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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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南から久々の平城宮での現地説明会です。
今回は第一次大極殿院の内庭広場の南東端にトレンチが入っています。
第一次大極殿院に関しては、六割以上が調査されているようで、東半分は今回の調査区でほぼ発掘終了だそうです。
この場所は東面回廊と南面回廊の交わるコーナーの内側、北を上にした平面図の右下の端っことでもいう場所ですね。

今回の遺構は敷石と溝と浅くて広い土壙がメインです。
御覧のようにかなり地味(?)です(^^ゞ
この大極殿院の庭は、三度に渡って整地されて石が敷かれた事が分かっています。
浅い土壙は一番上の敷石の層で検出されているので、天平十四年の平城還都後に掘られたと推定できるようです。
中央部の調査員の方が立っている左側、黒く地面の色が変わっている辺りが土壙です。
22m×17mも大きさがある割には、深さが20cmしかなく、すぐ埋め戻されている様子が窺えるそうです。
同じような土壙は南西の隅にもあった事が確認されているという事です。
それらの土壙のすぐ手前には、幅2mほどの東西溝があります。
この庭は約3mの高低差で南に傾斜し、東西溝の部分を最も低く造成しているので、この溝は雨水を排出するために掘られた事が分かります。
土壙の性格としては、この溝で排水し切れなかった水が手前に溜まってぬかるんだので、このような浅い穴を掘って土の入れ替えをしたのではないかと推測しているのだそうです。

姿を現す大極殿さてこの場所ですが、来年に行われる『平城遷都1300年祭』のメイン会場となる予定です。
そのため、この発掘調査終了後は、全面的に石敷きを復元して整地し、祭典が終わった後には庭を取り囲む回廊の復元工事が始まる予定だと聞きました。
う~ん、毎度思う事ですが、復元云々よりも先に行う事があるんじゃないのか?
こいつは私個人のボヤキではなく、これらの事業に携っている有識者の面々も、時に口にするのを聞いています。

ともあれ、祭のシンボルたる第一次大極殿は、このように姿を現しつつあります。
まだ内装などが済んでいないため、これらの足場を撤去するまでに半年かかるそうですが、西側からは金色の鴟尾と宝珠を見る事も出来ます。
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橋本技師、熱弁中桜井市の纏向遺跡はとにかくだだっ広いです。
名前は全国的にも有名で、注目すべき発見も多々ありましたが、実際の場所に行っても何もないのがこちらの特徴です?
この周辺に点在する古墳群は、この遺跡の時期に並立するものもあれば、纏向の廃絶以降に作られた物もあります。
弥生時代後期から古墳時代の初頭の畿内では、拠点集落というと、この纏向遺跡に集約されて来るそうです。
ここに匹敵する『都市』は九州にも東海にもないとの事で、この時期のヤマトの首都ともいえる存在です。

この纏向遺跡で初めて、企画性を持った建物群が発見されたという報道はつい一昨日の事で、現地説明会は本日行われました。

こんな具合に柱穴が並んでます。発掘調査地はJR桜井線の纏向駅のすぐ近く、線路脇にあります。
大々的な報道の割には、ややこじんまりとした現場です。
そして遺構は更に地味(^^ゞ
だって柱穴の列と溝ばかり……まぁ、大抵の遺跡はこんなものですけどね。
遺物も庄内式と布留式の土器がメインです。
ニュース性の割には地味なのは、時代的にも遺構の性格的にも仕方ない事です。
それでも分かりやすいように、柱穴に色違いの柱を立てて、黄色い建物を囲む白い柵の様子を見せてくれています。

都城とまで行かずとも古墳時代には、方位をそろえた掘立柱建物など珍しくはないのですが、ここでは弥生時代が終わるか古墳時代が始まるかという時期、出土した土器から三世紀の前半、ここまで古い例は畿内でも初めて確認されたのだそうです。

ゲストも来ておられました。天邪鬼うめぞーは、邪馬台国論争にはてんで興味ないというか、弥生時代は守備範囲外というか、メジャーなものは今更どうでも良いというか、新聞社やテレビ局の記者さんが寄って来ると逃げておりました。
やっぱり、邪馬台国畿内説への期待をコメントして欲しいんだろうなぁ……
まぁ、話題としては極めて取っ付き易いですからねぇ。
ともあれ、こういう地味な分野が脚光を浴びるのは、とても嬉しい事ですわ。
ニュースは話題性たっぷりでも、調査は地道に辛抱強いデータの積み重ねです(-_-)

