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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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何で今朝は4時起きなんでしょう。
それから約三時間、推敲と概略を書いて、え~と、もう6時45分かい……(*_*)
先ほどデータ送信して完了。
最近では、文章のデータどころか、画像までもネット送信で受け付けてくれる出版社も多いみたいですね。
プリントアウトする労力やコスト、郵送費も馬鹿になりませんものね。

そういう訳で、今回は395枚(四百字詰め換算)。
いい加減、規定枚数ギリギリはやめろって感じですわね。
次は10月末、同じくらいの枚数のなるかしら。
でも、ぜんぜんプランが出来てない……(/_;)
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と、突っ込みたくなる相手はうちのスメラミコトです。
兎にも角にも、締め切りが目の前に迫ってるってのに、この御仁が女性と絡む場面だけが、ぜんぜん進まないε-( ̄ヘ ̄)┌

大体こいつは徳川家光か?
若い時分を見てみれば、衆道にはほぼ興味ないのだけど、同様に異性にもあまりアプローチがない。
別にムッツリ助平という訳でもない。
遊行女婦(うかれめ)宿にくらがりこんでも、あまり積極的ではない……っちゅうか、うちでは本来の目的以外に使っている奴ばっかりのような気がするわ(ーー゛)
多分、やる気がないんだわね。

絡むといっても、やるべきことをやってくれって言う訳じゃなくて、さっさと話を進めてくれって事なのよ。
これが胡散臭い野郎との、きな臭い話だったら、サカサカと進んでくんだけどねぇ。
色気よりも、『謀れ、企め、殺れ』!!
大まかに言って三つの頭と派閥がありました。
そのうちの一つが先手を打って、一つを潰しにかかったところ、もう一つも崩壊の方向へ向かってくれました。
そして勢力は一つに統合される……などと考える事こそおこがましや。
別の頭が台頭してきます。
そりゃもちろん、先手を打った頭に協力した次席を狙う者らです。
その新たな頭は、かつての派閥の要員を配下に集めにかかることでしょう。

さて、この新たな頭とは誰?
彼は何かを引き継ごうとしている?
その何かはすでに形を変えている……この変わった形を自らの所有としたい。
そのためにかつての頭の配下と、掲げるべき象徴を得ようとする。

う~~~~んんんんん……何か、発想が安直過ぎるような気がする。
もう少し捻った方が良いのだろうか。
……にしても、脇役ども、働かんかい!!!!!

こういう事を考えながらのBGMは中島みゆきの『エレーン』だったりするのでした……すっごく変(-_-;)
“是の日、討賊将軍従五位下藤原朝臣蔵下麻呂ら凱旋して捷(かち)を献す”

これは『続日本紀』の天平宝字八年九月二十日の条に見える記事です。
この九日前の十一日

“大師藤原恵美朝臣押勝の逆謀、頗る泄れたり”

という事態になります。
先手を打った太上天皇側は、内印(御璽)と駅鈴を押収しますが、逆賊とされた押勝らは太政官印を奪って逃走、近江へ入らんとするのですが……

“山背守日下部子麻呂、衛門少尉佐伯伊多智ら、直ちに田原道を取り、先に近江に至りて瀬田橋を焼く”

という、有名なシーンが展開いたします。
ここに出て来る田原道らしき遺構が発見されたニュースは記憶に新しいところです。

問題となりますのは、ここに出て来るキャストなんですわね。
現場となる山背国の国守や、衛門府のエリートが将軍として指揮に当たるのは、極めて当たり前の状況なので特に問題はないと思われます。
二人ともこの功労で四位の位と勲位を賜ります。

最初に出てきた藤原蔵下麻呂が出て来るのは、近江国高嶋郡三尾崎のおける戦闘の時で、都より派遣された援軍を率いて駆けつけています。
この時の蔵下麻呂は三十一歳、役職を私は少納言だと思っていたのであまり疑問が湧かなかったのですが、よくよく調べて見ますと、この年の正月に行われた定期の司召しで備前守に任命されています。
元々、内舎人出身、その後に出雲介、天平宝字七年に従五位下をもらって少納言になっています。
こういう経歴の人が、どうしていきなり『討賊将軍』に選ばれるのか、どうもはっきり理由が分かりません。

