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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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義淵僧正という方がおられます。
この方の弟子として上げられている僧侶に、玄昉行基良弁隆尊道鏡などがいます。
義淵は神亀五(728)年に亡くなっていますが、享年は分かりません。
ちなみにこの年、行基和上は六十一歳くらいでしょうか。

玄昉はこの十八年後に筑紫で亡くなりますが、その時には既に僧正の位は剥奪されています。
僧正に任じられた要因は、唐で重用されて、博学の士として日本に帰って来た事も大きいでしょう。
この人が遣唐使で入唐したのは、霊亀二(716)年ですから、義淵僧正の弟子であっても、特に疑問も感じません。
隆尊は慶雲三(706)年、良弁は朱鳥四(689)年生まれなので、義淵の弟子であっても、全く差し支えないでしょう。
道鏡となりますと、やはり隆尊と同年代でしょうから、義淵晩年の弟子の一人だと思われます。

こうして見て来ますと、何となく疑問に感じるのが行基和上なんですね。
本当にこの方、義淵の弟子なの?

行基和上の墓誌とされる『大僧正舎利瓶記』には義淵の名前は出てきませんし、飛鳥朝の壬午年に出家したと書かれています(と思う、だって白文のテキストしか手元に無くて(T_T))。
この飛鳥朝の壬午年というを調べた所、天武十一(682)年、十五歳の時です。
墓誌の冒頭にある、薬師寺の僧侶という辺りから、法相宗の僧侶だというのは分かるのですが、その事と義淵の弟子である事はイコールではないでしょう。
義淵師は元興寺智鳳師に法相を学んだとありますが、日本での法相の最初の師は飛鳥寺(後の元興寺)の道昭師ですから、最初はこの師に仕えていた可能性もあります。
何せ義淵師は大和国の高市郡出身らしいですから、飛鳥寺は超地元ですわ(^^ゞ

行基和上道昭和上の接点も実は良く分からないのですが、案外、義淵行基って、道昭の元で兄弟弟子の間柄だったんじゃないのかと、勝手に考えてます。
ちなみに道昭和上が遷化した文武四年には、三十三歳になります。
大体、僧侶はプロフィールの分からない人が多すぎるんですよ。
だからいつも苦労する……そして開成親王みたいな、独断と偏見に満ちたキャラクターが出来上がるんだろうなぁ、我ながら思うにσ(^◇^;)
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神亀五(728)年九月十三日、皇后が産んだ皇太子が二歳で亡くなり、十一月三日に智努王を長官として『金鐘山房』の建立が命じられ、同月二十八日には智行に優れた僧侶が九人、こちらに住まうようになります。
この山房が天平十三(741)年三月の『国分寺造営の詔』によって、大和国分寺になったという記録は無いのですが、『東大寺要録』によれば、天平十四年には『金光明寺』に寺名が替わっています。

国分寺という寺の正式名称は『金光明四天王護国之寺』ですから、天平十五年の正月に聖武天皇の行幸が見える『金光明寺』も、この寺の事と考えられます。
ちなみに『毘盧舎那仏造営の詔』が発せられるのは、この年の十月なので、『甲賀寺』が形になっていたとは思えませんし、山背国や近江国の国分寺の存在もこの時期は不明です。

さて、国分寺には二十人の僧侶、国分尼寺には十人の尼僧を置くようにという命令が、やはり建立の詔の中で命じられています。
最初は九人でスタートした山房も、十四年後には倍以上の僧侶の住む国分寺になったようです。
ところで、この二十人という僧侶の人数は、当時の寺としては多い方なの、少ない方なの?
こいつが本日の疑問……(@_@;)

現在の檀家制度の元でのお寺でしたら、かなり大きな部類なのでしょうけれど、この当時にはそんな寺はありませんし、氏寺や知識寺の規模も良く分かりません。
しかし、各国ごとに大般若経(全600巻)を写経して揃えろだの、一丈六尺(約4.8mですが、座像ならこの半分の高さ)の釈迦牟尼仏を造れだのの後に、七重の塔を建立して金光明最勝王経妙法蓮華経を書写せよと命じた国分寺の造営ですから、二十人の僧侶は、きっと少ない数字ではないのでしょう。
皇太子とはいえ、たった二歳(満一歳以下)の小児の菩提のために皇家が発願した寺に、九人の僧侶というのも、何となく多いのではないかと思うのですが……

