- 2025.01.21 [PR]
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- 2009.10.01 恭仁・紫香楽の頃
- 2009.08.14 お盆も終わるぞ~~
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実はこういう、どうでも良い設定があったりします。
こいつを時々忘れていて、そういえば、どこかに入れた方が良いかなと、つまらない気遣いが入ったりします(^^ゞ
これって本編に何か関係あるのかって?
まぁ、殆どありませんねσ(^◇^;)
ちなみに市原王は黒猫を飼っております、私の話しの中では(-_-;)
私は無用な影響を受けないために、作家の大先生の書かれた既存の作品を殆ど読んでおりません。
というのは半ば以上言い訳でして、ネット上で公表されている書評を拝見しておりますと、どうも読む気が起きないと、いつものような天邪鬼さが前面に出ているようですわσ(^◇^;) (-_-;)ε-( ̄ヘ ̄)┌
やっぱり誰もが捉えている様なキャラクターが面白くない、そいつが大きいのでしょうかねぇ……だからそれを天邪鬼だと言うのですけれどね(--〆)
出てきますね、どういう訳かこの御仁が何度か。
「御身も来られていたか」そう声をかけて、側に腰を下ろす姿は七男の薩雄だった。
「ええ。御身も越前からいつお戻りになられたのです」
「つい十日も前だ。あの御方の出家騒ぎで呼び戻されたようなものだよ」
私より一つ年上のこの男は、三年前までは同じ内舎人だったが、さっさと従五位下の位をもらって越前守として赴任した。兄弟の内では下から数えた方が早いせいか、異母兄たちに遠慮をしているよりも、地方にでも行った方が気が楽だと、年の内にいくらも都にいない。藤氏に限らず、兄弟の多い家には大抵こういう変り種がいる。
「尚侍様に御面会はされないのですか」
「兄らが枕元でジメジメしている横になど居たいか、宮は」腕組みをして鼻で笑う。
大刀自たる藤原哀比良が危篤の知らせに、田村第に息子らが集まって来る時のシーンです。
私ゃ、この御仁に何か思いいれはあるのかしら?
そういうものとは無関係に出て来る人も、時々いるって事なのかな??
それにしても、スメラミコト、どうしていつも相手に敬語使ってるの、皇族なんだからもう少し毅然としてても良いのと違うの???
九月丁亥(三日)、広嗣遂(つひ)に兵(いくさ)を起して反(そむ)く。
まあ、有名なくだりですので詳細は省かせて頂きます。
*注意 ; これより、うめぞー的嘘八百が始まりますので、決して内容を全面的に鵜呑みにしないよう、くれぐれもお願い申し上げますm(__)m
白壁王は天平九年に従四位下を叙位され、内舎人(中務省管轄)から摂津職の造難波宮司(式部省管轄)に配属になりまして、長官職を仰せつかります。
以前に白壁王と藤原式家の接点を摂津職に求めようと思ったのですが、良く良く調べてみますと藤原宇合は天平四年には既に知造難波宮事の任を解かれているようで、時期的に被せるのはかなり困難な上、白壁が叙位された時には、宇合は既に故人、ではこの二人はどの程度面識があったのかと、少しばかり悩んでおりました。
まあ、あまり無理して接点を作る必要もありませんか。
それでも兄の湯原王が式部省出身で、直属上司が藤原宇合だった事になっておりますから。
宇合との面識は決してない事は無いのですが、その嫡男の広嗣とはどうだったのでしょう。
大宰府での事件を聞いた時、白壁はどの程度に重大事として考えたのでしょうか。
広嗣と多少とも顔をあわせた事があれば、そこで思った事はかなり違うものになるはずです。
この御仁とは兄を通して何度か面識がある。常日頃より人目を引く藤氏の四人兄弟の内でも一番の美男だと言われるとおり、虫も殺さないような柔和な顔をしている。同じ顔をしてその隣に控えている若者は、その嫡男だという。
決して大柄でもない男の、ややもすればひ弱にすら見える色の白い顔を眺めていた。私の視線に気づいたのか、にわかに上がった目はうつむいていた時の印象とは程遠いほどに、冴え冴えとした色を湛えてこちらを睨むように向けられる。まだ十六、七だろうか、藤氏にありがちな黒くて大きな目が、私を値踏みするように見つめる。
南家と北家の伯父や従兄弟たちは、どうしてこの面白みもなさそうな皇族官人に興味を示すのか、少しばかり皮肉げに上がった口角が無言で語る。
こんな具合に以前考えていたのですが、これは白壁が内舎人になって間もない頃でしょうかね。
広嗣は白壁よりも五つ年下ですから、北家の永手とも同じ年です。
この人がもう少し長生きしていたら、決して関わりは薄くなかったのだろうと想像はしてみるのですが、やはりあまり大して面識はあったとは思えませんか……
ともあれ、物語はこの辺りから始める事になるのかな。
天平十二年、白壁の息子たちは共に四歳(数え)ですから、この事件は大人たちの昔話に聞くのみでしょうか。
狭い盆地の真ん中にある丘陵に寺院建設が決まった時、造営に当たる人々は何をしたのでしょう。
恐らくは樹木の伐採から始めたのだと思います。
それに並行するように、周辺には造営のためのキャンプが作られていったでしょう。
