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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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天平神護元年、冬十月庚申(二日)使を遣して三関を固く守らしむ。
辛未(十三日)紀伊国に行幸したまふ。

この二つの記事は、続けて記されています。
ではこの記事の前に何があるかと見てみますと、一日に日食、その前の月には人事関係の記事と、新しい銭『神功開宝』鋳造がありますが、固関を行う理由に関連するような出来事はありません。
更に一月さかのぼり八月を見てみますと、ここに『和気王謀叛』が見えます。
しかし二ヶ月もたって、謀叛に関わったとされる人たちの刑も行われた後に固関をしても意味はありません。

するとこの固関は『紀伊国行幸』に際して行われたと解釈するのが一番相応なのでしょう。
どなたが言われたのかは忘れましたが、天皇の即位の翌年に行われる『紀伊行幸』には重要な意味があるかもしれないとの事です。
この前年の天平宝字八年、『恵美押勝の乱』の直後に淳仁天皇が廃され、阿部太上天皇が再び皇位につきます。
この行幸も、上記の『紀伊行幸』に当たるのでしょう。
高市郡の小墾田宮に入って、檀山陵(まゆみのみささぎ:草壁皇子の墓所)に拝謁もしています。

そして女帝らが紀伊国に入った頃、淡路国ではあまりに不審な出来事が起きています。

庚辰(二十二日)淡路公(あわじのきみ)、幽憤に勝(た)へず、垣を踰(こ)えて逃ぐ……公還りて明くる日に院中に薨しぬ。

この記事はかなり有名ですが、淡路公(淳仁天皇)の具体的な死因が何なのかは推して知るべし……
固関、行幸、先帝の死、関連があるような、順番が違うような……
阿部女帝の属する草壁皇子の系統、淡路廃帝や和気王の舎人親王の血筋、ここで対立を見たと単純に考えて良いものやら……

我らが志貴親王家の連中は、この一連の騒ぎをどういう目で見ていたんでしょう。
うちで言えば白壁王、湯原王、榎井王、山部王、壱志濃王、桑原王、鴨王、神王、それから開成王くらいになるのかな官界にいたのは。
開成の兄上は唐律招提寺にいるんですけどね(~_~;)
う~~~~ん、やっぱりスメラミコトと兄上の話を書きたいような(^_^;)
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淡路国を大炊親王に賜ふ。国内に有(たも)てる官物調庸等の類はその用いる所に任す。

このように阿部太上天皇が詔をしたのは、天平宝字八年十月九日の事。
天皇の更迭事件は、考えてみれば奇妙な事に、恵美押勝の乱の後に起きています。
通説というのは、常に疑う余地があると思うのですが、この事件も私にとってはその対象になります。

よく言われるのは、藤原恵美朝臣押勝の傀儡として大炊天皇がいて、それに道鏡法王とタッグを組んだ阿部太上天皇が対抗している状況から謀叛騒ぎが起きて、押勝側が敗走、近江にて討たれるという筋書きなんですが、どうしてこの時に大炊天皇の動きが全くないんでしょう。
中宮院にあった駅鈴と内印を回収したところから、謀叛事件が始まるようなものなのですが、中宮院にいたはずの大炊天皇はどうしていた訳でしょう?
一緒に近江にトンズラしたのは塩焼王なんですよね……どういう経緯でこの人が出て来るんでしょう。

こいつに疑問を持って以前に物語を書いたのですが、この時も時間切れで端折りまくったような内容でした。
その割には、公募で出した先での評価はそこそこ良い方だったんですけどね(^^ゞ
やっぱり、こいつをもう少し練り直したいし、もう少し話を進めたいんですよね。

それにしても『恵美押勝の変』とか乱とかいうけれど、この段階でこの人は藤原の氏を剥奪されて、下賜された押勝の名前も取り上げられたのだから、恵美仲麻呂なんですよ。
阿部太上天皇も詔の中で、そのように呼んでいますしね。
まぁ、その辺りは別にしても、この謀叛事件の裏、もう少し穿っても良いんですよね。
そして冒頭に上げた女帝の詔、私の設定では、こいつは嫌味にも聞こえる内容です。
女帝――阿部太上天皇に謀叛にも近い事をしようとしたのは、押勝よりも大炊天皇の方かもしれません……この若い天皇は、一体何を考えていたんでしょう。

うちのスメラミコトはその事、知ってるの??
勿論、この人も腰まで泥沼に踏み込んでますからσ(^◇^;)

