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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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ホソミイトトンボ…明日香村にてはっきり申しまして、座礁中です(T_T)
時代全体が異様な割には、決定打がないと申しますか、かつて書いた話への影響が大きすぎて、逆に重大事が扱えないと言うか、誰も動き出そうとしてくれません。

今少しだけ考え始めた事は、以前にもどこかに書いたと思うのですが、天平宝字年間から宝亀年間にかけて姿を見せる二人の陰陽頭の事です。

一人は、大津宿禰大浦という人物です。
この御仁は天平宝字八年九月、恵美押勝(正しくは恵美仲麻呂)の乱の時に始めて名前が見えます。
この時は大津連で、密告の功によって宿禰の姓と従四位上(正七位上から)という破格の位をもらいます。
そして左兵衛佐(さひょうえのすけ)やら美作守に任命されるのですが、翌天平神護元年八月の和気王(わけのみこ)の謀反未遂事件に連座して、位も宿禰の姓も剥奪されて日向に左遷されます。

この人に代わって現れるのが、紀朝臣益麻呂という人物。
この御仁は大津大浦以上にいわく付きで、元の名前は益人といいました。
紀寺の奴婢だったのですが、父祖は良民だったので地位を戻して欲しいと訴え、庚午年籍までをひっくり返して調べた揚句、限りなくグレーのまま、孝謙太上天皇の一言で良民に戻されたという経歴を持っています。
この時に良民となった奴婢は七十六人にも上り、その内の十二人には紀朝臣の氏姓までが与えられるので、本来の紀朝臣の人々からすれば、文句の一つもつけたくなります。

大津大浦が失脚した二年後の八月、名前を益麻呂に改めたこの御仁は、陰陽員外助から陰陽頭に就任し、称徳女帝が亡くなる寸前には従四位下にまで上るのですが、その翌年の宝亀二年七月にその地位を終われるようです。
ここで新たな陰陽頭に就任するのが大津連大浦で、どうやら光仁天皇の即位に伴う恩赦で都に戻り、元の位に復されたようですが、宿禰の姓はもらえずに連姓で記されています。

この後の紀益麻呂の消息はというと、宝亀四年七月
従四位下紀益人を免(ゆる)して庶人とし、姓を田後部と賜ふ。また、去ぬる宝字八年に放免せし紀寺の賤七十五人は、旧に依りて寺の奴婢とす。但し益人一身は特に良人に従はしむ
と詔に見えています。
庶人となるのだから、当然ながら官位は没収、都の外に放逐されている可能性もあるでしょう。

そして大津大浦はといえば、宝亀六年五月に没します。
(にわか)に安芸守を兼ねて、官に卒しぬ
俄が卒にかかるのなら、現職のままで突然死という事になりますが、何でわざわざ、このような表現を取っているのか……
ちなみに大浦の没した約半月前、井上内親王他戸親王が伴に亡くなっています。

いずれにしてもこの二人、新たな政権下では邪魔だったのかもしれません。
 
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朱雀門前の一等地この調査の現地説明会が行われたのは、実に十日前……9月15日の土曜日の事ですσ(^◇^;)
『平城京左京三条一坊一坪』は、二条大路沿いの朱雀門からわずか数十メートル、正真正銘、間違いなく一等地です。

何でもここには、『平城宮跡展示館(仮称)』という施設の建設を国土交通省が予定しているのだそうで、奈良文化財研究所が2010年から継続的に調査を行っています。
その結果、やや変わった構造の大型井戸や、かなり広い範囲い広がると思われる鍛冶工房、巨大倉庫かと思われる総柱の建物跡、そして予定通りに一坪の内を南北に区切る坪内道路も見つかりました。

今回も23基の鍛冶炉が検出されました。今回の調査では、先に検出された鍛冶工房の範囲を確認するために一坪内の北端に、二坪との間を通る『三条条間北小路』の検出をするために南端に調査区を設けました。

