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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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粟田朝臣諸姉    従五位下 淳仁天皇嬪
粟田朝臣道麻呂   外従五位下 授刀大尉
粟田女王       正三位 尚侍(?)

この三人、恐らく大して関係はないと思われます。
でもそれじゃ話にならない……でも、どう関係付けようか思いつかない(T_T)


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紀朝臣益女という女性の名前が始めて見えるのは、天平宝字八(764)年十月の事、無位から従五位下に叙位されるという記事です。
そして最後は天平神護元(765)年八月、和気王の謀叛に連座して、流刑になる途中で殺されるという記事です。
この女性の名前は、当然ながら紀氏の系図には出てきません。
本来の紀朝臣を名乗る人々とは、ほぼ別系統の人だと考えられます。

この女性の名前が出て来る三ヶ月ほど前、紀寺の奴76人を良民にし、その内の12人には紀朝臣までを賜姓するという出来事が見えています。
ここでもう一人名前の見える人物が、紀寺の奴益人あらため紀朝臣益麻呂です。
私はこの二人を単純に兄と妹程度の関係だと考えておりました。

益麻呂という人は、この後に従五位下に叙せられますが、益女よりも少し後の天平神護元年四月の事、そして同年八月には正五位下陰陽頭にまでなってしまいます。
これは益女の連座する和気王の謀叛の後です。
この二人、果たして本当に兄と妹程度の関係で良いのでしょうか……?

そもそも紀寺の奴の良民申請はどういう経緯で持ち上がって来て、誰のどのような意思が強く働く事で承認されたのでしょう。
そして和気王の謀叛に連座する人たちと、この事件の関係はどう捉えるべきなのでしょうか。
更には、同年九月に起きている恵美仲麻呂の謀叛事件には、これがどういう意味を持って関わっている事になるのでしょう。

さて紀益麻呂がこの後どうなるのかと申しますと、宝亀元年七月、従四位下にまで登るのですが、称徳女帝の崩御後の宝亀四年七月、突然に名前を益人に戻し、位階も取り上げられて、田後部を賜姓されるという事態になります。
恐らくそれよりも二年前、宝亀二年の七月に陰陽頭も罷免されているはずです。
この少し前に流刑にされていたらしい淳仁天皇の縁者らも、元の皇族籍に戻されています。

称徳女帝の崩御の後すぐに下野薬師寺に送られた道鏡師に対する処置に比べれば、随分と悠長な処分にも思えるのですが、紀益麻呂という人物もマイナーながら、この辺りを掌握するキーパーソンの一人になる事は、明々白々のようです。
もう少し、周辺の人物と共にさらい直してみませんと……(-_-;)
紀氏となりますと、うちのスメラミコトとの腐れ縁片腕の一人、紀朝臣船守も避けて通れませんわね。
何せこの人、遠戚上はスメラミコトの大叔父ですからσ(^◇^;)

「かつて父上が左大臣(おとど)から皇太后(おおきさき)に乗り換えたように」油の瓶を卓上に置いて、こちらを見もせずに更に続ける言葉は、抑揚も感情も籠もらない。

「だが、父上は皇太后には信頼されなかった、ある理由で」

 当然、その理由を知っている兄は前を向いたまま小さく頷いた。その視線の先では犬のような可愛げのある顔をした獅子が、美女のような文殊菩薩を乗せて四肢を踏ん張っている。別に風貌が似ている訳でもないが、この獅子と菩薩の組み合わせは、何となく故左大臣と皇太后を思い出す。あの二人は父親を異にする兄と妹だったはずだ。

「その事で今度は(いまし)が大師に利用されようとしているのではあるまいか」菩薩に向いたまま、やはり呟くように言う。


ワードの文章を貼り付けますと、何やらフォントがバラバラな気が致しますが……(-_-;)
このルビを消去する事も出来ないし……(・・?

