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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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このような距離で見学できました。 この何日か個人的に相当凹む事がありまして、様々に低迷状況です……
 それは今のところ置いて起きまして、土曜日に行きました見学会の報告でも。

 今年の初め頃から、東大寺の正倉院の解体修理が始まりまして、ただ今は完全に素屋根の内です。

 その画像は以前にどこかで上げましたか?

屋根もこの通り 私が参加したのは17日土曜日の午前10時からの回、多少早く着いたのですが、既に受付は始まっていまして、その後は自由見学で特に終了に制限はないという状況でしたので、一時間半くらい見ておりました。
 正倉自体は平安時代以来、何度も修理を受けているそうで、やはり東大寺を始めとした南都の鎌倉復興時、江戸復興時にも例に漏れず、ここも大規模な修理が行われているとの事です。

正面(東面)の痛みはかなり目立ちます。 内部は明治期にガラスケースを入れるなど、相当の改修も行われ、戦後には新しい収蔵庫ができたために宝物は全て移されていて、一見したところ新しい部材が嫌でも目立ちますが、創建期の部材も良い状態で残っているそうです。
 しかし外側は吹きさらし状態で、暦年風化はありありと見て取れます。
 それ以上に目に付くのは、三階部分から間近に見た屋根瓦の風化状況でしょうか。

古い部類に入る軒丸瓦 古い瓦葺建物の修理のセオリー通り、この正倉も建物正面に再利用可能な古い瓦を集めています。
 そのため正面の東側の痛みが特に痛々しく目に映ります。
三枚目の画像を見て頂けば分かりますが、軒先のカーブがやや波打っています。
これは、部分的に軒が落ちかけているという事になります。
逆に裏になる西側は、瓦こそ明治大正期の物が多いようでしっかりして見えますが、やはり軒のラインは微妙に曲がっている箇所が目に着きます。
どうやら、屋根を支えているトラス構造に歪みが来ているようで、こうなると瓦の重さに耐えられなくなって軒がひずんで来るという訳です。

軒丸瓦の種類も違うけど、高さも揃わないのは…… それにしても、軒丸瓦も軒平瓦も鎌倉時代から大正時代まで、かなりバラエティにとんでおりまして、それはそれで面白いものです。
……が、いくら探しても創建期の物が一枚もない?

 正倉院がいつ建てられたかは、記録に現れないので正確には分からないのですが、納められたのは聖武太上天皇の遺愛の品なので、太上天皇が崩御し、光明皇太后が七七忌(四十九日)に宝物を喜捨した前後と推察されているようです。
要するに天平勝宝八歳前後でしょう。

鬼瓦は四方とも江戸時代の物それならば金堂(大仏殿)や回廊の創建期瓦と同じ物が使われていても、何ら不思議はないのですが、あの見慣れた軒平瓦のカニのような唐草紋は、どこを探してもありません……(゜.゜)

 丸瓦も様子からして、創建期の物はほぼ残っていないかもしれませんが、平瓦にはそれらしき色の物が見受けられましたが確証はありません。
一見しても全体的に風化が著しく、瓦がここまで朽ちるものかと、妙な関心をしてしまいました。
平瓦の重ねもかなり大きく、半分以上が重なっているとしたら、総枚数はどれだけになるのやら……

なかなか分かりやすい面構えです。 ところで、気のせいが平瓦が薄く思えるんですよね(・・?
東大寺の境内、至る所に平瓦の欠片が落ちていて、それこそ奈良時代の創建瓦から、最近の台風ででも落ちたのかという新しいやつまで見られます。
こいつらが結構、分厚く見えるんですが、散乱した欠片と屋根に葺かれた状態の物では、目が錯覚を起こしているだけかな??

 この後、瓦を全て下ろして、屋根の小屋組みも補強するのだそうで、どうやら唐招提寺の金堂のように全体を解体修理する訳ではなさそうです。
 しかし、素人目で見ても、新たに焼き直す瓦の数は半端ではないように思えました。
新しく作る瓦は天平時代のデザインを採用するそうで、鎌倉時代の巴紋、室町時代以降の文字瓦と、新旧がかなり分かりやすい状況になりそうです(^_^)

