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これも平城遷都1300年祭の一環でしょう。
ところで、こちらのお寺、かなり分かりにくい所にあります。
何せ大きな道にまったく面しておらず、古くからの住宅地の中の細い道を入って行かなければなりません。
おかげで、近くの神社はすぐにたどり着けたのですが、そこから目と鼻の先のお寺が見つからなくて、何度も同じような所を巡っておりました(-_-;)
本来が観光寺院という存在でもないようで、通常の時は拝観料もとくには設けておられないようですが、今回の特別公開は有料です。
そして寺宝等は写真撮影可、ただしストロボ等は禁止だそうです。
最初は誰もいない貸しきり状況かと思いきや、思い出したように二人、三人の人達が拝観に来ておられました。
こんな地味な(と言っては失礼か……)特別展示にも、皆さん、興味を持って下さるんですねぇ。
ところで忍性菩薩ってどなた?
鎌倉時代の僧侶で、またの名前を良観、この額安寺の中興の祖で、ハンセン氏病治療のために『北山十八間戸』を建てて社会奉仕活動をした事でも有名ですが、晩年は主に関東で活躍したようで、鎌倉の極楽寺で亡くなられたそうです。
私はずっと"がくあんじ”と読んでいました(・_・;)
聖徳太子が建立した『熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)』が、この寺の前身だとされています。
額安寺の名前の由来は、推古天皇が額に怪我をした時に、この精舎で治癒の祈願をされたところ、痕も残らずに綺麗に直ったとの事で額が安らかな寺としてつけられたのだとか……推古天皇は確か、額田部炊屋姫という名前でしたよね、むしろそちらに関係するのでは?
歩いてすぐのところに、『推古天皇社』という神社もあります。
そしてこちらには、このような虚空蔵菩薩の半跏像があります。
道慈律師に由来した奈良時代後期の作で、最古の虚空蔵菩薩なのだそうです。
随分と綺麗に色が残っているなぁと思いきや、鎌倉時代に修理されているようです。
私はこの方が御本尊だと思っていたのですが、本堂のご本尊は室町時代に作られた十一面観音でした。
そちらの御方も、彩色が綺麗に残った穏やかな尊顔の仏様です。
それにしても、本当に奈良県ではチョッとした御寺が実は歴史や格式を持っていて、どうしてこんな所にこれ程の御像が残されているのだろうと驚く場所が多いです。
つい最近も、とある平安時代後期の仏像が県の重要文化財に指定されたのですが、無住の御寺に安置されているのだそうです。
こちらのように、住職さんもおられるしっかりとした御寺なら大丈夫ですが、そうでない場合は御近所の方々が管理をされているそうです。
色々と大変な事があるのですねぇ……
自慢ではありませんが、私の文章は朗読には向かないと思います。
脚本なんぞ書いた日には、台詞の噛みまくりも必定ではと思います。
ネスカフェ・ゴールドブレンドのHPの朗読コンテンツで試してみたところ……文章をそのまま入力すると、殆どまともに読んでくれないんですね。
おかげで、不必要に平仮名に直して、何とか意味の通る文章になったというところでしょうか。
そういう訳で、山部王のボヤキです。
もう少し、色気のある文章を入力したところ、差し障りがあるらしく拒否されてしまいました(^^ゞ
やっぱり、この御仁に色事は似合わないのね……って訳じゃなくて(-_-;)
半年に一度の大散財日(!?)
益富地学会館主催の『石ふしぎ大発見展』大阪ショーの初日だったのでσ(^◇^;)
このたびも阿呆ほど買って来た石ころ類、気が向いたらまた御報告奉ります。
ところでこの画像は何かと申しますと、先週に奈良町で飲んだカプチーノです。
どうして奈良町で坂本竜馬なのかは、チョイト疑問なのですが、『寄鶴軒』というギャラリーカフェにて販売中です。
御覧の通り、泡で描く本格的なものではなく、泡の上にココアかカラメルらしきパウダーで型抜きしているようですので、割合に普通の値段?
