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- 2012.07.22 東日本大震災物故者慰霊と被災地復興への祈り
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こちらの神社、歴史的な背景はやたらにあるのですが、現在は奈良町の鎮守社という存在なので、お祭りも観光的な色合いよりも地元のお祭りという印象がかなり強いものです。
十二日に宵宮が行われ、十三日の午前中に神事、正午よりお渡りが行われると聞いておりました。
昔はかなり大規模なもので、絵図には馬に乗った神職なども見えているようですが、今は奈良町らしく(?)人力車を頼みまして、かなり長い道のりを練り歩くようです。
そのような訳で神社に戻って来るのは、十五時前くらいになるそうで、その時間を目掛けて出かける事に致しました。
そしてまさに十四時過ぎくらい、遠くから太鼓やら笛の音がかすかに聞こえてきました。
暫らくするとバス通りをはさんだ南側の路地から、諸役を先頭にお渡りの列が近づいて来ました。
そういう訳で、詳細は良く分からないので、画像を何枚かあげて見ます。
神職の方々も人力車ですが、お稚児さんも人力車に乗って、お父さんやお母さんが脇に付き添って歩いておられました。
かなりの距離を歩くようで、幼稚園くらいの子供さんには、チョッと可哀想との配慮なのでしょうけど、親御さんも大変です(^_^;)
伶人の方々が鳥居をくぐると、人力車の人たちは鳥居の前で下車して続き、最後に神様の乗っている神輿も担がれて、神社の中に入ります。
その辺りの画像は、また記事を変えまして……
続くσ(^◇^;)
懲りないヤツと、自分で突っ込みながら、この日もホクホクと拝見しに参りました。
『射礼』と書いて『じゃらい』と読みます。
これは『大射(おおいくは・おおゆみ)』とも呼ばれ、本来は正月17日に天皇の前で、親王以下の初位以上の官人が弓を射たという宮廷行事です。
二十名程度の選抜された人たちが行ったようです。
“九月丙子朔、天皇射殿に御し、百寮及び海表の使者に詔して射しめ、物を賜ふこと各差あり”
と見えています。
その後は、大化三年正月、天武四年以降の正月、持統十年正月にも見えますが、日付は16日、17日、18日と、きっちりは定まっていないようですが、この頃には既に正月の行事として定着していたようです。
大宝元年正月18日 右大臣の喪中のために大射を中止、
霊亀元年正月17日 王宮の南門で行う、
神亀五年正月17日 大射と雅楽寮の楽を賜る
天平十二年正月17日 大極殿の南門で見る
天平十三年正月15日 大射を停む と、この程度しかありません。
延暦年間なんて、絶対にやってるはずと思ったのですが、毎年の事、今更、記録するほどもないと思われたのでしょうかねぇ(・・?
そして南北朝の頃には宮中での射礼は途絶え、後は専ら武家の儀式として重要視されるようになります。
武家の行事としては『吾妻鏡』によれば、文治五(1189)年正月2日に源頼朝が行ったところから始まるそうです。
『大的式』の詳しい内容はこちらにありました、御参照下さいσ(^◇^;)……(ーー;)おいっ!
昨年に引き続き、東日本大震災で亡くなられた方々を追悼する法要が、東大寺大仏殿で行われました。
昨日の八月十三日、朝からうす曇の湿気の高い日でしたが、法要の受付の始まる18時半くらいには、割合に涼しくなっていました。
この日は大仏殿の夜間拝観も行われ、19時に開く中門の前で、参加申し込みをしていない一般参加者の人たちが、既に列を作って待っていました。
これを尻目に30分前には堂内の須弥壇の上に並べられた席に着き、目の前に創建当初から残る蓮華座の花弁に残る蓮華蔵世界を眺めながら、法要の始まるのを待っていました。
19時少し前に観相窓を開ける鎖を引く音がして、開始の鐘の音が続いて法要が始まります……が、私の座っていた位置からでは、破風の柱の影で開けられた観相窓は見えず、衆僧の入道も見えませんσ(^◇^;)
三礼(さんらい)の後、散華行道、別当様による表白、全員で般若心経を三遍唱え、更に法号を唱えながら大仏様の周囲を一周行道するのは昨年に同様です。
ところがいつ降り出したものやら、気がついた時には外は土砂降り、雷も鳴って、大仏殿内は参拝の人が帰るに帰れず、大勢が法要を見上げている様子でした。
そして一時間程度の法要の後、インドから来られた方々による伝統の音楽が、仏前で奉納されました……が、これがまた全く姿は見えず、音しか聞こえない?(゚_。)?(。_゚)?