 さて、これから後も数度にわたって一般公開が行われる予定だそうで、宮内庁のHPも時々、覗いて置くようにしなければ。
 
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勅使参向

 『春日祭』は三勅祭の一つとして、春日大社では最も重要な祭だそうです。

原則非公開なので、毎年ながら垣間見状態で様子だけを報告致します。
何せ解説できるほどの知識がありませんので……・゚・(ノД`;)・゚・

そういう訳で今年の勅使様は、宮内庁掌典職の山田蓉 氏です。
御棚奉舁 勅使は『祓戸神社』の前でお清めをされた後に『着到殿』に入りますが、さて、何をされておられるのやら、全く様子は見る事ができません。

そして再び参道にお出ましになり、剣先道を通って本殿回廊内に入られるようです……多分、だって、見えないんだもの(・.・;)

御馬牽廻を待つ 皇室から春日の神々に献上された御幣物を勅使、宮司、神職らが奉納する訳ですが、春日大社は四柱の神様がおられまして、御食事の棚も四基、神酒や御幣物も四組あるはずです。
そのためか、何人もの神職が列を成して、階段を上り下りする様が中門越しに見えておりました。

和舞 お供え物や祭文の後に御馬も御覧に入れて、『和舞(やまとまい)』が奉納されます。
最初の曲は神主舞の初段の舞だと思うのですが、舞人が見事に弊殿の柱に重なってしまって見えません……(T_T)
そして、諸司舞の……四段以降です、だって片袖脱いでますからσ(^◇^;)

本殿を退出する馬たち 和舞が終わりますと、舞人を始めとして祭の諸役が退出します。
馬寮の御馬さんも、このように石段を降りて行きました。

 昨年は勅使も同じように、こちらから退出されていたのですが、今年は待っていても出てこられませんで、どうやら入場と同様に剣先道の方から帰られたようでした。

この後、直会殿などの片付けも有るようで、参拝は13時過ぎからとの事で、若宮社に御参りに行きますと、ちょうど神職さん方が御祭終了の報告をされているようでした。

しかし、相変わらす詳細が分かりません。
かなり以前に、岡本権宮司のレクチャーで『春日祭』について、普段には伺えない様な話を聞いた記憶もあるのですが、あの時の資料は果たしてどこにいったのやら……(゜_゜>)

 
祓戸の儀 本日3月13日、春日大社で最も重要な御祭の『春日祭』です。
この様子はまた後日、報告致しますm(__)m

ところで『春日大社』は、神護景雲二(768)年、時の左大臣の藤原永手が四柱の神々を春日野に迎えて、現在のような大きな社殿を造ったとされています。
昨年の『正倉院展』にも出品していた『東大寺山堺四至図』は天平勝宝八(756)歳に描かれた地図で、ここではまだ春日大社ではなく、『神地』の文字が御蓋山の麓に見えています。

私が現在、書いている話は天平年間が舞台、当然ながら春日大社はない時代です。
況してや、平安初期に始まった『春日祭』も行われている訳もありません(-_-)
後に氏長となる藤原永手はまだ二十代、南家の曲者兄弟から見れば北家の若造あつかいです(-_-;)

木星と金星……(゜.゜)もう一つ加えて言えば、この時代にはまだ『東大寺』もありません。
前身と思われる『金鍾寺』もしくは『金鍾山房』はあったでしょうけれど。

現在行われている『修二会』も当然ながら行われておりません。
こちらは天平勝宝四(752)年に始まったとされますが、件の『山堺四至図』には『観音堂』は見られず、『羂索堂』の北側に井戸の表示がありまして……若狭井?
何でも最初の修二会は『笠置寺』で行われたとされているようです。
観音堂(二月堂)ができたのは、さて、いつなんでしょうね。

ちなみに実忠和尚は、天平年間の中期、まだティーンエイジャーではないかと思われます。
出家はしていたのかな、果たして?
私の話の中には、若い実忠師は出て来る予定はありません。
その代わり、三十代と思われる道鏡師は出てきまして、白壁王と一緒になって良弁僧都の悪口(?)を言っております( ̄▽ ̄)。o0○
うちでは良弁師、どういう訳か人気があるようです???(゚_。)?(。_゚)???

