- 2025.01.21 [PR]
- 2009.12.24 さっさと書き流せって(ーー;)
- 2009.12.22 坊主が屏風に
- 2009.12.15 また脱線(~_~;)
- 2009.12.12 思えば数年前から
- 2009.12.08 背の君の筑紫出張
- 2009.12.06 開成親王は既に五十前(~_~;)
- 2009.12.05 また引っかかった……(・_;)
- 2009.12.01 この辺も考えなけりゃ
- 2009.11.25 乳母を給へ
- 2009.11.24 父上は多忙なのよ(ーー゛)
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この時に大宰少弐の藤原広嗣は、都に対して下道(吉備)真備と玄昉を天皇の側から除く事を要求したと物の本にありますが、本当にこれだけの理由なのかな?
この年よりも数年前、新羅より帰国した日本の使者が、この大宰府管内に豌豆瘡(天然痘)を持ち込んでいます。
この流行はあっという間に都まで伝わり、天平七年から九年にかけては、西日本一体に夥しい罹患者と死者を出しているはずです。
都での一応のピークは九年で、その後は急速に収まっているかのように史書には見えますが、衛生状態が現代とは比べ物にならない時代の事、その余波は更に何年かにわたって続いていた可能性はないのでしょうか?
殊に都周辺よりも暖かいはずの九州では、流行はもう少し続いていたのかも……?
時の大宰府は帥は空席、大弐は高橋安麻呂ですが、本官が右大弁だったので遙任している可能性が極めて高く、ここの長官は実質的に少弐の藤原広嗣だったとは、今までも多くの学者先生の御指摘される通りだと思います。
だからこそ、在地の勢力を広く頼む事が出来て、都からも大掛かりな討伐隊が出る事になったのでしょう。
しかしですよ、長官職の若い者(多分二十六歳くらい)が一人で気勢をあげた所で、大宰府の猛者らが呼応するものなのでしょうか?????
管内では数年来の疫病によって、かなりの疲弊が見られていたのでは?
これを当地に赴いた広嗣は、度々、都に奏上する事があったのでは??
『続日本紀』を眺めていても、大宰府での賑給記事のようなものは見当たらないような……
都の公家らにとっては、あまりに遠い西国の話、殆ど実感することなく、いろいろな事が後手に回っていたのかもしれません。
それとも、この処置に関して上記の官吏と坊主が、何やら太政官に詰まらぬ意見でも言ったのか?
この二人は共に、遣唐使でしたから大宰府の様子は決して知らないはずないでしょうけれど。
ところで玄昉って何処の寺の出身なんでしょう?
これが良く分からないんですよね。
法相宗とあるから、興福寺か薬師寺かになるのでしょうか。
福智院や海龍王寺の開祖という伝承は聞いた事があるのですが。
義淵僧正の弟子というのは、何処に書かれていたかしら、薨伝かな?
やっぱり坊主が絡んでくると、良く分からないんですよね(~_~;)
こういうところに引っかかってないで、適当に書き流して、さっさと次に進むべきだとは分かっているのですがねぇ……(-_-;)
いずれの方も、前半生が良く分からないんです。
どの方も奈良朝仏教界では、かなりの有名人なのですけれどねぇ。
どうも私の感覚では、玄昉僧正と行基和上は決して仲が良くなかったように思えるのですけれどね。
道慈律師と行基和上ではどうなのでしょうね……建築屋と土木屋って感じですけれど(^^ゞ
まぁ、行基和上は大安寺との関わりは、あまりありそうには思えませんからねぇ。
玄昉僧正と橘諸兄ならば、最初は巧く行っていたようには思えるのですが、平城還都の後は多分、仲違いしたように思えるのですよね。
さてと、問題は良弁なのですよね。
玄昉との接点はあまりなさそうなのですが、行基とはかなりヤバイ(?)かも?
