×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
朝から雨……こりゃ、石上神宮の御渡り式は中止だねぇと、昼前くらいから東大寺に行って来ました。
本日は『大仏さま秋の祭』、朝から法要と献茶式があるのは知っておりましたが、こちらには全く間に合う時間ではなく、午後からの『慶讃能』が雨天の場合は金鐘会館で行われると聞いていたので、そちらを見に行く事と致しました。
13時半からの開演だったので、例によって『東大寺ミュージアム』で時間を潰し、ホールの前に人が少し集まり始めたので並んでいたところ、関係者の方が招待券を下さいました。
お蔭様で、かなり良いポジションにて鑑賞できました事、大変感謝いたします……と、ここで御礼を言っても見ておられない事はほぼ確実かとσ(^◇^;)
演目は『清経』……平家物語に取材した修羅ものです。
昔見た時には特に何に共感したというストーリーでもなかったと言うか、むしろどうして世阿弥はこのような人物をわざわざ、このような物語立てで描いたのかが疑問でした。
小松大臣重盛の三男でしたか、この人は。父にも祖父にも死なれて、平家一門が都落ちをした後、一番最初に入水自殺をした人……何とも身も蓋もない表現で(-_-;)
昔書いていた話の中で、件の世康親王(大覚寺統の親王)が三郎(世阿弥)に対して、
「どうしてこのような詰まらぬ壮士を書くのか。私ならばその兄の資盛を書こうものを」と批判なのか愚痴なのかをこぼすシーンを持って来たのですが、これがまさに私の感想でした。
ところが……何故なのか後シテ登場の後、急に泣けて来た……泣けて来たのに、どういう訳か疑問なのは、これって果たして泣くような内容なのか?
武者の家に生まれ、戦の場を逃げ出すようにして入水した夫を恨む未亡人の心情はまだしも、幽霊となって現れた亡夫に妻はののしりに近い言葉を吐く……何せ、遺髪も要らない、宇佐八幡宮に奉納してくれと言ったほどの気丈な女性のようで。
夫は自らと一門の追い詰められて行く身と真情を語り、ついには夜の海に船を浮かべて身を投げたものの、死後の世界も修羅の巷だと嘆く……
何で、泣けてきたのか……何かにシンクロしていたのかしら久々に。
でも、見終わった後の気分は決して悪い物ではありませんから、そうねぇ、年をとってこちらの心境が変わったって事なのかもしれませんわ……( -」)φ清経中将は念仏によって成仏したらしいです。
生憎ながらお能の方の画像はありません。
特に写真は禁止でもなかったようで、あちらこちらでシャッターを切る音はしていたのですが、珍しく大人しく見ておりました。
それにしても、ストロボは切っておけよな……最低限のマナーと違うのか?(--〆)
この後、16時から歌枕直美さんのコンサートもありました。
画像はその時のものです。
ホールの広さがちょうど良かったようで、マイクなしの生の声での、一寸スペシャルなライブでした。
今回は『和歌劇』ではなく『やまと歌』でしたので、純粋に歌を楽しめば良いというところでしょうか。
それにしても、『おしとど』と歌垣を軽やかに歌い上げる歌姫の声の裏で、為政者らの陰謀劇が浮かんでしまう私は、やっぱり病気ですわ?(゚_。)?(。_゚)?( ̄▽ ̄)。o0○?(゚_。)?(。_゚)?
本日は『大仏さま秋の祭』、朝から法要と献茶式があるのは知っておりましたが、こちらには全く間に合う時間ではなく、午後からの『慶讃能』が雨天の場合は金鐘会館で行われると聞いていたので、そちらを見に行く事と致しました。
13時半からの開演だったので、例によって『東大寺ミュージアム』で時間を潰し、ホールの前に人が少し集まり始めたので並んでいたところ、関係者の方が招待券を下さいました。
お蔭様で、かなり良いポジションにて鑑賞できました事、大変感謝いたします……と、ここで御礼を言っても見ておられない事はほぼ確実かとσ(^◇^;)
演目は『清経』……平家物語に取材した修羅ものです。
昔見た時には特に何に共感したというストーリーでもなかったと言うか、むしろどうして世阿弥はこのような人物をわざわざ、このような物語立てで描いたのかが疑問でした。
小松大臣重盛の三男でしたか、この人は。父にも祖父にも死なれて、平家一門が都落ちをした後、一番最初に入水自殺をした人……何とも身も蓋もない表現で(-_-;)
昔書いていた話の中で、件の世康親王(大覚寺統の親王)が三郎(世阿弥)に対して、
「どうしてこのような詰まらぬ壮士を書くのか。私ならばその兄の資盛を書こうものを」と批判なのか愚痴なのかをこぼすシーンを持って来たのですが、これがまさに私の感想でした。
ところが……何故なのか後シテ登場の後、急に泣けて来た……泣けて来たのに、どういう訳か疑問なのは、これって果たして泣くような内容なのか?
