- 2025.01.20 [PR]
- 2010.02.13 分からないからハッタリよσ(^◇^;)
- 2010.02.12 こうも分からないとなると(/_;)
- 2010.02.11 微妙な部分は分からないんだが……(-。-)y-゜゜゜
- 2010.02.10 接点が分からないじゃない、これじゃ(ーー;)
- 2010.02.08 ロードマップじゃ分からないわねσ(^◇^;)
- 2010.02.07 分からない、どうしてこうなる……(ーー゛)
- 2010.02.06 あっ、マジで分からなくなって来た……(+_+)
- 2010.02.04 分からないと言えば、やっぱり分からない(~_~;)
- 2010.02.03 (;一_一)やっぱり良く分からないんだが(ーー゛)
- 2010.02.02 わ……分からない、決定的に分からない(+_+)
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天平十六年の僧綱のメンバーは?
え~と、僧正は玄昉ですね……この人はもしかしたら興福寺出身なのかな??
大僧都は……誰(?_?) 行達?この人も義淵の弟子だったかしら?
小僧都は……さて(・・?
律師は……大安寺の道慈しか分からない(゜.゜)
僧綱は薬師寺に置かれていたから、玄昉はこの時に薬師寺にいたのかしら?
そういう訳で、この度もハッタリ半分以上で白壁王と藤原仲麻呂が話をしております。
この二人にかかると、大寺の名僧も生臭坊主に思えてきますわね( -」)φ~
「良弁も僧綱入りを狙っておるゆえ、こちらとの繋がりを強めたいのだよ」
「大安寺の道慈律師が一線を退くという噂だが、やはり後釜は良弁和上になりそうか」
「その辺りも考慮に入れておろうな。だが道慈も律師の位は手放すまいよ。このところ玄昉の立場が悪いらしゅうて、興福寺も薬師寺も、法相の坊主どもが僧界での地固めに翻弄している。大安寺としてもみすみす、興福寺の息のかかった良弁になど発言権を許しとうはないと見える」
凡そ百官職に在りて薨卒せば、当司分番して喪に会せよ。親王及び太政大臣、散一位は、治部の大輔喪の事を監護せよ。(以下略)
続日本紀 巻第十五 天平十六年閏一月丁丑(13日)
(安積親王が)薨しぬ。時に年十七。従四位下大市王・紀朝臣飯麻呂らを遣して葬の事を監護らしむ。
さ~て、ここから分かる事は何?
多分、天平十六年の閏一月現在の治部大輔は、大市王か紀飯麻呂だったというところでしょうか。
大市王は長親王の子で、多分下から数えた方が早いくらいの位置にいるのかな?
え~と、第七子でしたかね。
孫王として従四位下に叙位されたのが天平十一年とありますから、結構スロースターターですねぇ。
五つ年下の白壁王が天平九年に最初の叙位をされているのと比べるとなのですが、まぁ、孫王でも長子だとか正室の子ででもない場合は、三十過ぎが普通ですから、白壁王が若干早いのね。
この人の奥さんは確か、白壁王の異母姉の坂合部女王でしたか。
そのせいか、晩年はかなり出世するんですけれどね。
後に文室真人を賜姓されて、大納言にまでなるのでしたっけ……(ーー゛)調べろって
ところで問題とするのは大市王ではなくて、葬儀の事ですね。
お公家さんの場合は、どなたかお亡くなりになったら、やはり家でお葬式を出すのでしょうねぇ。
では宮(っちゅうか、家政機関)を構える前の親王や内親王は?
母親の実家……って事はないよねぇ。
まさかと思うけど、内裏じゃ葬儀は出さないでしょう?
それから葬儀の監護者たちは、何日くらい喪服を着用したの?
天皇は親王の葬儀に当っては、喪服とされる錫紵(しゃくじょ)を三日ほど着用されたらしいのですが、諸臣もこれに倣うのかしらねぇ??
桓武天皇なんて、父親が崩御した時には、全国に向けて半年ほど喪服を着ておけと命じてますけど、まぁ、この人はやる事なす事が大げさですから……ε-( ̄ヘ ̄)┌
ところで喪服の色はどうしましょう。
白か鈍色か、迷うところですわねぇ。
こいつが封建時代とか戦国時代とかならば、割合に力関係の構図が分かりやすいんですが、このたび私がのた打ち回っているのは、力業を伴わない政争を背景としているので、更に入り組んでいるような気が致します。
と、何を勿体つけて申しているのかと……婚姻関係です。
権力を持っている人たちの間では、結婚問題は多分に政略を含んでいる事など、今更人に言われなくてもどなたも理解していると思います。
今ここに、太政官入りを目論む御仁がおります。
この人に輿入れを控えたような年の姫御がいたとします。
時は奈良時代後半……
ここには『万葉集』あたりに代表されるような、おおらかと言うか明け広げと言うか、現代感覚にも共感できるような自由恋愛は、あまりに期待できないと考えられます。
輿入れする姫君は人質、とまでは申しませんが、それに近いものは絶対にありましょう。
私が分からないと、あえて素っ飛ばそうとするのは、ここにおける若い男女の心の機微でして、そんなデリケートな部分に関わってたら、親父どもの水面下の切った張った、こけた潰した、投げたすくった、謀った企んだは考えられたものじゃない……(--〆)
構図が変わるのは、そのデリケートな部分の崩壊からだな。
相変わらず、身も蓋もあったもんじゃないな(-_-メ)
おかしい、予定ではそろそろ治部省に行ってもらって、玄蕃頭になってもらうつもりなのに……
そうしないと金光明寺との接点が見出せないじゃないの……
しかしだよ、この場合はどちらが先にアプローチしてくるの?
