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これ誰かって?
『行基大僧正』とメモ書きにありました。
……というか、誰の顔をモデルに描いたんだ?
何となく、記憶があるんだが(*_*;
多分、元某研究所の某氏かな(ーー;)
それはさて置き、白壁王と行基和上の交友関係は父親の代からと常々書いておりますが、では、志貴親王と和上の交友関係は、どういう切欠からだったんでしょう?
何せ、志貴親王の話って、若い頃しか書いた事がなくって……気がついたら平城京造営に関係する事になって、この御仁と場所の選定やら造成に関する打ち合わせをさせられる羽目になってまして、作者は細かいところをすっ飛ばして、遷都にまでなだれ込ませてしまいましたとさ(--〆)
何せうちの志貴親王って人は、「子供の頃には巧人と共に寺の屋根には上がる、伎人の工房には邪魔をしに行く、挙句の果てには測量の方法まで教わる」(大津皇子談)ような変人ですから、行基和上のような無頼の僧侶には、かなり親近感を持っていたかと思われます。
きっと息子らは、父親と和上との関係を悪口半分以上で語るんだろうなぁε-( ̄ヘ ̄)┌
それにしても、この歌は良いなぁ……
正真正銘の戯言です。
安如宝という鑑真和上の弟子の僧侶と、うちの開成王は明らかに東大寺時代からカブります。
多分、当初、この二人は凄~く、気が合わなかったというか仲が悪かったと思います。
天平宝字元年、手嶋王改め開成王は東大寺に入ります。
そして間もなく、戒壇院で過ごす事になります。
鑑真大和上とその弟子たちは、この頃まだ東大寺の戒壇院にいたはずです。
新田部親王の第を下賜されて、唐律招提とするのは同三年の事です。
ティーンエイジャーの内に和上の弟子となって、日本にまで渡って来た愛弟子の如宝にしてみれば、向こうでもこちらでも、寺の中が生活の場でしょうか。
そこに突然、二十歳過ぎまで官人として過ごしてきた、いわば世俗にまみれた、自分よりも若干若い皇族出身のボンボンが和上に弟子入りして来たなんて、かなり気に障るというか、目障りというか、ムカつく存在に見えたことでしょう。
開成王こと手嶋王は十六歳の時から紫微中台にいて、二十歳そこらにして舎人から少忠までを勤めたという、猛者というかエリートというかサラブレッドというか……裏に何かがあるのは、如宝のような箱入り(?)にでも推測はつくというものでしょうか。
とにかく、この弟弟子は胡散臭い存在だったと思われます。
ホンの少し前までは、酒も飲めば、遊興にはうつつを抜かし、挙句は遊行女婦宿には馴染みの遊女までいたらしい???
それこそ投壷でもさせりゃ、藤別清麻呂の顔に墨を塗りたくるくらい朝飯前、紫微中台きっての遊び人で名を馳せていた???←誰からの情報やら、かなりガセが入っているようです(-_-;)
世俗が僧衣を着て歩いている、それこそ破戒僧とは、この男のためにある言葉!?
……と、この間違った情報が払拭されるのは、恐らく唐律招提寺の経営に開成が手腕を振るうようになってからでしょうか。
まぁ、それ以前にも誤解は、少しずつ解けて行ったと思いますけれど……
腐っても(腐ってなどいないけど)皇族、おまけに従四位下という破格の階位まで与えられた、この人の季禄はちょっとした物だったはずです。
下野から戻った時、開成に与えられる季禄の全てが寺の台所に喜捨されている事を知って、ようように弟弟子を見る目が変わったのだと思われます。
この頃には開成の父親は中納言、異母弟は近衛府少将、この連中にゴマをするのも、寺の台所を潤す一つの手立てやも知れぬ、
「教えだけでは食って行けぬのが実情、お上が食わせてくれると言うのなら、それに乗るのも一つの手段だ」との、かつての行基大僧正の教え(この辺、白壁王の口からの出任せの可能性があります)に従って、この国第一の戒律の道場を運営する義務がある、このように開き直った、いえ、悟ったのでしょうσ(^◇^;)
この後のこの二人は、結構、仲が良いはずです。
開成が親王になって都から出奔した後も、寺に戻って来て欲しいという書簡は、度々送っているようですから。
まぁ、こんな事はうめぞーが風呂に入りながら考えた事なので、決して信じないで下さいm(__)m
出てきますね、どういう訳かこの御仁が何度か。
「御身も来られていたか」そう声をかけて、側に腰を下ろす姿は七男の薩雄だった。
「ええ。御身も越前からいつお戻りになられたのです」
「つい十日も前だ。あの御方の出家騒ぎで呼び戻されたようなものだよ」
私より一つ年上のこの男は、三年前までは同じ内舎人だったが、さっさと従五位下の位をもらって越前守として赴任した。兄弟の内では下から数えた方が早いせいか、異母兄たちに遠慮をしているよりも、地方にでも行った方が気が楽だと、年の内にいくらも都にいない。藤氏に限らず、兄弟の多い家には大抵こういう変り種がいる。
「尚侍様に御面会はされないのですか」
「兄らが枕元でジメジメしている横になど居たいか、宮は」腕組みをして鼻で笑う。
大刀自たる藤原哀比良が危篤の知らせに、田村第に息子らが集まって来る時のシーンです。
私ゃ、この御仁に何か思いいれはあるのかしら?