そしてこの後、この寺がどうなるのかと申しますと、『東大寺』と呼ばれるようになり、毘盧舎那仏もこの寺にて完成する事になります。

越路吹雪のあの名曲の元の歌は、誰が歌ってたんだ、アダモか?
ちなみにただ今のBGMは、葉加瀬太郎ですが。

誰が誰にロクデナシだと言いたがっているかと申しますと、藤原仲麻呂が白壁王にと見せかけて、その上官たる橘諸兄に言いたいんですね。
やっぱり蓋を開けてみたら、この二人、絶対に仲が悪かった……十数年後の粛清劇の兆しは既に現れているって事のようです。
それにしても予想外なのは、やたらに仲麻呂が広嗣の弁護をしまくってる事ですわ。
この世代はまだ、藤氏四家が多少とも連帯感を持っていたんだろうか……

何のかんの言っても私はやっぱり藤原氏贔屓なんですねぇ、今更ながらに気がついた訳でもないけれど。
もう少し皇家の瑣末筋を贔屓してやっても良いんじゃないの?
えっ、長親王家には結構、優しいつもりなんですけどねぇ、浄御原帝系の内では……
でも大市王は度々出てくるけど、智努王はあまり出てきませんねぇ。
奈良王……それ、誰だっけ???(゚_。)?(。_゚)???

しっかし、皇后が出てこないと湯原王も出てきませんわねぇ。
この異母兄こそ、市原王なんて物の数じゃない程の皇后派閥の大物……にする予定なのに(゜.゜)
 

今回の仲麻呂は実に良く喋る……
そりゃ、ワンパターンに、状況説明を悪ふざけを交えて、やたらに会話で進めようとするからさ。
この調子で、この後も出世していったら、周囲の連中はさぞかし鬱陶しいだろうなぁ。
この人のジョークって、白壁同様、殆ど笑えない?(゚_。)?(。_゚)?

そして今回の白壁は、かなりヤバイ……
この後、この曲者が太政官入りして、筆頭の大納言として右大臣だろうが左大臣だろうが、裏から平気で脅しをかけるような事したらどうしよう(~_~;)
何せこの御仁、今回ですら左大臣を脅迫しかねない状況なんだもの(-_-メ)
これを分かっていて、皇位に押し上げようと画策したメンバーって誰なのさ???
やっぱり、この父親あっての、あの息子なのね……作者は何を納得しとるん??????

しかしだよ、年賀状……だから虎しか描いてない。
今年の年男年女……探したけどやっぱり一人しか見つからない(T_T)
ためしにモデル無しで描いたら、御祖父ちゃんの若い頃の顔になってしまった。
まあ、予想しなくても分かる事だったけれど……ε-( ̄ヘ ̄)┌

……にしても、全然、話が進まない(ーー;)
少しでも書き散らしているのは、白壁王と藤原仲麻呂の会話ばかり。
どうして野郎同士の良からぬ密談だけは、やたらに出てくるんだ……それもきな臭いというか、胡散臭い内容ばっかり(ーー゛)
大体だ、仲麻呂は白壁に対して口が軽すぎるぞ。
こいつ、相当、仕事のストレスが溜まってて、それを家族に愚痴ると鬱陶しがられるから、ついつい、聞いてくれる悪友に何でも話したがるんだろうなぁ。
でも、この二人のしている会話って、絶対に妻子や家人に話す内容じゃないな。
つまり、こいつは一人で秘密を抱え込んでいるのが嫌なのか、とにかく誰かに話したくて仕方がないところに、ちょうど良く、その類を共有しても大丈夫そうな立場の悪友がいるって事なのか。
そもそも、仲麻呂は何でここまで情報通なんだ、大臣やその周辺にはそれほど歓迎されているようには思えないキャラクターなのに。
やっぱり情報源は叔母上なの?
いや、これじゃ、考えが安直過ぎるか。
もう一ひねり欲しいかな。
となると、次に問題になるのは、白壁の兄たちのポジションだわね。
長兄はそろそろ、官界から退きたがっていて、次兄は中央に戻りたがらない。
そうなると、やっぱり積極的に出てくるのが、すぐ上の兄上になるか……湯原王がだんだん悪党になって行くような(-_-;)

それよりさぁ、年賀状、どうなったの????
実は、虎の画像くらいしか用意してない……八日までに出せるのか、マジ(--〆)

