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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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今年も葺石馬見古墳群奈良県北葛城郡広陵町と河合町、香芝市、大和高田市辺りまでに分布します。
広陵町は名前の示すとおり古墳が大変多い町で、最大の規模を誇る『巣山古墳』もここにあります。
南北に主軸を向けた墳丘の全長は、220mにもなります。

この古墳の調査も今年度で第9次、今回は北側(前方部側)外堤の西半分の周濠側の斜面や裾を検出するために、90mの長さでトレンチを入れています。
画像の右側は既に周濠の中、左の人たちの立っている場所が外堤の上です。
そしてずっと奥、画像をクリックして頂ければ大きくなりますが、階段を上っている人が見えます。
その少し手前が、古墳の中軸線に当たるそうです。

これは古墳時代の遺物今回の出土遺物のメインは木製品のようで、新聞に発表された卒塔婆などは、周濠が埋まりかけて、農地の灌漑用水化した頃に水辺のお祭りに使われた物だそうです。
その頃の層からは、奈良時代から平安時代にかけての土器も出ているので、それら木製品も同時代だと思われるとの事。

この画像のはそれよりも古く、古墳の造られた時代に置かれた物ではないかという事です。

ところで、ここぞとばかりに出ている葺石ですが、上部は取り除かれた訳ではなく、最初からこの高さだったようです。
葺き方も墳丘に比べるとかなり雑で、作業単位のための目地が見られるのですが、分かり難い箇所も多く、基底部のラインを示す石の列も曖昧、大きさもばらばらという印象です。

そしてこの濠、当初には水がなく、奈良時代くらいから溜まり始めたために農業用に使われ始め、その周辺の集落遺跡も発達しているのだそうです。
今でも奈良や大阪の大型古墳の周濠は、農業用水に使用されている事が多いです。
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説明をする井上技師昨日朝から、広陵町の巣山古墳と、木津川市の馬場南遺跡の現地説明会の二本立てで行って来ました。

その後、奈良市内で夕食なんぞ食べてから帰って来たのですっかり遅くなり、珍しくテレビなんぞも見ていたので、パソコンを立ち上げたのは日付が変わってから。
これからまた外出しますので、現説の報告は帰ってから致します。

画像は巣山古墳の現地説明会。
池の中には流木だらけ……溜池といいますと大まかには二種類に分けられるそうで、一つは微高地に池を穿って天水を溜める場合、もう一つは谷間を堰き止めて川などの水を溜める場合だそうです。
今回、高市郡高取町の薩摩遺跡で見つかった池は後者です。
この画像は、谷間を堰き止める堤の上から撮っているので、池は奥に向って細長く広がるはずですが、調査範囲ではその護岸部は殆ど出ていませんでした。

こちらは堤の部分新聞に写真が載ったのは、この堤から顔を出している取水のための木樋です。
今回の範囲では、堤も完掘していないので、木樋も先端が顔を出しているだけです。
来年度の調査で、これを完全に掘るのだそうです。
木樋は池の底に溜まった有機質層の上に作られていて、周囲からは平安時代の初めくらいの土器や土馬、銅銭(承和昌宝)が出ているそうで、その頃に作られたと考えられます。

近世になっても、基本的な構造は変わりません。こいつが木樋のアップですが、少し前に鎌倉か室町期くらいの木樋を見た事があるのですが、構造は殆ど同じようで、これが近現代になっても同じような物を使用していたのだということです。
同じような時代の物は、大阪の狭山池の取水口の樋が有名だとか……狭山池博物館に現物が保存されているらしいのですが、未だに見に行っておりません(-_-;)

この堤を挟んで(画像の)左側は、土地がありありと下がっている様子が見えます。
今でも周囲に幾つかの溜池が現役で存在しています。
この大きな溜池は、いつどのような要因で埋まってしまったのか、もしくは埋められてしまったのか。
調査をするまで、ここに池がある事は分からなかったそうですから、中世には既に廃絶していたのでしょう。
天災のためか、土地利用の変化か、はたまた人為的な要因なのか……?????
礎石を据えた跡ですが、これが後殿になるのかは不明です。昨日の埋文関係の記事と言いますと、むしろ堺市の『御廟山古墳』なのでしょうが、天邪鬼うめぞーの行き先は、関西版に載っていた京都府木津川市の『恭仁宮』です。

天平十二(740)年に大宰府の騒ぎなど知ったこっちゃないと、東の方に出かけてしまった聖武天皇が、年も押し迫った十二月十五日、ここを都と定めると落ち着いたのが、甕原宮(みかのはらのみや)改め『大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)』です。

