忍者ブログ

うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

HOME Admin Write
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

六月十九日、奈良文化財研究所の平城第481次調査の現地説明会に行って来ました。
平城宮跡での現説って、ひょっとして一年ぶりくらいかしら……何せ昨年は平城遷都1300年祭で、満足に調査の出来るような状況でもなかったようですし。
それはともあれ、そちらの報告は明日以降にでも致します。
実を言いますと、急に思い立って『大仏蛍』なんぞ見に行ったので、帰って来たのが21時半くらい……
もしも雨が降らなかったら、また来週の土曜日にでも行こうかな……でも土曜日、仕事の可能性が極めて高いのですが(~_~;)

銀行の駐車場に咲いていた花ところで今回の現説は、この何年かに引き続いて東院地区です。
終わった後に、現場の南に復元されている『東院庭園』をいつものように眺めに行ったのですが、夏は相変わらず池の中に水草がいっぱいです。
ボランティアガイドの方が
「こちらの東院という宮殿には、皇太子が住んでおられたのですよ」
と言った説明をされていましたが、多分思うに、平城京で最後から二番目に皇太子と呼ばれた御仁は、恐らくこの東院にはすんでいなかったと思います。
参考までに申しますと、最後の皇太子は早良親王ですから、その前にそう呼ばれていた人の事ね。

この時には東院は改修されて楊梅宮(やまもものみや)と呼ばれ、完成した宝亀四年には、天皇がこちらに移り住んだと『続日本紀』に書かれています。
そうすると内裏は皇太子に明け渡したのでしょうかねぇ?
「私は既にそれなりの年ゆえに、新たな妃など必要とせぬ。親王や内親王が必要だと言うのなら、それは皇太子に任せておけば良かろう」
とか何とか六十五歳の天皇は、さっさと気心の知れた夫人だけをつれて楊梅宮に引っ越した事でしょう……
「何で俺が内裏に住んで、父上の妃らの面倒を見ねばならぬ……それでなくとも、藤氏を始めとした公卿らが次々と媛御を送り込んで来る、こちらは身の空く暇すらないぞ。おまけに何だと、中務省が東院に移るとはどういう意味だ……春宮坊がこちらに来るだと。父上は一体何を考えておられる、太政官の面々もどうして止めぬ!!」
かくして三十七歳の皇太子はぶち切れる寸前で、怨霊だの呪いだのの相手をしている暇などないのでした……この御仁の病気も過労です、さもなけりゃ仮病?????

楊梅宮の頃の東院の建物群は官衙配置に建て直されたようで、政務の中心は内裏地区を離れて、東院地区に移っていた可能性もあるようです。
PR
歌、数闋(すくえつ)訖(おは)りて、河内大夫従四位上藤原朝臣雄田麻呂以下、和舞(やまとまひ)を奏(つかへまつ)る』

楽人は春日大社の神職さんたちです。今までに何度か取り上げました神護景雲四年(宝亀元年、770年)の三月、河内の由義宮行幸での歌垣に見える記事です。
河内国は由義宮(元は弓削行宮)が造営されたため、国府の替わりに河内職(かわちしき)が置かれ、称徳天皇のお気に入りだったらしい藤原雄田麻呂が、前年に河内大夫に任命されました。

この時の雄田麻呂の役割を私は勝手に、舞人の一人だろうと考えておりましたが、考えてみれば『奏る』と書かれているので楽人の可能性も充分あるのですね。
平安時代などにも宴の場で、公達が自ら舞人を勤めるような場面もありまして、管弦に限らず舞いも教養の一つだったのでしょうから、まぁ、どちらの可能性も否定は出来ないとは思うのですが……
場面としては舞人の方が面白いとは思うのですが、この時の雄田麻呂は三十九歳、果たしてどちらが相応しいものなのやら。
もしも楽人の一人を務めるのなら、さて、何を奏してもらいましょうか。
やはり弾琴か笏拍子あたりかな……(~_~;)

あぁ~、それにしても全面書き直しだわ……相変わらず縄麻呂の役割が決まらない・゚・(ノД`;)・゚・

大和高田市の銘菓!