しかし、声明の起源ではと言われるだけあって、シタールと打楽器(何という名前なのか……?)を従えた唸る様な男性の低い声が、奇妙に心地が良くて、これは癖になるかもしれません( ̄▽ ̄)。o0○
こうして須弥壇を下りた時には、もうすぐ拝観の終わる時刻ですとのアナウンス……なのにまだ、外は土砂降り……・゚・(ノД`;)・゚・
とりあえずおみやげ物売り場で傘を買って、大仏様の正面に回った頃には、係の人たちが観相窓を閉めておられました(上の画像参照)
この日は鏡池の周辺にも燈花会のロウソクを並べてあったのですが、早くに降り始めた雨で全て撤収、21時45分までの予定の各所も、早々に片付けられていたようです。
燈花会には12日も出かけたので、その内、気が向いたらUPしますか……
近鉄奈良駅まで歩く間も、これ見よがしの豪雨、それなのに橿原に帰りついたら降っていない?!
家に帰りついて着替えを追えた頃、雨音がしだして、ようやく北部の雨が中部にまで下りて来たようです。
かくしてこの後は一晩中の雷雨……だと思うのですが、結構しっかり寝ておりました。
何せ、このところ執筆追い込みで、夜更かしが続いておりますので……(^_^;)(-_-)zzz
昨日の八月十三日、朝からうす曇の湿気の高い日でしたが、法要の受付の始まる18時半くらいには、割合に涼しくなっていました。
この日は大仏殿の夜間拝観も行われ、19時に開く中門の前で、参加申し込みをしていない一般参加者の人たちが、既に列を作って待っていました。
これを尻目に30分前には堂内の須弥壇の上に並べられた席に着き、目の前に創建当初から残る蓮華座の花弁に残る蓮華蔵世界を眺めながら、法要の始まるのを待っていました。
19時少し前に観相窓を開ける鎖を引く音がして、開始の鐘の音が続いて法要が始まります……が、私の座っていた位置からでは、破風の柱の影で開けられた観相窓は見えず、衆僧の入道も見えませんσ(^◇^;)
ところがいつ降り出したものやら、気がついた時には外は土砂降り、雷も鳴って、大仏殿内は参拝の人が帰るに帰れず、大勢が法要を見上げている様子でした。
そして一時間程度の法要の後、インドから来られた方々による伝統の音楽が、仏前で奉納されました……が、これがまた全く姿は見えず、音しか聞こえない?(゚_。)?(。_゚)?
しかし、声明の起源ではと言われるだけあって、シタールと打楽器(何という名前なのか……?)を従えた唸る様な男性の低い声が、奇妙に心地が良くて、これは癖になるかもしれません( ̄▽ ̄)。o0○
こうして須弥壇を下りた時には、もうすぐ拝観の終わる時刻ですとのアナウンス……なのにまだ、外は土砂降り……・゚・(ノД`;)・゚・
とりあえずおみやげ物売り場で傘を買って、大仏様の正面に回った頃には、係の人たちが観相窓を閉めておられました(上の画像参照)
燈花会には12日も出かけたので、その内、気が向いたらUPしますか……
近鉄奈良駅まで歩く間も、これ見よがしの豪雨、それなのに橿原に帰りついたら降っていない?!
家に帰りついて着替えを追えた頃、雨音がしだして、ようやく北部の雨が中部にまで下りて来たようです。
かくしてこの後は一晩中の雷雨……だと思うのですが、結構しっかり寝ておりました。
何せ、このところ執筆追い込みで、夜更かしが続いておりますので……(^_^;)(-_-)zzz
もっとも、鶴岡八幡宮から宮司以下の方々もお越しになられての合同の祈りですから、法要ではなく神事でもあるわけですが。
神も仏もある祈りというところでしょうか。
更にさかのぼれば八幡神つながり?
聖武天皇が東大寺での大仏建立に際し、宇佐八幡宮からこの神様を勧請し、手向け山八幡宮に鎮座された(最初は金堂伽藍の前に御社があったようですが)という事と、頼朝が鎌倉を武家の都とするために、父祖ゆかりの岩清水八幡宮からやはり八幡神を勧請して鶴岡八幡宮を建てたというところでしょうか。
鶴岡八幡宮からは『浦安の舞』の奉納もありまして、今年もあこめ装束の巫女さんが八人(普通は四人)できっちりと舞い納めて下さいました。
昨年も今年も、惚れ惚れするくらい、綺麗に揃っていました(^_^)v
次は来年に鶴岡八幡宮で、その次は再来年に東大寺でと、年に一回、交互に行いましょうという事で、続けられて行く予定だそうです。
今年は最後に『南相馬ジュニアコーラスアンサンブル』の中学生、高校生の女の子達の歌の奉納もありました。
ところで……昨年の東大寺での祈りの時には、写真や録画は御遠慮下さいという事でしたが、今年は特にその類の注意はなし……
こうなると、マナーに難ありの人が大抵の場合、チラホラ……((+_+))
私のすぐ後ろでは、あらゆるシーンでストロボ焚きまくりで大顰蹙という方がおられまして、若い御僧侶がたまりかねたか、何度も注意をされていましたε-( ̄ヘ ̄)┌
やはり、最初に注意は必要なのでしょうかねぇ……って、私も写真は何枚か撮っておりましたが。