さてこいつはいつものように、開成親王とうちのスメラミコトの会話ですね。
場所は唐律招提寺の食堂です。
食堂の御本尊は賓頭慮尊者……いえ、文殊菩薩だそうです。

別にこの会話がどうだって訳じゃないのですが、かつての話の中で、橘諸兄(故左大臣)の息子の奈良麻呂の風貌を社の前の狛犬に似ていなくも無いなどと書いた事があります。
現在の狛犬は神社の前で、口を開いているのと閉じているのがペアになっていますが、平安時代くらいまではそれが角のあるやつと無いやつのペアになっていて、それぞれが狛犬と獅子と呼ばれておりました。
現在に残る古い物を見ても、角の有無や耳の形のように細かい違いはあるようですが、概ねは同じような姿をしているんですね。

それはともかく、獅子にしても狛犬にしても、決して男前という意味ではないんでしょうねぇ……
うちの設定では橘朝臣親子は、むしろオモロイ面構えだったんでしょうか?
自分で書いておきながら、今更気がついただけの事でしたσ(^◇^;)

「高を括っていて、気がついたら大宰少弐にでもなっていたら、俺は笑うぞ」私は不敵に言い返す。

「皇族を少弐に付けた例など、未だかつて俺は知らぬが、勘繰れば、まあ、御身を大宰府に遠ざけたい御仁は確かにおられるな」雄田麻呂は口の端で小さく皮肉げに笑う。


これだけの事を書くのに、またもや天平勝宝年間からの大宰少弐への任命者を調べる破目になってしまいました(^_^;)
しかし……肝心の天平宝字年間の人事が殆ど見えない(ーー;)
そうすると今度は大弐の人事も調べにゃならんのか?!?!

一応の傾向として、確かに諸王はおりませんねぇ。
良く分からないのですが、官位の幅が少々あって、外従五位下から正五位上まで見られます。
高位の人は神護景雲年間あたりから多く見られるので、この頃から大宰府の重要性が増したと考えるべきなのか、中央での高位者が余って来たのか(^^ゞ
どう考えるにしても、もう少し広い時代幅での人員を見てみないと、はっきりした事は言えませんけれどね。

しかしこの狭い間でも、少しは面白い事が分かります。
例えば小野朝臣田守という人、天平宝字元年の閏五月に任官し、その後に遣新羅使となった後、帰ってきてからまた少弐になっています。
対外問題のエキスパートの一人なのでしょうか、語学にも堪能だったのかもしれません。

そして並べてみると、なかなかにそうそうたるメンバーです。
藤原乙麻呂、石上宅嗣、紀広純、淡海三船、大伴家持など、後々に高官となる面々の名前も見えています。

後々の時代には大宰府は高官にとって左遷地のような印象を与えるのですが、対外的に問題も多いこの時代、地方官に限らずともトップ人事に入って来る場所のようです。
もっとも中流公家(後に言う受領階級)には、後々になっても、できたら行きたいと望む場所なのでしょうけれどね。

忘れていたけど、湯原王の官職を考え直しませんといけませんわ。
天平宝字年間の後半は、左大弁も右大弁も人事が分かっているから、変な割り込みをさせる訳には行きませんしねぇ。
ところで伯父上は正四位下だったっけ、上だったっけ?
お前が勝手に設定したんだろうってσ(^◇^;)

それにしてもですよ……昨日から聴いている曲(昨日の記事参照)、だんだん変な方向に想像が漂って行きまして、今や早良親王のテーマ曲になりつつある(ーー;)
いやむしろ、粟生江内親王かな……いずれにしても“あなた”と呼ばれている相手は同じだと思うんだが……(-_-;)かなり重症だ(・.・;)
……にしても、このバージョンはすごいかも。
画像と歌詞の内容はあまりに関わりがないのだけれど、決して違和感が無い様な……むしろあり過ぎて逆に妙なのかな?