北◎鮮だ?
いえいえ、天平年間においての仮想敵国を一応考えると、まぁ、新羅なのでしょうねぇ。
本当に天平九年より以前に新羅征討を考えていたとしたら、豌豆瘡の流行が去った後にも、その余波は残っていたと考えるべきなのか、太政官の上部が一掃されて新たな政権が確立した段階で、そのような動きはなくなったと考えるべきなのか……この辺りは、畿内と地方では必ずしも同じではないのかもしれません。
特に韓半島に最も近い、筑紫の北部ともなると緊張感はまだまだ残っていたのか……?
これが大宰府停止の後に鎮西府を置いた、尤もらしい理由の一つになってはいるのですが(゜.゜)

こんな事にいつまでも引っかかっていないで、さて、そろそろ、本格的に進めませんと。
とか何とか言いながら、これより三日ばかり留守に致します。
探さないで下さい……って、誰が探すか、ボケ(ーー゛)
正月は富士山、見えるかな~~!!
で、初詣は何処にしよう、三嶋大社でも良いんだが。

天平十二年に起きた大宰府の反乱と、その後の都周辺の動きはどの程度に関わりがあるんでしょう。
そもそも、西の果てでどうしてあれほどの戦火が上がったのでしょう。
この後、大宰府の機能が停止し、鎮西府を置いて管内が戒厳体制に置かれるともなれば、ここで起きた騒ぎが一部の人たちの感情論が起したような類ではないと思えるのですが。
過去の研究者も、この辺りにあえて目でもつぶったのか、額面どおりの捉え方しかせず、むしろ畿内と大宰府の距離関係や交通事情へ目を向けるような論争しか展開していないように思えます。
この話を具体的に取り上げる機械は今の所ないのですが、その後の動きがもしも都周辺に影響していたのなら、無視する訳に行かない事情があります。

と……このように脱線しまくっている訳なのですが、本当にこいつを真剣に考え始めますと、実のところ話の筋そのものに大きく影響してきそうな気がするんですよね。
ひとまずはこれに触れずに、若しくは主人公を無知のままにしておいて、話を展開させて行くべきなのかもしれません。
いやしかし、私がこれらの関わりをある程度の理解しておかないと、このこと自体に意味がなくなって来るじゃないの……(ーー゛)
どうしていつも、わざと背景を複雑にしたがるんだ、我ながら(--〆)

少し前から、何となくこの歌が気になる……また病気か?(?_?)?

都が三つあるという事は、三人の主が必要なのかしら……
この疑問は、何時ぞやにも考えていた事です。
天平十二年の終わりに、伊勢や近江への行幸を経て甕原こと恭仁宮に入った聖武天皇は、ここを新たな都とすると宣言します。
東国への行幸に皇太子皇后が伴われていたのか、この辺がはっきり書かれていないのですが、少し後の記事を見ると、二人とも恭仁宮にいるようですし、太上天皇を呼ぶための内裏建設まで始まります。
恭仁宮に東西二つの内裏が存在した事は、発掘調査で判明しているので、やはり太上天皇もここに来ていたのでしょう。

さて、この頃の聖武天皇の周辺には、唐帰りのインテリが若干侍っていた事と思われます。
一人は玄昉法師、更に一人は下道(吉備)真備です。
唐には大きな二つの都がある、この事は彼ら以前にも伝える者はいた訳で、天武天皇の代に既に複都制の計画が見られます。
このような状況の下、聖武天皇は曽祖父と同じ事を考えたとは、今更ながらに人口に膾炙した説でしょう。
唐では皇帝と太子は同じ都には住まない。
つまり、太子の都はシャドウ・キャビネット、まさかの時に政権を委譲できる存在でした。

さて日本の場合はというと……平城宮には留守官を置いているのですが、ここに皇太子がいた様子はありませんし、おそらくは難波宮にいたと思われる太上天皇も、留守官に宮を預けて恭仁へと移って来てしまうようです。
再三ながらの疑問、聖武天皇にとっての複都制、副都とは何だったのか?
この答えをはっきり知っている人は、果たしているのでしょうか……そして次に来るのは紫香楽離宮の事。
ようようにして分かるのは、この複都制のモデルは最初こそ唐や隋にあったのかもしれませんが、決して同じものではないという事でしょうか……なんてのは、都城制研究会あたりで、何度も聞いた言葉なんですけれどねぇ(~_~;)
やっぱり、詔を出した本人にも、しっかりとした青写真がなかった、これで済ませても良いのかなぁ……
このコンセプトじゃ、この先、かなり大変だよ父上……σ(^◇^;)