この画像が北側の調査区です。
先の調査で見つかった炉群の北西側に、新たな炉が23基見つかったそうで、それを覆う建物にもなりそうな柱列や、排水のためのも検出されています。
炉の北側の柱列(東西方向)は、二条大路の南側溝から2メートル程度しか離れていないので、建物になる可能性は大きそうです。
ところで、炉は直接に火を焚くので焼けて変色した土で埋まっているのですが、その傍らにはフイゴを置くための穴と、金床(石の場合が多いようです)を置く穴もあって、そのセット関係を考えて検出をする必要があるそうです。
しかし、図面で見ても、かなり分かりにくいです……何れの炉も小規模なため、釘や金具のような小物の製造を行い、時期的には宮の造成段階に稼動していたと考えられそうです。

三条条間北小路の45メートル分、見事に出ました。

こちらは南の調査区です。
一目瞭然、南北に側溝を持った東西方向の道が出て来ました。
路の幅は大体5メートル、側溝は1.5メートル幅で30センチ程度の深さが残っていました。
この画像の手前の方で、北側溝内に畦ではない四角い堀残しがあって、そこに柱穴が検出されています。
これは後の時代の建物跡の柱です。
この事からも分かるように、この溝は後に埋められて、一坪と二坪にまたがる、別のプランでの利用がなされた可能性も出てきます。

本来ならば南側溝に沿って、二坪を囲む築地塀が検出されても良いのですが、ここでは全く基壇の痕跡は確認されず、わずかに建設時の足場になる可能性の小穴列が見つかった程度でしたので、取り壊されたとも考えられます。
しかし南側溝の西端の埋土の上に瓦溜りがあったので、それが築地に関する物の可能性も否定できないとの事です。

築地に関して分かった事は、この一坪には築地がめぐらされておらず、恐らくは右京側にも広がる、朱雀門前のオープンスペースとして、後々まで活用されたようです。
例えば朱雀門まで天皇が出御して儀式を行ったり、行幸などに際してのセレモニーも行われたのかなぁ~……などと考えておりました( ̄▽ ̄)。o0○
この日は台風の影響か風が強く、朱雀門の軒に下げられた風鐸が、騒がしいほどに鳴り続けていました。

……多分、次の土曜日、橿考研の現説だと思うので、さっさと上げておかにゃと、ようやく重い腰を上げての報告の次第でしたε-( ̄ヘ ̄)┌
奈良ひとまち大学』という催しに参加し始めて一年半というところで、内容を報告させて頂くのも久々です。
参加したい授業は数々あれど、予定が合わなかったり、人気があって抽選に漏れてしまったりと、多少残念な事はあっても、次はどんな企画の授業が開かれるのかと、メールを待つのも楽しいものです。

奈良町の南端、静かなたたずまいの御寺です。今回の授業は『静かな古寺の美しすぎる仏像』というタイトルで、奈良市西紀寺町の璉珹寺(れんじょうじ)で行われました。
私はこちらの御寺に伺わせてもらうのは四回目ですが、参加者の方の殆どが始めてという、やや秘寺(?)というべき場所のようです。
しかし仏像が好きな方ならば、女人成仏を願って造られた女性の裸形の阿弥陀様の事は、聞いた事があるかもしれません。
そのとても御美しい仏様を本尊とするのが、この璉珹寺で、四季折々に花の咲く小さな古刹です。
しかしこちらの御本尊、何年か前までは50年に一度、身に着けられている袴の御召し替えの時しか開帳しないという、秘仏中の秘仏だったそうです。
最近になってようやく毎年五月に御開帳となりましたので、お目にかかった事のない方は是非とも足をお運び下さい、『崇道天皇社』の少し南ですから(^_^)v

こぶりながら端正なお堂です……右端のハンガーは気にせずにσ(^◇^;)今日は御住職の特別の御計らいで、超美形の阿弥陀様(そう言われなければ観音様かと思ってしまうような立像です)を拝観させて頂き、御寺の歴史を文化財保存委員の先生に解説頂き、更には最近の御寺での多彩で粋な催しなどについても御住職から伺いました。

現在の寺の名は『璉珹寺』ですが、かつては紀氏の氏寺である『紀寺』が前身であるようです。
そのため、この一帯も紀寺町と呼ばれています。
これらの歴史について私に語らせると、かなりくどくなるので、こいつは割愛……後世の伝承やら人物やらが錯綜して、かなり奇妙な様相を見せているようですから(・.・;)

