- 2025.01.20 [PR]
- 2010.02.01 かなり状況が分からない……((+_+))
- 2010.01.31 微妙に地形が分からない……(・。・;
- 2010.01.31 垢抜けない地名なの(ーー;)?
- 2010.01.22 渡し舟はいらんかね~?
- 2010.01.21 多分、偏見σ(^◇^;)
- 2010.01.18 やっぱり変更。
- 2010.01.17 皆、企んで大きくなった?
- 2010.01.17 (゜.゜)、予定と違うぞ……
- 2010.01.16 しかし、今更なんだが……
- 2010.01.16 だって、一度も見たことない!
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昨日に引き続き川の話です。
今日考えていたのは木津川に掛かる橋の事。
国道24号線を北上して、奈良市を越えると京都府の木津川市に入ります。
ここ最近、何やかやと私もこの辺りに出かけております。
JR木津駅を過ぎて少しすると『泉大橋』という、かなり長い橋を渡ります。
私は時々、ここで渋滞に捕まりまして、橋の上で大型トラック辺りが対向車線を走ってくれたりすると、とにかく気分が悪い……あの揺れがとっても嫌いなんですわ。
昔々、首都高の湾岸の方でも、時々渋滞に巻き込まれて、この揺れを嫌と言うほど体験してから、どうも長い橋や高架での渋滞が嫌いなんですわ……いや、そもそも渋滞の好きな人は滅多にいないと思いますけれど。
それはともあれ、泉大橋を渡った先に『泉橋寺』という寺があります。
私は立ち寄った事がないのですが、行基和上の建立した四十九院の一つだそうです。
このお寺のすぐ西側の細い道が、行基和上の架けた『泉橋』から至るルートで、恭仁京右京の中心線の道だと推測されています。
左京の方にも、朱雀道が泉川を越す位置に橋が架けられているので、構造上はおかしくはありません。
ところがふと疑問に思ったのが、『泉津』との関係です。
昨年の秋にも『上津遺跡』の現地説明会が木津川市教育委員会で行われましたが、この『宮ノ裏』の辺りがもしも『泉津』だとしたら、難波の方から来た物資を津に陸揚げをする場合、橋を超えなければならなくなるんですよ。
昔の事ですから、今のように川沿いに立派な堤防をかけて、その間に鉄筋の橋を渡すなんて事は絶対にありませんから、低い位置に何本もの橋桁に支えられた木造の橋が架かると思います。
こうなると船の往来はスムーズにできるものなのでしょうか……
川においそれと橋が架けられないのは、技術的な面や防衛的な都合に左右される事も多いと思いますが、昔々は大掛かりな荷物運搬は川をメインに行っているので、船の往来にも支障をきたさないようにされたのだと思うのですね。
これを考え始めると、『恭仁大橋』の前身となる橋も困るだろうなぁ……
今度は伊賀の方から入ってくる船を遮ってしまう事にならないかしら?
さて、この時代の橋の構造はどう考えたら良いものなのでしょう。
どうもこういう土木的な事にも不勉強で困ります。
そういえば以前、瀬田川の唐橋遺跡で昔の橋桁が出土してたかしら。
それから復元した模型を随分前に二上山博物館が借りて来て展示してたような……
ちょいとこれから、その画像を探してみましょうっと(~_~;)
さて、白壁王が泉橋院にいる行基和上を訪ねるのですが、恭仁京左京からは川の南側を通ったのでしょうか、北側を通ったのでしょうか……地図で見ると北側はがけ続き、南の河原の方が遥かに広いみたい。
いちいち、こんな事に関わってるから、書くべき話がスムーズに進まないのかしら(*_*;
狸だらけの陶芸の里の辺りはかなりの上流なので、本当に細い川で、こんな川にダム造ってどうするのさ……という印象を受けます。
三重県や京都府との県境の方から、大戸川は北に向かって流れて行くのですが、国史跡紫香楽宮跡(甲賀寺跡)の少し先で西に方向を変えて、そのまま平野部に向かい、ついには瀬田川に合流します。
この紫香楽宮跡の少し手前に『牧』という地名があります。
国道307号線を京都の方から来まして、道沿いに林立する狸の姿が見えなくなって暫くした頃に、この名前の交差点があるので良く覚えております。
ここを過ぎて橋を渡って最初の信号を左に入ると、紫香楽宮跡に着きます。
つまり大戸川上流の河川敷に『牧』という地名があるのですが、この地名はいつまで遡れるのでしょうか?
この地名、単純に考えると、河川敷で馬や牛の放牧をしていたので付いたと思われます。
しかし上流ですから、川は昔は狭い盆地をあっちに流れ、こっちに流れしていたので、大規模に牧が営めるものなのでしょうか?
例えば河内の牧などと比べてみると、どのような違いがあるものなのでしょう?
こっちは河内潟の周辺に広がっていたのかな?
まぁ、川は肥沃な土を運んで来て、豊富な草を育ててくれれば良いのだから、降雨期に多少の洪水があっても大丈夫なのかしら?