武者の家に生まれ、戦の場を逃げ出すようにして入水した夫を恨む未亡人の心情はまだしも、幽霊となって現れた亡夫に妻はののしりに近い言葉を吐く……何せ、遺髪も要らない、宇佐八幡宮に奉納してくれと言ったほどの気丈な女性のようで。
夫は自らと一門の追い詰められて行く身と真情を語り、ついには夜の海に船を浮かべて身を投げたものの、死後の世界も修羅の巷だと嘆く……
何で、泣けてきたのか……何かにシンクロしていたのかしら久々に。
でも、見終わった後の気分は決して悪い物ではありませんから、そうねぇ、年をとってこちらの心境が変わったって事なのかもしれませんわ……( -」)φ清経中将は念仏によって成仏したらしいです。
特に写真は禁止でもなかったようで、あちらこちらでシャッターを切る音はしていたのですが、珍しく大人しく見ておりました。
それにしても、ストロボは切っておけよな……最低限のマナーと違うのか?(--〆)
この後、16時から歌枕直美さんのコンサートもありました。
画像はその時のものです。
ホールの広さがちょうど良かったようで、マイクなしの生の声での、一寸スペシャルなライブでした。
今回は『和歌劇』ではなく『やまと歌』でしたので、純粋に歌を楽しめば良いというところでしょうか。
それにしても、『おしとど』と歌垣を軽やかに歌い上げる歌姫の声の裏で、為政者らの陰謀劇が浮かんでしまう私は、やっぱり病気ですわ?(゚_。)?(。_゚)?( ̄▽ ̄)。o0○?(゚_。)?(。_゚)?
PR
先日の日曜日、五條市の宇智陵に行った後、一番近い黒駒町の御霊神社に行って来ました。
五条市内に分社されている御霊神社は21とも22ともいいますが、本宮は霊安寺町にあります。
1238年に地元の豪族である吉原氏と牧野氏が争って十社に分祀し、その後も吉野川の北と南で競うように分社した結果だと聞いています。
黒駒町は川の南に位置し、つい最近に本殿の修復をしたようで大変鮮やかです。
この御社の破風の下、真っ赤な鬼か雷様が右の頬に手を当てて、片膝立ちで座っていますが、これが妙に可愛かったりします。
少し離れて眺めていましたが、直会が始まったようなので退散して参りました。
例祭は十月二十二、二十三日とありましたが、さて、何の御祭なのでしょう?
ところで御霊神社というと、関東では祖先神を祀る御社という意味合いが強いのですが、関西でも奈良と京都では怨霊となった人々を祀る御社が圧倒的に多いようです。
いわゆる八所御霊のように、何柱かを御祭神とする所が多いのですが、本来の祭神は井上内親王です。
間違っても早良親王でも菅原道真でもありません。
だから本宮が五條市にあるのですね。
早良親王ならば、京都の上御霊、下御霊の両社ですし、菅原道真ならば北野天満宮です。
この日も宇智陵のついでに思い立ったので、地図を眺めて栄山寺までの道すがらに寄ってみた程度です。
そういう訳で、神社以外の処にも立ち寄っており、それが古墳だったり、この史跡『宇智川磨崖碑』だったりします。
場所は栄山寺口を入ってすぐ左側、看板や石碑もあるのですが、殆ど目立たないために通り過ぎる人も多いようです。
細くて水が所々で染み出しているような階段を下りて行くと、道の下には、宇智川がかなり深く細い渓谷を造っています。
対岸の岩肌に経文から取った文が刻まれているらしいのですが、風化してしまって殆ど読み取れないそうです……ってのか、それ以前に何所に刻まれているのか分からないσ(^◇^;)
寒い時期に訪れた事が無いのですが、ここは夏でもとても涼しいです。
奈良県は海が無いので、夏には川で遊ぶ人も多いようですが、この場所は泳ぐには一寸、怖そうな……下流の方、もしかして吉野川に向かって滝になっているかもしれません。
ここから栄山寺までは車でなら数分とかかりません。
では続きは明日以降に栄山寺からm(__)m