墳丘は宮内庁の指定エリアです。JR桜井線の帯解駅から南東方向に20分程度歩いてゆくと、今回の黄金塚古墳発掘調査現場があります。

昔使っていたロードマップには『御陵伝説地』という名称で載っていて、妙に気にかかっていたのですが、大和郡山からこの辺りまでには、舎人親王関係の伝承地が点在しているそうで、その関係で、ここが墓所という伝承が残っているそうです。

この写真ではかなり分かり難いですが、墳丘は二段構築、墳丘の北東から見ると上円下方墳に思えるのですが、この時代らしく方墳です。
時代的には既に横口式石郭の現れる頃のはずですが、こちらはかなり大きな石室を持っている事は有名だそうです。
終末期古墳への過渡期、桜井の阿部文殊院境内の石室のように、見事な切り石で組んだ石室も時には見る事が出来ます。
以前に宮内庁が調査したこちらの横穴式石室は、榛原石と呼ばれる板状摂理を起こす石材を綺麗にカットして積み上げて作られているそうです。
やはり宮内庁の行った調査では、石室の開口する南面裾に石列と石敷きが検出されています。

北側の石敷き検出今回の奈良市教育委員会の調査でも、墳丘のすそに五カ所ほどトレンチを入れたところ、このように石敷きが出てきました。
この写真では右手前の方が墳丘ですね。
裾部の石材は抜き取られた跡がありますが、その外側には少し高くなった上段と、真っ直ぐに置かれた縁石より少し下がった下段の、二段に敷かれた石敷きが見られます。

この石敷きは古墳の四面に渡っていて、南面は特に広くなっているようです。
出土した土器から、七世紀の中頃の築造と考えられるのですが、終末期古墳にせよ、このような石敷きの見られる例は他になく、石室の構造も含め、かなり得意な古墳だと言う事です。

四枚の写真を繋ぎ合わせてあるので、チョッと見難いのですが、北側中央に長いトレンチがあけられていました。
右側が墳丘裾になります。
左側に見えるスロープは外堤の裾で、これは地山を削りだしています。
この古墳の北側と東西側は、現地形を四角く削りだして外堤を残し、墳丘を造成し、その裾に石敷きを回している事が分かります。

今回は現地説明会ではなく見学会だったので、具体的な説明はなかったのですが、相変わらず報道などで取りざたされるのは被葬者です。
構築年代から推定されるに、舎人親王の墓所説は否定されているのですが、もしかしたら大化の薄葬令の後に造られたかも知れない古墳としては、かなり大きな規模の墳丘や石室を持っているのですから、並大抵の人の御墓ではない事だけは分かります(^^ゞ
道の側溝と塀の柱列、大壁住居高市郡高取町は、大和国の内でも渡来系の人々の居住が、顕著だった地とされています。
『続日本紀』に見える宝亀三年四月、坂上大忌寸苅田麻呂(さかのうえのおおいみきかりたまろ)が奏上した内容によりますと、
“高市郡内には檜前忌寸(ひのくまのいみき)の一族と十七県の人たちが多く住み着いていて、他の姓の者は十中、一~二しかいない”
となっています。
現在の檜前の地は明日香村の南の辺りを言いますが、この当時には更に南に広がった、高取町の北半分辺りまで含むと思われます。

この渡来系の人々が住んでいたのではないかと思われる住居が、ここ数年、この辺りで多く検出されている『大壁住居』です。
住居の周囲に溝を掘り、そこに多くの柱を立てて丈夫な壁を築いた、朝鮮半島などで見られる住居だろうと考えられています。
今までの町内での発掘調査でも、多くの例が見つかっているのですが、現地説明会で一般にも公開されたのは今回が初めてだそうです。
上の画像の右側の方に、くの字に曲がった溝の中に並んでいる多くの柱穴が見えますが、これが大壁住居の特徴です。
今回の調査では、少なくとも五棟が建て替えられながら存続していた様子が見られます。
最大のものは一辺が15メートルもあるそうです。

整然と並ぶ柱穴は倉庫かこちらの画像にも大壁住居の溝が見られますが、更に目を引くのは、その後の時代に立てられた総柱の掘立柱建物です。
四角い掘方は1メートルにも及び、40センチ近い直径の柱が立てられていたようです。
柱と柱の間は2.5メートル、検出されているだけでも2間×2間ですが、廂と思われる細い柱の列も東側に見られます。