よく時代劇などで、問題を起こして処分された人に対して、「◎◎にあずかりとする」という表現を聞くのですが、これを辞書で引いてみたところ、
『主君の不興をかった者や、容疑者、犯罪人等を特定の人に託して看視させること。特に、中世、近世でいう。』
とありました。

私の書く話は奈良時代よりも以前が圧倒的に多いのに、この言葉が何度か出てきます(~_~;)
例えばうちのスメラミコトの妻子や伯父辺りが、政変や謀叛事件に巻き込まれるのですが、幸いにして生き残ったこの人たちを山背の倭史氏(やまとのふひとうじ)の預(あずかり)とするという具合に設定しております。
う~ん、こういう制度って果たしてこの時代にあったんでしょうかねぇ……

では、謀叛騒ぎに関わって、都から追放された人たちは、具体的な流刑地が示されている場合はともかく、何処に行くべきなんでしょう。
ある程度の身分のある人ならば、乳母とか家人の家が都の外にあれば、そういう所に押し込められるのかしら?
それとも配流所のような所がやはりあったのかしら?
また分からない事が増えてきましたわ(--〆)
うちのスメラミコトの所属する授刀衛府の人事です。
この令外の衛府ですが、天平宝字三年の十二月に新設されました。
やはり令外の官として神亀五年に置かれた中衛府ですが、この頃の中衛大将のポストには、ずっと藤原朝臣仲麻呂が居座っておりまして、こちらに対抗するために置かれた云々と言う人がおられますが、それにしちゃ、最初の督(かみ)として見えるのは、この仲麻呂の娘婿の藤原御楯なんですよね。
発足当時の人事が分かれば、ここの性格がもう少し分かるのですが……
ちなみにどちらの衛府も、宮中守護に当たるのが任務で、平安時代になると左右の近衛府になる訳なんですね。
どうも授刀衛府が具体的に動き出すのって、恵美押勝の乱前後からという印象を拭えなくて……(・.・;)

相変わらず、天平宝字から天平神護年間の辺りを眺めなおしています。
この辺は以前書いた話のお陰で、かなり資料をそろえているつもりなのですが、モノによっては困ったくらい中途半端、おまけに何のために調べたのやら分からないモノもあって……(~_~;)
ちゃんと整理して書き出してあれば良いのですが、一番分からないのは、思い付きをその辺のコピーの裏紙などにメモしたモノ……(--〆)
この類に面白いやつがありました。
今回書き直そうとしている話ではなく、件の粟生江内親王と五百枝王の物語のモノですね。

**********
 
 治部卿は南家継縄を気の許せぬ者と評する。それはどこか皇家へのかすかな嫌悪を臭わせる南家には、至極似合っているとも見えて納得できる。南家は式家の百川を嫌っていたという。式家は常に叔父の背後にいた。(中略)南家も叔父に近づこうとしていた。しかし式家との決定的な差は、その手を汚す事をためらう態度にあったのだろう。
**********
 
このメモでの語り手は五百枝王です。
治部卿とは壱志濃王の事で、叔父とは言わずもがな山部親王というか天皇ですね、この時は既に。
これに良く似た記述が実際に書いた話にも出て来るのですが、語り手は粟生江内親王に変わっています。
そして治部卿宮が評している相手も、北家の小黒麻呂に変わっています。

藤原継縄は豊成の次男、北家の魚名や式家の田麻呂が亡くなった後に、やはり南家の是公と並んで藤氏の氏上クラスになった人で、延暦年間の始めには大納言になっていますが、出世は是公の方が少し早くて、この人が亡くなった後にようやく継縄は右大臣になれました。
内室は有名(?)な百済王明信ですね。
対する北家の小黒麻呂は鳥養の次男、この人の簡単な紹介はこちらに。
粟生江内親王は、この人が嫌いだと堂々と言っています(-_-;)

この頃って、東北経営に重大な陰りが見えた頃ですから、太政官の上位者も武官経験者が多いような気がします。
何せスメラミコトからして武官出身ですから……うめぞー的設定においてσ(^◇^;)
まぁ、どう転んでもこの御仁の話を書きたい事だけは変わりませんわね。
『続日本紀』に粟田諸姉(あわたのもろね)という人の名前が出て来るのは二箇所だけ、最初は淳仁天皇(大炊王・淡路廃帝)の即位前期、そして天平宝字二年八月一日、淳仁即位に際しての叙位の時です。

