- 2025.01.22 [PR]
- 2009.02.06 天平学生生活?
- 2009.02.03 人事と書いて「ひとごと」と読む
- 2009.02.02 諱なんぞ考えて
- 2009.02.01 既に頭痛とめまい(@_@)
- 2009.02.01 東北って寒いのよね、当たり前だけど
- 2009.01.31 論文なんぞ読みながら
- 2009.01.26 何か、まとまらない(-_-;)
- 2009.01.24 あぁ~、突っ走りそうな(*_*;
- 2009.01.15 ともあれ方向付けしなけりゃ
- 2009.01.14 またも変ですよ……(・.・;)
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
学令にこのようにあります。
大学という国家機関は式部省の下の大学寮が管轄する教育機関です。
まさに国立大学ですわ(~_~;)
以前の戯言にも書きましたが、うちのスメラミコトも例に漏れず、子供時代はここで学ばせております。
及び学に在りて九年までに貢挙(くご)に堪へずは、並に解き退けよ。
このようにも見えますので、多少成績が悪くても九年は学ぶ事ができたようです。
手嶋王(開成親王)は十七歳になると、とっとと紫微中台の舎人になるのですが、その異母弟はといえば、成績は決して悪くなかったのに二十歳まで大学にいたという事にしております。
果たして、こういう事が可能なのか、実は調べておりません(-_-;)
吉備真備が大学の振興策なんぞを提言したのなら、学ぶ人は今まで以上に増えたでしょうから、落第している訳でもないのに、いつまでも居座られるのは迷惑かもしれません。
現在みたいに学生が授業料を払う訳ではなく、むしろ防衛大学みたいに給料に相当する物も配布されたはずですから、四位の父親がいる親王家の孫なんざ、さっさと卒業させろという事になりそう(^_^;)
ところで私ゃやっぱり、この辺りの時代が書きたいのかもしれませんわ。
もう一度、件の六百枚の整理に取り掛かろうかな……ホント、優柔不断で路線が決まらない(--〆)
「大学寮の頃は、三日と空けずに愚痴を言いに来ておりましたからね。口を開けば、吉備朝臣と言い合いをしたの、罵り合いをしたの、掴み合いをしたのと」
「いい年をして掴み合いはせぬであろうが、武官上がりの頭と助では下の者が気の毒だったであろうな」
こいつは先日同様に開成親王と白壁天皇の会話で、餌にされているのは相変わらず山部親王です。
吉備朝臣と呼ばれているのは「吉備朝臣泉」、あの吉備真備の息子です。
山部親王が大学頭だった時に、泉が助だったかは不明なのですが、その後には頭に就任しています。
もしこの二人が、一緒に大学寮にいて頭と助だったら……絶対に仲悪い(--〆)
性格が合う訳ないわ、多分。
その証拠という訳でもないのですが、延暦三年の三月、伊予国司だった泉は、とにかく行いが悪いから何とかしてくれと同僚から訴えられ、中央からの喚問にも横柄な態度を取ったとかで、職を解かれています。
恐らく年齢的には、泉の方が山部親王よりも年上、大学寮時代も年下の頭をなめきっていたんじゃないかと思います。
そうなると迷惑するのは、その下の人たち……(-_-;)
頭はついこの間まで近衛少将(うめぞー的設定です、鵜呑みにしないで下さい)、片や助は元々は左衛士督、どうしてこんなのが二人で、誉れ高き(?)大学のトップ人事を占めているのか??
下の人たちは、式部省に訴えを出したんじゃないでしょうか?
