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とりあえず飛鳥に都にあった時代の大寺はと考えますと、
百済大寺から高市大寺と名前の変わる大官大寺、それから皇家の法要の場として日本書紀にも度々登場する川原寺、更に蘇我氏の仏教のよりどころともなっていた飛鳥寺、少し時代が下って天武・持統天皇朝に建てられた薬師寺というところでしょうか。
官寺として法隆寺も入るのかな?
豊浦寺とか坂田寺とか橘寺は大寺ではなさそうな……それよりも橘寺は尼寺ですね。
さて、大宝二年十二月二十五日、持統太上天皇崩御により「四大寺に設斎す」と記事が見えます。
都が藤原京にある時代ですから、この四大寺は一般に、大官大寺(大安寺)、薬師寺、川原寺(弘福寺)、飛鳥寺(元興寺)だとされています。
飛鳥寺は元々、蘇我氏の氏寺ですが、本宗家滅亡の後は官寺扱いになっています。
和銅三年、平城遷都の後にこれらの寺はどうなるかと申しますと、大官大寺が大安寺、飛鳥寺が元興寺と名前も変わり、薬師寺も西ノ京に建立されますが、川原寺は移っておりません……
では『南都四大寺』はないのか?
ここに割り込んでくるのが、藤原氏の氏寺である山階寺改め興福寺でしょう。
天平十七年以前、平城の大寺といえばこの四大寺となります。
ところで『南都七大寺』という言葉もありますが、これがまた良く分からない……(゜.゜)
大安寺、元興寺、薬師寺、興福寺に法隆寺を加え、更には大和金光明寺から昇格した東大寺が加わるまでは分かるのですが、最後の一寺は何所なの……?(゚_。)?(。_゚)?
平城に移されなかった川原寺を入れるという説もあるし、西大寺が建立されたらここが入るとも?
人によっては、唐招提寺を入れる人もいるみたいだけれど、この説は法隆寺に替えてという前提だったような……
平城で最後に建立された勅願寺は秋篠寺だと思いましたが、ここは大寺という程ではないようですから、多分入らないでしょう。
まあ、現在私が問題にしているのは、天平十六年現在の平城の僧綱が拠り所としている大寺ですから、南都の四大寺で良いのでしょう。
この時の興福寺と金光明寺は、イメージ的にかなり親密だったように思えるのですが、やはり何れも藤原氏出身の光明子皇后が大きく関わるためなのでしょうかね?
多分、この時には金光明寺の大徳は良弁で良いと思うのですが、この人は興福寺の出身で良いのでしょうか……法相宗の僧侶の師弟関係図などを見ていると、良弁も義淵の弟子として出てきますので、私は勝手に興福寺出身と解釈しているのですが( ̄▽ ̄)。o0○
それにしても坊主が矢鱈に介入してくると、分からない事が急に増えて困りますわε-( ̄ヘ ̄)┌
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ここまで書いた分を何となく読み直していて、
「どうして御身は、そうも自らを過小評価しておるのか」
とか何とか、藤原仲麻呂が白壁王に言っておりました。
これって、白壁王自身に限った事じゃなくて、現代の古代史の先生らにも言えるんじゃないかと、私は常日頃思っております。
いや、積極的に評価できない要因があるんですよね、研究者には……( -」)φ
この御仁が何もしていなかったような人ではないと、結果論からは言えても、証拠が何所にも無いんですからねぇ……
今更ですが、私のような見てきたような嘘八百で勝負した戯けには、こういう人がかなり重宝します。
白壁王が言うには、この家(志貴親王家)の兄弟は諸王らの内では厚顔無恥だと囁かれている云々……もしかして、これも過小評価の一環かな?(゚_。)?(。_゚)?