例えば蔵下麻呂のすぐ上の兄……雄~田~麻~呂~、あんたは戦にゃ行かんか、大和舞は舞っても(^_^;) (*_*(○=(・_・o)
その上の兄、田麻呂は、え~と陸奥の按察使で都にいないか(~_~;)
宿奈麻呂も多分おらんわ(-_-;)
ちなみに宿奈麻呂はこの年、四十九歳(^^ゞ
種継は……どうしてるのかな?うちのプランでは授刀衛府の少尉なんだけどねぇ

別に式家の必要もないでしょうから……北家の兄弟は、末っ子の楓麻呂ですら四十二歳、チョイと年が行過ぎてるのかな?
小黒麻呂なら蔵下麻呂よりも一つ年上くらいだけど、こいつじゃ駄目だったのかな?
いや、別に藤原氏から選ぶ理由もないんでしょうけど。

どうも蔵下麻呂が選ばれた理由というのが思いつかないんですね。
そもそも、この事件に藤原の他の家の面々は、どのように関わっていたのでしょう。
北家の連中は何となく胡散臭く動いているけど、南家や式家、京家には具体的な動きがほぼ見えないんです。
もっとも式家は一年前の宿奈麻呂の一件(大師暗殺計画…密告により未遂に終わる)で、当然ながら腹に一物あるのでしょうけれど。

何かこの辺が巧くまとまらなくて、太政官の陰謀みたいな流ればかりが頭に浮かんできてねぇ……
もう少し、更に脇役に目を向けてみようかしらね。
和気王、粟田道麻呂、上道正道、大津大浦、この辺の連中の接点が見つからないかなぁ?
しっかし、この四人、揃いも揃って嫌いなのよね、作者的には。
開成王も、こいつらが嫌いだって言ってるしさ。
まぁ、先の二人はまだまともに書くけどねぇ……(-。-)y-゜゜゜
何を馬鹿なことを言い始めるかと申しますと、きっかけは藤原恵美朝臣家の9人の息子の名前を眺めていたところからなんです。
長男の真従(まより)は早世してますが、次男の真先はどういう訳か途中で名前が変わっています。
元の名前は執弓(ゆみとり)。
藤原南家でも北家でも式家でも、名前が変わる人は何人かいるので、そう取り立てて珍しい事でもないのかもしれません。

ところで藤原恵美家にはもう一人名前が変わったらしい人がいます。
それが三男の訓儒麻呂(くすまろ)で、元の名前は浄弁というらしいです。
もしかしてこれって法名?
実は六男の刷雄(よしお)は『八年の乱』の時、かつて僧籍にいたためと処刑を免れています。
訓儒麻呂は別の場所で亡くなっているのですが、もし近江の戦場にいて捕らえられていたら、この弟と同じような扱いが待っていたのでしょうか?

この辺りから思ったのですが、例えば淡海真人三船は若い頃には出家していて、三十を過ぎてから官界に入っているので、最初の方の出世のスピードは人より遅いかもしれません。
そして先日も疑問に思った、式家の田麻呂なのですが、この人が従五位下に叙位されて史料に名前が現れるのは四十歳の時です。
もしかしたらこの人も若い頃は寺に入っていたとか???

もう一人もしかしたらと思い当たるのが、壱志濃王なんですよね。
志貴親王が春日宮天皇の名を贈られた時、他の従兄弟たちは大概が、孫王として従四位下をもらっているのに、この人だけが一年以上遅れているのが解せないんですわ。
ただしこの人の場合は、従五位下は三十五歳(神護景雲元年)にもらっているんですね。
この時代、僧侶が叙位される例も多々あったらしいので……と考えるのも乱暴すぎますか。
この時に還俗したとしたら、今度は従四位への叙位の遅れの意味が分からないし……

それにしても、この御仁の従弟の早良親王も子供時代に出家してしまったのだし、案外、高位の家の息子には一人や二人、寺に入る人がいた可能性も否めないのかもしれません。
ちなみにうちの開成親王は、還俗する気も予定も更々ありませんので御安心(?)をm(__)m