そういうものとは無関係に出て来る人も、時々いるって事なのかな??
それにしても、スメラミコト、どうしていつも相手に敬語使ってるの、皇族なんだからもう少し毅然としてても良いのと違うの???
先ほどまで、毎日テレビで歴史ドラマを見ておりました。
俳優さんは結構微妙ね、南野陽子さんの女帝は似合ってましたけど。
ストーリーは極めて平凡、もっとヒネリ欲しいけど、まぁ、万人向けにはこんな感じなのでしょう。
でも、各キャラクター、弱いです。
獅童ちゃん、僧侶役だから仕方ないでしょうけどね。
多少とも強いのは南野さんの女帝くらいかしら……
まぁ、変な脇役出さないだけ良かったでしょう、例えば白壁王とかσ(^◇^;)
うちの父上なんぞ出てきたら、文室智努よりも異母弟の大市と騙し合い始めそう。
期待は殆どしていなかったので、裏切られる事もなくて、こんなモノですかねという感想です。
途中でチョッとダレてしまったので、思わず下絵の鉛筆画をスキャニングしていじっておりました。
それがこのお絵描き……カッティングどうしようかな(・。・)
今更ですが『開成王と山部王』です。
うちの開成王、攝津に出奔する前は唐律招提寺におりました。
山部王も後々、肩入れする訳さねと、強引に納得(^_^;)
今年のテーマは『平城遷都』……(ーー;)それじゃ、来年は?
まぁ、そんな事ぁ、どうでも良いのですが、面白いような腑に落ちないような内容でしたわ。
具体的な内容は取りあえず置いておきまして、例えば平城遷都をトップで推進したのが誰かと言えば、たいていの人は藤原朝臣不比等の名前をあげると思います。
それは私も否定する気は毛頭ありません。
遷都の理由が、整備されつつある律令のシステムに見合わないものになりつつある旧都に替わり、新たなスタイルの都を必要としたというのは、概ね納得いたします。
ただ、何が合わずに、何を更に必要としたのか、この具体的な例が示されていないので、どう納得するべきなのかが良く分からないんですよ、私のような無知なやつには(・_;)
更にですよ、持統太上天皇が崩御し、文武天皇が病床の身になった時に“詔して遷都の事を議せしむ”とある背景には、太政官の首班ら、それも左大臣や知太政官事を差し置いて、右大臣の藤原不比等が全権を乗っ取った結果……みたいな暴力的な事言われますとねぇ(@_@;)
いえ、右大臣の権力は認めますよ。
でも、この人への協力勢力はどの程度で、反対勢力との力関係はどんなものなの??
こういうところを納得しないと、私には腑に落ちない訳なのですよ。
研究者の方々から見れば、私のような与太な物書きは、能天気な絵空事を大風呂敷広げて、眉に唾して聞けと騒いでいるように思えるのかもしれませんが、ある程度物事を納得して書くには、それ相応のデータというのか、確信できる要因が欲しい訳なのですね。
それこそ30年も前には、藤原朝臣不比等という人は過小評価されていたと思います。
それを京大の上田先生がクローズアップしてから、研究者の方々も注目するようになって、かの梅原氏がセンセーショナルな説を発表してくれて、やや変な方向に過大評価されるようになったような気が致します。
かく言う私も、以前はこの辺に乗っかっていたので、人の事は批判できませんけれど……(-_-;)
ついでに言いますと、藤原仲麻呂辺りの計略に引っかかって(?)、不比等の父親を殊更に過大評価する動きも見えるのですが、本当にこの時期の藤原氏にここまでの力があったと簡単に納得して良い物なのでしょうか。
それじゃ、お前には皇権への過大評価がないのかと言われれば、こっちも否定できないんですよね。
嗚呼、我ながらなんちゅう優柔不断な……これじゃ、書ける話も書けなくなるぜ(--〆)
以前は『奈良国立博物館』の常設展示の“納入品のある仏像”というスポット展示に出ておられたのですが、ここ最近はまたお蔵入りをしています。
納入された経典の奥書には、天王寺蔵華像院の興隆を祈願して建治元(1275)年に作られたという内容が書かれているそうで、蔵華蔵院の本尊とも像の底部分に墨書されているのだとか。
現在の大阪の天王寺には、こういうお寺はないようで、さて、何時この小さな観音像は博物館に入ったのでしょう。
良くある例のように、廃仏毀釈の時に寺がなくなり、本尊を始めとした諸仏は売却され、幸運にも国立博物館の贓品となったのかもしれませんが、詳しい事は分かりません。
日曜日に行きました元興寺にも、やはり慶派仏師の作ではないかと思われるような、綺麗な如意輪さんがおられました。
こちらの像のように六臂であれ二臂であれ、御綺麗な方が多いです、如意輪観音には(・。・)
そういえば、こちらの御方も如意輪観音とされていましたっけねぇ。
確か修理のためで、今月一杯はこのお姿だとか?