現在書いている話では、官界に二大派閥が存在しておりまして、そいつが皇后派と大臣派です。
皇后は藤原光明子、大臣は橘諸兄ですが、志貴親王家の連中がどちらに属しているかと申しますと、概ね前者です。
諸王から見れば、皇家出身でない皇后に孫王が媚びているとしか思えないんでしょう(゜_゜)
この家の四人兄弟については、ほぼ史料はありませんので九割九分がハッタリです。
病身の長兄はそろそろ官界引退を考え、次兄は中央政権が嫌で地方官ばかりを歴任、この二人は白壁王から見れば父親の年齢です。
一番の現役で活躍しているのはすぐ上の兄、湯原王です。
この人が皇后宮大夫なんてやってるのだから、臣下出身の皇后を快く思っていない諸王らには、これほど恥知らずな輩もいないのかも……ε-( ̄ヘ ̄)┌
実際の湯原王という人のプロフィールは殆ど分かりません。
生没年も不明ですし、母親が誰なのかも分かりませんので、同母の兄弟姉妹がいるかも分からないし、妃が誰で何人の子供がいたかも不明です。
壱志濃王が第二子で、尾張女王という娘がいた程度は不確かながら史料に見えまして、湯原親王という記述が見える事から白壁王の即位時までは存命だった可能性も指摘されています。
志貴親王の皇子として名前が出て来るのは万葉集のみで、続日本紀には叙位の記録どころか名前も出てきませんので、故意に削ったのではとすら思えてきます。
そのような訳で、私の話に出て来るこの御仁も、名前だけを借りたようなオリジナルキャラクターに近い存在といえるでしょうσ(^◇^;)
そして確実に言えるのは……万葉集に見える歌からの印象は、全くの無視、目指せ悪党路線?(゚_。)?(。_゚)?
「どうして御身は、そうも自らを過小評価しておるのか」
とか何とか、藤原仲麻呂が白壁王に言っておりました。
これって、白壁王自身に限った事じゃなくて、現代の古代史の先生らにも言えるんじゃないかと、私は常日頃思っております。
いや、積極的に評価できない要因があるんですよね、研究者には……( -」)φ
この御仁が何もしていなかったような人ではないと、結果論からは言えても、証拠が何所にも無いんですからねぇ……
白壁王が言うには、この家(志貴親王家)の兄弟は諸王らの内では厚顔無恥だと囁かれている云々……もしかして、これも過小評価の一環かな?(゚_。)?(。_゚)?
現在書いている話では、官界に二大派閥が存在しておりまして、そいつが皇后派と大臣派です。
皇后は藤原光明子、大臣は橘諸兄ですが、志貴親王家の連中がどちらに属しているかと申しますと、概ね前者です。
諸王から見れば、皇家出身でない皇后に孫王が媚びているとしか思えないんでしょう(゜_゜)
この家の四人兄弟については、ほぼ史料はありませんので九割九分がハッタリです。
病身の長兄はそろそろ官界引退を考え、次兄は中央政権が嫌で地方官ばかりを歴任、この二人は白壁王から見れば父親の年齢です。
一番の現役で活躍しているのはすぐ上の兄、湯原王です。
この人が皇后宮大夫なんてやってるのだから、臣下出身の皇后を快く思っていない諸王らには、これほど恥知らずな輩もいないのかも……ε-( ̄ヘ ̄)┌
実際の湯原王という人のプロフィールは殆ど分かりません。
生没年も不明ですし、母親が誰なのかも分かりませんので、同母の兄弟姉妹がいるかも分からないし、妃が誰で何人の子供がいたかも不明です。
壱志濃王が第二子で、尾張女王という娘がいた程度は不確かながら史料に見えまして、湯原親王という記述が見える事から白壁王の即位時までは存命だった可能性も指摘されています。
志貴親王の皇子として名前が出て来るのは万葉集のみで、続日本紀には叙位の記録どころか名前も出てきませんので、故意に削ったのではとすら思えてきます。
そのような訳で、私の話に出て来るこの御仁も、名前だけを借りたようなオリジナルキャラクターに近い存在といえるでしょうσ(^◇^;)
そして確実に言えるのは……万葉集に見える歌からの印象は、全くの無視、目指せ悪党路線?(゚_。)?(。_゚)?