ちなみに二枚目の画像は、本日の西の空に出ていた木星と金星ですが、相変わらず何を写しているのか不明の写真ですσ(^◇^;)
 
近藤等則氏の奉納追悼演奏 東日本大震災からちょうど一年という日は、折りしも日曜日となって、各地で追悼行事が行われていたようで、奈良県内も例外ではありませんでした。
私は案内を頂いた事もあり、東大寺の大仏殿で行われた『東日本大震災物故者一周忌法要』に参列して参りました。

まあ、参列というのもおこがましいでしょうか、大仏殿に御参りに来た方は御自由に御焼香頂いて、法要の場で共に御祈りをして下さい、その片隅にいたという状況です。
北河原別当様により『諷誦文(ふじゅもん)』が読み上げられた後、読経が行われ、奇妙なほど耳に心地よいまま、周囲の方々に倣って合掌しておりました。

そして奉納の後に、近藤等則氏によるエレクトリックトランペットの奉納演奏が行われました。
私は音楽の方は相変わらず暗くて、この方がどれだけ有名で凄い方なのか、イマイチ分かっておりませんσ(^◇^;)
でも、このロケーション、この音響、聞き惚れてしまいました。
インパクト強かったです、これでこのアーティストの名前は、しっかり印象に残りました(^_^;)

……にしても、これらに水をさしてくれるのは、セオリーのように報道陣です。
新聞にしてもテレビにしても、より良い、絵になるショットを探しまくっているのか、焼香をする人の真横でカメラを構えたり、合掌している人の真ん前に平気でぼっ立ってみたり、タイムスケジュールらしきペーパーをガサガサと人の耳元で繰ってみたりと、マナーの悪い事この上ありません。

bc7ee532.jpeg法要の後、大仏殿から出ますと雨……
ここ何日か、冬が戻って来た上に天気もやや不安定で、この日も例外ではありませんでした。

ともあれ奈良町の方に用事があったので一旦戻りまして、その頃には雨も上がってくれました。
ところが、その後に性懲りもなく境内に戻って来たのが17時過ぎ、またもやポツリポツリと来まして、雷が鳴った……と、一気に降り出してくれました。


0ab92335.jpegその程度の事でめげる暇はないと、傘を差しながら陣取ったのは『観音堂』こと『二月堂』の欄干の下です。
そういう訳で、この日は最初から御堂に上がる気はなく、下から見上げるポジションで臨む事と致しました。

幸いな事に18時過ぎには雨も止み、いずれも傘を閉じたお陰でスペースに余裕もでき、足元は多少悪くても悪くない状況で拝観できるかなと、暢気に周囲の観光客の方と雑談をしながら、更に一時間……

2b68f4c7.jpeg練行衆が上がる少し前に、今年も別当様からの御言葉がありまして、お松明が上がるのを待ちわびてざわついていた人々も、凪のように静かになって聞き入っていました。
そして、人々の感嘆の息の後に、二月堂内で鐘が鳴らされ、大松明が登廊を上がって行きました。
この日は風がやや強く、煙も火の粉もよく流れて、実に勇壮に美しい火でした(-_-)

 
奈良町で買って来たケーキ ここ毎度ながら困っているのは、主人公がサボタージュ気味という傾向……(゜.゜)
とにかく日和見なのか無関心なのか、状況に流されているのに一向に気づいていない(・.・;)
殊に今回の三十代の白壁王、この御仁、ここまで育ちが良かったかしらと作者が疑いたくなっております。
この甚六がどうして二十年後に、ああも挙動不審(と、息子には見える)の人物になるのか、聖武天皇朝の後期から孝謙天皇の時代にかけて、一体この一家に何があるんだ???
まあ、色々あるのよ、表面上は分からないけれど( ̄▽ ̄)。o0○

こうも悠長な白壁王にただ今、発破をかけようとしているのが、バリバリの皇后派で通っている湯原王(作者は無謀にも、この御仁に皇后宮大夫をさせていたりする……)だったりしまして、ここにまた兵部卿と民部卿という藤原南家の兄弟がチョッカイを出そうとしております。
それを傍目(もしくは横目、白い目)で見ている太上天皇だの右大臣だの知太政官事だの造宮卿だの刑部卿だの中務卿だの……しかし、皇族率の高い話しだなぁε-( ̄ヘ ̄)┌

どうも風邪気味(インフルエンザではありません、多分)で、執筆のペースがかなり落ちています。
明日も一日中、奈良市にいる事になりそうだし、もう少し腰を落ち着けて書かないといけませんわ……
二月堂を見る二月が個人的に多忙で、外出外泊も多く、ここもサボりっぱなし、三月になっても一度ついたサボり癖は止みがたく、気がつけば既に四日、いや五日になってしまいました。
パソコンに触らずに済むのなら、それが困るという事もない、鬱陶しいのはメールサーバーだけ、ってな状況でしてσ(^◇^;)
その反動ではないけれど、またもコーヒー豆を2㎏も買ってしまいました……これで半年はもつかな?