そういう訳で、公式サイトを見たところ、チョッと情報が間違っておりまして、来年の11月までです(^^ゞ
なので近々、獅子の前で片足を投げ出して座っておられる姿でも拝見に行って来ます。
……あそこの駐車場、500円取るんだよなぁ(-_-;)
おまけに今行ったら、七五三の親子連れで騒がしそうだし、多武峰に紅葉を見に行く車の群れに遭遇しそうだし、年が開けたら受験生で鬱陶しそうだし(ーー;)
まぁ、いつでも行ける距離だから……って、これが曲者だったりして。
気がついたらもうすぐ終わる(・_;)なんて事になっているとも限らないし。
ともかく、その内に行って来ますか。
もう一つ、こちらにも行きたいのよね、京都だけど。
十月の最初に、八十四年ぶりの秘仏御開帳に行ったばかりなのですけどσ(^◇^;)
その後は風が吹いてきて、気温がやたらに下がって来ました。
典型的な寒冷前線の通過、一気に寒気が降りて来たという感じですね。
お陰で寒いの何のって……
ところで夕方帰る時、東の中空の雲間がやけに明るくなって、程なく満月が顔を現しました。
今日は旧暦の九月十五日かと思いきや、十六日だそうです。
旧暦の九月半ば、秋の終わりですか。
そりゃ寒いわけですわ。
今日(既に昨日)から唐招提寺の落慶法要なのですが、こいつが招待者のみしか出席も見学もできないと、直前になって新聞が報道してくれました。
内容は半月くらい前に、あちらこちらで書かれており、一部の新聞やネットでは、当日の見学は可能と先走って公表しておりましたが、お寺さん側もあの金堂前のスペースから鑑みて、こういう事にしたのでしょう……とでも思っておかないと、報道各氏のいい加減さに腹が立ってきますからねぇ(-"-)
それはさて置き、昨日(既に一昨日)、奈良国立博物館の主催で、恒例の正倉院学術シンポジウムが行われました。
今年のテーマは『皇室と正倉院宝物』という訳で、今年も宮内庁正倉院事務所の先生方のお話を聞きに行って来たという具合です。
何が面白いって、やっぱり現場の声ですわ(^◇^)
私は保存に関しては全くの門外漢でして、お陰でかなり目新しい観点で話が聞けるんですね。
逆に時代背景となると、まあ、この程度なら知っている範疇のお話が多いですから(-_-)
そういう訳で、宝物の復元模造のお話は、かなり興味深いものです。
ここ最近の役所の外部発注は、何が何でも入札で随意契約は御法度?という傾向が極めて強いのですが、この分野においては、そんな建前だの野暮天だの無知蒙昧な事は言ってられません。
日本の伝統工芸の叡智、それこそ最高水準をもってしても、できない事はできない、分からない事は分からない世界ですから。
正倉院宝物の修復は明治以降に行われるようになったのですが、とにかく分からない事だらけ、使われている技法には既に失われているものも多く、使用する材料も今は入手困難な物も極めて多いのだそうです。
この辺りを再興して、人間国宝にまでなった方もおられるそうですから、上代においても近現代においても、職人という方々の技量や執念は賞賛に値します。
復元する事には意味がないと、無責任に発言する有識者(?)もいるそうですが、こちらの観点を聞いてみたいものです。
更に面白かったのは年中行事の話。
この分野、私が如何に無知かを程々に再確認いたしました(*_*;
節句の意味すら、もしかして分かっていなかったか?
この事を書き始めると、かなりしつこい事があるので、いずれ『執筆中の戯言』の中ででも紹介できたら致します。
ついでに今日(とっくに昨日)も、保存復元に関する展示を見てきましたので、気が向けば次はその事でも。