ともあれお話を伺った後、人が集まり交流する場として、こちらをどのように運営して欲しいかと、短いながらディスカッションも行われました。
庫裏に喫茶コーナーにもなっているオープンスペースがあるので、5のつく日には素敵な会をとか、夏の夜には蚊帳を吊ってささやかなパーティーをなんて案も飛び出して、最後に盛り上がりました(*^。^*)

実はこちらの御住職、女性でして、とても気さくで楽しい方です。
これまでも協力してくださる方々と手造りで、地蔵盆やお月見の会、ファッションショーなども企画されて来たそうです。
そしてこれからも、御住職の人柄にひかれて、いろいろなアイデアを持った人たちが集う場所として続いて行くのではないかと思えます。
普段は静かな古寺が、時には異色の賑わいを見せるのも、なかなか現代的で良いかもしれません。

本当にこのお寺は観光ずれしていなくて良いですよ。
五月の御本尊開帳の時には、オオヤマレンゲやマツリカの花も咲きますので、そちらもお勧めです。
 
待ち時間にカフェを『言霊(ことだま)と音霊(おとだま)の夜会』-第三章-
というタイトルが示すように、この催し自体は今年で三回目なのだそうです。
実を言えば昨年までやっている事を全く知りませんで、奈良博でチラシを頂き、会場が“仏教美術資料研究センター”だと知って、内容もさる事ながら、そこに入る事が出来るという、少々不謹慎な理由も手伝って申し込みを致しました。

何せこのセンター、重要文化財に指定されてからは滅多に入る機会もなく、平日の限られた日にしか公開されていないようです。
場所は春日大社の御旅所の隣というか、国立博物館の裏手というか、この辺りに何度か来た事のある方は、絶対に見覚えのあるレトロなシンメトリーの木造モルタル造りの奇麗な建造物です。

秋のお彼岸ですから『おはぎ』さて、今回の催しは『夜会』ですので始まるのは18時半からですが、整理券をかねたチケットの購入は16時からという事でしたので、少し早めに現地に行く事にしました。

着いたのは15時過ぎくらい、会場の前で『はいからカフェ』と銘打って、レトロな女学生姿の若い女性が案内をされていましたので、チョイト休憩、お彼岸なのでおはぎとコーヒー(ストレートならば和菓子にも良く合います)をいただく事と致しました。

『仏教美術資料研究センター』ライトアップ中十分前になり、受付にも何人かの人が並び始めたのでそちらに行くと、偶然にも大阪の友人も来ておられたので、チケット購入の後、博物館の地下無料ゾーンで開演時間までゆっくりしようと思いきや……この日は通常通りの17時閉館、その後は鹿に“しかせんべい”をあげたり、野外のベンチで風に当たったりしながら開場を待つ事になりました。

ところで、『言霊』と『音霊』、どのような催しなのかと申しますと、元NHKのアナウンサーの宮田修氏の語りと進行で、口笛奏者の柴田晶子さんとオルゴール演奏家の宮元由利子さんが、唱歌などを始めとしたお馴染みの曲を演奏して下さるという内容です。

このような会場で行われました。ロケーションも最高ですし、語りも演奏もその道の第一人者だけあります。
口笛が下手な私には、あのように自在に音を操って、音楽として聞き惚れさせてしまうほどの技量に、ひたすら感服いたしました。
手回しオルゴールとのコラボレーションもとても自然で、また機会があれば聴いてみたいものです。
あまり内容を頓着せずに、予備知識もさほどないままに参加したのも、逆に良かったのかもしれません。

ちなみに演奏中の写真撮影などは、当然ながら禁止、始まる前の会場内の画像でもm(__)m
参考までに、奈良県内にはこのセンターを始めとして、奈良国立博物館の仏像館、奈良女子大の記念講堂や、橿原市の華甍など、明治の和洋折衷の渋くて秀麗な建築物が残っていて公開されています。
気分を変えて、このような建物に立ち寄るのも一興かと(^_^)v
角も切られてダレた牡鹿この何日か、奈良時代後期の佐伯氏紀氏大伴氏らの主な人のプロフィールをさらっております。
このような氏族の面子が並びますと、宝亀十一年を待たずとも、イザ多賀城……思考が勝手に東北経営の方向に泳ぎだして困りますσ(^◇^;)
この前は大伴駿河麻呂大伴益立、今日も紀広純やら紀古佐美なんて眺めてたから最悪です……