掘立て柱の抜き取り跡です。平城宮の大極殿を移築までしたにもかかわらず、この宮(京域があったのかは、今のところ不明?)は天平十七年の平城還都によって放棄され、大極殿は山背国分寺に施入されて金堂になりました。
この辺の経緯は本頁の方で一時、やたらに書いておりましたが(^^ゞ

ともすれば紫香楽宮(しがらきのみや)よりもマイナー視される恭仁宮ですが、発掘調査は昭和四十八年から京都府教育委員会によって、地道に続けられているそうです。

朝堂は八棟の可能性が強いそうです。今回の調査の箇所は、こちらのイラストを参照にされるのが分かりやすいでしょう。
大極殿の北側に後殿があるのか、回廊が伸びているのかを調査したのですが、一番上の画像を御覧下さい。
中世の削平により、基壇の痕跡と礎石の据付穴の跡が、何とか残ったという状況です。

次の画像が朝堂の柱穴ですが、この遺構面の浅さで敷石までが残っているのが大した物です(^_^;)
柱穴を挟むように二条の細い溝がありますが、もしかしたらこれは柱を立てるための企画線の可能性があるそうです。
側溝の断面で見ても数センチの整地層しかないし、周囲を見回してもこの大極殿院の乗っている場所が、全体的に高くて安定している事が良く分かります。

国分寺の塔跡です。宮が移った後のこの場所は、山背国分寺となりましたので、すぐ東側には塔の跡があります。
このように見事な芯礎と四天柱、周囲の柱の礎石も残っていますが、南東の隅だけ割られてしまっているようです。
国分寺の塔は七重、大極殿を改築した金堂と共に、稀に見るほどに立派な国分寺が、この地に立っていた往時が偲ばれるところですが、他の建物については、こちらもまだ未調査のようで(~_~)ゞ
現場から朱雀門を臨む今日の奈良県下は曇り、もう少ししたら降り出しても不思議はないような空模様でした。

毎度お馴染みの世界遺産、平城宮跡にて第432.436.437次調査の現地説明会が行われました。
場所は第一次大極殿院、現在2010年に向けて復元再建が行われている建物と朝堂、それを取り囲む回廊の跡の調査です。
そういえば、先週の復元公開の様子、UPするの忘れてますね……気が向きましたら明日にでも(^^ゞ

この回廊は北側と西側以外は殆ど調査が終わっていまして、今回ともう一度の調査でほぼ完了するそうです。
ただ北面は現在、道路になっているのでどうなるのでしょう?

ともあれ、現場を見た時の第一印象は、残り悪いなぁ……
築地の基壇が殆ど残ってないじゃないの。
それなのに、あの掘立柱列は何なの?
高野槇は古墳時代には棺に使われる事が多かったそうです。このように柱根の残った物もあります。

実は第一次大極殿の回廊も、聖武天皇恭仁京遷都に伴なって解体されたようで、その後に掘立柱の塀を造り、更に平城還都の後に再び、回廊が造られたという経緯があるそうです。
その塀の柱がこいつという訳です。
掘立てとはいえ、直径が45センチもある高野槇の柱ですから、それなりに堂々とした物だったでしょう。

大極殿の乗る舌状大地から一段下がった谷間に当たるため、この場所は水の通り道のように地盤が悪く、柱の沈む事を懸念して、柱穴の底に(せん:タイルやレンガのように使われました)やを敷いています。

平城宮においてはシンメトリーと分かっている箇所は、東側だけを調査するのがコンセプトだったそうですが、ここ最近は事情が違って来ているとの事。
現在行われている大極殿の復元に続き、行く行くはこの回廊も復元する計画だそうで、丸ごと調査をしようという事になったのだそうです。
何でも復元すれば良いと言う物ではないでしょう……そのような言葉をよく聞きます。
ところが、元々何も無かったのだから、何も無いままにしておいた方が雰囲気が良いじゃない……という奇妙な発言も聞いた事があります。
そう言った人は、一体ここをどのような場所だったと思っているのでしょう?

ともあれ、復元よりも先にする事があるだろうに……とは、現場にも関わる有識者の言葉なのですが(-_-;)
雨のトレンチただ今、近畿地方は寒の戻りです。
とにかく、昨日今日と二月に戻ったみたいに寒いです。
特に昨日の日曜日は朝から雨、気温が殆どあがらず、午後からは本降りになって寒いの何の……(*_*)
そのような日に、平城宮の現説に行って来ました。
今までの経験上、奈文研は多少の雨でも、大抵、決行します。
案の定、この日も雨の中での現説でした。

今回は遺跡の分布を調査するために、東西方向、南北方向に長細いトレンチを入れているのですが、この限られた範囲内で、幾つかの建物の跡が検出されています。
このエリアは溝や築地塀で東西に二分されるようで、東側には最低でも二期に渡る建物郡、そして西側には総柱の高床倉庫が複数建っていたようです。
後の平安京の例を参照に考えると、位置的にもここには民部省関連の役所があったのではないかと推定が出来るようです。木簡削り屑

