- 2025.04.20 [PR]
- 2008.01.20 平城宮東院中枢部の調査(第423次)
- 2007.12.09 明日香村竹田遺跡
- 2007.11.25 高麗寺跡第8次調査現地説明会
- 2007.11.06 平城宮第一次大極殿再建工事現場見学会
- 2007.10.06 平城京左京四条二坊九坪現地説明会
- 2007.09.08 藤原宮大極殿院南門の調査現地説明会
- 2007.09.02 平城宮東院中枢部現地説明会
- 2007.02.12 北限溝や如何に
- 2007.02.12 『甘樫丘東麓&飛鳥京現説』
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昨年度より五カ年計画で、この地区の発掘調査が行われています。
担当はいつものように、奈良文化財研究所です(^^ゞ
今までにも何度か、この地区の現地説明会の報告をしていますが、今回もあまり変わり映えのない内容かもしれません。
この地区は八代の天皇により、五期に渡って様相が変わっているので、とにかく複雑に遺構が重なり合っています。
第1期が奈良時代前半、第2期が聖武天皇の平城還都(天平十七年)の頃、第3期が孝謙女帝の頃、第4期は重祚した称徳女帝の頃、そして第5期は光仁天皇の楊梅宮(やまもものみや)の頃だろうと考えられています。
しかし第4期だけは、どうやらく建物のない箇所だったようです。
しかしこの時期、この東には回廊を伴なう中心的な建物が、西には倉庫とも楼閣とも考えられる、巨大な総柱の建物が存在していた事が確認されています。
このように頻繁に性格の違う建築物が建てられているのですが、大方の物は耐用年数が来る前に建て替えられており、天皇の代替わりによって、この場所の利用法も変わっている事が推測できます。
磚というのはレンガやタイルの様な、床に敷かれた焼き物です。
上の写真にあるように、破片で出土しています。
宮内の建物に伴なう部材は、この後の長岡京に運ばれているため、完全な形の物は、まず出てこないと思われます。
解体時に壊れた物が放置され、こうして千年以上たってから、日の目を見ている訳です。
ちなみに東院には緑釉の瓦で葺かれた建物もあったようで、資料館にはこの写真のように、かなり完形に近い軒丸瓦と軒平瓦が展示されています。
発掘調査はこの後も場所を変えて続けられ、今回の現地説明会の地区の西側に新たな調査区が広がりつつありました。
次の箇所では、さてどのような発見があるのでしょう、期待を大にしております。
昨日の事は本ページの方にUP致しましたのでそちらを参考して頂ければ幸いです。
時々時雨れる、少し不安な空模様でしたが、昼過ぎに行った時にはそこそこの見学者が来ておられました。
昨年の調査に引き続き、八釣山の裾に広がる大規模な建物郡跡の調査です。
調査している明日香村教育委員会では、天武天皇の末の皇子である新田部親王の屋敷跡である事を期待しているようですが、今のところ確証に値するものは出土していません。
掘方のサイズからしても相当に太い柱が立てられていたようですが、殆どが抜き取られているようです。
恐らくは平城遷都に伴なって、この屋敷も移築されたのでしょう。
ここで注目すべきは、柱穴の中から出土した礎板石と思われる切石です。
この黄色い四角い石は、天理市で取れる砂岩だそうです。
有名なところでは、同じ明日香村の酒船石遺跡で石垣として使用されています。
恐らくは、そこから崩れた石垣の石材を取って来て転用した物と考えられます。
切石の小口面が斜めに切られているのが、石垣に使用していた時のカット面と合うのだそうです。
しかし、柱穴の深さの割にはかなり上の方で出土していて、これが本来の根石で、柱穴自体がかなり削平されているのか、若しくは建物の柱を抜き取った後に、同じ場所に何らかの建物を建てて、その時にこの石を使用したのか、今のところは解釈の分かれるところだそうです。
さて、ここが新田部親王の宮か否かはともあれ、七世紀の高位者の屋敷の姿がこの先更に解明される事に興味が湧きます。
時代は藤原京に都が移った時代、それでも旧都飛鳥は高位高官らの住まいが点在していたのでしょうか。
先日、新聞各紙のトップに写真入で載った木津川市の『高麗寺第8次調査』です。
ちなみに昨年の現説の様子はこちらをどうぞ↓
http://umezo.bakeinu.jp/entry/35228/
今回は昨年度の調査地を更に西に拡張する形でトレンチを設け、まさに金堂の正面に当る場所を調査しています。
すると推測通りに、この位置に南門と中門が南北に並んであった事が確認されました。
どうやら私は昨年の調査の様子を見て、考え違いをしていたようで、中門はあくまでも伽藍の中軸線に乗るのだと思っておりましたが、両方とも西にずれて、金堂の正面になるのだそうです。
さて飛鳥時代に創建されたであろう(出土する瓦が飛鳥寺と同范)寺院に築地塀が実際に確認されたのも、今回が初めてなのだそうです。
築地塀は、基壇を設けて塀を立て、更に上に瓦まで葺くのですから、塀のグレードとしては相当に高級です。
おまけに何かの自然災害で塀が北側に倒れて屋根がひっくり返ったとかで、丸瓦が幾つか重なって出土した状況が観察できます。
軒平、軒丸の組み合わせは畿内の白鳳寺院には良く見られますが。
ともあれ、瓦の様子からも創建以降、白鳳期と延暦期のごく初期に改修が行われたようで、現在出土している瓦溜の図面を作成した後に取上げ、その下にある創建期の層も出して行く事になります。
そうすると来年度の現説には飛鳥寺式の瓦が並ぶのかな~?