それにしても私は、この辺りから延暦朝にかけての胆沢城建設までの動きにしても、平安後期に入る前九年の役後三年の役にしても、陸奥や出羽の側から情勢を見る感覚が少々欠如しているようで、殊に前者の時代においては皆無に近いかも……

その原因の幾ばくかは、とても申し訳ないけれど、その類を扱った小説がイマイチ面白くなかった事に起因しているのではないかと思えています。
某直木賞作家の方が書かれた“伊治呰麻呂の乱”を扱った小説を以前に職場の方から借りて読んだのですが……(T△T)
タイプの違う策士が三人(この人たちも俘囚)、それぞれが件の俘囚の長を見ているのですが、どの人の視線から見ても肝心の呰麻呂が全く魅力的に思えない……(/_;)
これじゃ、この後にアテルイだの坂上田村麻呂だの出て来ても、陸奥の人たちに感情移入が出来そうにない……・゚・(ノД`;)・゚・

少しばかり前にNHKが、その辺の小説(先の作品とは別の作家の作品ですが)の映像化を発表した云々と聞きましたが、どうも見る前から、全然期待感が沸きませんわ。
わらび座の舞台の方ならば、チョッと見てみたいという願望はあったのですけれどね。
多分、NHKのドラマと同じ原作です。

とか何とかボヤキながらも、私自身はこの辺りを官軍の側から見た話を書きたいという願望はありませんで、多分書くとしたら、都の首脳陣の全く別の思惑を絡めて書くのではないかと、今から嫌~な予感がしております。
誰が何を企むんだろうなぁ……藤原氏でも良いけれど、皇族や紀氏にもチョッとした大物がいるし(゜_゜)
まあ、今考えるべき事じゃないですけれどε-( ̄ヘ ̄)┌


そういう訳で、次のプランは和気王の変よりも後、女帝崩御よりも前くらいの間で納めたいのですが、何か面白いネタが見つからないなぁ( ̄Д)=3
何となく次の狂言回しは、藤原種継で行こうかと思っているんですけどねぇ( ̄▽ ̄)。o0○
鴉の目白押しって程でもないけれど……ここ何日か、天平宝字~宝亀年間の大伴氏佐伯氏の、主だった人のプロフィールを『続日本紀』で拾っておりました。
この二氏に限った事ではないのですが、天平宝字元年(正確には天平勝宝九歳・橘奈良麻呂の変)と八年の乱(恵美押勝の乱)で、一族内でもかなり明暗が分かれるようです。

大伴氏で橘奈良麻呂に連座した人は約五名、比較的プロフィールの分かる人で可能性がありそうな人も若干名おります。
前者は、古慈斐、古麻呂、駿河麻呂、兄人、池主
後者は、不破麻呂、伯麻呂といったところでしょうか。

この内で宝亀年間まで生き延びて復位を果たし、公卿にまで這い上がったツワモノもいたりします。
それが古慈斐、駿河麻呂、伯麻呂の三人です。
不破麻呂も長生きはしたようですが、卒去の記事が見えないし、極官が大蔵大輔の正五位上止まりだったようです。

伯麻呂が出世した決定打は、造西大寺次官に任命された事でしょう。
この人は家持と同世代(孝謙・称徳天皇とも同じ年かも)ですが、昇進の仕方を並べてみるとかなり面白いです。
家持という人は女帝にはかなり嫌われていて、光仁天皇にもあまり相手にされず、奇妙な事に桓武天皇からは(最初は)好かれている様子が、経歴から何となく分かります。
一方の伯麻呂は、女帝からも光仁天皇からも好意を持たれていたようで、延暦元年に亡くなった時には従三位にまで上っておりました。

もう一人の三位――といっても、亡くなった後の贈位です――の駿河麻呂はかなり大した御仁です。
恐らくは六十を過ぎてから、「陸奥を任せられるのは汝しかおらぬ!」といわんばかりにおだて上げられ(?)、按察使陸奥守、揚句に鎮守将軍にまで任命されて、しっかり武功を立てて帰って来ました。
古慈斐の息子の弟麻呂も、同じような経歴ですね……
それに比べると益立はバリバリの鎮守府派、若い頃はずっと、陸奥にいたのではないかと思われます。