大納言藤原朝臣仲麻呂の長男で、亡くなった真従(まより)の未亡人と再婚して田村第(仲麻呂の屋敷)に住んでいたという記事が最初のものです。
この時の記述では『粟田諸姉』、具体的な日付は分かりません。

そして大炊王が阿部女帝から位を譲られて即位した同日、阿部太上天皇光明皇太后に尊号を贈り、官人と女官らに叙位を行っています。
『無位の粟田朝臣諸姉に従五位下』という具合に、ここでは朝臣の姓が記されています。

天武天皇の『八色の姓』の制により、粟田氏は朝臣の姓を賜わります。
しかし、粟田氏が全て『粟田朝臣』になった訳ではありません。
『天平宝字三年七月十三日、内薬佑従七位下粟田臣道麿に姓朝臣を賜ふ』
この記事が示すように、天武十三年には漏れている人たちもいた訳です。

この粟田道麻呂と粟田諸姉の関係をでっちあげましょうと、少しばかり調べ始めているのですが、やはり巧く行かないようです(・.・;)
諸姉という名前から考えて、この女性は長女なのかもしれません。
なので道麻呂を諸姉の弟にしようかと思ったのですが、姉が天皇の夫人となった直後に出世するならともかく、この人の出世スピードはちょっとゆっくり過ぎます。

朝臣の賜姓が約一年後、正六位上から外従五位下に叙位されるのは天平宝字八年、五年も後になります。
初出の時は従七位下、それが五年で外位とは言え、八階位も上の五位になるのは大したものです。
有能な地方出身者の、かなり順調な出世の例ではあるのですが、天皇の夫人の弟のプロフィールとしては、あまりにぞんざいな扱いにも思えます。

大臣家との婚礼もあるような本家の御令嬢と、田舎の分家の息子程度の関係なんだろうか?
まぁ、その程度の関係でも何か出世の足掛かりになる要因もあるのかも……もう少し考えてみましょうっと(-_-)
以前に天平宝字八年の授刀衛府の人事というやつを調べた事があります。
このやたらに面白い顔ぶれのお陰でうちのスメラミコトは、作者の身勝手でここに放り込まれました。
以前に書いた話では、大尉(だいじょう)の粟田朝臣道麻呂が出て来ていないんですね。
そういう訳で、次にこの話をもう少し長い範囲で書き直すとなると、この御仁が重要人物の一人になってきます。

粟田朝臣……以前はあまり気に掛けなかったのですが、大炊王こと淳仁天皇(淡路廃帝)の夫人の一人が、粟田朝臣諸姉という人です。
この女性、大炊王とは再婚です。
元は藤原仲麻呂の長子、真従(まより)の内室だった人です。
この夫が若くして亡くなったため、大炊王と再婚するのですが、まぁ、その辺の経緯については色々言われている訳です(~_~;)

この女性と道麻呂は果たして関係があるのでしょうか?
道麻呂という人は、外従五位下という官位が現すように、中央豪族の出身ではなさそうです。
粟田緒姉という女性の来歴は分かりません。
っちゅう事は……例えば道麻呂は諸姉の弟という設定も可能なのでしょうか??
果たして、この辺りがうまく運ぶものか、少し周囲の人たちを洗い直してみる事と致します。
それから中衛府や外衛府辺りの人事も、押さえておいた方が良いかもしれません。
これが割合に面倒なのよね……(@_@)
大マジな話、何かしていないと落ち着かないので、大炊天皇(淡路廃帝こと淳仁天皇)配流へのタイムスケジュール(?)なんぞを書き出し始めました。

まぁ、定説では帝と大師(藤原恵美押勝)の路線と、太上天皇(阿部女帝)と道鏡禅師のコンビの対立みたいな片付け方をしておりますが、私はもう少し妙な捉え方をしております。
平たく言えば三竦みの状況、いずれもいずれを警戒し、すきあらば食いつこうというやつですね。
かくして権力と御旗という自らを掲げた女帝が、政治の表舞台に奇妙な返り咲きを果たすのは周知の通り。

以前にこの辺の話を二百六十枚くらいで書いた事があるのですが、書き直すというよりも、こいつを踏まえてもう少し話を進めようかと考えています。
主人公?勿論、うちのスメラミコトよσ(^◇^;)
相変わらず授刀衛府に押し込まれてるから、周囲の猛者どもとの体力勝負ね。
大炊王との関係をもう少し具体的に踏まえて、廃帝の淡路配流とどのように関わってくるのかを考えなければ。

