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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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開成親王のプロフィールやら、以前に書いた話での扱いを考えてみて、もしかしてうちのスメラミコトは常に二人のキーパーソンに囲まれたトライアングルを維持しているのかしら?
十代から三十代における両者は、この開成親王と藤原雄田麻呂である事は間違いなさそう。

開成の出奔の後、雄田麻呂改め百川も薨去し、それに代わるのは藤原種継と……もしかして早良皇太子か?
なんか違う様な気がする?(-_-;)?
だからって北家の小黒麻呂でも南家の是公や継縄でもないよねぇ?
まぁ晩年は大納言宮壱志濃王、右大臣神王だろうなぁ。

……で、こんな事を分析して何になるのよ?
え~と、とりあえずは、泗沘やら周留城あたりまで彷徨いだした思考を戻そうと思いましてσ(^◇^;)
敵は手強いです、新羅の文武大王(金法敏)ですから。

……で、BGMがミシェル・ポルナレフ??
古い、古すぎるぞ、40年から昔の曲でしょうに(-_-;)
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つい先ほどまでNHKの教育テレビで『ETV特集』を見ておりました。
シリーズ 日本と朝鮮半島2000年 第二回“任那日本府”の謎』というタイトルですね。
この番組の具体的内容を云々する気は、今のところないのですが(何せ今現在の私の守備範囲外の時代ですから)、ともかく精神衛生上、チョイと悪いんですわね。
何がって……頭の中がまた、全羅道の方に漂い出しましてσ(^◇^;)

そもそも私の中での古代半島情勢には、高句麗という国がとても希薄でして、いつも中心に座っているのが百済新羅の関係なんですね。
だから最初の方のヨン様扮する広開土王が出て来ている内は、斜めに見ておりました。
ああ、ああ、相変わらず百済も伽耶も薙ぎ倒して、金城に来たら倭だらけだったって?
まぁ、高句麗に比べりゃ伽耶諸国の方が、私の頭の中ではずっと存在感がありますわね。
ところが漢城(ハンソン)陥落後、熊津(ウンジン)遷都後の話になって来ると、頭の中に妄想が沸き出て参りまして……番組の内容としては四~六世紀が中心のはずなのに、いつの間にか妄想は七世紀に突入して、熊津どころか泗沘(サビ)に遷都しております(~_~;)

七世紀における倭国の百済支援は、結局のところこの時代からずっと尾を引いているんだろうか?
だがどうしてあの時はあそこまで積極的な介入をする必要があったんだ?
いや、史書には現れないだけで、多少の波はあれど、既に四世紀辺りから密接な関係は続いていたと見る方が確かに自然だね……では、この頃にも同様な中央的な国家間のつながりを考えても良いのだろうか?

かくして八世紀は何処へ?
ようやく、少しずつ書く姿勢が戻って来たってのに、ここでまた変な方に興味が逃げるととても困りますわ(--〆)
それにしても栄山江流域の前方後円墳って、ブッチャイクだわねぇ。
テラスも作り出しも葺き石もないのね、もしかして???
まぁ、関東の六世紀のやつも充分変ですけどね、畿内の中期古墳を見慣れた目には(^^ゞ
ただ今の取り組みは、天平宝字年間の話を書き直そうというところです。
対外情勢が頭から若干抜け落ちているので、概説書のページを今更に繰るのも面倒だと、相も変わらず昔に書いた物を読んでおりました。
やっぱり、この辺だけ読んでいても、飛び切り入り組んだ東アジア情勢が、おいそれと掌握出来るものでもないみたいですわ(^_^;)

やっぱり、この一世代前から見て行き、次の世代というか、少なくともスメラミコトが即位するくらいまでを頭に入れませんと……
ところが前者はともかく、後者の時代は今までしっかり書いた事がないという、困った事態に気付きます(ーー;)

そうなりますと、結局は概説書を眺める事になる訳です。
明日、時間があったら図書館によって来ましょうっと(-_-)
『続日本紀』を一々当たるよりも、こっちの方が遥かに早いでしょうからね。

   ************************

「高麗(渤海)は慎重で新羅は能天気に走っておるか……さて、この日本はこの機会に乗るつもりなのか」雄田麻呂は口の端で笑う。

「ある程度は本気であろう。でなければ新羅人に帰国を促したり、わざわざ筑紫の香椎になど奉幣には行くまい」

 この動きが勅命や太政官処分として出ているのが、私にしてみればもっとも気掛かりな事となる。おおむねの者が対外派兵への動きに批判的で懐疑的であるにもかかわらず、最も積極的な意見を出す者は、よりによって最上層にいるからだ。

