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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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宮司さんも人力車を降りて、神社に戻りました。昨日の続き。

神輿と伴に神職さんらが神社に戻りますと、還御の儀式が始まったようで、神輿から降ろされた依り代(榊の枝でしょうか?よく見えませんでした)が警蹕(けいひつ)の声と伴に、御社に戻されたようです。

そして宮司さんによる祝詞奏上などの一連の儀式が行われました。
以下、画像をあげておきます。
勉強不足により解説が出来ませんで……m(__)m

鳥居をくぐる神輿宮司 祝詞奏上撤饌の儀を見守る人たち
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戻って来たお渡りの列 奈良市の薬師堂町の『御霊神社』の例大祭は、毎年十月十三日に行われるそうで、今年はちょうど良いことに土曜日に当たっていました。
こちらの神社、歴史的な背景はやたらにあるのですが、現在は奈良町の鎮守社という存在なので、お祭りも観光的な色合いよりも地元のお祭りという印象がかなり強いものです。

十二日に宵宮が行われ、十三日の午前中に神事、正午よりお渡りが行われると聞いておりました。
昔はかなり大規模なもので、絵図には馬に乗った神職なども見えているようですが、今は奈良町らしく(?)人力車を頼みまして、かなり長い道のりを練り歩くようです。
そのような訳で神社に戻って来るのは、十五時前くらいになるそうで、その時間を目掛けて出かける事に致しました。

二匹の獅子神社に着いたのは13時半くらい、氏子らしき御近所の方に聞きますと、十四時過ぎくらいに戻る事が多いとのお話でしたので、井上町の方に(南)向かってフラフラと、途中のお店など覗きながら歩いて行きました。
そしてまさに十四時過ぎくらい、遠くから太鼓やら笛の音がかすかに聞こえてきました。
暫らくするとバス通りをはさんだ南側の路地から、諸役を先頭にお渡りの列が近づいて来ました。
そういう訳で、詳細は良く分からないので、画像を何枚かあげて見ます。

天狗or猿田彦命、後は神輿え~と、この方は総代さん?

神職の方々も人力車ですが、お稚児さんも人力車に乗って、お父さんやお母さんが脇に付き添って歩いておられました。
かなりの距離を歩くようで、幼稚園くらいの子供さんには、チョッと可哀想との配慮なのでしょうけど、親御さんも大変です(^_^;)

ようやく、お渡りの列が神社に戻って来ました。お渡りの列が神社に到着したのは、十四時半くらいです。
伶人の方々が鳥居をくぐると、人力車の人たちは鳥居の前で下車して続き、最後に神様の乗っている神輿も担がれて、神社の中に入ります。
その辺りの画像は、また記事を変えまして……

続くσ(^◇^;)

 

大仏殿前庭の西側にて奈良国立博物館の特別展『頼朝と重源』の奉祝として8月25日に小笠原流射礼の『大的式(おおまとしき)』が、東大寺大仏殿前庭の西の芝生で行われました。
懲りないヤツと、自分で突っ込みながら、この日もホクホクと拝見しに参りました。

『射礼』と書いて『じゃらい』と読みます。
これは『大射(おおいくは・おおゆみ)』とも呼ばれ、本来は正月17日に天皇の前で、親王以下の初位以上の官人が弓を射たという宮廷行事です。
二十名程度の選抜された人たちが行ったようです。

大変、良い天気です……(~_~;)この類の初出は『日本書紀』によれば、清寧天皇四年
“九月丙子朔、天皇射殿に御し、百寮及び海表の使者に詔して射しめ、物を賜ふこと各差あり”
と見えています。

その後は、大化三年正月、天武四年以降の正月、持統十年正月にも見えますが、日付は16日、17日、18日と、きっちりは定まっていないようですが、この頃には既に正月の行事として定着していたようです。

とても日差しが強く暑い日です……(・。・;『続日本紀』を見てみますと、案外、記述は少なくて、
大宝元年正月18日 右大臣の喪中のために大射を中止、
霊亀元年正月17日 王宮の南門で行う、
神亀五年正月17日 大射と雅楽寮の楽を賜る
天平十二年正月17日 大極殿の南門で見る
天平十三年正月15日 大射を停む  と、この程度しかありません。
延暦年間なんて、絶対にやってるはずと思ったのですが、毎年の事、今更、記録するほどもないと思われたのでしょうかねぇ(・・?