天平勝宝から宝亀年間の始めにかけての太政官のメンバーを調べておりました。
大臣や大納言、中納言、参議は『公卿補任』で簡単に出て来るんですが、左右の大弁や少納言となると、またもや『続日本紀』からの拾い出しですわ……(-_-;)

左大弁の名前もあまり出てこないけど、右大弁はもっと記録が少ない(ーー;)
それに引き換え、少納言となると毎年、人が変わってるんじゃないかと思うくらい、しょっちゅう任命があるんですね。
それでも何となく傾向は分かります。

意外だったのは、大弁は左右とも藤氏がかなり少ないんですわ……どうしてなんだ?
左大弁に到っては一人も出てこない?
これはこの期間に限った事なのかしら??
光仁朝になると様相は変わるのかな???
もっと顕著なのは、一人として諸王がいない……
まぁ、橘奈良麻呂は既に諸臣扱いだろうし、百済王敬福は諸王という訳ではないからねぇ。
以前書いた話で、湯原王を左大弁に勝手に任命しちまったけど、これはもしかしたらかなり不適切なのかもしれませんわねσ(^◇^;)

ところが少納言となると、状況は全く違います。
藤氏は確かに少ないですが(蔵下麻呂以外出てきませなんだ)、こちらは諸王だらけ(~_~;)
まぁ、職務上、分からないでもないですけどね。
おまけに常連の御仁までいたりして……
菅生王と当麻王、この二人なんて何年、少納言やってるんでしょう……特に菅生王は、天平宝字三年から宝亀三年までの間、名前が見えていますからねぇ。
定員は三人のはずなのですが、奈良時代には員外の定員までいますから、実態としては何人いた事になるんでしょうねぇ?

穿った考え方をすると、最初の叙位で従五位下(孫王に到っては従四位下)がもらえる諸王という連中は、官界では厄介な存在だったのかもしれません。
これを分かっていながら、諸王を勝手に内舎人にまでする私は非常識なのかもね(-_-)
もしかしたら散位の諸王って、掃いて捨てるほどいたのかもしれません。
まぁ、諸王に限らず、税収アップのために官位を金や物で売るような事を続けたお陰で、散位の官人も結構いたんじゃないのかしら……墾田永年私財法なんてやつを考えたやつが悪いのか?
それを利用した為政者が悪いのか??
……やっぱり私の前頭葉では、長屋王も橘諸兄も印象悪いんだわねぇ(--〆)

それにしても四年前の真夏の盛り、私ゃいったい、どういう話を書いていたんでしょう?
セカンド頁の記事を読んでいると、我ながら結構おかしいσ(^◇^;)σ(^◇^;)σ(^◇^;)
二官八省のトップ人事を一覧にしているのですが、とにかくややこしいです。
うん?
今、私は何をしたのでしょう??
記事がアップしてしまいました(ーー;)

え~と、気を取り直しまして……
何がややこしいのかと申しますと、天平宝字二年の八月に、各部署の官名が変更になるんです。
中務省が信部省、式部省が文部省、兵部省が武部省などなど、かなり聞きなれない大唐趣味的な名前になります。
これが数年続きまして、また天平宝字八年九月以降に元に戻りますので鬱陶しいです。

取り敢えずは天平宝字五年くらいから宝亀元年くらいまで、太政官と各省、各衛府のトップの変遷を押さえてみますか。
これだけでも結構、派閥やら権力の動きが分かる事がありますからね。
アホくさい作業と思われましょうが、れっきとした研究者も同様な作業をしてるんですわ……
文献屋も物書きも、結構こういう分類作業が好きなのかもしれません?
いや、ジャンルに限るのかなσ(^◇^;)
藤原式家の兄弟の事なのですが……まぁ、たいした事じゃありません、前もって断っておきますと。
家長は宿奈麻呂(後の良継)です。
弟は少なくとも七人はいると思いますが、この御仁がもっとも気に入っていたのは、六番めの異母弟の雄田麻呂(後の百川)だろうと思います。
二人の年齢差は十六歳、早くに父親を病気で亡くした雄田麻呂にとっては、この兄が父親代わりだったのかもしれません。
雄田麻呂の内室は藤原諸姉、宿奈麻呂の娘ですが、恐らくは長女だと思われます。
宿奈麻呂の息子として知られているのは宅美のみなので、弟で娘婿の雄田麻呂はやはり息子に次ぐような存在だったかもしれません。
しかし、宿奈麻呂には娘は結構多かったようで、北家の永手や楓麻呂にも嫁がせています。
この人たちの世代は、まぁ、良いのですが……