今日も写真が下手ですみませんm(__)m
知る人ぞ知る、大和高田市三和町にある『丸栄製菓』のあられです。
中和では結構有名な老舗と言えましょうか、御店は工場直営、JR高田駅から歩いて五分程度の所にあります。
一番の売れ筋は何と言っても『えびマヨネーズ』、これが食べ始めたら止まらない、それがもち米100パーセントなのですから、後が恐ろしかったりしますσ(^◇^;)

さて、今週から外仕事になりますので、塩辛い物が食べたくなります。
そういう訳で買いに行こうと思っているのですが、このお店のネックは17時くらいには閉まってしまう事・゚・(ノД`;)・゚・

実はこちらのあられ、委託販売をしているお店もチョコチョコあるようなので、私は尺土駅近く、スーパーマーケットの並びにあるパン屋さんで買って来る事が多いです。
以前には橿原神宮前駅の構内にあったおみやげ物やさんでも扱っていたのですが、今ではコーヒーショップになってしまい、当然ながら売っておりません。
近鉄大和郡山駅前のお好み焼き屋さんの店頭でも売っています。

では、明日の帰りにでも買いに行きましょう(--)
この一週間ばかり事ある毎に考えているのが、相変わらず藤原百川縄麻呂の接点なのですが、もう一つ何となく疑問に思い始めたのが、百川が山部親王を担ぎ上げる理由なんですよね。
娘の旅子を後宮に入れたのは、その結果であって前提ではありませんから、婚姻関係を考えるのは少々無理があります。
式家がこぞって、この親王をバックアップしたと考えても良いのでしょうが、では、その切っ掛けはなんなのでしょう?

まぁ、私の設定では種継が山部親王の乳母子だという理由も挙げられますが、何かもっと決定的な要因ってないものなのかしらねぇ……
もっともこんな事を考え始めますと、皇位転覆のクーデター計画で担ぎ上げられた皇子たちと、担ぎ上げた人たちの関係も、ズバリこれと言えるものがどれだけあるかという事にもつながりますからねぇ……
例えば橘奈良麻呂がどうして黄文王を皇嗣にと考えたのか……母方の従兄弟だから??

ムベの花もしも縁戚や婚姻関係がそいつに結びつくのならば、うちの設定では藤原縄麻呂山部親王の関係を考える方が、かなり容易かったりします。
この二人、実はかなり大きな共通点を持っていたりします……と言いましても、それはあくまでも私の考えている二人の私生活面に置いてですが。
縄麻呂の妻子が全く分からないのは、山部親王が親王宣下される以前に妻子がいたのか云々と同じ理由なんです、私の書いている話では。

ちなみに申しますと、二人ともしっかり妻子持ちですよ。
だいたい、この時代、三十過ぎた権門の嫡男に妻子がいないなんて事になってたら、一族全員が黙っちゃいなかろうって……片や右大臣家、片や大納言家(*_*)
加えて申せば、間違っても若い時には女性に興味がなくって、などという設定はございません。
「上様が衆道を御好みとあっては御家の一大事ですぞ、おふく様!」
などと言われて、あっちこっちから色々なタイプの女性を引っ張って来て、上様の気を引こうとしたような乳母はおられませんから……相変わらず意味不明の例え(ーー;)
しかしだよ、もしもこういう路線で話を進めるとしてだ、衆道の相手ってのは一体、誰になるんだ……考えるとかなり恐ろしい(おぞましい?)話かも(-_-;)
頼まれても、私ゃ書かんぞ……( -」)φ