禄として、正絹の反物を賜っています。奈良時代から平安時代初期には、親王以下の官人らが行っていたようですが、大内裏が荒廃が目立つようになる頃には、衛府の武芸に秀でた者が行うようになり、次第に天皇は勿論、公卿の参列も行われなくなるようです。
そして南北朝の頃には宮中での射礼は途絶え、後は専ら武家の儀式として重要視されるようになります。

武家の行事としては『吾妻鏡』によれば、文治五(1189)年正月2日に源頼朝が行ったところから始まるそうです。

『大的式』の詳しい内容はこちらにありました、御参照下さいσ(^◇^;)……(ーー;)おいっ!

 
昨年に引き続き、東日本大震災で亡くなられた方々を追悼する法要が、東大寺大仏殿で行われました。
昨日の八月十三日、朝からうす曇の湿気の高い日でしたが、法要の受付の始まる18時半くらいには、割合に涼しくなっていました。

この日は大仏殿の夜間拝観も行われ、19時に開く中門の前で、参加申し込みをしていない一般参加者の人たちが、既に列を作って待っていました。
これを尻目に30分前には堂内の須弥壇の上に並べられた席に着き、目の前に創建当初から残る蓮華座の花弁に残る蓮華蔵世界を眺めながら、法要の始まるのを待っていました。
19時少し前に観相窓を開ける鎖を引く音がして、開始の鐘の音が続いて法要が始まります……が、私の座っていた位置からでは、破風の柱の影で開けられた観相窓は見えず、衆僧の入道も見えませんσ(^◇^;)

観相窓を閉める人たち三礼(さんらい)の後、散華行道、別当様による表白、全員で般若心経を三遍唱え、更に法号を唱えながら大仏様の周囲を一周行道するのは昨年に同様です。

ところがいつ降り出したものやら、気がついた時には外は土砂降り、雷も鳴って、大仏殿内は参拝の人が帰るに帰れず、大勢が法要を見上げている様子でした。

そして一時間程度の法要の後、インドから来られた方々による伝統の音楽が、仏前で奉納されました……が、これがまた全く姿は見えず、音しか聞こえない?(゚_。)?(。_゚)?
しかし、声明の起源ではと言われるだけあって、シタールと打楽器(何という名前なのか……?)を従えた唸る様な男性の低い声が、奇妙に心地が良くて、これは癖になるかもしれません( ̄▽ ̄)。o0○

こうして須弥壇を下りた時には、もうすぐ拝観の終わる時刻ですとのアナウンス……なのにまだ、外は土砂降り……・゚・(ノД`;)・゚・
とりあえずおみやげ物売り場で傘を買って、大仏様の正面に回った頃には、係の人たちが観相窓を閉めておられました(上の画像参照)

閉じられた観相窓の上下から見える、大仏様の口元と光背の化仏この日は鏡池の周辺にも燈花会のロウソクを並べてあったのですが、早くに降り始めた雨で全て撤収、21時45分までの予定の各所も、早々に片付けられていたようです。
燈花会には12日も出かけたので、その内、気が向いたらUPしますか……
近鉄奈良駅まで歩く間も、これ見よがしの豪雨、それなのに橿原に帰りついたら降っていない?!
家に帰りついて着替えを追えた頃、雨音がしだして、ようやく北部の雨が中部にまで下りて来たようです。
かくしてこの後は一晩中の雷雨……だと思うのですが、結構しっかり寝ておりました。
何せ、このところ執筆追い込みで、夜更かしが続いておりますので……(^_^;)(-_-)zzz
 
大仏殿の南門にてたいそう長いタイトルですが、これが昨日(二十一日)に東大寺大仏殿で行われた法要です。
もっとも、鶴岡八幡宮から宮司以下の方々もお越しになられての合同の祈りですから、法要ではなく神事でもあるわけですが。
神も仏もある祈りというところでしょうか。

八乙女による『浦安の舞』それはともかく、東大寺と鶴岡八幡宮の繋がりといえば、平氏の南都焼き討ちの後に鎌倉復興が行われたのですが、この時の一大スポンサーが鎌倉殿こと源頼朝だという事が一番大きいでしょうか。
更にさかのぼれば八幡神つながり?
聖武天皇が東大寺での大仏建立に際し、宇佐八幡宮からこの神様を勧請し、手向け山八幡宮に鎮座された(最初は金堂伽藍の前に御社があったようですが)という事と、頼朝が鎌倉を武家の都とするために、父祖ゆかりの岩清水八幡宮からやはり八幡神を勧請して鶴岡八幡宮を建てたというところでしょうか。