この寺院は、木津川(泉川)の河岸段丘の一段目に乗っていて、この段丘の前面が既にいくらか削られて、南門(四脚門)の礎石の残りも良くありません。
河原にあっただろう街道から寺に入るには、階段が存在していただろうとの推測は出来ますが、遺構は既に残っていません。
それでも、堂や塔、回廊などの残りは割合に良さそうで、この後も史跡公園化するための事前調査は続けられて行くそうです。
その様な訳で、来年もまた楽しみな所です。
そう言えばJRの駅にも、今年のパンフレットが置かれていました。
今年ももう、そんな季節になりましたか。
正倉院展が終ると、春日大社に近い奈良市の繁華街は、冬の最大のお祭に向けての準備が始まるようです。
この写真は南都銀行本店の前、ひがしむきアーケードの入口付近です。
午後からは平城宮跡の西側大極殿院の第一次大極殿再建工事現場の見学に行って参りました。
春には上げてくれなかった、素屋根の三階にようやく上がる事が出来ました(^^ゞ
二層目の屋根は、ひたすら瓦、瓦、瓦、四方の垂木に金具も有るんだよσ(^◇^;)
これがその金具です。
この類を軒先に出ている木(飛檐垂木)の先にも取り付けて行くのだそうです。
結構、まだまだ作業は続くようです。
何せ瓦も、平瓦は並んでますが、丸瓦はまだだし、当然ながら軒丸瓦もデモンストレーション的に幾つか並べてあるだけです。
そして各層の壁も、これから漆喰を塗って行きます。
大極殿の完成予定は2010年、つまり落慶は、遷都1300年の記念事業の一環として行われます。
昨日上げた、唐招提寺の金堂も同様です。
う~ん、それにしてもこの遷都1300年事業って、全国的に見て、どの程度の知名度があるんでしょう???
ちなみに正倉とはお寺などの倉の事、その倉が集まっているエリアを本来は正倉院と言います。
この三連の校倉の外観を正倉院展の期間中に公開しています。
知られているようで、割に知らない方も多いようですね。
ただし午後四時までなので、私は毎年大抵、間に合わなくて、四年か五年ぶりに見たような気がします(^_^;)
正倉院展は日曜日に行ったのですが、今年は入場までに並んだ割には、見学の方は割合にスムーズでしたか……と言っても、例年に比べて多少という程度、混雑しているかと言えば、たいへん混雑していました。
久々に三時間程度で出てきましたσ(^◇^;)いつもは四時間くらいかな?