画像は相変わらず内容とは全く関係なく、五月の初めに咲いていたムベの花です。
称徳・道鏡政権下での藤氏の№2は誰なんだろうと、昼間から何となく考えておりました。

南家の豊成右大臣に返り咲き、その後を北家の永手が続いていますが、これは天平神護元年までの事です。
豊成の薨去後のトップは右大臣に就任した永手で、その後を追うのが年子の同母弟である大納言真楯なのですが、真楯が亡くなった後は誰なんでしょう。
官位から見ますと、式家の蔵下麻呂が従三位なのですが、この人の破格の出世は天平宝字八年の乱での功績によるもので、政治的な手腕はまた別物です。
そういえば、以前にここのどこかの記事で、奈良時代に若い三位などいないと書いたような気がするのですが、蔵下麻呂は三十そこそこで従三位になっているので、例外中の例外だと思います。

それはさて置き八年の乱の後、官位で見て行けば式家の宿名麻呂が正四位上となっで一歩リードしていますが、この人は同時に大宰帥にも任命されていますので、地方に一旦出されているようです。
そうすると次に続くのが、先日から問題にしている南家の縄麻呂となります。

この人は豊成の正妻の息子なので、考えてみれば藤原南家嫡流筋です。
あまり表に出て来る印象の無い人ですが、若い頃から侍従を務め、永手以上に女帝の近くにいる人かもしれません。
この人も式家の雄田麻呂と並んで、矢鱈に官職を兼任しています。
天平神護二年に近江守に任命された時の兼任官を見てみますと、参議民部卿勅旨大輔侍従となっています。
まぁ、藤氏のこの世代のエリート達は、大抵が二つ三つの職を兼任していますが、縄麻呂雄田麻呂は特に多いように見受けられます。

何かやはり、この二人って共通点があるような気がするんですよね。
もしかして後世の伝承に見える、百川(雄田麻呂)が行ったという陰謀の何割かは、この人がやった事もしくは、かなりのウェイトで関わっているなんて事はないのでしょうかねぇ……
考えてみても、あまりに縄麻呂という人の正体は、『続日本紀』などには書かれていないんですよね……
内室、息子、娘の一人も分からないのですから、本当に捉えようがない……
もう少し、周辺を見回して何かヒントでもないか探してみませんとε-( ̄ヘ ̄)┌

……にしても、真鯛の荒だきの食べすぎで胸焼けがする( ̄Д)=3

今年の藁蛇登場ノガミ祭は『野神祭』と書くことも多いようですが、恐らくは『農神祭』が正しいのではと、随分以前に県立民俗博物館の先生から聞いた記憶があるのですが、私は東日本で生まれ育ったため、この類の祭には全く無知です。
何せ静岡辺りでは、こんな祭、聞いた事がない……のは、私が無知なだけ(~_~;)?

奈良県内にはこの類の祭が各地で行われているそうですが、いくつかのバリエーションがあり、橿原市や田原本町、天理市などでは藁で大蛇を作って子供たちが担いで回り、その後に御神木となるような大きな木に巻きつけ、共に直会の食事をするという流れの御祭になるようです。
これも今では子供の数も減少しているので、かなり様相が変わって、縮小バージョンになっているとの事です。

蛇を担ぐのは男の子の役目です。橿原市上品寺町の『シャカシャカ祭』もノガミ祭の一つで、六月五日に行われます。
何でも昔々、この村では毎年長男に当たる男の子を大蛇に人身御供に出さなければならなかったそうです。
ある時に村を訪れた一人の若者がそれを聞き、ノガミ塚に住む大蛇に酒を飲ませて退治したので、それ以来大蛇の供養をするようになったとの伝承があるそうです。

祭の日には昼過ぎから地区の人たちが藁で五メートルほどの蛇を作りますが、ここの蛇は赤い舌があるのが特徴です。
午後四時からは、はっぴ姿の小学生の男の子達がこの蛇を担いで地区内を練りまわすのですが、今年は人数も少なく、小さな子供も多いせいか距離をかなり短くしたようです。

