です。
膝から下、台座の蓮弁は創建当初、つまり初代の大仏さんからの物です。

陸奥出羽での反乱の動きは、宝亀年間の初っ端から見ています。
最初は噂の真偽を確かめる程度で済んでいるのが、宝亀五年には行方郡の郡衙の炎上という形で現れ、鎮守府将軍大伴駿河麻呂に軍隊の発動を命じています。
それに前後するように、桃生城への地元勢力の侵攻が報じられて、坂東諸国に援兵を出させる事態になって行きます。
翌年には、出羽国が国衙を移したい旨を言上してくるし、さらに翌七年には、夏を待って陸奥国の賊の一掃にかかりたいと、出羽の兵力四千を動員します。
ところがこの隙を突くように、出羽の志波村での叛乱が起こり、さらに関東からの援軍を要請しています。
冬にはこの動きも一旦収束したようですが、翌八年、再び出羽に兵火が起こり、陸奥按察使紀広純覚べつ城(字が出ませんわ(-_-; )の造営を中央に言上します。

これら東北経営には、入植者は勿論、元々この地に住んでいた人々の協力が不可欠です。
律令政権に帰属をしたこれらの人々を俘囚と呼んでいます。
道嶋宿禰の一族が、中央にもコネクションのある俘囚の名士として認識されているようですが、この人達に反発的な人々も勿論いたようです。
その代表たる伊治呰麻呂が、伊治城で兵を上げて紀広純を殺害し、更に勢力を率いて多賀城を焼き討ちしたのは宝亀十一年の三月の事でした。

さて……この頃の平城京では、天皇は既に老齢で病床に臥している状況だったと思われます。
実権は既に皇太子に移り、その同母弟も既に東大寺を出て宮内に入っていた(内道場か?)可能性もありますし、ひょっとしたら既に還俗していたかもしれません。
私としては、後者を考えているのですが、確証は特にありません。
この兄弟が陸奥に送り込んだ持節将軍が、藤原小黒麻呂です。

この小黒麻呂、東北を巡る情勢に関しては、紀古佐美大伴家持百済王俊哲などと並んで、かなり胡散臭い人物の一人です。
ただいま、この辺りの人達と中央政府要人の派閥を考えているのですが……

だ~か~ら~、この動きに主人公はどういう形で関わってくるのさ?
それが全然見えて来ないじゃなのの(T_T)
少なくともこいつは、早良親王も大伴家持も藤原小黒麻呂も紀古佐美も嫌いなのよ……
本当に、つかみ様のない人物を選んじまったわな、我ながら(~_~;)

おまえは誰か
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うめぞー
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