「御身は新羅が嫌いか」少し身を乗り出し、声を潜めて雄田麻呂は聞く。

「私の母方が百済系だからか、そのように聞くのは」 

「いいや、御身自身の感情だよ」

 「別に好きでも嫌いでもない。ただ対外戦争などするものではないと思うている」


   ************************

さて、この最後の言葉は果たして本心なんだろうか?
若い頃のこの御仁は、少なくとも私の設定上では平和主義者だったと思うのですが。

そしてこんな事をしながら、BGMはYouTubeでチョイと古い音楽のサーフィンをしております。
このところ聞いている曲もひっくるめて、こういう絶唱タイプの曲はつい聞き惚れてしまっていけませんわσ(^◇^;)
本当にこれでもかと言うくらい、書くべき話が前に進んで行かない(T_T)
いつもの事ながら、以前に書いた物を読み散らかしておりました。
改めて読み返すと……すごいかも(ーー;)
何がって、式家の兄弟の会話が(-_-;)

「あの方が事を企んだのはただ一度、それが全てを狂わせた。そういう事でしょうな」膝の上に顎を乗せて蔵下麻呂が呟く。

「騙したいのは、背の君と他の妻女や子供たちくらいの者だった。ところが事情が変わってそうも行かなくなった」

「ついた嘘をつき通して……哀れなものだ」私も呟き、大きく嘆息する。

「汝は相変わらず情に篤いのだな」感慨深いというよりも、いくらか呆れたように良継が言う。

「私がですか」つい怪訝に言い返す。

「それでいて、よくも情に流されぬものかと、常々感心しておるよ」

「それはそうと叔父上、これよりの方策を立てねばなりますまい」一番の策謀家が、更に呆れたように横で言う。これにそのように言われると、時々妙に腹が立つ。

ここでのキャストは四名、蔵下麻呂、百川、良継、種継の順で出てきます。
種継、良継、蔵下麻呂、百川の順で醒めてるかも(~_~;)
うちの雄田麻呂(百川)はスメラミコト以上に言い訳が込みますからねぇ……
間違っても後々の史料に見えるような、『全ての黒幕』みたいな要因は持っておりませなんだ。
今、こういう会話を捻ってみろと言われても、果たして書けるものやら。
それにしてもイタリックって読み難いかも。

書く方が進まない理由の一つに、変な方向にテンションが上がっている(むしろ下がっている?)ためなのかもしれませんわ。
少し前から変にこの曲に過敏になってるんですよ……
別にフォーククルセーダーズが歌おうが、キム・ヨンジャさんが熱唱しましょうが、塩谷瞬さんが泣きそうな顔で歌ってくれようが、反応はほぼ変わりません。
とにかく根拠不明に泣けてきて困る……こいつもいつぞに変なモノを拾った後遺症なんだろうか???????
言い訳じゃないが、私の家は父方も母方も鎌倉時代から関東に住んでるんだが(-_-)

唐律招提寺にてスメラミコトが開成王大炊帝についての噂をしている場面を考えていたのですが、開成王がやけに情報通すぎる……
「誰しも坊主の前では口が軽くなるものだ」
なんて言ってくれてるけど、その口の軽いのは誰なの?
市原王湯原王のような大師派閥の高官が、この若い身内においそれと職務上、知り得た秘密(?)を洩らすような事をするんだろうか(ーー;)
既に内舎人としては古参の部類に入りつつあるスメラミコトとしちゃ、宮の外にいる異母兄の方が情報通だってのは、少々癪に触るところなんだろうなぁ。
いずれにしても、こういうところの設定が曖昧だわね(-_-;)
狡猾だと時に人から言われはするが、何も物を考えずに行動して裏目に出るよりはましだろう。
少なくともそのような者よりは、遥かに熟慮を重ねていると言えまいか。
そしてそれは、誠実さと背反するなどと誰が言えよう。
誰かに忠誠を尽くす時、別の者から見れば私は狡猾に見えるだろう。
仕える主がいるにも拘らず、他の誰もに忠実で実直である事など、一体誰が出来るというのか。
私をそのように罵る者は、時に負けを認めているのやも知れぬ。
自らの思慮の浅さを他者のせいにしたいのやも知れぬ。
恐らく自らに向き合っても、私は狡猾でいるのやも知れぬ。