一種のフリーマーケットですが、家庭内不用品などを売るのではなく、手作りの自慢の品を販売しています。
奈良市では来月に『にゃらまち猫展』が行われますので、猫の好きな人は要チェックですよ。
中和での催しでは、橿原市今井町の『六斎市』や、五條市の『かげろう座』が有名です。
そういえば『かげろう座』も今日(既に昨日)でしたね。
こちらは今年を最後として、暫くは休むようです……チョッと寂しいですね。
昨年は天気が思わしくなかったようですが、なかなかの人出で盛り上がったそうで、今年は打って変わって晴天、見事に夏日になってくれました。
場所は万葉文化館の西側と申しますか、亀形石造物の向かいと申しますか、『飛鳥の風竹工房』さんが駐車場としている場所を開放してくれて行われていました。
コンセプトは「作り手の見えるシゴト」なのかな?
明日香村内といわず、近隣からもお店や作家さんが参加されて、一日中賑わっていました。
ここに上げた画像は、手創りのコンセプトならば何所にも負けません、明日香村の誇る劇団『時空』による『大化の改新』という劇のもようです。
こういう市は覗いていても楽しいですし、手ごろな掘り出し物もあったりします。
その反面、やはり手創りという事で、時には手を出すのにためらう価格の物も少なからず……でも、既製品や大量生産品に無い、オリジナリティーや使い易さがある商品も多くて、これぞと選んだ物は長く使いたくなります。
カフェやスイーツ系もオシャレで本格的、決して都会のお店には負けていないと言いますか、むしろ中南和の田舎ならではの強みも出ているように思えます。
そして欠かせないのが、明日香村というロケーションでしょうか。
今や黙っていても人は来るの大仏商法では、他の地域に負けてしまいます。
北和でも中南和でも、若い世代の経営者や作家達が、色々とがんばってくれているのが頼もしく見えてきます。
これからもこの催しが長く続いて、更に多くの人たちが参加してくれる事を祈らせて頂く次第ですm(__)m
ところで県内でも市民劇団がいくつか積極的な活動をしています。
劇団『時空』でも毎年、秋の『彼岸花まつり』で本公演が行われますので、もしも一度じっくり見たいと思われる方は、是非ともその折に御出で下さい。
何でも、メンバー募集も随時しているそうですので、参加されたい方も歓迎だとか?(^_^)v
我が家では赤トラの男の子は『ナガマサ』という名前になる事が往々にしてありまして、普段の呼び名は『ナー』で通っておりました。
そのような訳でバリエーションとして、『ナタ』『ナーガ』『ナーヤ』、女の子ならば『ナーナ』『ナーノ』という名前がつく事もありました。
この奇妙な名前の由来が何かと申しますと、毘沙門天の息子、護法童子の一人で、元々はヒンドゥーの神だと思いました……実は良く知らない(-_-;)
私はどういう訳か、これを龍王の息子と勘違いしておりまして……ナタ太子はむしろ、道教では童子神として信仰され、龍王退治をするような存在となります。
確か『西遊記』にも出てくるので、中国や台湾ではとても有名な神様らしいのですが、こちらの教養が皆無の私には良く分かりません(゜_゜>)
お陰で、猫も人も嫌いなシマコが逃げ回っています。
ようやく少し慣れたようですが、近づいてきたら、まだ威嚇するのには困りモノ……(/_;)
まあ、その内に仲良くなるでしょう。
シマコはひたすら逃げるので、現在被害を被っているのはひたすら私です。
猫好きの知人達に「子猫、元気?」と聞かれたら両手を見せれば、一目瞭然に納得されます。
手の甲どころか指や掌にも、引っかかれた傷だらけ、足なんて何事かと思うほどの細かい蚯蚓腫れ?!