昨日から藤原百川と縄麻呂の会話を考えているのですが、何といっても素直さなんぞ微塵もない右大弁と中納言、二人ともストレートにものを言いやしない(--〆)
自分で書いていて、イマイチ何の比喩で言っているのか分からなくなって来る……
そして挙句の果てには、百川が疲れる会話だと言い出す始末(ーー;)
この二人に間接的な命令を出している黒幕は、考えてみれば先朝の太政官の№3だったと気がつきました。
それから考えると、どうしてこの御仁の評価は殆ど無いも同然なのだろうと、今もって不思議です。
まぁ、文書屋がそれをするとは思えない節もあるのですがσ(^◇^;)
さてと、これからますます、ややこしい話を掘り起こさなければならないのですが、こいつを次に起きる事件にどう絡めましょうかね。
この辺がうまく行かないと、説得力が全くない話になってしまい、今までに素人作品などで散々に読まされた存在理由不明のキャラクターが出来上がってしまいますわ。
女性人の内の最大のキーパーソンに対してそのような扱いは、絶対にしたくないのが私の心情ですから……
自分で書いていて、イマイチ何の比喩で言っているのか分からなくなって来る……
そして挙句の果てには、百川が疲れる会話だと言い出す始末(ーー;)
この二人に間接的な命令を出している黒幕は、考えてみれば先朝の太政官の№3だったと気がつきました。
それから考えると、どうしてこの御仁の評価は殆ど無いも同然なのだろうと、今もって不思議です。
まぁ、文書屋がそれをするとは思えない節もあるのですがσ(^◇^;)
さてと、これからますます、ややこしい話を掘り起こさなければならないのですが、こいつを次に起きる事件にどう絡めましょうかね。
この辺がうまく行かないと、説得力が全くない話になってしまい、今までに素人作品などで散々に読まされた存在理由不明のキャラクターが出来上がってしまいますわ。
女性人の内の最大のキーパーソンに対してそのような扱いは、絶対にしたくないのが私の心情ですから……
相変わらず内容と画像は関係ありません。
これは畝傍山にいた蜆蝶、写したのは秋の彼岸の頃、蝶々にやたらと出会うような日でした。
では……『続日本紀』宝亀二年八月八日に、外従五位下丹比宿禰乙女(たじひのすくねおとめ)の位記(叙位の辞令)を毀(こぼ)つという記事が見えています。
乙女という人は神護景雲三年五月に、忍坂女王と県犬養姉女が乗輿(称徳女帝)を厭魅した云々と、訴えて来たのですが、ここに至って証言が誣告と知れたために、このような処置になったと処分の内容が記されています。
この事件、不破内親王(女帝の異母妹)が我が子を皇位に就けようとして、これらの女官と共に呪詛を行ったという事になっているのですが、これは果たして忍坂女王と姉女が呪詛に無関係なのか、呪詛事件そのものがなかったという事なのか、はっきりとは書かれていませんが、不破内親王に関しては何も触れていないので、恐らくは前者なのでしょう。
また宝亀三年三月二日、井上皇后の廃后事件の背景を示す宣命が出されています。
ここに登場する人物は裳咋足嶋(もくいのたるしま)という人で、皇后が粟田広上、安都堅石女(あとのかたしめ)と共に呪詛を行ったと自首して来たとあります。
宣命では、自首した足嶋には外従五位下の位を賜り、自首しなかった二名は遠流にすると結んでいます。
この八ヵ月後の十一月三十日、神護景雲三年の呪詛事件に連座した安倍朝臣弥夫人を赦す云々という記事と、十二月十二日には厨真人厨女(不破内親王)の属籍を復するという記事が見えています。
どうも事件の根っこは同じような所にあるのだと、勝手に思っているのですが……ここに登場する人物は、やはり全員が女性なんでしょうか?
私はそのように思ってしまっているのですが、女という字がついている名前は女性だとしても、裳咋足嶋と安倍弥夫人の二人は果たして女性なのでしょうか、それとも男性なのでしょうか?