さて、この画像は、建物の廃絶後に掘られたらしい、大きな土壙から見つかった、木簡の削り屑です。
薄くて小さな資料ですが、書かれている文字ははっきりと読めます。
右上は『大宮』、その下が『等阿倍』、左上は『寶亀』、そして『大夫藤原』と読めます。
『等阿倍』は、『勲◎等阿倍朝臣何某』と前後が続いているのだと思います。
『大夫藤原』はさて、誰なのでしょう?
『寶亀』(宝亀)年間の事だとしたら、例えば春宮大夫藤原朝臣蔵下麻呂、摂津大夫藤原朝臣楓麻呂、左京大夫藤原朝臣魚名……河内大夫藤原朝臣百川とか??
とにかくこの頃の二官八省、既に藤原さんだらけ……σ(^◇^;)
ちなみに民部卿も大抵の時期、藤原さんがやっておられます。
文字資料というのは、何とも妄想をかき立ててくれて困った物です。

しかし、とにかく寒い……
平城宮跡の桜は、三部咲き程度で凍えておりました。
高田川堤などに比べると、やはり奈良市内の染井吉野は少し遅いのかな?
この寒さがもう少し続くのなら、次の土日まで桜の見頃が続いてくれるのですが。
結構、あちらこちらの桜祭りは、次の土日を当てているみたいですから。
遺構全景-東からこの地区での調査は四度目で、このように広い範囲をまとめてあけるのは、昨年に続いてだそうです。
この画像は、昨年のトレンチの位置にある土山の上から写しています。

現地説明会の行われたのは、三月二十九日土曜日、本当なら奈良で研究会を冷やかして(?)いる予定だったのですが、あまりに良い天気だったので、予定変更して歩いて甘樫丘まで行って来ました。
明日香にて飛鳥川に沿って歩くと、一時間かからずに到着いたします。
途中の畑で、このような見事な雄の雉にも出会いました。
この辺りで見かける雉は、まず在来種、首に白い輪のある外来種は見た事がありません。

さて、新聞では総柱の倉庫と思しき建物跡と、その管理棟らしい建物が検出されたと言っていました。
この場所は大まかに3期に渡っての建築物の建て替えがあったようで、倉庫は第1期となる七世紀前半の物だそうです。
遺構-北東隅からこれが蘇我本宗家の繁栄の時代と合ってくる訳です。
今回の調査での成果は、このように切り合う建物群の具体的な時代変遷が分かった事だそうです。

飛鳥という土地は東と南が塞がっていて、西と北に多少の展望があります。
北の橿原から西の葛城にぬける道というのも限られていまして、この甘樫丘と川原寺の後山の間のルートか、飛鳥川に沿って伝板蓋宮跡や川原寺、橘寺の方向にぬけるか、大回りに山の上の方を通ってゆくかという具合です。
飛鳥寺の方向を見る。もっとも短いコースが、甘樫丘の東麓を行く道です。
ここを蘇我氏という一氏族が押さえているとしたら、川原や橘を押さえている大王家に露骨に対抗していると思われても仕方がないような気がいたします。
もっとも、ここが蘇我本宗家の屋敷の位置だと、決定的な遺物や遺構が出土した訳ではないので、ああだこうだと言うのは、どこまで行っても推測の域を出ていないのですが(~_~;)

では明日は、本日行われた『平城宮東方官衙地区』の現説でもm(__)m
ここは交差点かなり無味乾燥な名前が付いている調査地ですが、これで都城に少し詳しい人なら、おおよその位置はわかります。
ところで右京四坊までしかありません。
しかし左京は五条までに限れば、七坊まであります。
この五坊から七坊までが、かの有名な(?)外京です。

先日に新聞をにぎわせた、外京において始めて交差点が確認されたという調査成果が上がったのが、今回三月八日に現地説明会の行われた発掘現場です。
上の画像で、元興寺文化財研究所の佐藤氏が立っている位置が、東六坊坊間西小路二条条間南小路の交差点です。

円面硯の破片奈良町に近い内侍原町の辺りなので、中世以降の町並みに撹乱を受けているだろうと思いきや、この場所は西と北に向かって地形の下がって行く場所になるため、住宅地としてはあまり適さずに田畑になっていたようです。
ここから南東の興福寺の方向には、その寺内町が開けて行くので、恐らくは奈良時代の遺構の残りは良くないだろうと思われます。