宿奈麻呂の母親は左大臣石上朝臣麻呂の娘の国守だそうです。
兄の広嗣の母親も同じ人だと思います(尊卑分脈にのっているので、ちと曖昧(-_-))
この人の弟に乙麻呂という人がいます。
宅嗣の父親に当たる人ですが、若い時にはちょいとしたスキャンダルに見舞われて不遇をかこっております。
とある未亡人との仲が取りざたされて、一体どうしてなのか、流刑にまでなってしまいます。
その女性が誰なのかと申しますと、久米連若売という人で、藤原朝臣宇合の内室の一人でした。

まぁ、思うに、乙麻呂さんは姉上に会うために時々、藤原式家を訪れていたのだと思います。
そこで若売さんに会う事もあったのでしょう……
そして天平九年の事、式家の主の宇合氏がお亡くなりになりました。
この後、乙麻呂と若売の仲が発覚したのは天平11年の事です。
既に二年も経っているのに、故式部卿の未亡人と通じた程度で、どうして土佐くんだりにまで流されるのやら、なんとも腑に落ちないのですが、とりあえずこの事は置いておきます。

ところで久米連若売には雄田麻呂という息子がおります。
母親がこのスキャンダルの一端を担った事、果たして当時八つの息子はどの程度理解していたのでしょうか?
ついでに母親の相手が次兄の叔父に当たる人という事も……
この程度の事、雄田麻呂にしても宿奈麻呂にしても、大して気に留める事でもないのでしょうかねぇ……どうも現代の感覚からいうと、どいつもこいつも変……なんだが(ーー;)
いや、そもそも、乙麻呂の流罪の原因が本当に未亡人との不義(なのか?)によるものなのか、今度はそっちが疑問に思えて来るんだが←かくして病気が出始めています(--〆)
私はモノを書くに当たって、主要登場人物の個人年表と言うやつを作ります。
物語の年次を含む二~三十年幅で、主要人物がその年に何歳で、どのような動きがあったかを簡単に書いてある程度ですが、これがかなりベーシックで役に立つ資料になります。
ところが昨日からいくら探しても、こいつの天平宝字年間を含む分がないんです……

この辺りの話は以前に書いたので無いはずがないのに、何度探しても見事に抜け落ちている……
おまけにこの辺の二官八省の主な人事も無い……
一体どこに行っちまったんだ?????????
もう少し探してみてもなかったら、もう一度、この時代を頭に叩き込むためにも作り直さないとなぁ。
調べる事には吝かじゃないんだが、書き出すのがかなり面倒なんだよな。
PCが得意な知人は、エクセルででも作ったらというのですが、こいつがパソコン画面になると結構、見難いんですよ。
私としては完全アナログの方が、頭に入るし見る時に見易いんですわ、やっぱり(-_-)
不謹慎極まる事を言いますと、首のすげ替えという言葉を聞くと私はお雛様を思い出します。
どうしてかって……幼少のみぎり(?)、こういう遊びをしておりました。
御存知の方も多いでしょうが、お雛様は頭部と体部が別々に作られているので、簡単に首が抜けるのですね。
大昔の事、姉のお雛様の首を抜いて、選りによって左大臣の白髪頭に差し替えたり、五人ばやしの誰かの体に注したりと、全く持って意味不明の事をしては祖父母に怒られておりましたσ(^◇^;)
そしてその頃の飼い猫は、お内裏様を蹴落として、自らが一番高い所で伸び伸びと寝ているような事も仕出かしてくれました……猫や犬は飼い主に似る???飼い主は私ではなく、父母ですが。


「大炊の兄ら以外の親王がおらぬでも、同様の立場の孫王はいない訳でもない。その者らの高齢が不安だというのなら、その子息らの資質も考慮して挿げ替える首を捜しているのは、女帝も大師も同様なのやもしれぬ」