このようなどうでも良い事は脇に放り出しまして、東大寺は修二会の本業に入っています。
今日は午前中、明日香村に奈文研の現説に行きまして、午後からは奈良市に出かける事と致しました。

舞台の南端奈良国立博物館も東大寺ミュージアムも、『修二会』関係の展示をしているので、まずはそちらを見学です。

奈良博は年末から年始にかけては『おん祭』、二月から三月にかけては『お水取り』の展示を毎年行っています。
そして毎年、必ず展示されるものもあったりします。
今年も昨年と、さて、どこが変わったかしら……という感じの展示だったような(゜.゜)

そして東大寺ミュージアムでは、館外展示で籠松明が置かれていましたので、写真を撮ったのですが……
実はこの写真、何を映しているのか分からない画像となってしまいまして、また来週あたりに撮り直して来ましょうっと(・.・;)
こちらは江戸時代に焼失して再建された観音堂(二月堂)の図面と、要録や参篭日記などの文書類がメインで、なかなか地味で興味深い内容でした。
明治くらいの文書ならば、何とか読めるものなのですね、字さえ崩されていなければ。

しかし本日は昼から雨……小康状態の雨の中、約一時間半前に二月堂に行って見たのですが、良い場所はまだまだ空いているものの、いつまた降り出すやら分からないので、小懲りなく御堂に上がってしまいました。

チョッと手ブレです……そして周囲の方々と話をしながら、長丁場(?)に待つ事と致しました。
途中で、今年は参篭されずに世話役に翻弄している御僧侶や、毎年活躍されていると思われる童子さんの御話なども聞けましたので、案外、退屈せずに待つ事が出来まして、いつもながらありがたい事です。
そして今晩は割合に冷え込みが厳しくはなかったのも幸いでした。
風もやや弱く、いざ、お松明が上がって来ますと……煙が外に流れてくれない(*_*;
下にいる訳でもないのに、灰を被っておりました( ̄▽ ̄)。o0○

さて、来週の土曜日も奈良市に用事がありますので、今度は下でユルリと見学しましょうかね、天気が良ければ……(^_^;)
 
二月中がとにかく私的に忙しくて、結構留守がちにしておりました。
この時期、インフルエンザなどでダウン気味の方も決して少なくないようですが、私に限って申しますと、多少は風邪をひいてもインフルエンザにはかかっておりません。

次の締め切りを今月末に切りましたので、今月も別の意味で忙しくなりますか……
なのに次の土曜日は、市町村技師会……?
日曜日に、県立美術館や国立博物館のハシゴでもしなければ行く時がありませんわ。
さて、今年の『東大寺修二会』は行けます事やら?
『春日祭』もあるんだよね、それから『いやしフェア』なんてのも……大丈夫か(・・?
昨日に桜井市と天理市で、現地説明会のハシゴがあったのは重々に承知しているし、向日市でも長岡京関係の現説があった事も分かっておりますが、この三日くらい風邪気味でして、雪までちらつくような寒い日となれば、家で大人しくしておりました。
熱が殆どでないのでインフルエンザではないでしょうけれど、そのお陰で直りにくいんですよね、私の風邪というヤツは(・.・;)
それはともかく、この二日、引き篭もって書いておりました。

正倉院、解体修理中結局、大同年間は脇に置いておきまして、天平年間の話です。
既に大方が書きあがっているモノの書き直しなので、今のところは変にスムーズに話が進んでおりますが、その内につまずくのは目に見えております(-_-;)

しかし、うちの白壁王と藤原仲麻呂はどうして、こうも仲が良いんだ?
世間話だろうと政治の話だろうと、この二人が余人を交えずに始めると、やたらにテンション上がるんだが(゜.゜)
だいたい仲麻呂は白壁王に対して口が軽すぎる……やっぱり、この男には友達がいないのか(ーー;)

この画像は先月末くらいに移した東大寺正倉院の様子です。
ただ今解体修理のため素屋根に覆われて、来月には事前に申し込んだ人たちに向けて、現場の見学会も行われます。

それにしても……今日のNHK大河ドラマは、いつにもなくつまらなかったε-( ̄ヘ ̄)┌
ざっと一週間、サボっていた訳ではなく静岡の方におりまして、本日の早朝に戻って来ました。
多分また、今月末か来月初旬に帰る事になるかもしれませんが、取り敢えずはまたも日常が始まります。