柄杓で蛇に水を飲ませています。ノガミ塚は本来、中和幹線よりも北にあったのですが、あの四車線の交通量の多い道を子供たちに渡らせるのも危険と、今では地区の集会所をスタートして町中を巡った後、集会所の裏にある大きな榎に蛇を巻きつけています。
何でも蛇を担げるのは男の子だけで、女の子は見ているだけ……お祭には良くあるパターンですね。

こちらでのもう一つの特徴が、このように蛇に水を飲ませる行為で、北と南で二度行われます。
本当ならば池のような水の溜まった場所があれば良いのですが、今では近鉄八木駅から近いために住宅地となってしまい、仕方なしにバケツに水を汲み、柄杓で蛇の口にかけてやっています。

蛇を御神木に引っ掛けます。

こうして御神木の榎の元にやって来た蛇は、大人に手渡されて高い枝に引っ掛けられ、今年一年の守り神となるのですが、地区の方の話では、まず一年は持たないのだとか……適当な所で外すのでしょうかね?

この蛇巻きは田原本町今里奈良市西九条町でも行われていて、こちらは無形民俗文化財に指定されていたと思います。
これももしかして、同じ日に行われたのかな、確か六月の第一日曜日と聞いていますので。
天理市には蛇ならぬムカデを藁で作って、神社に納めるノガミ祭があるはずです。

藁の蛇を巻きつける御神木は、一本木さんと呼ばれるようで、蛇がいなくても木をお祭の対象にする地区も多いようです。
同じ橿原市地黄町で五月五日に行われる『すすつけ祭』もノガミさんのお祭で、昼間に行われる子供たちの墨のつけ合いばかりがやたらに有名ですが、これが終わった後に当屋の家に集まり、皆で作った藁の蛇や絵馬やお供えを持って、明け方にノガミさんに御参りに行くのだそうです。
このノガミさんもかつては一本木だったと聞いた事があります。

地区の総代さんと木に巻きつけられた大蛇。一本木さんの祭りもつい十数年前までは、大和高田市広陵町にも残っていたようですが、今では地区の人たちも年をとり、祭りに参加する農家も殆どなくなり、御神木が枯れてしまった所もあるとかで、県などで記録に残したのを最後に耐えてしまった例も少なくないそうです。
大和高田市で行われていた祭りは、おんだの形式のようで、氏子の方々が農作業の奉納をした後に、境内で直会の食事を取ったとか。
広陵町には、高田川沿いの県道の真中に一本木跡の石碑が建てられていますが、ほんの数年前までは枯れてしまった木が残っていました。
ここを潰して道にしてしまうと神様に申し訳ないと、整備して石碑を建てたようです。

藁の蛇を伴うノガミ祭といえば、御所市蛇穴(さらぎ)の『汁かけ祭』も有名です。
これは五月五日でしたか、十数メートルの大蛇を担いで、昔は見に来た人達にワカメの味噌汁を実際にぶっ掛けたとか……さすがに今ではやらないそうですが(-_-;)
それにしても、おんだ祭にしてもノガミ祭にしても、奈良県内にはかなりユニークな祭があるものです。
こういう祭の話を聞くたびに、我ながら民俗行事の方にまるで暗い事を今更ながら実感するのですがσ(^◇^;)
住吉大社の大楠久々に二日も外作業をしたら、とにかく眠くていけません。
そういう訳で、今日はさっさと寝ます。
普段の運動不足もたたっておりますが、なんちゅうても年には勝てぬか・゚・(ノД`;)・゚・
明日は近所で過ごしましょうか、天気が良いので洗濯もせにゃ。

しかし試掘では地味に当たったけど……
いざ調査区をあけ始めたら、撹乱は派手ですわ。
包含層の様子からすると、様相はそこそこ期待できそうかも(゜.゜)
またもや古墳時代だわ……