もちろん、白壁王はする訳なくって、これから起こる事の相手なのか、その事の黒幕なのかって頃ね。
このどちらとも白壁はハッキリとした接点を持たないのが問題。
という事は、更なる第三者が必要なのかな。
やっぱりキーポイントは皇后宮職……かくして、こうなるか(@_@;)
多分、奈良まで出て、生駒の暗峠(くらがりとうげ)を超えて、東大阪の枚岡の辺りに下りて来たのでしょう。
私はこの道をいまだ通った事がありません。
石畳がずっと続いていて、これが結構歩き難いのだそうです。
このルートの途中に『桜井頓宮』があるのですが、現在の東大阪市六万寺近辺だそうです。
ここから西にひたすら行くと、天王寺に着きます。
約12キロの道程だそうで、地図で見ますと県道(府道なのかな?)24号線で途中までたどれます。
あまり大きなアップダウンはないコースだと思います。
ここで疑問……(・・?
天平十五年閏一月、聖武天皇は恭仁宮を発って難波行幸に出かけます。
途中の桜井頓宮で安積親王が具合が悪くなり、恭仁に帰らせるらしいのですが、ここから生駒を越えて帰る事を考えたら、難波に行く方が近いのではないのかしら??
この辺から、あの愚問的な暗殺説が一人歩きしているのだと思いますが、もう少し別の理由ってないのかしらねぇ……親王自身が難波を嫌がったとか、病人は行幸に従ってはならないとか???
やっぱり、この辺、どう考えて良いのか???
少なくとも、恭仁だの平城の留守官が手が出せる状況じゃないでしょう?
もし怪しむなら、帰りの道中さ……親王付きの人物が怪しい??(@_@;)??
いや、だから、暗殺説なんて私ゃ取らないんだって(-_-メ)
「家は存続せねばならぬか……分かっておるさ。切り捨てねばならぬ時は、容赦のう切り捨てる。御身も俺も、そのような家に生まれてきた。今は少し、やり切れぬだけだ。いずれ時が立てば、俺も割り切るようになる」
何となく、この仲麻呂の言葉が今回の話の一つのコンセプトかもしれませんわ。
このような家の頂点に立っているのが、白壁王の生まれた家ですから……
こいつを身をもって経験する分、この人は息子たち以上にとんでもない人なのかも(゜.゜)
ようやく、年を取ってからのそらっとぼけ方の理由が分かりました……って、誰の書いた話だ?
ところで父親の方を少し調べていて、変な間違いに気付きました。
吉備泉って天平十二年か十五年の生まれなのね。
それぞれの説を検証する気は現在ないのですが、そうなると天平九年生まれのうちのスメラミコトよりも年下じゃないの。
父親の年から考えて、少し年上かと思ってましたわ。
真備の息子でも末の方なのかな?
(゜_゜)、これなのに年上で皇族の上官に喧嘩売るって、凄いやつかも、吉備泉……
それに本気で怒る、この御仁も何なんだがねぇ(ーー;)
「いつか、ぶん殴ってやる」by中務宮山部親王
相変わらずこの御仁は牛か猪……あれっ、どっちも草食獣か?
この御仁、草食系なのか?(゚_。)?(。_゚)?
一番の実力者は誰なんだ?
そりゃ間違いなく聖武天皇ですが、天皇権に対抗せずに、その裏をかこうとするだけの力を持っていた者が果たしていたのかしら??
傍目には左大臣と天皇は強調しているように見えるんだが、この先の展開を考えると、こんな単純な見方では済まないんですよね。
では太上天皇は誰と同じサイドにいるのか???
確かに難波遷都の時にも、その後の動き(万葉集など参照)を見ても、太上天皇と左大臣が敵対しているようには思えないのですが、どこまでの協調なんでしょう。
そもそも、太上天皇は誰かと喧嘩をしているの????
これに関しては、皇后と仲が悪いと時々言うけれど、恭仁宮の二つの内裏は本当にその表れと考えても良いのかしら?