私の日常は放っつき歩くよりも書く事……そういう訳で、再び構想の練り直しから。
大同年間はとり合えず置いておきまして、天平年間を中心とした話となります。
さて、ボチボチ始めますか。
江戸時代の落書き?…東大寺大仏殿にて東大寺学講座第一期』第四講は、栄原永遠男先生の『金光明寺から東大寺へ』です。

実は『金光明寺』とは固有名詞という訳ではなく、国分寺の正式名称です。
天平十三年二月、恭仁宮において、各国毎に寺を建立しろという有名な『国分寺建立の詔』を発します。
かつて東大寺も金光明寺と呼ばれていた(同年六月、正倉院文書に初出)ので、大和国の国分寺が東大寺の前身であったと考えられます。

ところが『金鍾寺』という名前も文書には見えています。
『金鍾山房』とは、藤原光明子が亡き親王の菩提を弔うために建立を命じた寺の名前です。
寺の側では、国分寺とされた後も寺名を『金光明寺』ではなく、『金鍾寺』と呼んでいたのではないのかと、栄原先生は推論されています。

天平十八年十月六日、天皇、太上天皇、皇后が『金鍾寺』に行幸して盧舎那仏を燃灯供養したと見えます。
この時の盧舎那仏は、まだ土で作られた様仏だろうという意見が、大抵の研究者の間で言われていますが、『千手堂』(現在の手向山八幡宮の辺りにあった御堂)の本尊、銀製の仏だろうとする説もあるそうです。

ところがこれ以前、天平十六年十二月八日、この夜、『金鍾寺』と『朱雀路』に灯一万杯を燃す、と続日本紀に見えています。
『金鍾寺』の名前が史料に出て来るのは、この二箇所のみなのだそうです。

ところで、盧舎那仏建立の詔が出された(天平十五年十月十五日)のは紫香楽での事、その後に平城での建立が始まるのは、十七年五月の平城還都の後、東大寺要録では八月二十三日からと見えています。
私が今まで見て来た資料などでは、十六年にみえる『金鍾寺』と『朱雀路』があるのは、紫香楽なのか平城なのかが論点になっていました。
ところが本日の講座では、最初から紫香楽説はスルー(・・?
まだ盧舎那仏造営が開始していない『金鍾寺』で、どうして燃灯供養が行われたのかを問題にされておられました……(゜_゜>)

ここで登場するのが『丈六堂』の存在。
これも正倉院文書にのみ出て来る名前でして、国分寺として選ばれた『金鍾寺』が、現在の上院地区(法華堂や観音堂のある辺り)よりも下に金堂を中心とした伽藍を整備しつつあったのではないのか、そして国分寺には丈六の御仏を本尊に置けという詔の通り、丈六仏を安置した御堂があり、その本尊落慶の燃灯供養が行われたのだろう……
そうすると『朱雀路』は何……?ここには触れておられませんでした(-_-;)

この『丈六堂』がいつまであったのか、平城で盧舎那仏造営が始まった後の十八年二月二十八日の文書にも『丈六院銅守の優婆塞』という名前が出て来て、この人達を管理していた役人して『佐伯若子』の名前が見えています。
“さえきわかこ”さんではなく、“さえきのわくご”とお読み下さい。
後の今毛人ですが、この御仁は紫香楽時代にも恐らく毘盧舎那仏造営に関わっていたはずです。
更にこの人の上官は『長官宮』こと『市原王』、こちらも文書に見えています。

いつぞにこの辺の話をグダグダと書いていた事があるので、何とかこのヤヤコシイ講義について行く事ができたのですが、文書をひっくり返すのは、本当に一筋縄では行かない作業だと実感致します。

ところで、次の話が一向に形になって行かないので、そろそろ私自身が痺れを切らしている状況……(・.・;)
主人公として、神野親王と同世代で、藤原氏に限らず皇族から臣に下りた人なども見繕い始めたのですが、どうも決定的なインパクトのある人がおりません。
チョイト、インターバルを置いて、かつての恭仁や紫香楽を巡る話でも再考し始めようかな(゜_゜)
とにかく、何か書いていないと落ち着かない……また病気が出てきました(ーー;)
おまえは誰か
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うめぞー
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