しかし、あの辺を走っていても、本当に狭い盆地の風景がずっと続いていたからなぁ……
いや、そもそも、ここに牧があったとして、運営していたのは誰なんだ?
今日も、直接関係ないところで脱線しまくって、全然話が進まないのでした。
いや、原因は牧よりも、阿倍内親王が出てきたからなのよね……情けないかな白壁王、完全に腰が引けてる(@_@;)
木津川を昔は『泉川』と呼んでいたのは、歌でも有名だと思いますが、この周辺の地名はかつては何といったのでしょうか。
『続日本紀』には度々、『甕原離宮』の名前が見えるので、甕原(みかのはら・万葉集では三香原)の地名が一般的なのでしょうか。
天平十三年閏三月九日、“平城宮の兵器を甕原宮に運ばしむ”と見えますが、この甕原宮は離宮の事なのか、新たにこの地に造られた王宮の事なのか良く分かりません。
恭仁宮の名前は十二年の最後、東国行幸の最終目的地として見えていますが、この名前も便宜的に書かれているようです。
何せ正式に『大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおほみや)』の名前が付けられるのは、十三年の十一月二十一日の勅ですから、それ以前に何と呼ばれていたかははっきり書かれていません。
ところでかなり一般的に流布していない名前に『布当宮(ふたぎのみや)』があります。
この名前は万葉集にのみ見えるせいか、私の頭の中ではいつも端っこの方に追いやられていて、話の中で使った事さえ忘れていて、先ほども読み返して思い出すような始末です。
甕原離宮の場所は木津川の南岸、現在の木津川市加茂町法華寺野の辺りにあったと考えられます。
字名から分かりますように、ここには昔、山背国分尼寺がありました。
一方、国分寺のある場所は元の恭仁宮、木津川の北岸です。
木津川を挟んで北が『布当』、南が『甕原』だったのでしょうか?
それにしても“みかのはら”に比べると、“ふたぎ”という名前の響きは、どうも田舎臭くてイケてませんわねぇ……あくまでも私の好みの問題ですが。
やっぱり『布当宮』という字面が良くないのもあるのかしら……
『甕原宮』に統一した方が良いかなぁε-( ̄ヘ ̄)┌
実は私が想定した白壁王の屋敷は、この二条大路を更に東へたどって、河を越えた広めの河川敷、つまり京外に住んでいる事になっています。
おまけにこの二条大路、途中で丘にぶち当たって、恐らくは西に伸びきってはいないようです。
そうすると、白壁は王宮から自分の屋敷に帰る時どうしたんでしょうσ(^◇^;)
まぁ、丘の麓をたどる細い道くらいあったかもしれませんが、泉川はどうして渡ったのかしら?
何とか渡れる程度の橋が架かってたのかな?
しかし、航空写真で見ても、あの辺りは東西に流れていた川が南西に蛇行する所に当たっているから、たやすく橋なんて架けられないかもしれませんわ。
そうすると、馬ごと乗せてくれるような船か筏でもあったのかなぁ……?
変な設定をすると、不必要なところで悩むという悪い例でした(@_@;)
年が明けてからネット上では引き篭もり(?)も甚だしく、どちら様にも挨拶に出向いておりません。
重ね重ねの御無礼をお詫び申し上げます_(._.)_
リアル生活では、休みの日に家にいる事の方が少ないくらいだってのにねぇ(^_^;)
こんな生活も二月に入ったら、逆になりそうな気がします。
土日は家に篭って、さっさと執筆に勤しまねばなりませんので、途中、ネットに逃避する可能性が大きいでしょう。
そんな事してるから、書くべき話がちっとも進まないんだよ(--〆)
ところで今も、いささか強引に人物を登場させております。
その一人、中務大輔の白壁王が名前を思い出せない内舎人……育ちの良さそうな顔に不自然に尊大そうな表情を貼り付けて、右大臣に頼まれた御使いに来るのですが、さて、これは誰でしょう(-_-)
この時は天平十四年の二月、この内舎人は二十五歳くらいでしょうか。
どうも私は、文人扱いされる人を変人扱いする傾向があるようです。
かつての長屋王のサロンに集った人も、後の市原王の周囲に集まる人も、大方が変人集団になるのかなσ(^◇^;)
皇后宮大夫は天平九年からしばらくの間、誰の名前も見えません……そういう訳で変更。
湯原王は恭仁京遷都の頃には、既に皇后宮大夫。
もちろん、天平十七年にもこの地位にいる予定です。
これで少しは動かしやすいかな。
やっぱり私が皇家の人間を書いていると、小悪党というよりも大悪党になってきますわ。
今回の一番の悪党は……う~ん、聖武天皇だったりして??