お雛様も猫もとりあえず置いておきまして、ここで挿げ替える首は『日嗣』もしくは『主上』という御方の事です。
この言葉を発するのは開成王、大炊とは時の帝の淳仁天皇、女帝とは阿部太上天皇(孝謙・称徳天皇)、大師とは藤原恵美朝臣押勝(藤原仲麻呂)です。
時は天平宝字五年、西暦761年、大炊王が即位して三年目の事です。
あの壬申の乱からそろそろ九十年、世代は孫や曾孫が中心となっているこの頃でも、淡海帝系か浄御原帝系かが重要な要因だったのでしょうか。
聖武皇帝以降の皇位継承があれ程に揺れに揺れて、その要因以上に別の系統への継承に問題が出ていた可能性もあるだろうに、どうしてここに到ってもどちらの天皇の子孫なのかが、一番重要視されるのか?
私が今回、通説に対して疑問に思うのはこの点です。

この事が未だに当たり前とされているのは、『続日本紀』に淡海帝系の諸王の記事が殆ど現れないからでしょうか。
しかし諸王に関していうと、淡海の浄御原のという前に、系譜不明の人もかなり多いはずです。
そして成人した皇子の人数を比べてみると、浄御原系のほうがずっと多いので、確率的にどうしてもこちらが多くなるのは当たり前の事でしょう。
更には『続日本紀』自体が、白壁王こと光仁天皇(淡海帝の孫)の生前に編纂が始まり、その子の山部親王こと桓武天皇の時代に成立しているのですから、この系統に関してのあまり大っぴらにしたくない事には口を閉ざす姿勢は充分にありうる事だと思われます。
大炊帝への為政者らの不満の高まる中、次に挿げ替える首の候補に、どうして淡海帝の孫や曾孫らがいなかったと断言できるものなのでしょうか。

これらの与太は、今までにも再三書いてきたことなので、今更口角に泡を飛ばして騒ぐ事でもないのですけれどね(^^ゞ
そして結論、史料に現れない事はありえない事なんてセオリーにもならない大枚妄想は、私のような厚顔な物書きには絶対に通用しない世迷い語だったのです(ーー;)
平安時代に近衛少将といったら、女房らにさぞかしもてたんだろうねぇと、ついどうでも良い事を思ってしまうのですが、授刀衛府改め近衛府となったこの頃、このポジションってどういうものだったんでしょうねぇ。
そりゃ、中衛府と並ぶ天皇側近のエリート武官、一目も二目も置かれたのでしょうけれど。

誰が近衛少将なのかと問われれば、うちのスメラミコトの事です。
雄田麻呂の証言(?)によれば、七年間居座っていた中務省内舎人所での頃よりも、遥かに生き生きとしていたらしいですが、最初の頃はかなりの頻度で愚痴三昧ですわ。
勿論、愚痴を聞く相手は、開成王ですけれどね……雄田麻呂も蔵下麻呂も種継も、こうなるとすぐにトンズラするようですから(ーー;)

何についてを愚痴るかと?
少なくとも女帝と法王の関係ではないでしょうねぇ??
やっぱり山背の妻子の事???
むしろ淡路の大炊親王の事かな????
割と上司の悪口かもなぁ……スメラミコト、父上と違って何となく八束の事、好きじゃないみたいだし(~_~;)
永手や楓麻呂はともかく、魚名は絶対に嫌われてるし、同世代の小黒麻呂も好かれてないだろうなぁ。
じゃなけりゃ、後々、参議にもなって陸奥になんぞ出兵させる?????

北家ってやっぱり、この人にあまり好かれてないようだわね……
こうなったら次の苛め役は八束ってのか真楯にやってもらおうかしらね、ついでに山村王とか粟田道麻呂とか、やっぱり坂上苅田麻呂もいる事だし。
武官の苛めって、やっぱり体育会系なのかなぁσ(^◇^;)
こんなノリで、まともな話になるのかね????????????
おまえは誰か
HN:
うめぞー
性別:
非公開
自己紹介:
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