大僧正は、さても、この金鐘寺の住持に何を期待したんだろう……この頃の良弁は五十代かな。
天平十二年九月三日、筑紫にて大宰少弐藤原朝臣広嗣が兵を挙げます。
本人の言い分では、自らは逆賊ではなく、二人の侫臣を除けという要求で兵を挙げたという事ですが、この知らせに聖武天皇は、大野朝臣東人を大将軍に任命して一万七千の兵力を徴発して筑紫に投入します。
ところが十月二十六日、聖武天皇はこういう状況にも拘らず、「思う所ある故に東に行く」と、四百もの騎兵を引き連れて伊勢への行幸を実施するのは有名な所です。
そして十月二十九日、河口頓宮(関宮)に留まる天皇の元に、広嗣を捕らえたという知らせが届きます。
ここでの東人の言上では、これは十月二十三日の事です。
ところがよくよく記述を読んでみますと、天皇がこれを知ったのは十一月三日のようです。
そして法に則って処断をした後に報告せよとの勅が出されるのですが、その後の十一月五日には「一日に広嗣と綱手を斬刑に処した」という報告が入ります。
筑紫と伊勢のタイムラグが何日あるのかは、これから調べなければなりませんが、奇妙なのは捕縛の知らせが入った二日後に処刑が行われている事です。
たった二日で、筑紫に命令が伝わるものなのでしょうか、記述が間違っているのか、全権が大将軍に委ねられているのか、どうも腑に落ちない所です。
もしも三日に捕縛を知ったのならば、それ以前に処刑は行われている事になってしまいます。
知らせを受けた天皇がわざわざ命令を出しているのに、その命令が届く前に刑は行われているでは、何とも形にならないように思えるのですが如何なものなのでしょう。
ところで何に脱線したのかと申しますと、捕縛者らの内に綱手(広嗣の弟)の息子らしき、菅成の名前が出てきます。
そして名前は出てこないのですが、この時には種継の父親の清成も参戦していたと思われます。
この二人の弟には子供がいたのですから、長兄で式家の嫡男の広嗣にも子供の一人や二人いてもおかしくないのですが、どうやら何処の記録にもそのような記述は見えないようです。
息子はいなくても、せめて妻女や娘はいたのでは?
それを考えて何となく周辺を眺めているのですが、どうもこの辺はまだ何も見つかりません。
こういう事に脱線しているから、全然話が進まないのかもしれませんわ(*_*;
つまりこの人は早良皇太子という人なんですが。
昨日も少しばかり考えていたのだけれど、この人が兄と逆の立場だったらどうなるのでしょう。
実は私が想定しているこの人は、兄よりも計算高くて野心家で血の気も多い。
だからこそ、為政者のトップと敵対する事になるのかもしれません。
例えば中納言、藤原種継とは同人種の可能性も高いです。
協調すれば、これはこれでかなり周囲には驚異的な存在になるでしょう。
そうしていれば、藤原小黒麻呂や紀古佐美などの台頭もなかったかもしれないし、延暦八年の衣川での大敗戦もなかったのかもしれません。
そうなると東北経営の流れもかなり変わったのかも……例えば坂上田村麻呂の立場はどうなるのでしょうねぇ。
もっと早い内に歴史上に出て来るかもしれません、私の設定から考えると。
しかし宗教対策となると、また別の方向に行く可能性もあります。
この人が政界に出てくるのに前後して、やけに寺社に対する制約や締め付けが目立つようになる気がするのですが、この路線で天皇と皇太子はある程度は同じ考えを持っていたのか、全く対立していたのか、もしかしたら皇太子の方がタカ派だった可能性はないのか……
なまじ内部事情を知っている分、寺社側には不利な点も多々あるような気がしないでもありません。
では遷都は行われたのか否か……いずれは平城京は捨てられる運命だったのかもしれません。
この兄弟にして、先朝からの皇系移譲の意識が皆無だったとは思えませんから。
まぁ、いずれにせよ、どれもこれも戯言の範疇です。
何せ、種継とこの人は決裂して、いずれの史書も示すとおりの結末になっていますから。
それにしても、どうしてスランプのたびに、この御仁に引っかかるんだろう?
「汝、常に肝心な所を見落としている」
どうも、そのように言われているような気もしないでは……
しかしですよ、今回の話はこの御仁の生まれるよりも以前が舞台なのだから、兄たちですら成人すらしていません。
とにかく父親に動いてもらわねば……三十代の父上は、二十年後の腹黒さをどの程度持ち合わせているんでしょう、作者自身がまだ分かっておりませなんだ(-_-;)
この方のお名前は、私の勝手なでっち上げによれば、秦忌寸加奈女です。
そしてその背の君は、藤原朝臣清成という方です。
実はこのお方、天平十二年に突如、筑紫に行かれる事になりまして、それが官命じゃないので作者的にはどうしようかと悩んでおります。
清成さんが何をしに筑紫(更に具体的に言いますと大宰府です)に行く事になったのかと申しますと、長兄(広嗣)に召集を受けたためかと思われます。
平たく申しますと、謀反とかいうやつに加担するためなんですよ。
世の常に従えば、謀反と言うのは平定されたから謀反であって、兵を挙げた方が勝っていたら、また別の名称が用意されている訳なんですわね。
そういう訳で結果的には、清成さんや兄上らは敗れる訳でして……
それはともかく、既に任官していても良い年だったはずの清成さんは、奥さんや周囲の人に何と言って、仕事をやめて筑紫に下ったのでしょう。
加奈女さんはその事を仕えている家の刀自様(倭史新笠)には、どのように話をしたのでしょう。
お屋敷の大殿様(白壁王)はそれを聞いて、絶対に思う所があったはずですし……
ところで最近、とんでもない事に気づいてしまいました。
この清成さんと加奈女さんの間に生まれたご子息(種継)ですが、成人した後に粟田朝臣道麻呂という方のご令嬢と結婚します。
授刀衛府時代の上官のお嬢さんか、つまるところ。
それでですね、この岳父(道麻呂)が後に何をしたかが問題なんですわね。
この方も実は、ある事件に連座してとんでもない最後を遂げます……
チョッと待て、私ゃ、この前の話で山部王や種継にこの事件に関して、どういう役割を振ったっけ?