同じようなカプチーノで『せんとくん』ヴァージョンは、近鉄奈良駅や西大寺駅構内のカフェでもやっておりますので、来週辺りに、こっちも飲みに行って参ります(^。^)
知っているようで、割合に皆知らない花の一つに、枳殻(きこく・からたち)があります。
何といっても北原白秋の『からたちの花』が有名ですから、名前は誰もが知っていると思います。
橘も同じ柑橘系、五枚花弁の白い花ですが、花弁はもう少し幅が広く、先もとがっている星型なので、印象はかなり違います。
とげもカラタチほどは大きくありません。
カラタチは畑ならぬお寺の垣根、この花は奈良市の法華寺に咲いていました。
光明皇后の母親、橘宿禰三千代にちなんだのだと思いますが。
ところで、この寺の境内には橘の木はあったかしら(~_~;)
どうも何やら良く分からない画像ですねぇ……
相変わらず写真の腕が悪いので(-_-;)
これはスミレです。
多分、日本菫だと思います。
咲いていたのは、平城宮跡の東院庭園です。
日曜日に大和高田市にある長谷本寺の十一面観音像の修復落慶法要があったので、午前中に少しだけ覗いて参りました。
その時に、寺の近くの空き地に西洋タンポポと一緒に、かなりの数が群れ咲いておりました。
最近、少なくなったとは聞きますが、咲いているところでは、これでもかと言うほど存在感を示しているようです。
この色は、やっぱり映えますからねぇ。
私のような田舎者には、この花は特に珍しい訳でもないのですが、都会育ちの方は多分、分からないのでは……そういう訳で、これは五葉アケビの雄花です。
今の時期、ちょっと山に行きますと良く見られます。
薄紫でやや地味ですが、なかなか可愛い花です。
三つ葉アケビはもっと濃い色の小さな花、ムベは白っぽい花だったと思います。
こいつが秋になると、あのおなじみのドヨンとした実を着けるんですね。
特集の記事の中で監修の古代史の先生が、藤原氏による官僚政治の確立により天皇権が弱くなったのが奈良時代云々、といった内容を言われておりました。
これってどう捉えれば良いのでしょう……つまり、天皇権が最も強い時代をいつに置いての発言なのでしょうねぇ?????
律令制を導入した事により、専制君主による独裁体制ではなく、官僚による合議政治らしきものが始まったのを飛鳥時代に置くのか、白鳳時代に置くのか、奈良時代にまで持ってくるのか……
私個人の意見では、天皇権が最も強化するのは、決して天武朝でも持統朝でもなく、聖武天皇以降だと思うのですが……
なんちゅうか……監修者の先生、とにかく藤原氏に対しての過大評価をし過ぎているような気がするのですけれど、それが転じて天皇権の低下とするんでしょうかねぇ。
こうなると、一大専制君主(になりたかった)桓武天皇なんて、どう解釈するべきなんでしょ(ーー;)
まぁ、要するに、この先生の意見には同調できないと言うだけの事かね。
この調査の現地説明会が、17日の土曜日に行われたので、好天強風の中、行って来ました。
何でも6メートル幅のトレンチを100メートル以上に渡って開けているので、遺構の種類は分かるものの、全容はとにかく次期以降の調査で広げなければ分からない状況です。
それにしても見事な建物群が大当たりしています。
これまでの調査で既に判明している12メートル幅の宮内道路の南側にかなり大きな築地塀があり、そこから50メートル余南に再び大きな築地塀があって、その南にまたもや12メートル幅の道路があって、一つの地区を形成しているようです。
この地区には更に二つの低めの築地塀の跡が検出されていて、それらに仕切られて礎石建ちの建物が三棟分検出されています。
その内の一番南側の建物跡は床束を支えていた小さな礎石も残されていて、床が張られた建物だった事が推測できるものです。
それが上の画像なのですが……よくもまあ、この浅い位置で遺構が残っていたものかと感心します。
技師の方が示している瓦の列は、床を支えるための基礎ではないかとの事です。
土地が低くて緩いので、このような補強が必要だったのかもしれません。
それにしても役所で礎石建ちの建物となりますと、かなり特殊な存在ではないかと想像できます。
私としては……ようやく中務省が出て来たかな??といったところ(^。^)
そのような事は、現場を担当している方は全く触れておられませんでしたが(-_-;)
ちなみに、築地に仕切られた建物群と広い道路を隔てた更に南には、掘建て柱の塀に仕切られた、掘建て柱建物が二棟検出されています。
こちらは北側エリアとはかなり違う性格の役所があったようです。
現在の地形を見ても南北に走る細長く浅い谷にあたる場所なので、これらの建物群の西に並行するように、かなり長い水路の存在も確認がされています。
この位置に東宮を持ってくる事が相応しくなかったために、更に東のゆるい舌状尾根に東院が造られて、平城宮はあのような特異な形になったのだろうというのが、ここ最近では有力視されている説です。
今年のお旅所祭のものも、天気が聞こえて下さい?