午後三時過ぎくらいから少しずつ空き始めるとかで、四時を過ぎれば割合に楽に見れるそうです。
以前この時間帯に行った事があるのですが、私には全然駄目です……国家珍宝帳のほか、何を見たのかの印象も残ってやしない……(-_-;)
奈良時代の中期、ここにはかなりの有名人が、やたらに広いお屋敷を建てておりました。
奈良時代初期の大きな第宅と言いますと、左京一条二坊にあった藤原朝臣不比等の六坪にも及ぶ屋敷が有名です。
実は、今回の現説場所は、この御仁の孫に当る人の家の場所です。
『続日本紀』に田村第という名前で見えるのが、ここ左京四条二坊九~十六坪の八坪にも及ぶ、藤原朝臣仲麻呂の大邸宅です。
かの長屋王の邸宅も四坪分だと推定されています。
さて今回は、九坪の一角をマンション建設の事前調査で発掘した訳ですが、ここからは見事に推定二間×七間の東西に長い二棟の並んだ建物跡が検出されています。
南側の建物は周囲を囲むように更に細い柱列が検出されているのですが、主殿部と柱の通りが会わない上に、あまりに細いため、四面に廂ならぬ縁側を回したような建物と推測されるようです。
何れにせよ、ここは第の中心ではなく、かつて、今回の調査地の南東(十五坪)から礎石立ちの建物跡が確認されているので、こちらが中心部と考えられるようです。
仲麻呂(恵美押勝)の死後も、ここは田村宮という名前で見えるので、没官になって何らかの施設として使われていたと推測が出来ます。
しかしこれらの建物も都が長岡京や平安京に移ると、解体されて運ばれたようで、ここにも小区画の区割りがされるようになります。
それが確認できるのが、道路の遺構や東西南北に規則的に並ぶ柵と思われる柱の列です。
いずれ更に周辺の調査が進めば、この広大な邸宅の片鱗がもう少し見えてくるでしょう。
奈良も秋の本番、観光シーズンです。
南西の方の沖合いには大型の台風が居るようですが、今日は快晴で日中は汗ばむような天気でした。
昨日の新聞のトップを飾った、大極殿院の南門跡が判明したという調査です。
大極殿と朝堂院とを区切る門で、朝参の時には、この場所に天皇が出御したと考えられています。
どうも私には、大極殿と朝堂を門や回廊で区切ってしまうかが分からないのですが、この藤原宮に限らず、後期難波宮も平城宮第二次大極殿院も長岡宮もこの形をとっています。
平城宮の第一次大極殿院にはこのような門はなく、朝堂院地区とは龍尾壇と呼ばれる段差を設けて区切っています。
それはさて置き、調査区を見回した時の第一印象……基壇が全く残ってない(ーー;)
確かに大極殿や朝堂などの建物は、解体されて平城宮に運ばれていますが、基壇までは取り除きはしないでしょうから、明らかに後世に削平されたものと見られます。
わずかに残っているのは凝灰岩の切石で、これは基壇の南北に付けられた階段の一番下の部分に当ると考えられます。
黄緑色のテープに囲まれた範囲が南門で、そこから1.2メートル張り出した部分に階段が設けられていた事になります。
南門と大極殿の間の広場は石敷きになっていて、日章、月章、四神などが描かれた幡が立てられていたそうです。
門から東西に伸びる回廊は、礎石の抜き取り穴が検出されています。
この部分も階段かと思ったのですが、この図ではスロープに復元されています。
七間×二間の堂々とした門が在った事を思い浮かべて下さいとのこと。
ところで橿原市というか奈良県は、『藤原京ルネッサンス』なんていうイベントを開催中だそうですが、地元民の私は何とも無頓着で……
元JAの建物に藤原宮の資料室も出来ていて、かつては万葉ホール(市民会館)に置かれていたジオラマが、こちらに移された事くらいは知っておりましたが、昨日くらいから里中満智子さんの作品展をやっているのは知りませなんだ。
まぁ、面白くありませんでしたけどね……おい(ーー;)おいっ
昔は約1km四方と思われていただだっ広い平城宮に、いまや東院地区が加わって、変な形に更に広い事はいまや常識です。
この東院地区の調査の二ケ年目が今年だそうで、この先更に三ケ年続くのだそうです。
宮内は何度にも渡って様々な建物が建て替えられ、何処の遺構も一筋縄では行かないようですが、この地区は特にややこしいようです。
何せ五期に渡っての変遷が見られるそうで、それらの柱の跡の切り合いを見て、それに相応する柱列はどれで、どういう建物が想定できて、その建てられた順番はどうなっているのか……図面を取って、現場の状況と照らし合わせ、更には出土遺物なども考え合わせて……で、私たち、今、この図面のどこにいる訳?!
