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今日、用事がありまして久々に京都に行って来ました。
行き先は高島屋京都店だったのですが……
私、高島屋と大丸の位置を間違えておりまして……(゜-゜)
何せ、四条辺りって年に一~二度も行けば良い状況でσ(^◇^;)
ところで久々に四条河原町近辺を歩いていて思い出したのですが、二十年くらい前に高島屋のすぐ隣辺りに、かなり古い喫茶店がありました。
関西でも珍しいくらい古いタイプの自動ドアがありまして、こいつを見に行ったのが切っ掛けで、何度か行った事があります。
何せ昔は阪急沿線に住んでいたので、四条辺りには出易かったんですね。
自動ドアは、今では当たり前のスライド式ではなく、普通のドアのように開くので最初はかなりびっくりしましたわ。
メニューはかなりオーソドックスな物しかなかったような。
しかしガラス張りの中庭がある、こじんまりとしたお店で、屋根伝いに近所の猫が遊びに来るような面白いものが見られました。
まあ、十年も前には既に、ここのお店もなかったと思うのですが……
なんという名前の喫茶店だったのかなぁ、思い出せませんわ(+_+)
『日本書紀』に最初に名前が出てくる時は、粟田臣真人、天武十(681)年十二月、小錦下(従五位下相当)の位をもらった時です。
この時に三十歳前くらいと考えますと、それこそ文武天皇朝以降にコンビ(?)を組む事になる藤原朝臣不比等と、あまり変わらない年齢になるようです。
それでも、もっと年上になるという説もあるようですが、取り敢えずは同世代と考えておきましょう。
まぁ、大宝律令の制定にも貢献していますが。
遣唐大使に任命された時は直大弐(従四位上相当)、出航の前には正四位下参議に任命されています。
多分、四十代半ばでしょうから、官界では一番油が乗っている時期でしょうか。
そして帰国した翌年、慶雲二(705)年には従三位中納言になっています。
更に和銅元(708)年に大宰帥にも任命されていますが、この時は恐らく遥任でしょうか。
そういう訳で、この人が大宰府にいたのはいつか?
実は朱鳥年間と申しますか、日嗣皇子称制の頃です。
まぁ、普通の日本史年表では、鸕野大后の称制時代として、持統天皇元年~三年にしておりましょうが。
筑紫大宰(つくしのおおみこともち)という役職で、三度ほど見えています。
年齢や経歴から考えて、後に言うところの大宰少弐くらいに考えれば良いのでしょうかねぇ。
朱鳥四年(持統三年・689年)、四月十三日に日嗣皇子の草壁皇子が亡くなります。
何と、このたった七日後、筑紫に新羅の船が着いたようです。
表向きは先帝崩御の弔問のようですが、まぁ、あまりに微妙なタイミングで……
この頃には耽羅(済州島)は新羅の属国でしょうから、この辺りを基地として何らかの様子を察知して、様子を探るような船を出していると考えるのも、穿ちすぎか否か……
『日本書紀』の記述によれば、新羅弔問使節の身分が低い事を理由にして入京を拒み、七月までは大宰府に留めて帰国させています。
この時の筑紫大宰が、まさに粟田真人その人です。
新羅使節が帰国した二月後、筑紫大宰は別の人に代わりますので、粟田真人は都に帰った事でしょう。
そして翌年の正月、鸕野大后は即位式を上げて持統天皇となります。
天武天皇の崩御の後という微妙な時期に、この切れ者とも言える人物を外交の最先端たる大宰府に置いたのは、さて、日嗣皇子でしょうか大后でしょうか……
私の設定では前者ですが、いずれにしても為政者からは常に、『出来る男』として認識されていた人のようです。
粟田朝臣としては最高位、正三位にまで昇りますが、養老三(719)年になくなった時の官職や年齢は『続日本紀』には書かれていません。
私が以前に書いていた話では、この内郭の中に池があるという描写があるんです。
ところが、飛鳥宮Ⅲ期の建物配置図を見ますと、池なんぞどこにあるのよ?