こう見てみると、この家の人たちは、中央にいるよりも外に行って出世する人が多いのかもしれません。
古麻呂遣唐副使に選ばれていなかったら、もっと平凡な経歴だったでしょうし……しかし、この人、家持と並ぶ二大トラブルメーカーだな(ーー;)
こういうタイプが上司や同僚だったら、周囲は滅茶苦茶、迷惑するだろうなぁ……(--〆)
背景の絵もリアルです。では昨日の続きで画像を御覧下さい。

猪の肉も手造り(^_^)v
アメノウズメノミコトの登場
御存知、『天の岩戸』のシーンです。
そして、アマテラスオオミカミが再び世を照らします。
今年はいつもより一週間早いし、脚本が上がったのもやや遅めだったという事でしたが、イザ本番となれば、見事な仕上がりでした。

本当に御疲れ様でした。
 
今年はダブルヒロインです。
今年も明日香村の秋の観光シーズンが始まっています。
9月15~16日は『飛鳥 光の回廊』、そこでのメインイベント(?)が劇団『時空』の本公演です。
いつもならば、約一週間後の『彼岸花まつり』の時に行うのですが、今年はチョッと変則?


いつになくシンプルなセットが、逆に良い雰囲気です。『古事記編纂~失われた記憶~』
主人公は稗田阿礼です。
天武天皇に仕えていた二十八歳の大舎人と『序文』に書かれている通り、この物語では男性になっています。
ベテラン陣はコメディー役で活躍(v^ー°)ともあれ、今日も下手くそな写真でも御覧になって下さい。
こちらのHPに行けば、もっと奇麗で臨場感ある画像がたくさんありますので、是非とも御覧下さい。
ブログには練習風景も(^_^)v
これが昨日の画像の本番シーン、ロングででは、明日にもまた、画像の続きでも……
しつこい?(゚_。)?(。_゚)?
これは劇団『時空』本公演のリハーサル風景……(^。^)本日の画像、十六日に石舞台公園の風舞台で行われる、劇団『時空』の本公演のリハーサルシーンです。
衣装を着けての画像は、本番のお楽しみm(__)m

そして本日の戯言は、この画像とは全く関係ありません。




性懲りもなく、西大寺の続き……

この大寺には例に漏れず、東西の二塔があり、それぞれの基壇が残されています。
『続日本紀』に最初に記事が出て来るのは東塔の方で、礎石の事が記されています。

神護景雲四年(770年・十月に宝亀元年に改元)二月二十三日 西大寺の東塔の心礎を破却す

知らなければ通り過ぎてしまうような『石落神社』何でもこの石、東大寺の東の飯盛山より運んだ石で、最初、数千人の人で引いたものの一日に数歩程度の距離しか動かず、時にはうなり声まで上げてくれるという迷惑な存在です。
とにかく人手を増やして九日がかりで引いて来て、加工して基壇に据えたものの、巫女や覡が石が祟っていると言い出す始末……(--〆)
そこで芝を積み焼いて、酒を三十斗以上もかけて砕いて道のバラスにしたところ、これが高野女帝に祟って不予となったというから、どこまでも厄介な石です。
仕方無しに、これを拾い集めて人や馬が踏まないように、境内の清浄なところに集めたと結んでいます。
この場所、確か、現在の門前にある『石落神社』だったと思います。

『東塔跡』:芝生の部分が八角形の基壇こんな事やってるから、東塔の建立は大幅に遅れたようで、ともする内に高野女帝は崩御します。
財政難の折、太政官としては、女帝の希望した『八角形七重塔』(技術的にもかなり困難?)のプランを、通常の『四角形の五重塔』に変更する事に致しました。
これは発掘によって確認されているそうで、現在復元されている東西塔の基壇の下に、八角形の基壇が見つかっているようです。

この八角形七重塔というプランは『日本霊異記』下巻に見えていまして、左大臣の藤原永手がプラン変更を行ったために地獄に落とされていると息子に訴えて、供養を頼んだ云々……という事になったのだとか。
永手の息子で仏門に入ったのって、誰なんだn(ー_ー?)?