伐採された木は、そのような人々の住まう家の建築に使われたり、燃料などに使われたでしょうか。
丘が丸裸になると、伽藍を配置するために突出地を削り、崖を埋め立て、土地を平らに均したことでしょう。
今でこそ、この史跡の場所には雑木林が出来ていますが、その当時には木など殆ど無かったと思われます。
金堂となるべき高台には須弥段となるだろう台座が置かれ、そこに体骨柱が立てられたのでしょうか。
そして使役に集められた人たちは土を練り上げ、プロデューサーたる仏師の指示の元に、仏の御形を作り上げていったのかも知れません。
この作業を造営長官の年端も行かない息子たちは、労働者の子供たちに混じって見守っていました。
「御坊様、この仏様は如何なる御方にありましょうや」
「この御仏は三千大千世界の中心におわしまして、この世の理を日の光のごとく、あまねく照らすありがたい御方であらせられるのですよ」
……なんて言葉を果たして、あの子供たちが大人しく聞いてくれるのか(ーー゛)
特に弟の方は、絶対に聞いちゃいない、その辺の子供らと次の悪さを画策してるに決まってるわ、それも自分が御山の大将になって(-_-メ)
「汝にも野心はあるか」
「どう転ぶかはまだ分からぬ野心です。もう少し自らを見直してみる良い機会でしょう」
「喰えぬ壮士になったものだ」
「褒め言葉と受け取っておきます」
よく似た親子だと周囲からは言われるが、私は山部王ほどに座った性根も大胆な野心も持ってはいないだろう。永手らが陰で囁いていた、阿倍女帝が本当に日嗣に選びたかったのは、山部王だったのかもしれないという噂も、あながち間違いではないのかもしれない。
相変わらず、テキストを貼り付けるとレイアウトが滅茶苦茶ですわ(--〆)
ルビは消せないし、あああぁ~ぁ、行間まで変になってるわ(ーー;)
ある所に出そうとしている、書き直しかけの話を読み返していたのですが、うちのスメラミコトって三十過ぎると、ホントに可愛げない野郎になるねぇ……(・_・)
これから、このいけ好かない男が七つ八つの頃を書こうってんだから、厄介なこったな(-"-)
結構眉唾な事を書いてあるのは、いずれの神社にも在りがちなのだと思うのですが、よく読んでみますと疑問の一部が解けたと思う箇所もあります。
では、以下に引用参照致します。
当時は特に疫病が流行していたので奈良より他村に通ずる道(現在の中辻町)を中津道(中街道)井上内親王 西紀寺町を上津道(上街道)に早良親王 京終町下津道(下街道)に他戸親王の御神輿を据えて他方面からの流行病が奈良に入って来ないで平穏にして健康で産業発展をお祈りし平和の神として信仰が厚かった。
何となく日本語が変ですか?
ここで言う当時が、前後の文の流れから延暦十九年頃なのか、貞観五年頃なのかが良く分からないのですが、紀寺町周辺に崇道天皇関係の社の多い理由が、これでようやく分かりました。
『上津道』は奈良盆地を南北に通るルートの一番東側、現在の国道169号線にほぼ当たると聞いています。
先日、気まぐれに出かけた『崇道天王社』のある出屋敷町、神殿町、北永井町は、国道169号線沿いにあります。
この道は南紀寺町で東にクランクして市立病院の方に反れますが、本来のルートを北上させますと、件の『崇道天皇社』のすぐ西側の路地となります。
由緒略記にある御神輿を置いた場所にまさに相当するという事です。
ところで『中津道』は現在の県道51号線がほぼ踏襲している、盆地の真ん中を走るルート、これを更に北に伸ばしますと大安寺町に至り、中辻町からはかなり西に反れています。
しかし県道51号線の沿線を見てみますと、天理市西井上堂町、田原本町東井上という地名が見えておりまして、あながち無縁でもなさそうな雰囲気(?)です(^^ゞ
ところが『中街道』となりますと、これが現在の国道24号線となりまして、奈良時代でいうところの『下津道』に大体相当するそうなのでややこしい……(*_*;
下津道は平城京の朱雀大路に通じますので、奈良市杏町や大和郡山市下三橋町(羅城門跡があります)などを通っています。
そして京終町は下津道ではなく、むしろ上津道に近い場所になります。
このあたりのどこを眺めてみても、他戸親王関係と思われる地名などが、現在の地図では見当たらないのが何とも腑に落ちないところです。
こりゃ、条理復元図や小字名の地図でも眺めて探してみる必要があるのかしらねぇ……
いずれ、何かの機会に探してみますかε-( ̄ヘ ̄)┌
「俺には、そいつが妙に気になる。御身、中納言に何か探りを入れられぬか」
「難しい相談だ。知らぬ存ぜぬを通すに決まっている」
「御身の父上であろう……」
「あの御仁は、家族であろうと平気で隠し事をする人だ」
「そのような事は、御身の家だけではあるまい。宿奈麻呂のところなど、夫婦そろって隠し事だらけだ。それを面白がって、うちの室が突き回しに行く」
「うちでは、こちらが逆に突かれる。何せ俺は信用がない」
「心にもない事を言う」
後々、息子にこういう具合に言われる白壁王の若い頃って、どういう具合だったんでしょう。・
作者は何となくイメージがつかめずに悩んでおります(゜.゜)
でも、祖父の志貴親王はもっと変な人になってますからねぇ……もしかして、この辺のコンセプト、挫折は人を変人にする?????