秋になっております事が、どうなりますと読みますと読みます。
今年の京都御所の記事及びリンクをテーマに由来する楽所の暖かされて下さい。
京都御所に由来すると読みますが終わっておりますと読みます?
ところで私は舞』そしてこちらは舞です?
初日辺りが狙い目だった事は右方の暖かされているようです。
秋に、御所に所属すると読みます。
*このエントリは、ブログペットの「てむじん」が書きました。
今年の京都御所の春の一般公開は四月七日から11日まででした。
私が行ったのは、十日の土曜日、天気が良くて暑いくらいの日でした。
初日のニュースでは、『左近の桜』が満開の見頃と言っていましたが、週末の暖かさのお陰で、土曜日には既に散り始めていました。
他の桜も、満開の見頃のものもあれば、既にあらかたが終わってしまった木も見られまして、やはり初日辺りが狙い目だったのかも知れません(^^)
十一時くらいに御所に着きましたところ、どこからか太鼓の音が聞こえてきます。
更に奥に行きますと、特設舞台にて『平安雅楽会』による舞楽の御奉仕が行われていました。
『平安雅楽会』は新京極にある『錦天満宮』に所属する楽所らしいのですが、あまり詳しい事は知りません。
京都での雅楽演奏では、かなり活躍されているようです。
上の画像は左方の走舞『蘭陵王』
そしてこちらの画像は右方の『納曽利』
この二曲で番舞(つがいまい)になっています。
『和舞』と書いて『やまとまい』と読みます。
春日若宮おん祭のお旅所祭では、必ず行われる舞です。
詳しい事は、こちらの記事及びリンクを参照して下さい。
こちらは『五節舞』
大嘗祭や新嘗祭の時に、五人ないし四人の女性によって行われる舞だそうで、これこそ宮内庁の楽所の独断場でしょうか、私は一度も見た事がありません(-_-;)
日本書紀の神武東征紀に由来する武官舞です。
橿原神宮では毎年、四月二十九日の『奉賛祭』、そして十一月二十三日の『新嘗祭』で行われています。
ところで私はどういう訳か、御所の一般公開には春しか行った事がありません。
秋に行こうとすると、予定の日に急な別の用事が入ったり、別の場所に行ってしまったりと、未だにこちらには縁がありません。
そういう訳で、今年は秋にも行ってみようと、今から計画をしておりますが、さて、どうなります事か……(・_・;)
さて、「不知命、無以為君子也」――命を知らずば、もって君子なること無きなり――で良いんでしたっけ、論語の一節だったと思うのですが。
天命を受ける者は選ばれた者、『受命思想』というやつでしょうか。
大唐帰りの頭でっかちの下道朝臣真備の事ですから、皇太子の学士に任命された時、後の大学での必須科目よろしく、この類の講義もした事でしょう。
「宜しいですかな、皇太子様。皇家に生まれた事さえ選ばれた存在、ましてや日嗣に任命されるとなれば、御身様こそが天に選ばれなされた御方と言えましょうぞ」
なんておだてた後に、
「もし君子に徳がない時は、天がそれを示されましょう。天は災いを起こし、地は乾き、人は病に倒れましょう……それは君子の不徳を天が示す印なのです」
ってな具合に脅しをかけもしたのではないかと思います。
「かつて唐より以前の王朝は、この徳を失ったために滅びたのです。そして王家の姓は今の李氏に変わりました。天は新たに君子となるべき者を見出した、これを易姓革命と呼びます」