こちらの法要は、日本人が古くから利用して来た竹に感謝して、その霊を慰めるという趣旨だそうです。
別名、『癌封じ夏祭』とも言うそうで、一月の笹酒祭りに同様、境内では笹酒の授与も行われていました。
御酒を授与してくれる女性達は、竹の絵柄の浴衣で、帯の後には大文字の団扇を挿しています。
13時から虚無僧に先導された衆僧が入場して、その後に法要だとは聞いていたので、御僧侶らが本堂に入ったところで、さっさとムジークフェストの場所で休憩しておりました。
実は本堂内のみではなく、横の方にある竹林の中でも御供養が行われるそうで、そちらは全然見ておりません・゚・(ノД`;)・゚・
恐らく、そちらの供養が終わった後、『嘶堂(いななきどう)』の後方でも別の供養が行われたのだと思います……御僧侶と虚無僧がそちらに向かい、しばらくしたら戻ってこられましたので(^_^;)
その後、そろそろ帰ろうと思った頃、『護摩堂』の前に人垣が出来ていたので覗いたところ、『南京玉簾』が始まっていました。
滋賀県から来られているそうで、滋賀県の名所などのネタに加えまして、こちらの画像は新作?『金環日食』だとか。
これは日食の終わる部分ですねσ(^◇^;)
しかしバスの時間が迫っておりまして、途中で出て来てしまいました。
こういう古典娯楽芸能も、滅多に見る機会がないので、しっかり最後まで見るべきだったかなぁ……と、バスに揺られながらチョッと反省(-_-;)
そのような訳で、今年の夏越(なごし)の日は雨……・゚・(ノД`;)・゚・
実は朝には晴れておりました。
2時過ぎくらいにポツリと来たかなと思っていたら、3時前には本降り……
本来ならば、二の鳥居を入った所にある『祓戸神社』の前で行うはずの神事は、もう少し上にある着到殿で行われました。
場所も少々狭く、人垣の後ろにおりましたので詳細は良く分かりませんが……小さく切った和紙(無知なので名前が分かりません(゜.゜))を左、右、左と肩に振りかけて祓うのは、他の神社でやった事がありますσ(^◇^;)
それから、大抵の神社でやっている、神職さんが綿や麻の布を引き裂くのは、どういう意味なんだろう……相変わらず、神事には無知で済みません(-_-;)
多分、この後、穢れを祓った人形や車形などを川に流すはずですが、そちらは非公開なのかな?
この頃には雨は土砂降りで、折りたたみの傘ではチョッとつらい状況でしたが、これこそ春日の神様による水に流す御祓い?(゚_。)?(。_゚)?
しかし朝起きてみれば日が射しておりました。
雲はかなり低く、また降り出すかもと、折りたたみの傘を持って出かけました。
行き先は奈良市本子守町、率川神社です。
『率川』と書いて『いさがわ』と読みますが、奈良県民でも、この神社の名前を読めない人は結構います。
本日は率川神社の例祭『三枝祭』、またの名前を『ゆりまつり』ともいいます。
実は私、このお祭に行ったのは初めてでして、あまり詳しい事が分かっておりませんσ(^◇^;)
御祭神が媛蹈五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)ですので、ゆりは神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれひこのみこと)の妻どいに関係しているのだと思います。
詳しい事は、神社のHPにありますので、そちらを御参照下さい。
私の見ていた場所からは殆ど御祭典の様子は見えませんでしたが、境内の狭いのもあって、殆どの人が同様ではないかと思います。
そのような訳で、各所にモニターが用意され、それを見てようやく少しばかり進行が分かるという状況でした。
これはこれで、ありがたい配慮です。
それにしても大多数の人は、巫女さんの神楽を見に来ているようで、これが終了して玉串奉納となると、少しずつ人が減って行きました(^_^;)
かく言う私も、ここで逃げ出してしまいました……
ただし私は、別のところに用事があったので、行列は見ておりません(-_-;)
ところでこのお祭、かなり古い形式を残しているようで、二枚目の画像のモニターで二人の神職が運んでいる御棚(みたな)は、黒木という枝を組み合わせて作られています。
これは春日大社の『春日祭』で、御勅使たちが神前に食事を奉る時に使う棚と同じです。
最後の画像は、ひがしむきアーケードにある南都銀行本店の、歳時記紹介のディスプレーに飾られていた御棚です。
上に乗せられた『折櫃』には、『特殊神饌』と呼ばれる神様へのお食事が、土師皿に乗せられて並んでいます。
この櫃の蓋が下に置かれていますが、柏の葉で造られています。
確か仁徳天皇紀に、大后の磐之姫命が熊野に出かけ、そこで祭祀に使う柏の葉を採って帰ろうとしたのですが、天皇が新たな妃を迎えたと知って、その葉を海に投げ捨てたというエピソードがあったはずです。
柏の葉を杯にして、祭の酒を飲むような事も聞きますし、古い祭には柏の葉もつき物なのでしょうか。