鶴岡八幡宮からは『浦安の舞』の奉納もありまして、今年もあこめ装束の巫女さんが八人(普通は四人)できっちりと舞い納めて下さいました。
昨年も今年も、惚れ惚れするくらい、綺麗に揃っていました(^_^)v

北河原管長と吉田宮司の御挨拶この催しも昨年の九月に、東大寺と鶴岡八幡宮でそれぞれ行われ、今回が三回目になります。
次は来年に鶴岡八幡宮で、その次は再来年に東大寺でと、年に一回、交互に行いましょうという事で、続けられて行く予定だそうです。
今年は最後に『南相馬ジュニアコーラスアンサンブル』の中学生、高校生の女の子達の歌の奉納もありました。

大仏殿もライトアップそして今回も、観相窓が開けられて、毘盧舎那仏の御顔がのぞいていました。

ところで……昨年の東大寺での祈りの時には、写真や録画は御遠慮下さいという事でしたが、今年は特にその類の注意はなし……
こうなると、マナーに難ありの人が大抵の場合、チラホラ……((+_+))
私のすぐ後ろでは、あらゆるシーンでストロボ焚きまくりで大顰蹙という方がおられまして、若い御僧侶がたまりかねたか、何度も注意をされていましたε-( ̄ヘ ̄)┌
やはり、最初に注意は必要なのでしょうかねぇ……って、私も写真は何枚か撮っておりましたが。
笹酒(冷です)の授与奈良市の大安寺で『竹供養』が行われたのは、6月23日ですから、既に一週間以上前になりますねσ(^◇^;)

こちらの法要は、日本人が古くから利用して来た竹に感謝して、その霊を慰めるという趣旨だそうです。
別名、『癌封じ夏祭』とも言うそうで、一月の笹酒祭りに同様、境内では笹酒の授与も行われていました。
御酒を授与してくれる女性達は、竹の絵柄の浴衣で、帯の後には大文字の団扇を挿しています。

本堂に上がる御住職実はこの行事に行ったのも初めてでして、詳細が全然分かっておりませんでした。
13時から虚無僧に先導された衆僧が入場して、その後に法要だとは聞いていたので、御僧侶らが本堂に入ったところで、さっさとムジークフェストの場所で休憩しておりました。
実は本堂内のみではなく、横の方にある竹林の中でも御供養が行われるそうで、そちらは全然見ておりません・゚・(ノД`;)・゚・
恐らく、そちらの供養が終わった後、『嘶堂(いななきどう)』の後方でも別の供養が行われたのだと思います……御僧侶と虚無僧がそちらに向かい、しばらくしたら戻ってこられましたので(^_^;)

南京玉簾ムジークフェストの演奏は先日にUP致しましたね。
その後、そろそろ帰ろうと思った頃、『護摩堂』の前に人垣が出来ていたので覗いたところ、『南京玉簾』が始まっていました。

滋賀県から来られているそうで、滋賀県の名所などのネタに加えまして、こちらの画像は新作?『金環日食』だとか。
これは日食の終わる部分ですねσ(^◇^;)

しかしバスの時間が迫っておりまして、途中で出て来てしまいました。
こういう古典娯楽芸能も、滅多に見る機会がないので、しっかり最後まで見るべきだったかなぁ……と、バスに揺られながらチョッと反省(-_-;)
祓戸神社の前の茅の輪6月30日は旧暦の上では夏の終わり、実際のこの日の頃は梅雨の最中、これから夏が本番になろうという時期です。
そのような訳で、今年の夏越(なごし)の日は雨……・゚・(ノД`;)・゚・
実は朝には晴れておりました。
2時過ぎくらいにポツリと来たかなと思っていたら、3時前には本降り……
本来ならば、二の鳥居を入った所にある『祓戸神社』の前で行うはずの神事は、もう少し上にある着到殿で行われました。

本殿に詣でる神職勿論、神事は撮影禁止ですから画像はありませんm(__)m
場所も少々狭く、人垣の後ろにおりましたので詳細は良く分かりませんが……小さく切った和紙(無知なので名前が分かりません(゜.゜))を左、右、左と肩に振りかけて祓うのは、他の神社でやった事がありますσ(^◇^;)
それから、大抵の神社でやっている、神職さんが綿や麻の布を引き裂くのは、どういう意味なんだろう……相変わらず、神事には無知で済みません(-_-;)

社伝神楽祓の儀式が終了した後、宮司を始めとした神職の方々が御本殿に御参りして、更に直会殿で二人の御巫(みかんこ)さんが神楽を舞って下さいまして、大祓の神事は終了しました。
多分、この後、穢れを祓った人形や車形などを川に流すはずですが、そちらは非公開なのかな?