う~ん(゜.゜)、これは誰の言い訳だろう。
式家の誰かかな、南家の可能性もあるな(~_~;)
北家の連中は、もう少し自虐的なところがあるかもなぁ?
南家はもっと攻撃的かな?
京家は……最初から論外だったりしてσ(^◇^;)
今日、電車に乗って『続日本紀』(文庫版の全現代語訳の方です)を眺めていて思ったのですが、もしかして私は今まで藤原氏や他の氏族の葛藤に気をとられていて、割合に皇族出身官僚を軽く見ていたような気が致します。
ここでも再三に、聖武天皇は曽祖父が目指したような皇家中心の政治を復活させたいと考えていたと書きましたが、こいつが肝心なところで頭から抜け落ちているような気が致します。

うちの主人公どもは殆どが皇族かそれに准じるような存在です。
四六時中、皇家の誇りの云々と
わめいてほざいて一日が行くような様なのですが、こいつらが見ている相手は天皇その人の周囲と、藤家の為政者らばかりかも知れません。

天平宝字六年の後半には割り合い立て続けに、高官の死亡記事が見えます。
六月には尚侍(ないしのかみ)藤原哀比良、七月には前参議の紀飯麻呂、九月には御史大夫(大納言)石川年足、十月には讃岐守の大伴犬養、阿部太上天皇の義母の県犬養広刀自が薨去しています。
県犬養夫人の亡くなった半月後、太政官を始めとした中央の人事が発表されているのですが、ここに何人かの皇族出身官僚の名前が見えています。
三人の中納言の内の二名は、氷上真人塩焼白壁王なのですが、この二人はどちらも県犬養広刀自の生んだ内親王の伴侶です。

この半年前、阿部太上天皇は突然に出家を表明し、国家の大事と賞罰は自らが行い、大炊天皇は祭礼や小事を扱っておけと詔を出します。
太政官の人事が小事とはまず思えませんから、中納言の任命には太上天皇の意思が大きく関与していたと考えてもおかしな事はないでしょう。
太上天皇もやはり、父親以来の皇家親政を目指していたのでしょうか。
風前の灯の草壁皇太子の血筋に、志貴親王家、舎人親王家、新田部親王家、長親王家……表だって出て来るのは、この辺りの人々でしょう。
そして後に即位する白壁王の皇后となる井上内親王、この人は自分の息子(志貴親王系)は勿論、同母妹の息子ら(新田部親王系)にも期待をしていたかもしれません。

この時期の皇族官人の人事はどうなっているんでしょう。
あまり系統立てて調べた記憶がないので、殆ど頭に浮かびません……
とりあえず舎人親王の家の連中は追い払われているから、他の家の面子は如何にか?
こういうことを考えながらのBGMにこういう曲は似合わない(ーー;)
先日とある場所で年配のご夫人方々が、一人っ子がどうのこうのという話に花を咲かせているのを聞くともなしに聞いておりました。
私の世代は2~3人の兄弟が当たり前ですが、今の十代、二十代の人たちは一人っ子も多いでしょう。
ご夫人らの話では、一人っ子はやはり思いやりや遠慮がないというご意見でしたが、兄弟が多くてもそういう人はいるもので、やっぱり育った環境が大きいのだろうなぁなどと在り来たりな感想を持ちながら、少しばかり別の事を考えておりました。

一夫多妻が許されていた時代には兄弟は多かったはずですが、夫婦が同居しないような階級の人たちの場合、子供は母親の元で育つのですから、異母兄弟は他人も同前だったようです。
私の話に再三出て来る藤原雄田麻呂こと百川も、恐らくは同母兄弟はいなかったと考えられます。
まぁ、不比等の息子らの内でも一番子沢山と思われる、宇合の子供の名前が全てわかっている訳ではないし、娘に到っては何人いたかも不明ですから、もしかしたら姉の一人や二人はいたかもしれません。

私の書く話の中では、白壁王倭新笠は若い頃から同居をしています。
それに反して、後に皇后となる井上内親王とは一度も同居した事無く、内裏に住まうようになって初めて共に暮らす羽目になります。
これが後に一悶着起こす要因にもつながるのですが、その話は一先ず置いておきます。