この時代の女性の名前は、本当に分かり難くていけません。
一応、全員女性だという事で話を進めているのですが、もしも足嶋が男性だったら、ストーリー展開は多少変わって来るんだろうなぁ……
これは畝傍山にいた蜆蝶、写したのは秋の彼岸の頃、蝶々にやたらと出会うような日でした。
では……『続日本紀』宝亀二年八月八日に、外従五位下丹比宿禰乙女(たじひのすくねおとめ)の位記(叙位の辞令)を毀(こぼ)つという記事が見えています。
乙女という人は神護景雲三年五月に、忍坂女王と県犬養姉女が乗輿(称徳女帝)を厭魅した云々と、訴えて来たのですが、ここに至って証言が誣告と知れたために、このような処置になったと処分の内容が記されています。
この事件、不破内親王(女帝の異母妹)が我が子を皇位に就けようとして、これらの女官と共に呪詛を行ったという事になっているのですが、これは果たして忍坂女王と姉女が呪詛に無関係なのか、呪詛事件そのものがなかったという事なのか、はっきりとは書かれていませんが、不破内親王に関しては何も触れていないので、恐らくは前者なのでしょう。
また宝亀三年三月二日、井上皇后の廃后事件の背景を示す宣命が出されています。
ここに登場する人物は裳咋足嶋(もくいのたるしま)という人で、皇后が粟田広上、安都堅石女(あとのかたしめ)と共に呪詛を行ったと自首して来たとあります。
宣命では、自首した足嶋には外従五位下の位を賜り、自首しなかった二名は遠流にすると結んでいます。
この八ヵ月後の十一月三十日、神護景雲三年の呪詛事件に連座した安倍朝臣弥夫人を赦す云々という記事と、十二月十二日には厨真人厨女(不破内親王)の属籍を復するという記事が見えています。
どうも事件の根っこは同じような所にあるのだと、勝手に思っているのですが……ここに登場する人物は、やはり全員が女性なんでしょうか?
私はそのように思ってしまっているのですが、女という字がついている名前は女性だとしても、裳咋足嶋と安倍弥夫人の二人は果たして女性なのでしょうか、それとも男性なのでしょうか?
この時代の女性の名前は、本当に分かり難くていけません。
一応、全員女性だという事で話を進めているのですが、もしも足嶋が男性だったら、ストーリー展開は多少変わって来るんだろうなぁ……
本日から『東大寺ミュージアム』オープン、奈良国立博物館では大和高田市の弥勒寺の『弥勒如来坐像』が4日から公開されているし、興福寺も『北円堂』と『三重塔』の特別公開が始まっているという具合に、奈良公園周辺でハシゴをしてまいりました。
『東大寺ミュージアム』、人が並んでるのかなと思いきや、私が行きました11時過ぎくらいにはスムーズには入れまして、館内も人は多くても展示が見えないなどという混み方ではありませんでした。
こりゃ、一月後に『正倉院展』が終わる頃には、かなり空いているかもしれませんわ。
友の会の会員証で入れるので、その頃にまた、ゆっくりと鑑賞に参りましょう。
しかし、『奈良時代の東大寺』という特別展、来年までかと思ったら再来年の四月まで……鎌倉復興の時の仏像や文書関係は、当分の間、展示はないって事?
……で、うちの兄上(だから、誰の事だ?!)は東大寺に帰ったのか???(゚_。)?(。_゚)???
奈良国立博物館では、我らが弥勒さん、しっかり鎮座しておられました。
照明の効果か、やけに表情が穏やかに見えましたわ(^_^)
御堂の修理が終わるのは二年後ですから、こちらでゆっくりしていて下さい。
弥勒さんといえば、こちらの常設展にはえらく男前(?)の弥勒菩薩立像がおられます。
もろ、慶派の顔立ちで、安部文殊院の文殊さんに似ているかな?