ウンたらカンたら……誰か(私じゃないですよ)だったら、講義中に居眠り位してたと思います(-_-;)
そういう訳で、あのドラマの最後の方で、二度目の遣唐を果たして帰還した真備が、紫微内相の藤原恵美朝臣押勝に頭ごなしの説教をする場面があるのですが、こいつはかなりの見当違いですわね。
かつて海の向こうから疫病が来たのも、長雨が続いて冷害が起きて不作が続いたのも、それによって各国に更なる疫病が蔓延したのも、当時の思想によれば為政者よりも君子の不徳のためとされるべきなんですわね。
大学頭だの何なのを歴任して、史部などに限らずとも良家の子息らを十三歳で大学に入れて、しかるべき教育をしろと提言した張本人が、これらの思想を全然理解していなかったって事になりますわね。
そりゃ、さっさと大宰府に行けと追い払われる訳ですわねε-( ̄ヘ ̄)┌
もう一つ、行基和上率いるところの七百五十人もの優婆塞を得度させろ云々のくだり……これ、当人らの希望をまるで無視した為政者側のエゴ丸出しの方便ですね。
彼らがどうして和上の元にいるかを理解していないようです。
彼らの大多数は、地方出身の逃亡良民です。
良民であるという事は、土地に縛り付けられて課税の対象とされるべき人員なんですよ。
ここで和上の世話になって、帰ろうと思えば帰る国はあるにしても、再び田租を重く課せられる身、更には逃亡した事によって良民権を剥奪される恐れもあるような立場でしょう。
だから優婆塞でいるんです。
これを得度させて正式の僧侶とした時、確かに僧侶には納税義務はなくなるでしょう。
しかし、続日本紀などに見える実情は、例えば毘盧舎那仏造営に際して官奴を良民にするという詔勅が出ても、造営が終わった後にこの命令を取り消されて再び奴婢に戻されるような非道な扱いです。
直接に書かれてはいないと思われますが、行基大僧正の遷化の後、これらの僧侶は再び還俗を強いられて元の国に戻され、かつての土地に縛り付けられるという現実が待っていても、決して不思議ではありません。
それにしても教義も何も知らない者がいきなり僧侶になれといわれ、彼らはどこに行く事になるのでしょう……結局は僧侶は僧綱の下で支配されるのですから、国に良いように使われる羽目になりはしないのでしょうか。
疑問なのですが、作者たる人は、こういう事、史料を眺めていて思わないんでしょうかねぇ……私ゃ、しょっちゅう、この類の疑問が湧いて来て困るんですよね。
困るから無視したら……ああいう意味不明の物語ができるのかなぁ((+_+))私にゃ致命傷だわ(>_<)
場所は奈良市北御門町、東大寺の頭中の一つ、『思惟山五劫院』にあります、この画像の大きな五輪塔がそれです。
これについて、もう少し詳しい事を書きたいのですが、資料となるべき奈良博の図録が手元に無いので、後日に回します。
鎌倉復興の大勧進、俊乗坊重源上人の墓所は、三笠霊園の中の東大寺墓所にあるのだそうですが、ここには未だに行った事がありません。
本日、斑鳩の法輪寺に秘仏の妙見菩薩立像を拝観に行き、更に足を伸ばして上記の五劫院に五劫思惟阿弥陀仏を拝観に行って参りました。
例によって今日も宮司さんは不在……昨年のお守り、どうしましょう(-_-;)
帰りに国道がやけに混んでいたので、県道188号線を通る事と致しました。
この途中に何があるか……今更言う事でもありませんが、八嶋御陵です。
前池は水が満々、道の真ん中の件の石室が水没しておりましたσ(^◇^;)