多分、この状況が半年程度は続くかな……得てして雄猫は図体が大きくなっても、子猫っけが抜けませんからε-( ̄ヘ ̄)┌
明日まで奈良国立博物館で行われている特別展です。
何故また、こうも押し迫った頃に見に行ったのかと申しますと、今週の火曜日からようやく浄瑠璃寺の『吉祥天立像』の展示が始まったためです。
さらには伝香寺の『地蔵菩薩立像』(はだか地蔵)や、海住山寺本堂の本尊『十一面観音立像』の展示もありますので、仏像好きには待つ甲斐があります。
伝香寺の御地蔵様はお着替えの法要などでも近くで拝観できますし、海住山寺の御本尊は少し前に仏像館の特別展示にも出ていたので、間近で拝む機会もありましたが、吉祥天様は特別拝観の時期に行っても薄暗い阿弥陀堂の御厨子の中なので、あまり詳細に拝見する事も出来ません。
そういう訳で、この一週間が千載一遇と言っても良い機会です。
独立ケースに展示されていますので、360度フリー、後姿も横顔も、髪型や衣の裾や瓔珞の細部までも、ごく間近で照明の下に拝む事が出来ます。
いや、ホント、実に御美しい御方です。
そして今更ながら、見れば見るほど顔立ちは鎌倉仏(慶派)です。
ところで解脱上人って何方?
私はつい、興正菩薩(叡尊)と勘違い致しました(-_-;)
貞慶さんは鎌倉初期に、叡尊さんは中期にそれぞれ活躍された名僧で、何れも南都の仏教興隆に貢献された方です。
貞慶さんという御方、チョイト以外でしたが公家の出身で、かの信西入道の孫になるのだそうです。
子供の頃に興福寺に入りエリートコースに乗っていたのですが、平氏による南都焼き討ちや南都復興を機会に今までの仏教界などに疑問を抱き、興福寺を出て笠置寺に移り、その後も海住山寺や浄瑠璃寺にも行き、それぞれの復興に尽くされたという事です。
今年は、この貞慶上人の八百年御遠忌に当たるのだそうです。
私は教義的な事になると皆目分からないのですが、貞慶さん、時期によって信仰されている対象が微妙に変化しているような……
この時代、本地垂迹説が盛んでして、貞慶上人は春日大明神(本宮四柱と若宮一柱)の本地仏への帰依をされているのは確かです。
比較的若い頃には笠置寺で弥勒仏を信仰し、更には阿弥陀如来、そして最晩年は観世音菩薩の補陀落(ふだらく)浄土に生まれ変わる事を切望していたようです。
それにしてもかなり贅沢と申しますか、見ごたえのある展示でして、博物館に入ったのが12時半過ぎくらいだったのですが、特別展を見終わったがの17時過ぎ……常設展まで軽く眺めていたら、結局、閉館時刻の19時前になってしまいましたσ(^◇^;)
この前の京博の特別展といい、今回といい、どうしてこんなに時間がかかったんだ?(゚_。)?(。_゚)?
人は多かったけれど、順番待ちなんていう展示は全く無かったのですが……
確かに仏像の展示はかなり充実していましたし、私の最も好みの鎌倉仏、おまけに慶派ですから、まあ分からないでもないかな( ̄▽ ̄)。o0○
いつも常設展で正面からしか見る事の出来なかった、弥勒菩薩立像や十一面観音立像が独立ケースに入っていたりもしましたからねぇ(^_^)v
参考までに今回上げた画像は、今年の一月に拝観して来た浄瑠璃寺(京都府木津川市加茂町)です。
何故また、こうも押し迫った頃に見に行ったのかと申しますと、今週の火曜日からようやく浄瑠璃寺の『吉祥天立像』の展示が始まったためです。
さらには伝香寺の『地蔵菩薩立像』(はだか地蔵)や、海住山寺本堂の本尊『十一面観音立像』の展示もありますので、仏像好きには待つ甲斐があります。
伝香寺の御地蔵様はお着替えの法要などでも近くで拝観できますし、海住山寺の御本尊は少し前に仏像館の特別展示にも出ていたので、間近で拝む機会もありましたが、吉祥天様は特別拝観の時期に行っても薄暗い阿弥陀堂の御厨子の中なので、あまり詳細に拝見する事も出来ません。
独立ケースに展示されていますので、360度フリー、後姿も横顔も、髪型や衣の裾や瓔珞の細部までも、ごく間近で照明の下に拝む事が出来ます。
いや、ホント、実に御美しい御方です。
そして今更ながら、見れば見るほど顔立ちは鎌倉仏(慶派)です。
ところで解脱上人って何方?