しかしですよ、こちらに預けられていた東大寺の宝物や仏像、全て引き上げた訳ではないのですね。
十二神将も残っておられたし、檀像の釈迦如来坐像も以前と同じ場所におられましたわ。
この御釈迦様、あの如意輪観音さんと、顔の雰囲気が良く似ていまして、この二体を見比べるたびに姉と弟みたいだわ~( ̄▽ ̄)。o0○~と思っています。
と言いましても、弟の方が五十年は早く作られているのですが"^_^"
何やら、脳天気な仏像鑑賞をしておりますが……
ところで、ここに上げた鹿どもの画像は何かと申しますと、東大寺境内の吉城川にいた連中です。
鹿たちもかなり冬毛になってきまして、特に親父鹿ほど鹿の子模様が消えてこげ茶色一色に変わりつつあります。
そのような親父鹿と若い雄鹿が、角を切られた頭で早速けんかをしておりました。(上の画像)
どうやら勝ったのは親父(冬毛の雄)だったようで、右の方でソッポを向いている三頭の雌鹿に言い寄りに行きました。(下の画像)
若い雄は少し離れたところで、面白くなさそうに眺めている状況です。
ところが親父鹿、この三頭に全て嫌われたようで、みんなそれぞれに立ち去ってしまいました(T_T)
左の方にも二頭ほど雌鹿がおりまして、あきらめずにそちらにもアタックしたものの、一頭はさっさとお尻を向けて立ち去り、もう一頭は一寸脈あり……でも、やっぱり逃げて行ってしまいました((+_+))
ヤツのいったい、何が嫌われる要因だったのか……強いだけが女の子にモテル要素じゃないんだね、草食獣の世界も?(?_?)?
この後、興福寺の三重塔の初層の公開を見に行きましたが、北円堂はまた次にでも。
更には昨日の続きとばかり、奈良町の御霊神社と井上神社、ついでに崇道天皇社にも御参りして来ました。
御霊神社も崇道天皇社も、秋の御祭を目前に控えて準備に忙しそうでした。
途中で偶然に寄った白山神社で、菊理姫命に怒られたような……近い内にS(友人の魔女)に手紙なんぞしたためて、御礼を送らにゃなぁ( -」)φ
こりゃ、一月後に『正倉院展』が終わる頃には、かなり空いているかもしれませんわ。
友の会の会員証で入れるので、その頃にまた、ゆっくりと鑑賞に参りましょう。
しかし、『奈良時代の東大寺』という特別展、来年までかと思ったら再来年の四月まで……鎌倉復興の時の仏像や文書関係は、当分の間、展示はないって事?
……で、うちの兄上(だから、誰の事だ?!)は東大寺に帰ったのか???(゚_。)?(。_゚)???
奈良国立博物館では、我らが弥勒さん、しっかり鎮座しておられました。
照明の効果か、やけに表情が穏やかに見えましたわ(^_^)
御堂の修理が終わるのは二年後ですから、こちらでゆっくりしていて下さい。
弥勒さんといえば、こちらの常設展にはえらく男前(?)の弥勒菩薩立像がおられます。
もろ、慶派の顔立ちで、安部文殊院の文殊さんに似ているかな?
しかしですよ、こちらに預けられていた東大寺の宝物や仏像、全て引き上げた訳ではないのですね。
十二神将も残っておられたし、檀像の釈迦如来坐像も以前と同じ場所におられましたわ。
この御釈迦様、あの如意輪観音さんと、顔の雰囲気が良く似ていまして、この二体を見比べるたびに姉と弟みたいだわ~( ̄▽ ̄)。o0○~と思っています。
と言いましても、弟の方が五十年は早く作られているのですが"^_^"
ところで、ここに上げた鹿どもの画像は何かと申しますと、東大寺境内の吉城川にいた連中です。
鹿たちもかなり冬毛になってきまして、特に親父鹿ほど鹿の子模様が消えてこげ茶色一色に変わりつつあります。
そのような親父鹿と若い雄鹿が、角を切られた頭で早速けんかをしておりました。(上の画像)
どうやら勝ったのは親父(冬毛の雄)だったようで、右の方でソッポを向いている三頭の雌鹿に言い寄りに行きました。(下の画像)
若い雄は少し離れたところで、面白くなさそうに眺めている状況です。
ところが親父鹿、この三頭に全て嫌われたようで、みんなそれぞれに立ち去ってしまいました(T_T)
左の方にも二頭ほど雌鹿がおりまして、あきらめずにそちらにもアタックしたものの、一頭はさっさとお尻を向けて立ち去り、もう一頭は一寸脈あり……でも、やっぱり逃げて行ってしまいました((+_+))
ヤツのいったい、何が嫌われる要因だったのか……強いだけが女の子にモテル要素じゃないんだね、草食獣の世界も?(?_?)?