まぁ単なる戯言ですが、どうもうちのスメラミコトに大学寮は、どこまで行っても似合わなくて(・_・)
とどのつまり、何を書こうかが一向に決まらないので、こういう与太でお茶を濁しているのでした。
この“諱”(いみな)とは毎度お馴染みの“山部親王”の事です。
どうして名前を書かないかは、この『巻三十二』が編纂された時の天皇が、この御仁(後の桓武天皇)に当たるため、その名前を記す事を避けたのだそうです。
同じ例が白壁王(光仁天皇)や安殿親王(平城天皇)にも見られます。
さてと、この皇族方々の名前(諱)は、大概が乳母(めのと)の氏によるものだそうです。
山部親王の場合は“山部宿禰”になるのですが、この人たちを対象に、延暦四年五月三日の詔によって、白髪部(白壁)を真髪部に、山部を山に改めろと命じます。
「また、臣子の礼は必ず君の諱を避く。比者、先帝の御名と朕が諱とを公私に触れ犯せり。猶聞くに忍びず。今より以後、並に改め避くべし」
延暦二年二月五日、故藤原百川に右大臣の位を贈るという詔と共に、叙位が行われています。
ここで“山宿禰子虫”という女性が無位から従五位下に叙せられています。
この名前は二年後の詔を受けて記されているのでしょうが、本来ならば“山部宿禰子虫”だったはずです。
いずれにせよこの名前が史書に現れるのは、この一度のみですので、この女性が何者なのか分かりません。
桓武天皇即位の翌々年のこと、その関係者の叙位が行われているとして、この女性こそが山部親王の乳母だろうと推測したのは……え~~~と、誰だっけ?角田文衛氏だっけ??青木和夫氏だっけ???(ーー;)
そういう訳で、先日(1月25日)の能登川の戯言もこの一環ですし、他の皇族にもこれは当てはまる訳です。
光仁天皇の甥に当たる人に“鴨王(かものみこ)”と“神王(みわのみこ)”がいます。
神王は榎井親王の子ですが、鴨王は誰の子供かは不明、私はこの二人、年子か、もしかしたら双子の兄弟だろうと思っています。
最初の叙位は同じ時だし、妙にセットになる名前なんですよね。
そしてそれぞれの乳母は、鴨氏(賀茂氏)と神氏(三輪氏)になるのでしょう。
こういう調べ物は結構、お気楽なんですけど、さて、一体これから何の話を書こうか……また頭痛が(-_-;)
南家が、乙叡(たかとし)、雄友、貞嗣……
北家が、葛野麻呂、道継、道雄、内麻呂、園人……
式家が、仲成、緒嗣、縄主、縄継……
京家が、継彦……
何で頭が痛いかって、どいつもこいつも具体的なイメージが全く湧かないのですよ。
プロフィールを全く知らない訳でもないんですが、やはり既に慣れ親しんだ『続日本紀』の時代ではないからでしょうかねぇ(・.・;)
ついでに言えば、即位してしまったスメラミコトにあまり面白みを感じていないのも大きいかもしれません。
だから既に主人公が交代しているんですよね。
となると、誰か感情移入のしやすい御仁を探さなければなりませんが……こいつに目眩がしております。
藤原氏以外は誰がいるかしら、大伴氏は既に落陽ですねぇ。
阿部氏、石川氏、巨瀬氏、多治比氏、紀氏、石上氏、文室氏、佐伯氏……
やっぱり、この面子も父親の世代までかなぁ、今のところ面白みを感じているのは。
まぁ、三度四度の路線変更なんて、私にゃ珍しい事でも何でもないから、もう少し暗中模索だわ(-。-)y-゜゜゜
書きたいという欲求はあるものの、具体的に何を書きたいかが定まらないのですから。
そうなると、このような愚にもつかない駄文を書き散らす事になりまして……(ーー;)
書き直そうと考えている一つが、2007年の六月くらいに書いていた短編。
こんな大仰な話を百枚で納めるなんて、表面を撫でる以外に何が出来るかって言いたいですわね。
こいつが形を変えると、粟生江内親王と五百枝王の話になるのですが、元来の話も元々は五百枝王を主人公に据えるつもりだったんですよね。
しかし、大伴家持を始めとする年寄り連中の設定を考えている暇がなくて、そちらとは接点のない内親王を主役にしてしまったんですわね……お陰でかなりの人物を切って捨てる事も可能だったのですが。
それにしてもこいつを書きなおすとなると、調べる事が平安初期にまで拡大するはずです。
切っても切り離せなくなるのが『陸奥三十八年戦役』……こうなると頭痛なんてもんじゃないわ、知恵熱でたらどうしてくれるんだって感じ(--〆)
このクソ寒いのに、陸奥だ出羽だって、考えるだけで風邪がぶり返しそうだわ。
昔々、後期摂関期を書いてた時にも、『陸奥十二年戦争』でえらい難儀したけど、この時にはまだキーパーソンになる陸奥側の人物がいたから、調べていても面白かったが……今度は誰だ??
間違ってもアテルイなんぞ書きたくないぞ!!