いや、この家の連中は最初から変なんだけれど(ーー;)
ところで先ほどテレビで『相棒シーズン8』なんぞを見ていていて何となく思ったのですが、及川光博の顔って私の頭の中のイメージでは、石上宅嗣に一番近いかも……(?_?)何のこっちゃ??
その人の名は……橘宿禰諸兄……だったりする(^_^;)
文殊菩薩を乗せている獅子に似ていると言ったのはうちのスメラミコトなんですが、これじゃなんの助けにもなりやしない(+_+)
阿部文殊院の文殊菩薩の獅子とか、結構面白い顔してますからねぇ。
以前、京都国立博物館の常設展に大きな獅子に乗った文殊菩薩がおられましたが、これはどちらの所蔵のものだったのでしょう……いずれにしても、京博自体が現在工事中ですから、確かめに行くのも無理ね。
いえ、獅子を無理して見に行く必要なんて微塵もないんですよ。
誰か具体的に、こういうイメージに近いという人物でも見つければ良いんですよね。
藤原仲麻呂がいつの間にか草刈正雄になっているとか、市原王がどういう訳か渡部篤朗になっていたみたいに……ちなみに後者は、また変化しているようですがσ(^◇^;)
で、誰が諸兄なのさ……大阪歴博の宮廷儀式の映像では白髪の御老人でしたが、どうも私のイメージとはかけ離れているような気も致します。
天平十五年にはちょうど六十歳のはず、昔々の還暦は現代人よりもずっと老けていたとは思いますがね。
何やら知らねど、こちらのブログの調子がすごく悪いです。
何ヶ月かに一度はこういう事があるんですよね、画像も上がらないし、下手すりゃ、この記事も上がらずに消滅したりして……(~_~;)
ともあれ、この何日か恭仁京、紫香楽宮、難波宮に都があった頃の資料を漠然と眺めております。
こいつと平城還都後の人事なども眺めているのですが、どうも派閥の構成員がはっきり見えてこない……
単に集中力が足りないだけなのか、本当に分からないのか?
天皇や太上天皇、左大臣らの動きは史料にも見えるのですが、困った事に皇后や皇太子が殆ど現れないのも、この不明箇所の一端なんですよね。
少なくとも最初は、聖武天皇と橘諸兄の足並みは揃っていたはず。
しかし途中から、むしろ元正太上天皇と諸兄が同じ方向に歩みだす?
この不調和に光明子皇后はどうやって介入して来るんだ?
この四人に味方している主な官僚は誰なんだ?
そもそも、阿部皇太子はどこにいるんだ?
この不調和な流に腰どころか首までドップリ使っている白壁王の立場はどうなの?
藤原氏はともかく、太政官以外の公家らの動きも良く分からない?
むしろチョロチョロど出てくるのは皇族官僚か?
しかし、この連中にも役割があるのかな、今回問題にしようとしている件に?
う~ん((+_+))、話が変に入り組んでいる分、どうも人の動きが掌握できていませんわ。
少し気を入れなおして取り組みなおしませんと……
一応、息子が生まれる辺りから始めるつもりなのですが、どういう切欠で帝と大臣のプロジェクトに関わらせようかしらねぇ。
そして、いざ事が始まると、人物関係とかが無茶苦茶にややこしくなる。
果たして白壁王が事を知る切欠は……
そのキーパーソンとの関わりは?
う~ん、全然、決まってない(ーー゛)
それから、今年こそ残暑見舞いを書こうと思って、先日からお絵描きにトライしてるのですが、これこそ一行に進まない。
全然、絵が描けない……元々、絵は下手なんですけどね。