この後、興福寺の三重塔の初層の公開を見に行きましたが、北円堂はまた次にでも。
更には昨日の続きとばかり、奈良町の御霊神社と井上神社、ついでに崇道天皇社にも御参りして来ました。
御霊神社も崇道天皇社も、秋の御祭を目前に控えて準備に忙しそうでした。
途中で偶然に寄った白山神社で、菊理姫命に怒られたような……近い内にS(友人の魔女)に手紙なんぞしたためて、御礼を送らにゃなぁ( -」)φ
そういう訳でここは五條市御山町にある他戸親王の墓所です。
国道168号線を南に下り、丹原で県道55号線よりも一本南側の道を西に向かいますと、右手の尾根に白い鳥居が見えますのですぐに分かります。
しかし、周囲は田んぼや柿畑、どうやって行けばよいのやら……畑の入り口の広くなった路肩に車を止めて、細い道をかなり遠回りして(農作業をしている方を尻目に畦を歩く訳にも行きませんので)たどり着きました。
手前に戦没者の墓と慰霊碑があり、墓地に向かう道と墓所に向かう参道に分かれます。
『光仁天皇皇太子 他戸親王墓』
宮内庁の指定する御陵に比べると、遥拝所もシンプルで石碑などもありませんが、いつものように域内立入り禁止や、魚鳥、竹木等を取るなの木の看板は立てられていました。
周囲を一周する事も出来ますが実に小さな墳丘で、もしかしたら6世紀くらいの横穴式石室の古墳なのではないのかとも思えるのですが……勿論、調査は出来ません。
それにしても見晴らしの良い場所で、下に広がる田んぼでは稲刈りの真っ最中でした。
そこから更に西に行きますと、道路の右手に突然、こちらの御陵が現れます。
『光仁天皇皇后井上内親王 宇智陵』
こここそ駐車スペースなんぞありませんで、御陵のまん前に幅寄せして停めるしかありません……(^_^;)
こちらはまだ、柵の内側に前庭があるのですが、いつも出かける御陵に比べると大きさはさほど変わらないにしても、道から直ぐという立地のせいなのかどこか狭苦しい印象があります。
この後に黒駒町にある御霊神社に行き、そのすぐ近くにあるこちらにも寄って来ました。
『五條市指定史跡 黒駒古墳』
7世紀初めに作られた両袖式の横穴式石室を持つ後期古墳で、紀ノ川流域の影響を存分に受けて、結晶片岩の板材を積み上げて石室が作られています。
十年くらい前に台風で半壊したために急遽調査をしまして、壊れた天井なども積みなおして、盛り土もしなおしたのですが、羨道部、板石積みのように見えている部分は実は土嚢です(・_・;)
この後は霊安寺町にある御霊神社の本宮に行ったのですが、この日はちょうど御祭に当たっていて、氏子の方々が直会の席の真っ只中でしたので、早々に引き上げました。
せっかく五條市まで来たのだから、栄山寺にでも久々に御参りするかと思い、その前に……
何年か前に、鳥取の方から遊びに来た知人を引っ張りまわして来た時以来なので、かなり久しぶりです。
周囲は柿畑だらけ、あの時には畑の作業道路にまぎれて、地図をどう見て良いのやら分からず、畑の作業をしていた方に尋ねたところ、
「ああ、武智麻呂さんね」と、簡単に教えてくれました。
しかし、さん付けって、近所のお爺さんじゃないんだからさ……(ーー;)
まあ、お蔭様でこのたびは迷わずにたどり着けましたが、軽自動車が一台何とか通れるような細い道を入って行く事になるので、対向車でも来たら下がるしかない……
幸いにして、畑作業の人すらいなかったから良かったのですが、車を停めるのも道の上(--〆)
基壇の上にはあまり古くはなさそうな石碑が建てられ、
『當寺本願南家始祖贈太政大臣正一位武智麻呂公○尊○』と刻まれていますが……下の方の字が読めない(T_T)
裏側に刻まれた文字によりますと、元禄六年に立てられた碑のようです。
看板に書かれた内容によりますと、『延喜式』には藤原武智麻呂の墓は『後阿陀墓』と呼ばれ、大和国宇智郡にあると記されているのですが、この場所を調査した事はないので、真偽の程は分からないようです。
また『藤氏家伝』には、佐保山で火葬にされたとあるので、それ以降に改葬された可能性も示唆されています。
『家伝』を書かせたのも、墓のある山の下に栄山寺を建立したのも、武智麻呂の次男の仲麻呂ですから、改葬も同様に行われたのだろうと推測されています。
ここの後も栄山寺をはじめ、いくつかの寺社に寄って来ましたので、こちらの事はカテゴリーを改めまして次回にでもm(__)m
奈良豆比古神社の『翁舞』は、毎年十月八日に行われます。
どういう訳か、観光案内では19時からと書かれているのですが、私が初めて見に行った十数年前にも昨夜にも、20時から始まっています。
招待者には国会議員の馬渕氏も来ておられまして……「あれ誰だっけ、奈良市長?」などと、頓珍漢な事をのたまうている観光客の方もおられました(^_^;)
20時になると拝殿にかけられた床を通って、神主さんを先頭に囃し方の笛、小鼓(二名)、大鼓、地謡、三番叟、脇(二名)、千歳(子方)、太夫が登場し、本田に参拝した後にそれぞれの座に着きます。
まずは千歳(せんざい)の舞、そして太夫(たゆう)の舞となりますが、千歳は小学生の男の子が勤め、太夫には途中で二人の脇(わき)が加わり三人舞になるのが有名です。
写真などで紹介されているのは、この三人の翁面を着けた太夫の舞ですね。
ところで……私は『三番叟』の類に全く無知でして、翁(太夫)の舞がどのようなものだったかが思い出せません(・_・;)
祝言の歌の後に舞を舞うくらいは分かっているんですが……気のせいか、ここの太夫、種を蒔いていたような??