それならさっさと、暖かい難波に帰りたいと思うのではないかしら。
そうやって見て見ぬふりが出来たら、楽なのかもしれないけれど……??(@_@;)??
では、全く表に出てこない皇后は何を考えていた??????
えっ、藤原氏の陰謀?!?!
一番トップは……中納言藤原朝臣豊成。
その弟なんて、そろそろ参議入りできそう??
“この藤氏の総領は傍目で見ていて、常にそつがない。私に対しては隙だらけの同母弟とは大きな違いだ”
とは、白壁王の言い分なんだがε-( ̄ヘ ̄)┌
まぁ、私が主要登場人物に選ぶと、大抵が変な人になるのですけれどね。
それはさて置き、考えれば考えるほど、この御仁の立ち位置が分からない……
太政官の首班として、最高権力者のはずなのに、こうも周囲に翻弄されているような印象をぬぐえないのはどうしてなんでしょう。
お陰で何となく定まらないのが、この御仁と白壁王の相性でしょうか。
鈴鹿王はもちろんの事、智努王の事は多分苦手なのだと思うのですが、白壁となると息子ほども若いのだし、さて、どうしましょうかねぇ……(・・?
あ、多分、吉備真備の事も嫌いだな、絶対(^_^;)
……そうすると、この御仁、仲の良い人いるの(ーー;)?
今書いている話、何となく意味不明に、後に大物となる人が若い時の姿で出てきます。
一番若い姿で出てくるのは、四歳の山部王だったりするんですが(-_-)
あとは名前を思い出してもらえない二十五歳の内舎人……だから誰さ?
それから作者からあまり好かれていない、二十歳そこいらの頃の左大臣の息子もいるし。
ついでに、阿倍内親王から御使いを頼まれてくるのは、二十八歳の右衛士督……藤原八束です。
さて、今書いている辺りで左大臣の息子、橘奈良麻呂は二十二~三歳です。
この人確か、藤原魚名と同じ年だったかな。
藤原田麻呂が一つ年下、佐伯今毛人が二つ年上ですね。
ここの同世代に設定しているのが、市原王だったり山背王だったりするんですが、やっぱりこのくらいの年齢の時の各人のプロフィールってよく分かりませんわね。
ちょっと気になっているのが、藤原八束の兄弟たちです。
年子の同母兄の永手は、異母兄の鳥飼の早世によって北家の総領となり、二十四歳で従五位下を叙位されて出世コースに乗ってきます。
それなのに、その後の動きが全く分からない……(?_?)
一方、二十六歳で兄の階位に並び、同じ年の暮れには更に一階上がった同母弟は、春宮坊で出世コースに乗ったようです。
二人の異母弟の清河(生年不明)は、八束と同じ年に従五位下に叙せられて、次の年には中務少輔になっています。
この三人の内で最初に参議になるのは、何と清河です。
これは遣唐大使に選ばれる前年の事。
この三人ってもしかして、この頃はまったく別の派閥に属していたのか?
どうも北家の連中って、動きがつかみ難いんですよね。
この連中は名前だけは何度か出てくるのですが、やっぱり具体的に動かせませんわ。
それなのに、どうして出てくるんでしょう??
まぁ、今回、藤氏で中心になってくるのは南家の兄弟ですからねぇ。
それにしても白壁王、随分と若い次官の事が気に入ったみたいねぇ。
春日王のウケも悪くないしねぇ……しかし、湯原王だけはチョイト視点が違うか???
(゜.゜)やっぱり、ここの兄弟が一番変なのかも……(~_~;)
最初の人物の名前は分かったのですが……この話の時点で、この人はかつて何をしたという設定になっているんだ?
表面上に見える事は割合に単純なんだが、主人公らが言っている、水面下で同時進行に起きていた事というのは一体どのような事で、幾つの事件が起きていたんだ??
何でこんなにややこしい話なんだ???
こちらの話は今考えている話の十数年後、既に息子の代に主人公が移っています。
この息子がかつて、父親がどのような事件に巻き込まれたのか、それによって自らがどのように人から見られ、何に利用されようとしているのか、これを知って足掻きまわっているような話なのですが、とにかく十数年前に父親の身に起こった事がややこしい……
一体この時の私の頭の中の構造はどうなっていたんでしょう(・_・;)
息子らは四つの事が起きていたと言うけれど、ざっと呼んでもそれ以上に細かい事が起きているような気がするんだが……(@_@;)
登場人物は何人いるんだ?
既に登場しているというか、名前が出ている人は……白壁王を含めても四人しかいない?
後の連中、どこで出せば良いんだ?
まだ、そこまで話は全然進んでいないのですが、これこそ知恵熱出そう(+_+)
一度、こいつを整理せにゃならんわいな……(ーー゛)