やっぱりねぇ、男がいて女がいて、それでも何やら……な話よりも、謀らずして何れの皇家か!という方がずっと気分が乗るから困ったものですわ。
つまるところ、一種の病気ですわね。
お陰で、全然、咳が納まりやしない……こういう病気は内科で大丈夫ですけどね(~_~;)
せっかくの休日なので、京都国立博物館か近つ飛鳥博物館に行こうかと考えていたのですが、どうも昨夜から喉が腫れているようで、喋るのも億劫で仕方がありません。
熱は出ていないのですが、ちょっとした事で咳き込むのも鬱陶しい次第。
取り敢えずは家で大人しくしているのですが、先日に病院でもらった風邪薬の残りを飲んでいたら、少しはマシになりました。
もう少ししたら、橿原考古学研究所付属博物館(一番近所の博物館です)のミュージアムショップに、友人に頼まれていた物があるかでも、覗きに行こうかな……そういえば、高松塚古墳の出土品(先般に遺物倉庫から出て来たとかいう)の展示も、今週いっぱいだったかな。

そういう訳で、相変わらず資料をひっくり返したり、昔書いたものを読み散らかしながら、何くれと考え事をしております。
延暦の初年頃、『陸奥三十八年戦争』に食指の動かないのが何とも如何し難い状況で、相変わらず動いてくれそうにないキャラクターは何人もいて、スメラミコトは不貞腐れまくってるし、天下のお調子者の種継も頭が回転してないみたいです。
そうなると五百枝王の面倒を見てくれるのは誰なの……やはり大納言宮(この頃はまだ、治部卿宮かな?)

それじゃ天平勝宝年間は……いっそうの事、主人公を手嶋王に替えて最初から書き直してみようかしら。
内舎人所じゃなくて紫微中台か……そうすると、内相の登場箇所が益々増えるのね(~_~;)
宮内卿宮の伯父上や、治部大輔の義兄はどういう扱いにしようかな……この人たち、山部王はまだしも、手嶋王の事は苦手に思っているみたいだしなぁ。
それよりも何よりも、壱志濃王、藤原雄田麻呂、坂上苅田麻呂辺りとの接点も弱くなってくるし、別のキャラクターを設定しなければ。
多分、地味だろうなぁ、南家豊成の息子どもとか、大伴宿禰何某とか……

う~~~んんんんん((+_+))、どれもこれも頭が働いてくれない!!!!!
やっぱり熱出てるのか?
いずれにしても、『宇佐八幡宮神託事件』や『長岡京遷都』に関しては、まだまだ整理が着いていないのだから、書こうという方が間違っているのかもしれませんわ。
モノによっては、書いているうちに整理が着くモノも少なくはないのですがね。
ともあれ、もう少し史料を広い目で眺めてみますか、何か見えるかもしれないし(-_-;)

書き直しを検討中の話を読んでいて、ふと思った事……この女性も、私の意識からいつも飛んでいる(・.・;)

* * * * * * * * * * *

「俺はふと思うのだが、(いまし)の惚れた女、あの百済王(くだらのこにきし)敬福の孫娘」額を押さえたまま、兄は言う。

「明信か……」久々に口にした名前に、自分が動揺しているのに気付く。

「あの娘との邪魔立てをしたのも、もしかしたら内相なのやもしれぬ」

「あれを室にしたのは右大臣の息子だぞ、それにもう、四年も前の事だ」

* * * * * * * * * * *

まあ、この辺りに詳しい方々の意識の内では、この百済王明信という女性が、山部王にとっては一番重要な相手に据えられているようです。
若い頃のうちのスメラミコトと来た日には、掻っ攫われた相手の事を時々ウジウジと思い出しつつも、平気で遊行女婦(うかれめ)の元なんぞに通ってくれます。
嗚呼、これじゃいかんと、作者は紫微内相と図って(?)、早々に嫁取りをさせたのですが、そのお陰か、この女性が意識から飛んでしまっているんですよね……

いや、その割には、中務卿宮と呼ばれるようになってからは、母親のいる東宮院に『中宮職』よろしい部署を勝手に作って(出来るのか、そんな越権行為が???)、自分が中宮大夫よろしく収まって、そこを隠れ蓑に愛人との逢引の場にしている云々……と、藤原百川(雄田麻呂改め)が言っておりました(-_-;)

もしかしてこれらの話って、一種のコメディなんだろうか(?_?)(・・?(?_?)(・・?(?_?)

おまえは誰か
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