この頃には雨は土砂降りで、折りたたみの傘ではチョッとつらい状況でしたが、これこそ春日の神様による水に流す御祓い?(゚_。)?(。_゚)?
 
巫女の入場 昨日は一日中雨天、特に夜半や明け方には土砂降りという有様でしたから、果たして17日の天気はどうなることやら……
しかし朝起きてみれば日が射しておりました。
雲はかなり低く、また降り出すかもと、折りたたみの傘を持って出かけました。

 行き先は奈良市本子守町、率川神社です。
『率川』と書いて『いさがわ』と読みますが、奈良県民でも、この神社の名前を読めない人は結構います。
 本日は率川神社の例祭『三枝祭』、またの名前を『ゆりまつり』ともいいます。

諸所にモニターが設置されています。 ゆりまつりと言うだけあって、ささゆりの花が多数奉納され、四人の巫女がゆりの花を手に神楽を舞うのがとても有名です。
実は私、このお祭に行ったのは初めてでして、あまり詳しい事が分かっておりませんσ(^◇^;)
 御祭神が媛蹈五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)ですので、ゆりは神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれひこのみこと)の妻どいに関係しているのだと思います。
詳しい事は、神社のHPにありますので、そちらを御参照下さい。

柱などで見渡せません…… 率川神社の創建は推古天皇の元(593)年とされ、三枝祭も起源も奈良時代以前にまでさかのぼれるようです。
私の見ていた場所からは殆ど御祭典の様子は見えませんでしたが、境内の狭いのもあって、殆どの人が同様ではないかと思います。
そのような訳で、各所にモニターが用意され、それを見てようやく少しばかり進行が分かるという状況でした。
これはこれで、ありがたい配慮です。

それにしても大多数の人は、巫女さんの神楽を見に来ているようで、これが終了して玉串奉納となると、少しずつ人が減って行きました(^_^;)
かく言う私も、ここで逃げ出してしまいました……


神楽もモニターで良く見えました。 午後からは七媛女(ななおとめ)やゆり姫の行列が華々しく行われるそうで、神社での神事よりもこちらの方が有名なのかもしれません。
ただし私は、別のところに用事があったので、行列は見ておりません(-_-;)

 ところでこのお祭、かなり古い形式を残しているようで、二枚目の画像のモニターで二人の神職が運んでいる御棚(みたな)は、黒木という枝を組み合わせて作られています。
これは春日大社の『春日祭』で、御勅使たちが神前に食事を奉る時に使う棚と同じです。
最後の画像は、ひがしむきアーケードにある南都銀行本店の、歳時記紹介のディスプレーに飾られていた御棚です。

a5324e73.jpeg 『黒木の案(御棚)』とプレートにありますが、案とは机の事です。
上に乗せられた『折櫃』には、『特殊神饌』と呼ばれる神様へのお食事が、土師皿に乗せられて並んでいます。
この櫃の蓋が下に置かれていますが、柏の葉で造られています。

 確か仁徳天皇紀に、大后の磐之姫命が熊野に出かけ、そこで祭祀に使う柏の葉を採って帰ろうとしたのですが、天皇が新たな妃を迎えたと知って、その葉を海に投げ捨てたというエピソードがあったはずです。
柏の葉を杯にして、祭の酒を飲むような事も聞きますし、古い祭には柏の葉もつき物なのでしょうか。
左大臣役の男の子大和の祭の始めは『ちゃんちゃん祭』というそうで、大和神社(おおやまとじんじゃ)の御例祭は毎年、四月一日に行われます。
ちなみに京都の祭の始めは『やすらい祭』だそうです。

ともあれ『ちゃんちゃん祭』。天理市の方が、結構面白いお祭りなので一度は見て置く価値があると言われましたので、ようやく今年、拝見してまいりました。
しかし、詳しい事が良く分かっておりませんので、間違った事を書いてもいけませんので、せめて画像だけでも……


右大臣役の男の子
宮司さんです鳥居を出る神輿
町中を渡御する
お祭りの列は、町中のかなり細い道を行きます。
途中で国道を横断する事もあり、約二キロ先のお旅所まで、ゆっくりと進んで行きます。

そういう訳で、続きます。
 
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