こういう具合になります……(-_-;)
今回は第二期に四面廂の大型建物、第四期の回廊、第五期の北面に廂を持つ大型建物などが検出されています。
二期の建物はとにかく大きくて、廂を合わせて9×4間、柱の掘方だけで150cm、深さも150cmもある、この地区でも破格の規模です。
四期の回廊は望楼かと思われる小規模な建物が付随し、門はまだ確認されていないので、このまま想定すると総延長が90メートルにもなろうかという長さが想定できるそうです。
そして五期の建物は、この地区の中軸線に乗ってきますから、この次期(楊梅宮?)の中心を成す建物になる可能性も出て来ています。
しかし……どうしたんでしょう、行ってみたら池の水は緑色に濁って水カビが繁殖し、あちらこちらは草茫々、立木の枝葉には蛾の幼虫までついてました。
いくら真夏で雑草がすぐ伸びるとは言え、この有様はチョッと悲惨です。
いにしへの古き堤は 年深み 池のなぎさに草生ひにけり (巻第三―378)
“山部宿禰赤人、故太政大臣藤原家の山池を詠む歌一首”という表題のついた万葉集の歌さながらです。
ここを更に整備して遷都祭自体を一過制のお祭りではなく、恒久的な観光行事にしたいと考えているようですが、それに関わるプランナーの手腕は如何なるものなのでしょう。
県民は割合に冷めた目で見ているような気もしますが(-_-)
そして第一次大極殿朝堂院地区では、青年らが蹴鞠(?)の練習に励んでおりました。
背後に見えるのは、第二次大極殿跡、更には県庁舎、東大寺大仏殿、そして三笠山と若草山でしょうか。
それでは昨日の続きでもm(__)m
橿考研の現場は三期(もしくは四期)にわたる飛鳥京のずっと北側、かつては広大だった飛鳥寺との境に当る辺りです。
ここでは南北に長いトレンチを空けていましたが、この南側で東西方向の石組みの溝と、それにつながる南北方向の溝を検出しています。
どちらも正方位に乗っているし、出土した土器から考えても、藤原宮の頃に廃絶したと考えられるようです。
う~ん……またしても平衡感覚を疑うような写真ですね(-_-メ)
この溝の更に北側は古い時代の斜行する溝があるくらいで、同時代の明確な遺構が確認されておらず、これが浄御原宮の北限と飛鳥寺とを区切る溝なのかは、はっきり言えないようですが、可能性は否めない物のようです。
いずれにせよ、今後の調査が待たれます。
さて話は変わりまして、昨日は約半日、明日香村の中をフラフラと結構歩き回りました。
ここは割合に駐車場が限られるので、たまに歩いて回ると普段寄れないお店などにも行けて、収穫もなかなかです。
実は現説の途中で雨が降ってきましたので、雨宿り場所を求めて飛鳥寺のすぐ近くにある『明日香風』という喫茶店に入りました。
昨年に出来たのは知っていたのですが、いつも車で前を通るだけ……でもこじんまりと落ち着いた店で、散策の合間にゆっくりとするには打って付けな素朴さが良いです。
すぐ隣の『ひょうひょう』(昨日はお休みでしたが)と共に、チョッと地味だけどノスタルジックでお薦めです。
奈良県高市郡明日香村の甘樫丘の東の麓から、石垣と三期に及ぶ造成の跡と、それに伴う建物跡などの遺構が検出されて、『日本書紀』にあるよう、ここが七世紀に蘇我本宗家に関係する遺跡ではないのかと、新聞の一面にカラーの写真入で大きく報道されたのは先週末でしたか。
その現地説明会が本日行われたので、割合近所という事もあって出かけて参りました。
車で行こうものなら駐車場探しに奔走するとばかり、最初から歩いて行く事と致しました。
飛鳥川沿いにフラフラと歩いて一時間弱くらいでしょうか(^_^;)
途中で鴨やカイツブリがいるのを眺めていたら、カワセミまで出て来てくれました。
あの(橿原辺りでは)汚い飛鳥川に渓流の宝石がいるんですから……と言いましても、溜池や古墳の周溝などでも時たま見かけます(^^ゞ
鳥はさて置き、今回は昨年の調査の北東位置に広めのトレンチを開けていました。
この画像では良く分からないですが、どうして建物の方向がこうもバラバラなんでしょう?というのが真先に持った印象です。
三期にわたる造成なのに、それ以上に建物の方向があちらを向いたりこちらを向いたり……頻繁に色々な目的の建物が建ったのか?
そしてこれが、第一期の造成の時に造られたという石垣です。
これを設けて、谷間の半分を一段高く造成しているんですね。
こいつがトレンチのほぼ真中を南北に貫いているのは、なかなかに迫力があります。
第二期にはこれを埋め立て、全体的に平らに整地し、石敷きや建物を建てています。
ここで注目すべきが二棟の総柱建物で、倉庫であろうと考えられています。
NHKスペシャルではこれを武器庫と言ってましたが、時期的には七世紀の中頃から後半との事、さて、蘇我氏と安直に結び付けられますやら(-_-;)
第三期は藤原京に遷都した後の時代。
更に土を盛って炉のある建物を建てていたようです。
この炉の残りがとても良く、写真パネルでは展示されていましたが、トレンチの奥の方でチョッと良く見えませんでした。
それにしても今回の調査では、消失の痕跡が全然確認されなかったようで、この辺りも解釈の分かれる所ではないでしょうか?
昨年のトレンチの画像は本家Blogにあるのですが、とにかくサーバーが激重状態で、探すに探せないんです(T_T)
あっ、何とか見つかりました。
http://umezo.bakeinu.jp/entry/20540/ こちらですね。
そういう訳で、もう一つの現説『飛鳥京175次』の報告は明日にでもm(__)m