しっかし……今更、壱志濃に出家させるのか?
このプランはうちではボツだわね。
だってこいつ、うちのスメラミコトと一緒に内舎人やってたんだから(--〆)
だけど、同年代の従兄弟たちを見ていると、うちのスメラミコト、結構、出世は早い方みたいだわね。
まぁ、正三位中納言の宮の嫡子だしなぁ(~_~;)
作者の独断と偏見で授刀衛府員外大尉として送り込まれ、組織改正の後に近衛府の少将になったうちのスメラミコトですが、予定ではこの後に大学寮に移って(かみ)になってもらうつもりでした。
ところが神護景雲年間、大学寮の員外介を勤めていた吉備泉(真備の息子)の経歴を見てみますと、介になった時には近衛将監との兼任だったようです。
私のプランでは、同じ頃に藤野別(和気)清麻呂が将監になって、その少し後にスメラミコトが大学頭になるという事だったのですが、これじゃせっかくオサラバした泉との腐れ縁も出来てしまうと、もう少し武官を続けてもらうように変更する気になりました。

近衛府の三年に引き続き、大学寮でも三~四年、面つき合わせたと思ったら、次の瞬間には互いに無視(ーー;)
どう考えても、この二人が仲良い訳がないって(--〆)
まぁ、吉備真備、泉の親子と腐れ縁があった方が、話としちゃ面白いのかもしれませんけどね。
それよりも私としては、この御仁に武官をさせておく方が面白い(^_^;)
そういう訳で、ボチボチと次のポストを考えておきましょうっと。

中衛府じゃ在り来たりだし、外衛府とか内竪とかはどうでしょう?
それとも侍従というのも捨てがたいけど、新設の内厩寮、そうだわいっそうの事、法王宮職とか??
う~ん、主人公ってどこまで行っても『いじられキャラ』なのねσ(^◇^;)
生前譲位をした天皇が太上天皇になります。
歴史書を信じるのなら最初は皇極太上天皇という事になりましょうか、その後に復位しておられますが。
その次に来るのは持統太上天皇、そして異母妹の元明太上天皇、その娘の元正太上天皇と、ここまでは全員が女帝となります。
そして次に来るのは聖武太上天皇、その娘の孝謙太上天皇という具合に、かなり続けざまに生前譲位を行っている様子が見られます。
この次に太上天皇となるのは光仁天皇です。
しかし、この方は息子に譲位したその年の暮れに崩御していますので、あまり太上天皇という印象がありません。

ところで平安時代に院政が行われるようになると、天皇よりも太上天皇(院)の方が実権を持つようになります。
こいつの萌芽は、既にこの頃から見られるようです。
皇極太上天皇が重祚するに当たって自らの意思が大きかったとしたら、孝徳天皇(同母弟)に対して太上天皇として並び立っていた可能性はあると思われます。
持統太上天皇に到っては、十五歳で即位させた孫を教え導こうという意思を十二分に持っていたと考えても、なんら差し支えないでしょう。

疲れたと言って譲位した元明太上天皇は、とりあえず飛ばしまして次の元正太上天皇、この方はかなりの影響力を持って甥の目の上に存在していたのではないでしょうか。
天平15年から17年まで、帝は恭仁へ遷ったり紫香楽へ行ったり、果ては難波へ向おうとしたり……
ここに難波が出て来るのは、この宮の主の氷高(元正)太上天皇を帝が無視できなかったからです。
何のかんのといっても、周囲を固める藤原氏の上を行けるのは、大伴氏でも巨瀬氏でも石川氏でも石上氏でも橘氏でもない、純然たる皇族の伯母太上天皇です。
そういう訳でここにあげました七人の太上天皇の内の五人までは、絶対に後継者に口出しをしていたと思われます。

それに対して、天皇にやたら意見したがった皇太子はと言いますと……実はあまり思い浮かばない(~_~;)
とりあえず奈良時代を眺めてみますと、首(おびと)皇太子(後の聖武天皇)、阿倍皇太子(後の孝謙天皇)、そして決定的なのは山部皇太子(後の桓武天皇)くらいかなぁ?

最後の御仁に関して言えば、宝亀十一年の『伊治砦麻呂の乱』の時には言わずもがな、既に父親の政権の最後の二年くらいは、殆どイニシアティブを取っていたんじゃないかと勝手に思っています。
それも東大寺にいる同母弟も巻き込んで……(ーー;)
もしこの路線で考えて行くと、後々、即位してからの後継者問題も、自ら墓穴を掘ったような展開になって行くんだよね……まぁ、今はここまで考えなくても良いんだけどね(-_-)
そもそも四文字の長たらしい元号は、武則天の趣味なのでしょうが、こいつを日本において取り入れたのは、同じ女帝の孝謙・称徳天皇です。
史料調べで書き出すたびに、天平勝宝だの天平宝字だの神護景雲だのと、長たらしい上に字画も多くていい加減、鬱陶しくなってきます。
これが770年以降、宝亀に代わると、ようやくまともな人が位に就いたような気がする……って、白壁王がまともかどうかは個人の判断に任せまして(~_~;)