私はつい、興正菩薩(叡尊)と勘違い致しました(-_-;)
貞慶さんは鎌倉初期に、叡尊さんは中期にそれぞれ活躍された名僧で、何れも南都の仏教興隆に貢献された方です。
貞慶さんという御方、チョイト以外でしたが公家の出身で、かの信西入道の孫になるのだそうです。
子供の頃に興福寺に入りエリートコースに乗っていたのですが、平氏による南都焼き討ちや南都復興を機会に今までの仏教界などに疑問を抱き、興福寺を出て笠置寺に移り、その後も海住山寺や浄瑠璃寺にも行き、それぞれの復興に尽くされたという事です。
今年は、この貞慶上人の八百年御遠忌に当たるのだそうです。
この時代、本地垂迹説が盛んでして、貞慶上人は春日大明神(本宮四柱と若宮一柱)の本地仏への帰依をされているのは確かです。
比較的若い頃には笠置寺で弥勒仏を信仰し、更には阿弥陀如来、そして最晩年は観世音菩薩の補陀落(ふだらく)浄土に生まれ変わる事を切望していたようです。
それにしてもかなり贅沢と申しますか、見ごたえのある展示でして、博物館に入ったのが12時半過ぎくらいだったのですが、特別展を見終わったがの17時過ぎ……常設展まで軽く眺めていたら、結局、閉館時刻の19時前になってしまいましたσ(^◇^;)
この前の京博の特別展といい、今回といい、どうしてこんなに時間がかかったんだ?(゚_。)?(。_゚)?
人は多かったけれど、順番待ちなんていう展示は全く無かったのですが……
確かに仏像の展示はかなり充実していましたし、私の最も好みの鎌倉仏、おまけに慶派ですから、まあ分からないでもないかな( ̄▽ ̄)。o0○
いつも常設展で正面からしか見る事の出来なかった、弥勒菩薩立像や十一面観音立像が独立ケースに入っていたりもしましたからねぇ(^_^)v
参考までに今回上げた画像は、今年の一月に拝観して来た浄瑠璃寺(京都府木津川市加茂町)です。
何となく眺めていて、どのコースもイマイチ、記紀とも万葉集とも余り密接ではないなぁ……ってな事は、まぁ良いと致しまして(^_^;)
7月22日の『流され王を追って』は、チョイト参加したいなぁ(~_~)
何せ淡路島って行った事がないんですよ。
淡路廃帝の淳仁天皇と早良親王の御陵に連れて行ってくれるってのが、かなり嬉しいですかな。
参考までに、宮内庁指定の早良親王(崇道天皇)御陵は、奈良市の八嶋陵なので、私の出没場所の一つですがσ(^◇^;)
しかし、日帰り旅行で9600円かぁ……このところ、頻繁に実家に帰らねばならないので、結構きついかな。
多分八月には、三嶋大社の夏祭に帰るだろうしなぁ。
まぁ、チョイト前向きに考えましょうかね。
このコースと11月の『泉州・和歌山 悲劇の人々をたずねて』以外は、私としては時々出かけるような場所ですしねぇ。
ちなみに6月24日の『境界を守る御霊を訪ねて』に至っては、どれもこれも私の頻繁出没地です( ̄▽ ̄)。o0○
8,000円払うのに抵抗のある方は、私が10分の1程度の金額(昼飯は自腹どうぞ)で案内します。
講師の先生とは絶対に違う、かなりどうでも良い、見てきたような与太話付きですが……(*_*;
サボりの途中でいつもの様に大河ドラマなんぞ眺めながら、ぼやいておりました。
この前の回で、院と天皇の間が決裂し、平氏も源氏も何れにつくか云々で
「平氏は何れにもつかぬ」と豪語している御仁がおりました。
「何れにもつかぬままもう少し様子を見て、恩賞を吊り上げようと思う」なんぞと、ちょっと頭が良くなったねぇ、と思える事を続けておりましたが……前の週に新院の鼻先に太刀突きつけて、意味不明の事言っていた奴が、そんな言い分が可能だと思う訳?