『式三番』の翁舞に、こんな所作あったっけ???
三人の翁が着座すると、三番叟(さんばそう)が登場して前舞を行います。
この舞は一番動きも派手で、見ていても分かり易いと言うか、所作も面白いものですね。
この後に三番叟は一旦席に戻り、三人の翁は退出します。
三番叟は黒い尉の面を着け、千歳は鈴を持って共に舞台の中央に進み、どちらが次の舞を行うかの問答を始め、三番叟の鈴の段が始まります。
舞に使われる面は室町時代の物が多く残っているそうで、少なくとも室町時代の初期には舞が確立していた事は分かるのですが、享保年間に記された『奈良坊目拙解』には、かなり眉唾な事が書かれているようで、桓武天皇の御世に春日王の病気平癒のために二人の息子がこの舞を始めたのが、これらの舞の起源だとか云々……
伝承をどこまで信じるかはともかく、少なくとも大和の申楽座が『式三番』を確立する以前より、これらの舞が行われたのは確実なのだそうです。
同様の祝言の舞が、中央権力などと結びつく事によって昇華した『式三番』と、地方芸能のままで存続されて来た『翁舞』の違いが現れているという事なのでしょう。
それを比較できるだけの知識があれば良いのですが……ε-( ̄ヘ ̄)┌
昼前から京都の東山三条まで出て、疎水分水沿いに『みやこめっせ』まで行って参りました。
今年の『京都学生祭典』は明日からのようで、市立美術館や図書館は賑わっているようでしたが、『平安神宮』の参道は割合に静かなものでした。
『みやこめっせ』で何があるかと申しますと、毎度お馴染み、益富地学会館の主宰による『石ふしぎ大発見展』の京都ショーで、今年で既に第23回になるのだそうです。
ここで今年も散在してまいりました……( ̄Д)=3
本日が初日で十日まで行われまして、時間も18時までなのですが、私は16時半くらいには出て来て、そのまま『平安神宮』に一寸だけ御参りしてきましたが、だだっ広い拝殿前の庭には、明日の『学生祭典』のためのステージが出来上がっていました。
その後、バスに乗ろうと思ったのですが、バス停に並んだ人の多さにしり込みして、結局は地下鉄と近鉄を乗り継いで奈良市まで向かいました。
この後の行き先は『奈良豆比古神社』、本日は20時から『翁舞』がありまして、本当に久々に見に行って来ましたので、後ほど画像をパソコンに出して報告など致したく。
実は三時間後、『りゅう座流星群』の一次ピーク、チョイト仮眠してからまた起き出さねば……
今年の『京都学生祭典』は明日からのようで、市立美術館や図書館は賑わっているようでしたが、『平安神宮』の参道は割合に静かなものでした。
『みやこめっせ』で何があるかと申しますと、毎度お馴染み、益富地学会館の主宰による『石ふしぎ大発見展』の京都ショーで、今年で既に第23回になるのだそうです。
ここで今年も散在してまいりました……( ̄Д)=3
その後、バスに乗ろうと思ったのですが、バス停に並んだ人の多さにしり込みして、結局は地下鉄と近鉄を乗り継いで奈良市まで向かいました。
この後の行き先は『奈良豆比古神社』、本日は20時から『翁舞』がありまして、本当に久々に見に行って来ましたので、後ほど画像をパソコンに出して報告など致したく。
実は三時間後、『りゅう座流星群』の一次ピーク、チョイト仮眠してからまた起き出さねば……
これは今年の一月ごろに写した写真ですが、気のせいか、行くたびに毛色というか羽色が変化しているような……世代交代が早いの?単に群れのテリトリーが移動しているの??