その時にゃ、種継の婚姻関係なんて全く頭になかったぞ……
さて、どう決着つけよう……(ーー゛)
別に昨日の続きと言う訳ではないのですが、かつて書いた文章の中にこのような会話がありました。
「早良は私がいずれは東大寺に戻って、それこそあの良弁のように玄蕃寮を言いくるめ、皇家とも結びついて、大徳になると信じていたようだ。ところが三嶋になど逃げ出した故、次は自らがそれになろうとした。だがどうも、そちらの実務に関してはよほどに適した者が下にいたらしい」
これを言っているのは開成親王、既に延暦三年の時点です。
会話の相手は皇太子妃である内親王、開成親王から見れば姪に当たる人です。
この話が短編のためもあって、殆どまともな話になっていないんですよね(ーー゛)
おまけに本来ならば、主人公は五百枝王になるはずだったのになぁ……
皇太子の問題が、私の中で殆ど決着つかないため、いずれ書きたいと思っている粟生江内親王と五百枝王の物語が全然形になってくれやしない(-_-;)
いや、だから、今現在はこの辺りはどうでも良いのだけれど……(ーー;)
今回の主要登場人物の一人が行基和尚なのですが、この方の師は……さて、誰?
そもそも行基は何処で出家した訳なの?
飛鳥寺だとしたら道昭師なのでしょうが、もし薬師寺だとしたら……誰なの?
義淵師という説もあるのですが、そうすると接点は何処にあるんでしょう?
行基にしても道昭にしても義淵にしても、前半生に不明なところが多いようで、私にはキャラクターが定まらない印象があります。
もっとも、僧侶が主人公になる事はまず無いと思いますが。
そういう訳で、あの開成親王にしても常に、主役を喰いまくる重要な脇役に徹してもらっております。
ところで何に引っかかっているのかと申しますと、今回は行基大僧正の事もあるのですが、直接には関わって来ない、東大寺の良弁僧正とその後継者の関係ですわね。
いえいえ、良弁は今回の話には、切っても切れない人なのですが。
さて、問題となります、良弁の後継者って誰なの?
私は単純に実忠和尚だと思っていたのですが、どうやらこの間に入ってくる人がいるんです。
これが以前に少しだけ話題にした親王禅師です。
この人が東大寺要録に出て来るのは、確かたったの二箇所、その内の一つは実忠に何やら命じていたような記憶があるのですが……さっさと調べろって(ーー゛)
それでですね、この親王禅師こと早良親王なのですが、この御仁の経歴っていったい何処に載っている訳なの?