かなり地味な花盛り…楠の花

例えば藤原小黒麻呂は、叔父の永手が亡くなった宝亀二年には三十九歳、従五位上中衛少将兼上野守かな?
永手の末弟、楓麻呂は四十九歳、正四位下右衛士督兼讃岐守。
永手の息子の家依は二十九歳、従四位上式部大輔兼近江守。

本来は北家の嫡流筋のはずの小黒麻呂は次男という事もあってか、永手の嫡男の家依には十歳の年齢さがあるにも拘らず、官位もポストも水をあけられているという状況です。
もしもこの三人から、百川縄麻呂の協力者を選ぶとしたら……やはり家依になるのかなァ?
しかし、この人にせよ他の二人にせよ、一体何をしてくれそう??

この後を見ると小黒麻呂は山部親王からの覚えはあまり良くないような気がするのですが……というよりも、親王禅師こと早良親王と仲が悪いのかな?
やっぱり、この世代の北家は何となく、やりにくい連中ばかり(-_-;)
書き直しをもう一度書き直さねば……

既に二百枚(四百字詰め換算)程度すすんでおりますが、完全に行方不明の登場人物がいるのに気づきました……σ(^◇^;)
藤原豊成亡き後の南家で最大の実力者、そして永手の突然の薨去を受けて覇権を競う北家の曲者ら、要するに藤原氏に関してみると、式家の連中しか出て来ていない……(--〆)
これじゃ、時勢が見えないも同然と違うか??

南家のトップは既に縄麻呂だと決めているのですが、この人と百川の関わりがうまく収まらないんですよね。
この御仁は何処の出身だったか、若い頃から侍従を務めているのは確かなのですが。
二人がダブる部署って、侍従と参議くらいかな、もしかして(・・?
しかし、この頃の南家は縄麻呂が姿をはっきり見せないせいか、どこか捉え所がないような(゜.゜)

北家の勢力争いは、年齢的に魚名に軍配が上がるでしょうね、その結果として永手の薨去の翌月には大納言に就任しているし。
小黒麻呂も家依も年齢的には若すぎるので、これは当然といえば当然ですが、果たして北家の内部は何処まで統率が取れているんでしょう?
勝手なイメージだけれど、永手に比べると魚名は余り求心力がなさそうだし、どこか詰めが甘いような……(~_~;)

相変わらずの変な土馬藤原氏の第四世代は、ずばりと言えるほどの決定的な実力者がいないような気がしますわ。
宝亀年間はまだしも、延暦年間になるとズタボロ??

ところで今日の画像は、また最近増殖し始めた粘土の馬です。
少し前に取引先の会社の女性がかなり引き取ってくれたのですが、性懲りもなく片手間に作ってしまいます。
冬場はストーブの上で焼いていたのですが、職場でもとっくにストーブは片付けられてしまい、この先は乾燥させて置いておくだけになりそうです。
しかし、短足なのばかりだから相変わらず馬に見えない……
手前右はチョッと長い脚にしてみたのですが、やっぱり犬か何かに見えるような(-_-;)
ちなみに私が気に入っているのは、左の変な駄馬、ヘンリー・ムア的に作ってみました( ̄▽ ̄)。o0○ ……何処が(・・?
鎧と一口に言って私が真っ先に思い出すのは、ごくスタンダードに大鎧で、次に思い出すのが古墳時代の単甲桂甲だったりします。
しかし人によっては、戦国時代のドラマや城下町で行われる城祭りなどで、武将役の人たちが身に着けている当世具足かもしれません。
私は戦国時代に疎いせいなのか、案外、こいつを思い出しません(~_~;)

二人がかりで着せ付けて行きます。昨日の日曜日、春日大社の『いのちと心の講座』の一環で『見て!触れて!感じる!鎧講座』が行われましたので参加して参りました。
正直、二月に行きました『
女房装束とその歴史』よりも、こちらの方が遥かに私の好みと申しますか、興味対象としてはウエイトが高いですσ(^◇^;)
これが刀剣など、武具の類ですと更に喜びますので、我ながら危ない奴です……(-_-)