そういう訳でどうして私が池の描写を書いているんだろうと、先日から疑問が起きておりまして、ようやく重い腰とばかりに、2005年に橿原考古学研究所が行った『飛鳥京第153次調査』現地説明会資料を引っ張り出しました。
この調査の次の年に行われた155次調査(すぐ北側を調査しました)でも、ここで出た建物と同規模の建物遺構が検出された事で、かなり話題になりました。
ところで、153次調査のリンク先の画像を見て頂ければ分かると思うのですが、確かに内郭北区の建物の西側小殿(建物3)を壊して、池状遺構が造られています。
こいつが天武天皇の時代の後半、恐らくは十年前後に行われたのではないかという可能性が指摘されているそうです。
こいつが本当に池なのかは、何やら微妙なところらしいのですが……(゜-゜)
もしかして、書き直した部分、この既に取り払われた小殿で何やらしているようなシーンがなかったかしら?
また、こんな事をチェックし直さないといけませんわ……(+_+)
もうすぐ書き直し自体は終わるのですが、ともあれ、ルビでもふりながら見直して行きませんと。
ところでこの画像は何かって?
明日香村にあります『カフェことだま』のスイーツメニュー、黒ゴマと米粉のシフォンケーキ、美味です(^.^)
明日香村という地域繋がり(?)で上げてみました……?(゚_。)?(。_゚)?
遷都1300年祭の会場でNHKの『やまとの国宝』のトークショーとライブをやると聞いたので、そちらを聞きに言ったついでに、今日から平城宮資料館で行われる特別展示を見て来ました。
このようなタイトルで、平城宮発掘50年間で出土した主要な木簡を約100点ずつ、途中で二回の展示替えをするそうで、全部で300点余を展示するのだそうです。
木簡は読めさえすれば、かなり面白い第一級史料です。
ところがこれが、度素人には分からない……だって、漢字ばっかり(+_+)
それも旧字体どころか、妙な略字体もあるし、書き損じはあるし、何よりも完全に残っているとは限らないし……と言うか、完全な物の方が少ないです(;_;)
この画像はかの有名な
『長屋親王宮鮑大贄十編』と書かれた荷札の木簡です。
この頃、長屋王はまだ式部卿、左大臣になるよりもかなり前のようです。
まあ、こういう扱いを受けてるから、最高実力者(何度も言いますが、臣下ではありませんぜ)から睨まれる訳なのよ……の根拠(?)にもなったセンセーショナルな発見ですねσ(^◇^;)
時々、こういういたずら書き的なヴィジュアル史料も出てきます。
官人にも絵心のある人がいたのか、それとも専業の絵師が片手間に描いたのか、無茶苦茶、味がありますわ ^m^
二条大路木簡ですから、皇后宮職か藤原京家に使えていた人が描いたのでしょうねぇ。
右端の人みたいに、幞頭(ぼくとう・頭にかぶってるやつね)の紐を長く垂らすのとか、この頃、流行ってたんですかねぇ?
この人が向かい合っているのは女性かな??
ところで最後の部屋に、最近出土した木簡を読んでみて下さいと、綺麗な楷書で書かれた木簡片が、二枚ほど水に漬けて置かれていたのですが……
これ、クイズになっていたので詳しい内容は書けませんが、片方には日付(年は不明)と官位と名前の一部が書かれているんですね。
この名前(名字です)が私の思う読みで良いのなら、この階位まで上った該当者が一人しかいないんですよ、少なくとも『続日本紀』に出てくる名前では。
これがまた、超有名人でして……やっぱり、私の読み方、間違ってるか???
それにこの人だとしたら、この役職は記録に書かれてないからなぁ……(?_?)
第二期の展示は10月13日から、面白そうなので、また見に行く予定です(*^_^*)
それにしても、さっき、変なIMEをインストールしたのですが、使い勝手がかえって悪いような……
辞書の登録も全然使えないし、新しく登録するのもどうしたら良いのか、覚えるだけで鬱陶しい《゚Д゚》
変な顔文字だけは、やたらに出るけど。
矢鱈にが一発変換しないじゃないの?!!!
それはさて置き、今日は完全な缶詰状態でしたわ。
雨天、荒天を良い事に、一歩も外に出ておりません。
延々と書いておりました。
しかし、うちの志貴親王って、結構、いい奴かも?