以前はもっと白系のやつらが多かったような気がするんですが、単なる記憶違いだと良いのですけどね。
ところで、先より読み直している話で脱線しております。
何をって、登場人物の性格がかなり奇をてらい過ぎてるってのか、変に逸脱しているってのか(・_・;)
自分で書いておきながら、どうしてこういうキャラクターになってるんだと……最も打っ飛びまくっているのは早良親王だったりします。
「先の女帝の時代には干され続け、父上にも散々に牽制されて来たあの老体をわざわざ取り立てたのは兄上だ。父上が病床に付した頃には参議にも任命し、中納言にまでしたというに、あれがどれだけの働きをしたという」
「やはり天皇は、大伴卿を懐柔しようとされておられたと言われるのですか」
「そうでなければ、私が春宮大夫の解任を願うた時に反対はされなんだろう。私はそのような甘い顔は無駄だと言うた。老体が汝の父上と親交を持っていた頃を知っておられるゆえ、兄上もどこか甘い考えを持っておられる。だが、どうして事があるごとに、あの名前が出て来る。寺にいた頃から私の耳には、あれの名前は文人などではのうて、危険人物として囁かれていた。もっとも、治部省関係の役人の言葉ゆえに 、それ程の信憑性もない様に思えたが。今、こうして太政官や中務省に関わりを持って、それが真実だと次第に分かって来た」
甥を相手に言いたい事を言いまくっております。
この人、誰よりもタカ派だわ。
東大寺時代、さぞかし良弁僧正と馬が合ったと思われますし、僧正の遷化後は次期別当の座を巡っての派閥争いの真っ只中にいたと推測されます……ってのか、それらしき事、随所で言っていたりσ(^◇^;)
それにしても、どの話の中でも大伴家持って、録でもない書かれ方してるわ……
若い時は左大臣の犬みたいに白壁王に付きまとってたり、その後も融通の利かない古臭い親父だとか山部王に言われてるし、挙句の果てが危険人物扱い((+_+))
もしかしてこの御仁も、一種のいじられキャラなのでしょうか(?_?)
開成親王がとんでもない事を言い出して、ようやく話が核心に入ってきたものの、これより百川がタッグを組むはずの縄麻呂が、全然、話に絡もうとしないじゃないの(ーー;)
さて、問題。
この御仁、宝亀二年に中納言になって、これから更に出世をすると思っていたのですが、案外ここからのスピードが遅いような気がするんですが、どうしてなんでしょう。
この後、宝亀十年に亡くなるまでの動きが『続日本紀』の上では、殆ど見えないんですよね。
かろうじて、亡くなる年の九月に中衛大将に任命される記事だけです。
この時には、中納言、勅旨卿、侍従はそのままとすると見えているので、どこかで勅旨卿には任命されているようでして、『公卿補任』にはそれが宝亀四年と記されています。
この年には恐らく東宮傅にもなっているので、山部親王の立太子に則しての任命なのかもしれません。
それなのに、何となく昇進が滞っている印象を受けるのはどうしてなんでしょうねぇ……同じ年に亡くなっている百川は、それなりに昇進しているのに。
昨日から、ツジツマ合わせなどを兼ねて、以前に書いた話を読み流していたのですが、ここじゃまだ、縄麻呂の事が殆ど出てこないんですね。
こいつを書いた時には、ここまで胡散臭いポジションにいる人だとは気がつかなかったためですが。
そして百川の事を誰よりも常識人と書いてある……そうすると、縄麻呂の評価は何になるのでしょうねぇ(゜.゜)
ところで、この話に出て来る早良親王が、とんでもなく悪党に思えて仕方ありませんわ、自分で書いておきながらσ(^◇^;)
おまけに、この御仁、式家の種継や北家の小黒麻呂と並ぶ、遷都派の一人だと……書いた本人がすっかり忘れておりましたわε-( ̄ヘ ̄)┌
まぁ、こいつもいずれ、前面書き直しですわ( ̄▽ ̄)。o0○