だいたい、あんな事していたら、即日、安芸守罷免……
「歌枕でも見て参れ」とか何とか(こいつには絶対に通じない)皮肉言われて、白川の関の向こうに追い払われたって文句言えないわよ?!
まあ、伊豆でも隠岐でも流罪地は選り取りみどり。
そこで舌噛み切って流れる血で写経に「この経を魔境に回向す!」とでも書いて悶死したって構わないからε-( ̄ヘ ̄)┌
真剣に見てしまうと、この作者の意図がほぼ読み取れない……
これを更に痛感したのが、源氏嫡男の正室と側室の描き方ですかね。
主がいざ出陣という段階で側室は赤子を抱いて、
「本当に御父上や弟御方との戦をされなければならないのですか」と悲痛に訴える。
それを制するように正室は嫡流の証しの太刀を差し出し、
「武運長久をお祈り致しています」と送り出す。
二人の女性の性格の違いを描きたかったなんて事は、この場合、ほぼ通じないでしょう。
二人は何れも武家の奥方、本来はどちらのパターンが取るべき態度なのか、あまりに歴然としていますから。
これによって主の出陣の後、側室は正室から批難を浴びないまでも、見る目が更に悪い方に変わる事は確実かと思えます。
恐らく正室の侍女らは、
「所詮は雑子女あがり、殿もあのような女をどうしてお迎えになられたのやら」とでも、陰口を言うのもセオリー通り?
彼女がこの先、夫の敵といえる男の子供を産もうが、更に再嫁させられた公家との間にも子を設けようが、まあ、こういう女性なのよと納得させたいんだろうか???
もしかして作者はこの女性が嫌いなのかしら……私なら、こう思ってしまいます( ̄▽ ̄)。o0○
でも恐らく、作者の意図するところは別なのだと思います、今までの回を見てきた限り(゜.゜)
この記事は天平十六年三月十四日で、この前の月の二十五日に天皇は紫香楽に入っています。
ところが、天皇不在の難波宮にて二月二十七日、
“左大臣詔を宣りて云はく「今、難波宮を以って皇都とす(後略)」”
という具合に見えます。
まぁ、結構有名な記事ですが、遷都の宣言をする前に天皇は離宮の方に出かけてしまい、残された太上天皇(元正女帝)と左大臣(橘諸兄)が遷都の詔を読み上げるという、なんとも異様な自体です。
この様子は、大阪歴史博物館の難波宮コーナーでの映像で再現されていますので、御存知の方も少なからずおられるかと思います。
難波宮はとりあえず置いておきまして『金光明寺』です。
これは国分寺の正式名称『金光明四天王護国寺』の略でしょうから、大和国分寺の事と考えられています。
『東大寺要録』によれば、大和の『金鍾寺』を天平十五年の四月より『金光明寺』の名前に改めて南都の七大寺と同等にあつかえ云々の命令が出ているとか(いつもの事ながら、一次資料を当たってないんです・゚・(ノД`;)・゚・)
しかしですよ、国分寺は難波にも近江にもあってしかるべきですので、大和とどうして決められるのやら……やはり『大般若経』の存在が決めてなんでしょうかね??
六百巻にも及ぶ経典が、そんじょそこらの寺院にあるとは思えませんからねぇ。
でも、四天王寺にはあってしかるべきなのかな??
紫香楽に続いて、難波宮でも『大般若経』の転読が行われた記事が三月十五日に見えますから。
相変わらずの疑問が、この頃の東大寺の位置づけですわ。
うちの仲麻呂にして「あの壮士が坊主で良かった」と言わせた良弁師が、大徳を務めているので間違いはないと思いますが、光明子皇后から見ても既に興福寺以上の存在になろうとしているような?