性格、目茶苦茶なところあるけど……
一番、目茶苦茶な性格しているのは、間違いなく草壁皇子ですけどね。
この話で一番の常識人は、間違いなく鵜野大后(だから登録辞書が使えない!!)ですわね。
やっぱり、このIME、漢字にかなり弱い。
アンインストールしたろうか???
アホくさくなって来たから、今日はもう寝ようっと(`Δ´)!
出てくる顔文字も、かなり変?!
猫に朝六時前に起こされた時には何故か薄日が指していて、天気予報が外れたかな、などと希望的観測をしていたのですが、六時過ぎに突然、バラバラっと来まして、そこから暫しの土砂降りとあいなり、今の今まで降ったり止んだり、いや、今は本降りですね。
先程の止み間にウメナさんが外に出て行ったけど、どこで雨宿りしてるんでしょう?
濡れて帰って来られたら、ちと厄介だねぇ。
そしていつものように、書いていて疑問……(゜-゜)
喪屋は掘っ立て小屋だろうなぁ。
床は張ってあったのか、多分ないだろうなぁ、それじゃ、中に籠もっている人は土間に直接座るのか?
何か仮の床のような物でも張ってあったのか、それとも毛氈状の物でも敷いていたのか??
そもそも、喪屋に男が出入りしても良いものなのか???
この辺、完全に無視して書いていますねσ(^◇^;)
床が張られていない場合は、そこに入る人はどうしていたのか?
例えば藤原宮や平城宮(第二次)の朝堂院の第一堂には、床が張られた形跡がないそうです。
ここに入るのは太政官メンバーや主だった皇族でしたか、この方々には椅子が用意されていたと考えられます。
その他は床が張られ、沓を脱いで、床に座っていたのだろうと考えられます。
でも、殯の庭の儀式ならばこいつも有りだけど、喪屋は故人と未亡人以下、女たちが籠もるための仮屋なのでしょうから、椅子に座っているのも、かなり変……だって、ここ、日本だよ(+_+)
まぁ、何か仮の床があるのでしょう、そういう事にしておきましょうっと(-。-)y-゜゜゜
そういえば洗濯物を干す前に、ベテランの女性歌手が熱唱してたけど、あまりに鬱陶しくて思わずテレビを消してしまいました。
この歌ってマジ、この人の持ち歌の一つだよね……何を良い年して、自分の歌に酔っているんだろうね、昔からこの人の歌い方、どちらかと言えば嫌いな方だったけど。
それはともかく、こちらはもっと変な話に酔っ払った気分ですわ。
何を隠そう、一昨年にかいていた自分の話です。
主人公と相棒(中大兄皇子だったりする)の、かなりぶっ飛んだ変人ぶりがすごい(@_@;)
何で、うちのキャラクターって世代を遡ると、壊れ方が激しくなるんでしょう(?_?)
主人公なんて、御国に帰ってから戦争の話しかしてない……ってのか、戦争しかしてない。
今書き直している話も、主人公とその周辺、多少壊れてますけど、父親の世代は更に変?