いや、私にゃ坂上田村麻呂もアテルイも脇役のまた脇役なのよ。
だって物語のコンセプトは『皇家の陰謀』!!
取り敢えずのキーパーソンは五百枝王か。
この若い皇族武官をどう料理するかね……この御仁は叔父とは違って、煮ても焼いても何かにはなると思うけど(-_-;)
あっ、忘れてた、早良親王っていう厄介な御仁もいるんだったわ(+o+)
その一つが、随分前からタイトルは聞いていた『志貴皇子系譜の疑問―市原王は志貴皇子の曾孫ではない―』という、塩谷香織氏の論文です。
これが書かれたのは随分以前の事、1980年3月だそうです。
この塩谷氏のプロフィールが分からず、検索をかけてみても同姓同名の獣医師や日本茶コーディネーターの方ばかりが出て来す。
この塩谷氏らしき方が共著の形で出版している論文集を見ても、1980年代の物ばかりなので、この論文を書かれた当時に学習院大学の学生か院生か講師かも分からない状況です。
それはさて置き、拝読して分かった事と言えば、こうした研究者の方々のやっている事も、私のやっている作業と殆ど代わらないと言う事です。
何を失礼極まる事をほざくかと思われましょうが、大まかに言いますと↓の戯言に同様の作業を史料をひっくり返してやっておられます。
http://umezo.bakeinu.jp/entry/16392/
勿論、私のように最初から大風呂敷だの与太だの大枚妄想だのとは言っておられず、きわめて真摯な姿勢で取り組んでおられ、多方面からの論証を加えておられる訳なのですが。
そして塩谷氏の結論は、私の疑問点の2番と言う結論になる訳です。
それ故に、『新撰姓氏録』の“春原朝臣は河嶋皇子の後なり”を支持する事となり、市原王の祖父(つまり安貴王の父親)である春日王は、文武三年六月に浄大肆で亡くなった御方で、川嶋皇子の子供となります。
この説に反論する気は殆どないのですが、今まで書いて来た話の内容からすると、今更、路線変更する気も全然ありません。
何せ私は、見てきたような嘘八百で大風呂敷を広げまくる、与太な物書きですからσ(^◇^;)
それにしても市原王という人は、私の書く話にもかなりの頻度で登場します。
うちのスメラミコトの同母姉の背の君と言うわけで、二人に文人連中を加えて、いつも四条二坊の第で話し込んでおります。
何ちゅうか、皇太子様と故高円宮様みたいな関係でしょうかね(~_~)
私としては、この御仁に対する思い込みは、結構深い方だと思っております。
http://umezo.bakeinu.jp/entry/29382/
う~ん、やっぱり志貴親王の話はお預けになるのか、この様子では(ーー;)
そうそう、上記の春日王について↓こういう戯言も書いたっけ^_^;
http://umezo.bakeinu.jp/entry/12117/
SecondPageになった方のブログって検索が利かないから、思い出したつど、こっちにリンクでも張っておかないと、探すのに苦労しますわ(・.・;)
「情を移されますな」その横顔に私は乾いた声をかける。
「情を移すと」目だけがこちらを向く。
「御身様は御家族に恵まれておられる。それ故に情に脆いところが御在りです」
「分かっておる」一度瞬き、再び青鷺を見る。
「まともな者にとって、非情になるとは難しい事です。誰にでも慈愛や憐憫の心はありましょう、それが人の人たる所以ですから」
「開成のお仕着せのような事を」
「故に流されますな」
「分かっておる」言い聞かせるように呟き、小さく笑った。
――――――――――――――――――――
何を書き出そうにもまとまらないので、相変わらず以前書いたものを読み散らかしています。
こいつは藤原百川(雄田麻呂改め)と山部親王の会話。
この二人も書いていて、結構楽しい方かもしれません。
雄田麻呂は割り合いに生真面目で根暗の方だから、この二人を書いていると、どうしても山部王の方が軽くなるみたい(^_^;)
百川(雄田麻呂)、達観したような事を言っていますが、これと同様の事を異母兄から言われた事もあります。
どうもうちの連中は、変に情に脆いんですよね。
だからいつも言い訳しながら、後ろめたい事ばかりしてるのかもしれませんわ。
いや、志貴親王の若い頃を書くんじゃなかったのか?