大昔、野坂昭如氏が「ソ、ソ、ソクラテスかプラントンか~」なんて変な歌を歌っているCMがあったとかなかったとか、「み~んな悩んで大きくなった~!」と最後に叫ぶのだとか。
この方、相変わらず斜に構えてちょい悪親父で通っているようですが、そろそろ八十歳になるのだそうです。まさに戦争を知っておられる世代ですからね。
それはともあれ、そういう(どういう?)訳でうちの連中は、悩むよりも企む方でBIGになろうとしております。
特に先般から困ってるのが湯原王ですわ。
このまま書いて行くと、左大臣(橘諸兄)を脅迫するのは、白壁王ではなくこの兄上の方になりそう。
異母弟からは嘘が下手だと言われていますが、嘘などつく必要のない立場なのかも?
この兄弟を藤原南家の兄弟は、傍から指をくわえて見ているような事態になりかねない??
こうなると、この御仁の息子(壱志濃王)も一筋縄じゃ行かないのかも……(@_@;)
まったく、湯原王といい、市原王といい、大伴家持といい、、もちろん志貴親王といい、どうしてどいつもこいつも歌は詠まずに権謀術数にばかり手を染めてるんだ?
白壁王が当初の予定よりも重要ポストについてしまったのが、原因の一つかもしれません。
これじゃ兄の湯原王よりも立場が上の可能性ないか?
一方の私はといえば、このところ天皇からの覚えが芳しくない中務卿の塩焼王の代理を任せられたようなもので、ほとんど内裏に詰めている事が多い。侍従への取次ぎや省内の事は、少輔の藤原清河に放り投げている。まだ若い清河にしても上官二人が諸王である事がかなり煙たいと見え、この馴れ合いを歓迎しているように見える。そして塩焼王は、どこの司でも諸王は厄介者だと更に愚痴を言う。
私というのが白壁で、つまりは中務卿の代理?
一応は中務大輔という事にしております。
つまり侍従よりも上……ちなみに湯原は中務省の下の皇后宮職の亮、もうすぐ大夫になる予定。
それにしても、何となく不真面目にこういう事を書いてしまいましたが、もしかして聖武天皇、娘婿いびりをしているのか?
塩焼王は不破内親王の夫です。
この事件で捕えられた者らへの処刑は、この年の正月二十二日に判決がなされたようですが、当事者らは都からの指示を待つ前に処刑されていますから、かなりの権限は大将軍に委任されていたのでしょう。
ところで藤原宿奈麻呂(良継)や田麻呂は、この事件への連座によって伊豆や隠岐に配流されますが、九月の大赦によって十四年には都に戻ってきているようです。
しかし都って恭仁の事なのか、平城の事なのか……まぁ良いか、今回は。
この二人、当たり前だけど、都で連座を問われてしょっ引かれたのでしょうね。
私の勝手な想定には、二人の弟(綱手と清成)は筑紫に下ったとしてあります。
綱手の処刑は広嗣と共に行われているのですが、清成はどうしましょうね。
こいつを一言も書いていない事に先ほど気づきまして…・・(・_・;)
まぁ、直接に物語に関係しないから、一~二行ですむ事なんですけれどねぇ。
戦死か病死か、自刃って可能性もあるかな……
この方も生死は別としても、十三年の大赦で放免されているから、息子らへの咎は及ばなかったと解釈して大丈夫なんだろうなぁ。
何せ一人息子(という想定)の種継は、まだ四歳ですから。
書いていてイマイチ想像のつかないものが多々あります。
例えば、灯明を一つ燈したような部屋の暗さもそうですし、客人がやって来た時に酒以外に出される飲み物……白湯以外だったら何だろう、肴は季節によって違うだろうしなぁ。
おかげでうちの連中は、昼日中からしょっちゅう、酒をカックラってます。
家の中や、各人の職場の様子も具体的な想像が、ほとんど沸きませんわ。
中世の家のように、廊下で各建物がつながっている訳ではなし、別の建物に移ろうとする時、主や家司のような人ならともかく、資人や侍女のような忙しい人は、いちいち靴なんて履いたり脱いだりするのかしらねぇ。
そもそも、使用人クラスはどの程度の人までが、履物を履いていたんだろう。
まぁ、こんな程度の事は多少のはったりが利きますが、まったくチンプンカンプンが儀式の類です。
法要ならば何となく、それらしい事を並べもできますが、節会などになると……だって現在、皇室でも行われていないような類もありますよ。
一月十六日、踏歌節会……舞人の女性(男性も行いますが)が出てくる前って、皆何をしていたの?
そりゃ、酒が出てきて、次に食べ物が並べられて……でもほとんど分からん(-_-;)
大体私ゃ、踏歌なんて見た事も聞いた事もないんだよ(ーー゛)
平安時代以前でも、男女の踏歌は別の日だったの?
大安殿の庭に公卿らが参内する時間って、何時ごろ?
それで、どの程度の時間で終わるの?
この間って中座する事はできたの?
困った事に、うちの連中は大概逃げ出して、よそで駄弁ってます。
これが閣僚や参議なんだから……こんなのってあり(@_@;)?