この女帝がもう一つ好きな漢字四文字は、氏の名前でしょう。
気に入った(?)家の人たちに、本来の氏+二文字の氏の名を賜っています。
その代表が藤原恵美朝臣、そして弓削御浄朝臣です。
他にも山田御井宿禰というのもありますか。
中臣伊勢朝臣も、もしかしてそうなのかな?
これは違いますね……少し後に伊勢朝臣に改姓されているから、伴部系の一族かな。
この類とゴッチャになって困るんですよね。

お陰で史料調べをしていても、やたらと漢字が多いように思えて、かなり面倒になってきます(-_-;)

キーパーソンもいればキーポイントもあるという訳で、現在悩んでいるのが総国分寺東大寺です。
『八年の乱』というやつの前後を眺めていて、一見関係なさそうなこの寺の関係者が散見されるのですが、こいつがただの偶然なのか、何か意味を持ってくるのか……
目立つ事としては、先日も書いた造東大寺司の長官人事ですか。
関係者の動きがチョロチョロ見える原因の一つは、関連の文書が正倉院文書として保管されているためも大きいので、この辺り思い過ごしもかなり入って来る可能性も否定は致しません(-_-)

ところで僧侶を眺めてみますと、この頃の大徳は当然ながら良弁僧正ですが、この寺出身のとんでもない大物が事件周辺をうろついています。
この時代に詳しい人なら誰もが知っている道鏡禅師ですね。
うちの開成王はとうの昔に、ここからは逃げ出しておりますが、代わりにまだ十五歳そこらの異母弟がいるはずです、まだ大安寺には移っていないと思うし。

寺院組織の人間と、造東大寺司という役所がどの程度関わってくるのか、これまた基礎知識の欠落で分かっておりませんのが問題なのですが、私の設定では東大寺と白壁王の一家は切っても切れないような因縁を持っておりまして、娘婿が初代の造東大寺長官に任命されたのも、強引に関連付けが出来てしまいます。
そして白壁王と道鏡師は若い頃からの腐れ縁……これも橘諸兄と良弁のお陰です(ーー;)

どうも今のところははっきりした線が見えないのですが、この辺も頭の片隅に置いておきませんと、気がつく事も見過ごしそうな気が致します。
さても……どういう路線で調べてみようかね(~_~;)

改めて整理しなおしてみますと、見落としている人物やら事件が矢鱈滅鱈に出て参ります。
例えば天平宝字七年の12月も押し迫った頃に起きている不敬事件。
これによって当事者らが罷免されたり流刑になったのは、史料に書かれている通りです。
ところがこれによって、当事者らの上官も罷免された可能性を指摘していたのは、S原T男先生でしたっけ?
確か積極的に唱えていたのは、造東大寺判官葛井根道の上になる、長官の市原王の事でしたが、もう一人、礼部(治部)少輔中臣伊加麻呂の上官となりますと……
礼部卿の藤原弟貞は10月に亡くなっていますから、もしかしたら空席のまま。
そうなりますと礼部大輔は、藤原縄麻呂
豊成の息子のうちでも兄三人を差し置いての出世頭だったような……やっぱり正妻の息子だから?
それはそうと、この人が職を辞す事が、為政者の誰かのメリットもしくはリスクになるとしたら、され、それは誰なのでしょう?
市原王は私の設定では、バリバリの光明皇太后派より引き続き、藤原恵美朝臣押勝の派閥の人間です。
ところが縄麻呂となりますと……天平神護年以降の出世の仕方からしても、阿倍太上天皇のサイドと考えるのが一番妥当でしょうかねぇ?

さて問題は、この不敬発言事件を告発した理由ですわ。
藤原恵美大師の勢力を削ぐための一環、この解釈は私としても否定する気はないのですが、本当にそれだけなのか?
ここで三人の者が罪に問われる本当の理由は、もっと根の深いものがあるのでは?
しかし、今日一日考えていて、殆ど思いつかない……それじゃ済まんだろう(--〆)
それだけじゃなくて、何人も見落としている人物が出てきているし、一番肝心の人物にたどり着かないし……
おまえは誰か
HN:
うめぞー
性別:
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自己紹介:
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