西塔の記事としては、宝亀三年四月二十八日、“西大寺の西塔に震(かみとき)す”と見えます。
落雷で焼けたのでしょうか、この事を占いますと、近江国滋賀郡の小野社の木を切って塔を造ったための祟りだと出たので、社に封として二戸を追加したとあります。
この西塔、宝亀七年七月十九日にも落雷がありました。

何で、どちらの塔も、わざわざ正史の『続日本紀』に祟りましたなんて、書かれているのやら……
巫覡が祟りと言い出し、更に卜(うらな)うと表現されているのですから、神祇官が卜をたてているのでしょう。
何となく、神仏ではない存在の意図を考えてしまうのですが……σ(^◇^;)
造西大寺司には、大迷惑な話ですねぇ……(ーー;)
 
これは東大寺で会った僧兵スタイルの人たち昨日より東大寺ではなく、西大寺関係の記述を『続日本紀』から拾い出しておりました。
これが思いの他、少ないです……(゜゜)

何せ、この寺がいつ建立されたか、このような事からして書かれていません。
注釈に『西大寺資材流記帳』の内容が紹介されていて、それによれば天平宝字八(764)年九月十一日、恵美仲麻呂(正確には恵美押勝ではありません)の謀反が明らかになった時、孝謙太上天皇が乱の平定のために七尺の金銅四天王像を造り、寺の建立を誓願した事より始まるそうです。
う~ん、聖徳太子ですね、まるで( ̄∇ ̄;)

そして翌、天平神護元年には、四天王が完成して伽藍建設が始まりますが、吉備由利四王堂に奉納したという、一切経の奥付の日付は同二年の十月八日になっているので、像の完成をこの頃と見る研究者もいるようです。
いずれにせよ、この頃には四天王を安置する堂が完成していたようで、十二月十二日に女帝の行幸が見えています。
この四天王像、現在も江戸時代再建の四王堂におられます……と言いたいところですが、

まがつみは いまのうつつに ありこせど ふみしほとけの ゆくへしらずも

會津八一が詠んだとおり、邪鬼だけが奈良時代の物で、踏みつける四天王は何れも平安時代以降に作り直された像だと考えられています。

造西大寺司の人事が見えるのは、神護景雲元年二月、長官には佐伯今毛人、次官には大伴伯麻呂が任命されています。
この後の記述も大部分が司の人事の事で、具体的な建設の様子はほぼ分かりません。

しかし、伽藍配置は宝亀十一(780)年に記された『資材流記帳』に基づいて元禄時代に描かれた図などもあり、おおよその所は想定できるようです。
『続日本紀』にも『法院』・『嶋院』・『兜率天堂』・『東塔』・『西塔』などが見えています。
『法院』では曲水の宴を行っているので池が有り、『嶋院』と同じと考える事も出来ますし、対になった院とも考えられそうです。
『兜率天堂』は別名『弥勒堂』、三十数体にも及ぶ仏像が安置されていたそうです。

これらの堂の内でもっとも有名なエピソードを持つのは東西の塔ですが、これについてはまた、記事を改めまして……σ(^◇^;)
いずれにしてもこの巨大伽藍、女帝の存命中には完成せず、宝亀年間をほぼ費やして形を成していったようです。
僧寺の西大寺の対として尼寺の西隆寺(現在のサンワシティビルや奈良ファミリー一帯にありました)も、同時並行で建立されたのですが、こちらの記事は更に少ないです。

ところで、造西大寺次官に任命された大伴宿禰伯麻呂という御仁、チョッと面白そうな予感(~_~)
確か氏長の家持と同年代なのに、出世のスピードはこちらの方が速いという、大伴氏内でも変り種かもしれませんし、単に機を見るに敏な人なのかもしれません。
では次は、この御仁のプロフィールでも拾ってみますか……で、今回の主人公は誰よ、藤原雄田麻呂?蔵下麻呂?種継?( ・◇・)?(・◇・ )?
 
何とな~~く、BGMに御神楽の朗詠を聞いております……『阿知女作法』は癖になるかも( ̄Ω ̄)
 
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うめぞー
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