さて、都の内の道には水はけのための側溝が必ず設けられています。
片側の側溝の中心から、もう片側の側溝の中心までを測ると、小路の場合は七メートルが普通なのですが、ここでは六メートルしかないということです。
これは和銅六(713)年の三月から四月に行われた度量衡の改正以降の小尺を使用していたからではないかとの事です。
確かに平城宮からはかなり離れた、少々地盤の良くない土地なので、遷都より少し遅れてこの辺りの整備はされたのかもしれません。
この路は、長岡京遷都の後も使われていたようで、溝から出土する土器も十世紀前半くらいまでの物が見られるとの事です。

今回の調査で出土した遺物はコンテナーで二十五箱くらいだそうですが、どれも日常的に使われた生活雑器が多いそうです。
特筆すべき物としては、上の画像の円面硯の欠片でしょうか。
とりあえず近所に御役人は住んでいたのかもしれませんが、場所的に考えてもあまり身分の高くない人か、お寺の関係者かもしれません。

この場所ですが、この後には高層マンションが建つようで、テレビ局が地元の反対派らしき方々にインタヴューをしている姿が、会場の片隅で見られました。
近鉄奈良駅から歩いて10分程度、奈良女子大学のすぐ近くで、一応ながら観光地の内です。
このような場所に無節操に高い建物を建てるのも、確かに景観への配慮も、周辺住民への理解もないように思われますが、如何なものなのでしょう。
ああ、5世紀だ・・・・ずいぶん以前に、『大阪府立近つ飛鳥博物館』の講演会で、初期須恵器を扱っていて、その時に
「こんなのうちの方じゃ出た事ないぞ……」とぼやいておりました。
別に中和地方で出土例がないという訳ではありません。
単に私の関わっている周辺での出土例がないだけで、出るところでは出るんです。
ちょいと前に話題になって、つい最近に報告書が出た『極楽寺ヒビキ遺跡』(御所市)でも、確か出土していたと思います。

そして昨年、ようやく同じ時期(五世紀)の古い須恵器が日の目を見ました。
それがこの画像です。
この初期須恵器がどこで出たかと申しますと、大和高田市の『土庫(どんご)長田遺跡』、つまり中和幹線道の事前調査でです。
ただいま、大和高田市の中央公民館で展示されています。

ちなみにこの調査では韓式土器というやつも出土しています。
文字通り、韓半島の影響を受けた土器で、あちら(韓半島)からやってきた人がこちら(日本)で作ったのだろうと考えられていますが、作り方やスタイルやあちら式なんですね。
そっちの写真を撮るのをしっかり忘れてますσ(^◇^;)

武人君参上ところで、ただ今こちらには、こういう御仁もおられます。
これ誰?
同市の『池田遺跡』の埋没古墳の周溝から出てきた人物埴輪です。
上半身も残っているのですが、とりあえず頭部のアップ写真で。

何年か前に千葉の『国立歴史民俗博物館』や、三重の『四日市博物館』に出張した時以来のお目見えです。
日曜日(3日)までは、こちらの公民館にいて、次の出張は四月に『橿原考古学研究所付属博物館』の特別展となります。

ただ今こちらでは、これらの遺物以外にも、チョイとマニアックな物が並んでおりますので、お近くの興味のある方はぜひとも見に行ってみて下さい。
例えば桃の種が、これでもかというほど……(^_^;)
葛城山系を遠望する土地方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)とは、弥生時代の代表的なお墓です。
四角くて周囲に堀があります。

ただいま中和地区は京奈和自動車道の建設に伴なう、発掘調査の真っ最中です。
ここは橿原市観音寺、インターチェンジの予定地のを橿原考古学研究所が発掘したところ、件の方形周溝墓が17基ほど出てまいりました。

地盤もあまり強くなさそう……しかし、この写真で分かりますよう、墳丘はまったく残っておらず、周溝も何とか確認できる程度の深さです。
ごらんのように、主体部のあったはずの場所には、中近世の畑の畝の跡がありありと残っています(ーー;)
一体が畑になる以前にも、すぐ近くに川があったようで、度々の洪水に見舞われたのか、これらの墓を壊して川に向かう溝も掘られています。

完形の弥生土器はこれだけらしいです。出土遺物も割合に少なく、弥生時代中期の壺が周溝から数点、出土しています。
それでも、このように見事な供献土器らしき壺も見つかっています。

一方、氾濫を起こしたらしい川からは、古墳時代の小型丸底壺などが出ていて、お墓よりも川の方が新しい事が分かります。

方形周溝墓の乗っているベースの下は砂の層、どうしてこのような安定のよくない低い場所に墓域を定めたのやら、葬られた人々の暮らしたムラはどの辺りにあったのか、この後の周辺の調査や地形などを検討して、少しずつ昔々を探って行く、地味で気の長い仕事がこれからも続きます。

しかし今日も寒い日で、この説明会の後も思い出したように一日中、雪がちらついていました。
奈良の冬はもう少し続きそうです。
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