私は勝手に、『金鍾山房』が出来た時に抜擢された僧侶の多くは、興福寺から皇后によって引き抜かれたのだろうと考えておりまして、皇后の崇敬を受けて当たり前の寺だと位置づけています。
そして次第に、藤氏の『興福寺』をしのぐ存在として、皇家の『金光明寺』になりつつあったんだろうなぁなどと妄想しております。
さぁて、そろそろ、藤氏をバックに控える皇后と、玄昉なんぞ押しのけて総国分寺のトップを狙いたい良弁師の駆け引きが裏で始まるのかなぁ……( -」)φ
紫香楽じゃ、まだ、寺院造成地の地鎮祭段階だってのにねぇ……
本日の意味無し画像は、東大寺の知足院にある『奈良の八重桜』の原木です。
花が咲いている時に映したのですが、何の花なのかさっぱり分かりません……σ(^◇^;)
サブタイトルやらキャッチやら切り口が少々気持ち悪かったですが……あれ、この人のプロフィール、何となく知ってるわ?(・・?
戦国時代にかなり暗い私が、四国の大名なんぞ名前くらいしか知らないはずなんですが、何となくあだ名とかも聞いた事があるような気が致しまして、もしかしてと本棚の奥の方を眺めてみました。
ああ、やっぱりね(-_-)
司馬遼太郎の『夏草の賦』、上下巻とも並んでおりました。
ところが内容を殆ど覚えていない(゜.゜)
今度、遠出で長時間電車に乗る時にでも読み直そうかなぁ……今週末、早速に遠出の予定ですがσ(^◇^;)
本日の意味無し画像は、昨日のヤドリギの木のアップです。
マジ、元の木は何なんだ??(゚_。)?(。_゚)??
よくもまぁ、これだけのヤドリギが生えたものかと感心する代物です。
東大寺の転害門を入った所にある幼稚園のあたりにも、矢鱈にヤドリギのくっ付いた木があったと思うのですが、こっちの方が更に多いような気がします。
これだけっくっ付いていると、元の木が何なのか遠めでは良く分かりません……(゜-゜)
今現在、書いている話の事。
ここでの時は天平十六年閏一月です。
場所は難波だったり平城だったり、はたまた紫香楽だったり……恭仁の造営はただ今凍結されています。
紫香楽に離宮があらかた出来たので、次は隣接地で大寺の建立にかかりたいと目白押しの公共事業なのですが、予算枠が決まっているので新都造営と大寺建立を同時に出来ないという状況です。
そこで天皇は、即位の最初に手をつけた難波に一旦、お引越しをしようと考えました。
……と、まぁ、こういう状況なんですね。
さて、我らが白壁王が何をしているのかと申しますと、その葬儀の監督官の一人です。
場所は平城京内、一七日(初七日)から七七日(四十九日)まで、七日ごとに法要が行われますので、難波にせよ恭仁にせよ、帰っている暇はありません。
この話の内では、この時の平城宮の主は皇太子の阿部内親王で、東宮院を住まいとしている事になっています。
白壁王はここに呼び出されるのですが……
そこにまた、名前の思い出せない件の内舎人が御出迎えに来るから苛つくじゃありませんか……(*_*;
察するに作者うめぞー、こいつが案外気に入っているのかもしれません。
痩せて小柄だが品性卑しからずなどと言われている内は良いのですが、何度目かに現れた時には、あのひ弱な若造と罵られ、果ては左大臣の犬呼ばわり……
この後に出て来る予定の東大寺の僧侶も、小坊主だの使い走りだのと、結構勝手に呼んでいます。
ちなみに呼んでいるのは、白壁王、藤原仲麻呂、豊成あたりです。
もしかしたら左大臣も呼んでいるかも……(-_-;)
しかし、話の展開がうまく行かないからって、脇役に当たっちゃいけませんわ(・.・;)
参考までに二枚目の画像は、興福寺南円堂の右近の橘です。
今年もたくさん蕾がつき、ようやく開き始めました。