どうも考え始めると、いつの間にか孫に摩り替わっていて……どうしてこの壮士は、こうも出しゃばりなんでしょうねぇ、作者に似てか?
真鳥の方で考え始めると、どういう訳か、この前書いていた話の主人公の事になっているし……この二人は、あまり近い血縁関係はないはずだわ、同じ余姓だけど。
それで『100のお題』の長屋王は?
嗚呼、そんな御仁もいたっけなぁ……(ーー;)
今年は土日、全然家にいないなぁ(・_・)
それでもやはり寒かったので、近鉄奈良駅にある『奈良なら館』で眺めておりました。
暖かいし特等席ですわね。
それはさて置き、出かけるまでの間、次に書く話を具体的に考えるために、この前書いた話を読み返しておりました。
10月末に締め切りだった方ですが、こいつと大昔に書いた志貴皇子の一人称語りの話を比べてみますと、主人公と中大兄皇子の関係は、志貴皇子と草壁皇子の関係に少し似ているような、全く似ていないような。
もし今回、百済王真鳥の語りで、この二人を眺めるとなると、何となく妙な予感がしないでも……
帰りの電車の中で半分居眠りをしながら考えていたのですが、真鳥は百済の変も周留城陥落の事も覚えている年齢で、その義父は双方を知っている人なんですよね。
二十数年の後、忘れたはずの故国を嫌でも思い出させる事件が身近で起きるとなると……どこまでこいつを掘り下げようか。
彼らの脳裏には、新羅と唐の双方より支配されようとする故国と、それらの国がそのために掲げようとした二人の旧王族の記憶が、当然ながら呼び起こされるはずです。
う~~~ん……こいつこそ、どう書けばよいのだろうと悩んでいる話なんですわ。
真鳥は二人をどう思っているんだろう、特に新羅に掲げられた方の人物を……
『三国史記』が百済再興戦争の後の百済での事を殆ど書いていない事、『日本書紀』もこの後長く、百済や新羅との関わりを断ってしまった様に書かれている事が、こういう大それた妄想を差し挟む余地をくれるんですよね。
いずれにしても、そろそろ書き始めてみなければ落ち着きませんわ(-_-)
それが早良親王という人。
この人の前半生のプロフィールが巧くまとまらないのですね。
十一歳での出家の意味づけが未だに出来ないし、東大寺や大安寺で何をしていたのかもちゃんと調べていないのもあります。
逆に、どうして還俗したのかは割合に納得しやすくて、その後に皇太子の同母兄と組んで、そのような政策(恐らくこの頃には、父帝は病がちだったと思われます)を推進していったのかも推測は出来ます。
しかし、兄が即位した後にどういう過程で仲違いするのか、この辺の整理も巧くつかないです。
う~~~ん、これってもしかして、キャラクターへの思い入れの度合いがイマイチだからなのかなぁ?
もう一人巧く扱えないのが、大伴家持。
この人に関しては、早良親王以上に思い入れが少ないかもσ(^◇^;)
ただねぇ、この御仁らが動いてくれないと、五百枝王も動かないのよね。
父親の市原王との関わりで、この御仁が父親を早く無くした五百枝王にとって、割合に重要な人物になり得るはずなんですが、この役割をする人が別に出て来る可能性があるくらい……いや、実際、以前に書いていた話には出て来るんですよね(-_-;)
やっぱり、百済王真鳥と志貴親王の話を書こうかな。
今日の仕事中、こちらの路線で考えていたんですが、この前書いた話のお陰で変な方向にエキサイトしそうな予感が既に……(*_*;
突っ走ると、一体何の話か分からなくなりそうな?
まぁ、とりあえずこちらで書き始めてみようかしら。
最初の方に市原王のプロフィールらしき事が出て来るのですが、こいつについて、作者はまた忘れています……
皇后宮職を経て玄蕃寮に入り?
って事は写経所総監をしていたのは、皇后宮の写経所でって事??
え~とこいつが天平11年か……という事は『五月一日経』に関わっていたという事にしてあるのか???
へぇ~~、そうだったんだって、自分で設定しているくせに(ーー;)
それで、この話の時点では何をしているんでしたっけ……それくらい書いてあるだろうσ(^◇^;)
それにしても、義兄を始めとした文人仲間(ではない人も若干いるけど)を眺めている、若干二十一歳の主人公、随分と偉そうだわね。