まずは大まかに、鎧にはどのような種類があり、それらが時代によってどのように変遷をたどり、どのように使用されてきたのかの解説があり、絵巻の『春日権現験記』にはどのように描かれているのかを見て、『春日若宮おん祭』の風流行列に使用される具足を実際に手に取って、身に着けてみようという試みの後、宝物殿に展示されている国宝や重文の大鎧や胴丸を見てみましょうという流れで終了です。

フル装備すると、結構暑いし重いし……このようにモデルの方にはフル装備をして頂いたのですが、おん祭などでもこのような格好で、約六時間は過ごさなければならないそうで、最後の方には皆さん悲痛な形相になって、「早く脱がせてくれ~」という状況になるのだそうです。
重いのやら窮屈なのもあるけれど、特に胴の部分が固定されて動かせないので、これが一番辛いと言われていました。
いつぞに大和郡山市の山川氏が筒井城の発掘現地説明会の時に、城祭りのための具足を着けて説明をした事があるのですが、当人曰く、「後悔した……」だそうです(-_-;)

平安や鎌倉の戦のように弓馬の合戦というよりも、戦国時代には雑兵や足軽らの歩兵部隊による接近戦が増えたため、鎧も武器も変化をして行き、防備する箇所も増えて、本来ならばこのスタイルに面頬も装着するのが正しいとの事。
しかし、ドラマでは俳優の顔を隠す訳にも行かないと、ほぼ、これは省かれております(^^ゞ



ここで相変わらずの戯言など……ε-( ̄ヘ ̄)┌

ところで『春日権現験記』などの絵巻に見る上代の合戦には、馬上で刀を振り回すようなシーンはあまり描かれていないそうです。
いつぞの大河ドラマで滝沢秀明さんやら小栗旬さんあたりが、大鎧を着て馬上で大刀を振り回していたような気がしますが……これは合戦としては、かなりやばい状況です(*_*)
馬上の大将を固める郎党らが討ち取られて、自らが弓を打ち捨て、馬上刀で歩兵らをなぎ払う……
絶対にあんなさわやかな顔して、長モノ振り回せる訳がないって……
それにあの時代の馬上刀ってのはかなり反りが大きくて、上から下に打ち下ろすよりも文字通り薙ぎ払うのに適していたと、昔々に教えてもらったような(゜.゜)
このように、歴史ドラマの合戦シーンには、戦国でも源平でも、はたまた幕末でも、突っ込みどころが満載なのだそうで( ̄▽ ̄)。o0○

絵巻の合戦シーンでは大鎧を着た武将が、馬上で振り向きながら矢を射る場面が時々描かれていますが、こいつを見る限りでは、大鎧は当世具足の腹巻や胴丸などとは違って、上半身がかなり自由に動くように設計されていたようです。
……にしてもだ、鎌倉時代になると馬上弓もかなり長くなるのだから、本当にあのパルティアンショットは可能なんだろうか?
正倉院御物などの画像に見るパルティアンショットは、大抵が短い弓を使用していたような気がするしなぁ。
誰か、七尺三寸の長弓でやって見せてよ……などと不謹慎は言うんじゃない(--〆)
おまえは誰か
HN:
うめぞー
性別:
非公開
自己紹介:
明日は歴史作家!

カレンダー
12 2026/01 02
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

お天気情報

-天気予報コム-

最新コメント
[02/06 賀茂史女]
[02/05 うめぞー]
[02/02 賀茂史女]
[01/30 うめぞー]
[01/30 マム]

ブログ内検索

メールフォームです
今日の参考に

Copyright ©  -- うめぞー、思案中 --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Material by 押し花とアイコン / Powered by [PR]
 / 忍者ブログ