十一歳で出家して、等定僧都に師事して、東大寺羂索院に居住していて、その後に大安寺に移ったとか……
本当にこの御仁に関しては、ずっと避けて通っていたような所があるので、殆ど不勉強なんですね。
もし良弁が親王禅師を後継者にして、その下に実忠がいたとして、この三人の関係って、巧く行っていたのかしらねぇ……何となくどの人も癖がありそうで、周囲との協調性が有ったんだろうかと疑問が湧いてきますが、別に根拠がある訳でも何でも有りません。
別にこの御仁は、今回の話に出て来る訳ではないので構わないのですが、こういう辺りを調べて、せめて不明の法名だけでもでっち上げなければ、細かい所で話が進まないんですわ(*_*;
何か、いつも、この御仁とは変な所で引っかかるんですよね……ε-( ̄ヘ ̄)┌
以前に書いた話に出て来た、種継の母親の名前は何だったかなぁ……これも昔の文書ファイルから探し出さなければ。
脇役の名前もいくつか考えなければなりませんし、手嶋王の母親の名前と、いつ恭仁の屋敷に来たのか、紫香楽には同行したのか、それとも新笠や能登と一緒に恭仁に留まっていたのか、こういう割合にどうでも融通の利く設定から、実際のプロジェクトが始まってからの関係人物も具体的に設定しておりませなんだ。
この時のメンバーと、還都後の計画推移段階でのメンバーとが、果たしてどの程度同じで、どのあたりが変更になるのかも、漠然とで良いから考えておかないと後が大変だわ。
そして十二年後を暗示させるには……こんなのは、ずっと後で良いか(ーー;)
それにしても、相変わらずどうしても考える気になれないのが三男坊の事ですわ。
この子が出家するきっかけと、その後の法名、即位した父親との関係、二十三歳現在での寺内での地位や権力関係……いや、ここまであえて書く必要ないかな、今回は。
こうやって常に避けておりますと、ずっとこの御仁は話の中には出てきませんな、多分、還俗して然るべき妃を迎えるまでは……ε-( ̄ヘ ̄)┌
凡そ親王及び子には、皆乳母給へ。親王に三人、子に二人。
このように『後宮職員令』に見えている訳なので、公式に官から乳母が配置されるのは孫王までということになるようです。
そうすると孫王の白壁王には二人の乳母がいたという事になります。
公式に任命された乳母は官人に準ずるという訳で、それなりの季禄が公から配給されたはずです。
私が現在、考えている話の中では、白壁王の家に首天皇(おびとのすめらみこと:聖武天皇)がじきじきに命じて、二人の乳母を賜っている事になっています。
これも長女(私の設定では次女)の能登女王(のとのひめみこ)だけの話で、その下の弟たちには適応されておりません。
こいつには一応、それらしい理由をつけている訳ですが、そのようなこじつけのない場合でも、三世王くらいの人ならば当然ながら乳母はつく訳で、公の規定がない限り、私的に頼むのだと思われます。
公家の子供たちの乳母も同様で、その人への手当てはその家の台所から出るのでしょう。
三位以上の人ならば、この台所を切り盛りする家司などの職員も官から派遣されるのですが、それ以下の人の場合は乳母に同様、やはり私的財政からやり繰りして頼むのでしょうか。
家司や家政機関はさて置き、能登女王の四つ年下の同母弟、山部王にも二~三人は乳母がいても良いのではないか、後々まで“とにかく手のかかる子”と周囲の女たちに言わせるくらいですから、一人という事はないと勝手に思っています(~_~;)
その一人は、山部朝臣子虫という人だろうという説は、結構有名で支持されております。
私としては、もう一人を具体的に考えているのですが、この女性の息子(乳母子)とは、かなり重要で因縁めいた関係に後々までつながって行きます。
こんな具合に考えているのですが、さてと、手嶋王には乳母は一人で大丈夫なのかな?
まぁ、、この人は子供の頃も長じてからも、自分で自分の面倒は充分に見る事の出来る人ですからねぇ、異母弟と違ってσ(^◇^;)
天平七年、都での豌豆瘡(えんどうそう)の蔓延によって、この頃には既に難波にいた白壁王は、妻子を実家のある山背に移り住ませます。
この事によって手元不如意になった白壁が、果たしてどうしたかと申しますと……別の女性に手を出します。当σ(^◇^;) 然??
そして二年後の春の終わりの頃、男の子が生まれる事になります。
同じ年の冬の最中、久々に山背の妻子の元を訪れた白壁は、言い出せずにいました二人目の内室と息子の事を、よりによって三人の姉の前でポツリと洩らしてしまいます(~_~;)
これによって怒りまくるのはどういう訳か三人の姉でした。
とうの内室(新笠)はと言いますと、この姉と弟のやり取りが余程おかしかったと見えて、笑い転げた挙句に産気づく……実は臨月だった訳ですね(^^ゞ
百済王真鳥の孫娘は、かなり能天気に図太いところが有ります。
この性格をもろに受け継いだのは、この時に生まれた山部王ですσ(^◇^;)
こういうアホネタはどうでも良いのですが、実は随分前から考え付かなくて困っている事があります。
それは白壁の二人目の奥さんの名前……
摂津の中臣氏の出という事にしてありまして、今までも何度か与太話の中に出て来ているのですが、常に中臣氏としか書いておりませなんだ(・_;)
息子の名前は手嶋王、乳母の名前は手嶋広虫女、こんな事はとっくに決まっているのに……
別に悩む事じゃない、適当に何処かから拾い出してくりゃ良いんだ、とは思うのですが。
ところで今日(11月24日)は、旧暦にすると10月8日だそうです。
そういう訳で、五日後が白壁王の1300歳の誕生日となるのでした。