中臣鎌足なんて、完全に人格も壊れてるような……σ(^◇^;)
それにしても、書き直し実行中の話は、ある意味で私の話の原点です。
一連の話が、この主人公の志貴親王から始まっていますからね。
そして、ここ最近考え始めたのが、この話の続きを考えなければという事なのですが、これがかなり難しいような気がしています。
ずっと放り出してあるHPの『お題』で、メモ程度に書いていたのですが、こいつが停滞している辺りから、話が過激と言うか困った方向に進む訳なので、どうもこちらとしても筆が重いような……
ともあれ、今月中にこれを何とか致しまして、十月からも書き直しの予定を既に考えております。
今度こそ、件の六百枚超、まともにやっつけなければ。
書き始めた時には、どうしてこんなテーマを選んだのか良く分からなかった話です。
何せ、この中心となる天平勝宝九歳というか天平宝字元年のクーデター未遂、『続日本紀』で読むたびに、胸が悪くなるような思いをしていた事件なんですよね。
これを言ってしまうと、今書いているやつも同じですかね。
こちらは朱鳥元年、あまり書きたくない事件を挟んでの物語ですからねぇ。
そして先月まで書いていたのが、もっとやる気の無かった長岡京遷都だったりするし……
どういう訳なのか、書く気がなかった話ほど、変に力が入ってねぇ(゜.゜)
さて、もう少し続きをやりますか。
それにしても、殯宮がどうしても囲い型埴輪のイメージから抜け出せない……
水辺の祭祀、やってるんじゃないのよ、まったくε-( ̄ヘ ̄)┌
ただいまの進み方では、絶対に増える事、必定(ーー゛)
354枚が、さて何枚になるんでしょう。
相変わらず主人公格の二人が、いつものように話しこんでおります。
何を話しているのかと思えば、人の噂ですわ……どこかのオバサンら宜しく。
今、槍玉に挙げられているのは、この前まで出て来ていた連中の祖父というか曽祖父というか……つまりそういう世代ですから。
そして日嗣皇子から、こいつに似ていると言われて、マジ切れ仕掛けている百済王真鳥――まだ、持統女帝から正式に百済王の名前を貰っていないので、扶余真ですが、似ていると言われた相手に引きずられて、こちらも変な人になりつつあったりして(@_@;)
かつては、うちのキャラクターには圧倒的少数派の好男子だったのに……
結局、多数派の変人の仲間入り?
ところでこの画像は見たまんまの物です。
例年なら既に萩の花も見ごろのはずが、今年は残暑と少雨を受けて、大して咲いていません。
昨日の九月二十日が、今年の志貴親王御忌でした。
土曜日の新聞には、2000個以上の桃の種が籠と一緒に出土したと、写真入で報道されていた、桜井市教育委員会による纏向168次調査の現地説明会です。
昨年、一昨年と隣接した調査区をあけた結果、ほぼ東西方向に企画性を持って建設された建物群が検出された、纏向遺跡の中核的な場所の調査が今年も引き続き行われました。
一昨年の調査で、建物群を囲んでいた柵列の延長も検出されまして、その外側には何があるかも期待されたのですが、今回の調査範囲では、他の建物などは検出されておりませんでした。
件の沢山の桃の種は、この画像の大きな穴から出てきました。
ここから出土した土器の年代は三世紀の中頃、北側で昨年までに確かめられた建物群が廃絶した時期に、ほぼ合致するのだとか。
そのような訳で、建物を壊す時に何かの儀式(祀り)を行って、それが終わった後に供物や土器などをまとめて、こちらに捨てたのだろうと考えられます。
ちなみに建物群は、掘っ立ての柱を抜き取っている形跡があるので、人為的に壊されているようです。
この度の調査も前年度と同様に、四世紀後半に掘られた大きな溝が真ん中を横切っていまして、土坑の一部も柵列も壊されています。
多分、桃の種の何割かも、これで持って行かれてしまって、本来ならばもっと多くの桃の実が埋納された可能性もあるのだとか。
弥生や古墳時代の集落遺跡から桃の種が出るのは、格別珍しい事でもなく、私の知る限りでは水辺の遺跡には付き物のようです。
確か、明日香村の亀形石造物の周囲でも、若干出ていたと思いますので、七世紀くらいまではメジャーな遺物なのかもしれません。
ところでこの日(19日)の予定としては、奈良町で春鹿酒造の蔵開きがあるので、そちらで昼酒などをかっ喰らおうと、ホクホクしていたのですが……この現説があったおかげで、見事にそちらは流れました。
「大体、蔵開きは春先に行くものよ」
このような友人のアドバイスもありまして、来年の新酒の時期に、どこかの酒造での蔵開きを期待しまして、夕方からは明日香村の彼岸花祭りのメインイベントの一つ、劇団『時空』の公演を二年ぶりに見に行ってきました。
え~と、感想は自粛ね。
何せ、私のやっているジャンルとは全く別物だと思っているので、純粋に見て楽しむべし。
そっちに関しては、十二分な経歴と実力を持っている劇団ですしね。
下手な背伸びをしていないのに好感が持てますので、もしご近所で御覧になった事のない方は、一度見に行かれる事をお勧めいたしますm(__)m