ある方がある研究書を読まれて、その内容について少し触れている一文を拝見しました。
う~ん、この類は決して珍しくもないし、私はあまり口を挟みたくないのですが、やっぱり研究者の方も人間ですから、贔屓不贔屓が諸所に見られるようで、文書部外者の私のような者でも、変、それって偏見かも知れないと思う箇所もあるんですよね。
偏見とか色眼鏡は、私のような物書きには往々にしてつき物なのですが、研究者にこれをやられますと、私も含めたド素人は鵜呑みにしかねないσ(^◇^;)
誰とは言いませんが、何処かの名誉教授とか、元教授(つまり故人です)の先生方に散々に引っ掻き回されましたわ……(~_~;)

私がとある方の感想で気になったのが、藤原永手が『橘奈良麻呂の変』に関わった事についての内容でして、この方の読んだ研究書の著者の方は、永手がかなり強硬な尋問をした挙句に云々と書かれているようですが、これってどうなんでしょうねぇ。
私はこの辺りの話を書いた経緯もありまして、『続日本紀』の内容はコギツク検討したつもりだったのですが、文書やさんには穿った見方は御法度なのでしょうか、こんな単純な読み方で良いものなのかしら……私のような与太な物書きには疑問に思えてしまいます。
記憶違いでなければ、この著書は万葉文化館の図書室に半日篭って読んでいたけれど、あまり得る所がなかったので、コピーも取らなかった類だったような……今日も失礼な奴(ーー゛)
う~ん、私の読み方が悪かったから、永手が直接に詰問に携わったように思えたのかしら。
永手は命令する側であって、実際に手を下すというか、とやかく言うのは更に下の人になると思うのですけど……そりゃ、同じ部屋にいる場合もあるかもしれませんけどねぇ。

確か、この謀反未遂事件の尋問官は途中で変わっているはずです。
最初こそ、藤原豊成藤原永手坂上犬養らが中心メンバーだったのですが、この面子の行った尋問はおそらく心理戦に近いものだったと思われます。
だって、右大臣豊成は息子がこの未遂事件のサイドにいるんですよ。
これによって失脚が待っている人なのに、この人の関与を尋問官側が気づいたとしたら、そちらの配慮をせにゃならんのですよ、中納言永手ほどの策略家となれば。
永手は割合に温厚な常識人(勝手な私の思い込み?)、しかし藤原北家の惣領は事件解明と並行して、自らというか派閥や自家の優位な方向を探っていったのかもしれません。

そして粗方の流れが掌握できた所で、喚問は太政官の手から兵部省サイドに引き渡されて、これこそ目を覆うような拷問が始まるはずです。
こちらの主要メンバーは、百済王敬福船王……バリバリの武官ですがな(・_;)
思うに『続日本紀』がページを割いて、女帝や皇太后が臣下らに言葉を下している段階では、ここまで来ていないのではないのでしょうか。
一番最初には首謀者たる橘奈良麻呂の名前すら出ておりませんから、この事件の経緯はかなり細かく当たって行かないと、表面に出てこない部分が多いのですよね。
故左大臣橘諸兄の関与や、陸奥守佐伯全成の調書なんて、その典型です。

……で、私はこの事件の前哨戦みたいな話をこれから書こうとしてるんでして(*_*;
この話でかなりパニックった覚えがあるので、今度の話しも一筋縄じゃ行かないはず。
だから、同時並行で幾つの事が水面下で進んでるんだ?
それを主人公や周辺の連中が知る切欠は……知恵熱出そう、インフルエンザ以前に(-"-)

聖武天皇に遷都を吹き込んだのは誰だ?
やっぱり橘諸兄や吉備真備で良いのか??
では、国分寺建立や甲賀寺の造営を吹き込んだのは誰???
いや、そもそも、河内の知識寺に案内して、そこで知識結の丈六仏(なのかな?)を見せた張本人は誰になる訳なの?
やっぱり、ここに坊主が関わってくるのかしら。
でも件の玄昉じゃ、興福寺辺りの僧侶の可能性が高いから、知識寺との関わりはあるのかなぁ。
え~と、玄昉の出身って何処になるんだっけ?????

思いのほか、調べる事が多すぎる……帰省直前まで仕事だわさε-( ̄ヘ ̄)┌

おまえは誰か
HN:
うめぞー
性別:
非公開
自己紹介:
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