新笠との間には三人の成人した子供がいるのですが、他の奥さんとの間には一人の子供だけというパターンも勿論あります。
その一人が手嶋王こと開成王なのですが、この王と母親は一時、白壁王と同居しています。
それが恭仁京時代の事でして……なんて事を書き出しても、分かっているのは私だけ(-_-;)
新笠のキャラクターのお陰で、この二人の妻女はかなり友好的に過ごしているのですが。

上代において御公家さんの御内室が複数、同じ屋敷内に住まう時、互いに交流があるってのは当たり前なんだろうか、それとも珍しい事なんだろうか?
そもそも、どの程度の人が複数の奥さんを一緒に住まわせるような真似をしたんだろう??
四位の孫王の屋敷ならばそいつも可能でしょうけど、七位とか六位程度の官人はどうなんでしょう???
そして都意外に住んでいる人はどうなのかしら????
昨日の戸籍の例からも、こんな事を考えていたのを思い出してしまったのですが、結構ベーシックな事が分からない場合が多いです(~_~;)

母は本来、父の正妻になれるような立場ではなかった。二人の結婚は政略の片鱗も無い自由恋愛の末で、皇族意識を丸出しの伯母らにとっては賛同するに憚られるものだったろう。しかしとあるきっかけで、周囲の見る目は大きく変わる事となる。

どうでも良いんだが、イタリックって読み難いですねぇ……(ーー;)
ともあれ、こんな具合にたいして気にも留めずに文章を捻っていたのですが、こんな言葉は果たして昔々にあったものなのでしょうかという、疑問がいくつか湧いてきます。

まずは「正妻」……こういう意識が出来たのはいつなんでしょう?
試しにここ数年の正倉院展の図録を引っ張り出して、文書の裏紙に使われている戸籍が掲載されているかを探しておりましたところ、大抵、毎年どこかのものが出ております。
まず「戸主」がいて、「妻」「妾」という具合に続く場合が多く、どうやら複数の妻女がいた場合は正室、側室の身分はあったようです。
しかしこれが五位以上の公家、そして諸王の場合にはどうなるのでしょう。
そもそも都人の戸籍というのは残っているのか……聞いた事がないぞ(~_~;)
そういう訳で図録のページを繰っておりますと、正倉院文書には絶対付き物、『造東大寺司』文書が出て参ります……文末の署名なんて見たら、即脱線するσ(^◇^;)

早速『次官正五位上単行下総員外介佐伯宿禰今毛人』なんて書名を見つけて喜ぶ……ちなみに長官は不明。
恐らくは『正五位下玄蕃守兼備中守市原王』で良いと思うんだが……時は天平勝宝四年。
更にあちらこちら見回せば『紫微中台』やら『中務省』そして『太政官』の面々まで出て来る。
私に『正倉院文書』やら『東大寺文書』なんて見せちゃいけない????

いやはや……気を取り直しまして、次は「結婚」、そして「自由恋愛」。
いずれの言葉も古典世界ではあまりにも聞く機会のない言葉ですが、さてとこういう言葉はいつから使われるようなになったものなのやら、やはり私には基礎知識が大きく欠けているのかも知れませんわ。

とか何とか考えながらも、ついつい傍らにある図録の『国家珍宝帳』なんぞを眺めるのでした。
なるほど、天平勝宝八歳、藤原永手は従三位、左京大夫で侍従で大和守だったのね……だから、何を調べたいんだ(・・?
今回は天平勝宝でも天平宝字でもなくて、天平神護だぞ……(--〆)

大した自覚でもないのですが、私は加筆という行為が苦手らしい事に気付いております。
どうしても以前に書いた文章に頼り過ぎるというか、大きくいじれないから、まったく別のシーンやら何やらを追加するのがせいぜいです。
まぁ、こいつも加筆には違いないんですけど。

随分前に250枚(400字詰め換算)程度で書いた話を書き直そうと、時代背景の見直しをこのところずっとやっているのですが、本当に一から書き直した方が楽かもしれないように思えております。
昔に書いた話を書き直すと、時々、まったく別の話しになる事も何度かありましたからねぇ。
ただし今までは、主人公も替わっているから、当然といえば当然なのですが。

さても、今回は別に主人公は変わる予定がない……
それよりも同じ辺りの時代で、平行して百枚程度の短編も書こうかなどと、このたびも良からぬ事を考え始めております(--〆)
……にしても、うちの主人公のテーマソングは、もしかしてこの歌か?
聞けば聞くほど、うちのスメラミコトの若い時に重なってくるわσ(^◇^;)
おまえは誰か
HN:
うめぞー
性別:
非公開
自己紹介:
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