新聞で報道された内容では、奈良時代くらいの道の跡(紀路と言っている新聞もありましたか)の発見が大きく扱われていました。
上の画像の右下から伸びている溝と、見学の人が立っている通路の奥の平行する溝が、この道の側溝になります。
幅60センチの溝は南北に伸びていて、両側の間は9メートルあります。
幹線道の紀路としては少し細いような印象を受けますし、本来は北東から南西に下る筋交路になるので、南北道のこれが紀路になるかは、今の所では断言できないようです。

上記の総柱の倉庫らしい建物は、この道の東側に平行して建っています。
そして道の東側溝と建物の間には、やはり平行する柵らしい柱の列が見られます。
この様子から見ても、双方に関連がある事は間違いありません。

報道では五~六世紀の大壁住居と、奈良時代の建物と道が取り上げられていましたが、この遺跡では3世紀後半の土師器が多く納められた土壙も見つかっており、この時代から人々が生活を営んでいた事も分かります。
調査は3月末まで継続するそうで、これら遺構の更に下から、古い時代の遺構や遺物の検出もあるかもしれません。
京都府の向日市には、この辺りでも有数の前期古墳群があります。
しかし、この乙訓郡という所は、奈良からと申しますか、近鉄沿線からはとても行きにくい地域で、現地説明会だと言ってもついつい二の足を踏んでしまいます。
お陰で長岡京関係の現説にすら、この数年、行っておりません(-_-)
久々に一念発起して『元稲荷古墳後方部後端の調査』の現説に行って来ました。
しかし、阪急に乗るとなると、一度大阪に出るか京都に出るかして、地下鉄なりJRに乗り換えて梅田か四条烏丸から乗らなけりゃならないんですよね……
かくして大阪経由で阪急京都線の特急に乗って、長岡天神で乗り換えて、西向日駅までやって来ました。

斜面はかなりずり落ちています。駅を降りて長岡京大極殿跡の方向に歩いて行きますと、何故なのか造成工事のフェンスに囲まれているじゃありませんか(・.・;)
どうやら市で土地を買い上げて、公園をもう少し整備するつもりのようです。

さて、古墳は式内社の『向日神社』のすぐ隣の公園にあります。
今までの調査で、きわめて古い構造の竪穴式石室を持つ前方後方墳で、前方部最上段に特殊器台と壺形埴輪が立てられていた事が分かっています。
大和(おおやまと)古墳群などでの調査成果から、3世紀の3/4半期にまでさかのぼれる可能性もあります。

新聞報道で盛んに言われていたのは、これら画像の葺石の出土についてでしょうか。
従来見慣れた葺石という観念からすると、随分小さな石を使用してるのが良く分かります。
近くの川で採取した川原石だそうです。

残りの良い箇所もあります。こちらの古墳の範囲確認調査は、かなり進んでいるそうですが、後方部の北側は昔の土取りによって断崖のようになっています。
このために後方部がどの程度残っているのかが不明だったそうで、この度の調査により墳裾が検出されて、墳丘規模もほぼ明らかになりました。
墳長は約92メートル、後方部の高さは7メートルもあるとの事です。

石が細かいためなのか、基底部に根石を並べる事もせず、最もポピュラーな小口積みも所々に見られますが、葺石の葺き方には統一性がないとの事です。
しかし、こちらの画像の二段目の斜面には、根石の列が見られ、裏込めらしい細かい石までが見られるそうで、初段の斜面よりもかなり残りは良い様子です。

もう一つ新聞などで報道されていた『讃岐系二重口縁壺』ですが、口縁部分だけが二段目の埋土の中から埴輪片と共に出土したそうです。
墳頂からの流土の中に含まれているのですから、これらの壺や埴輪も墳頂上あった事が分かります。
特殊器台と言い、この壺と言い、いずれもこの古墳の被葬者と瀬戸内地域の関係を示すものです。
文献には殆ど現れない3世紀末から4世紀の倭国は、これらの発掘成果の積み重ねで、少しずつ姿を現して行くと同時に、それにも増して分からない事も教えてくれるものです。
かつて北限と考えられた溝ですが……奈良県は現在、更なる世界遺産として飛鳥・藤原宮跡の登録を目論んでいるそうで、まずはこの遺跡群を全て史跡指定せにゃなりません。
そういう訳で、飛鳥京の新たな学術調査を今年度より行っている訳で、範囲確定とばかりに外郭北部を発掘しているようです。

こちらの画像では、見事な石組みの東西の正方位に乗る溝が出ておりますが、これは二年前の第157次調査で見つかった北限と思しき溝の東側延長部分となります。
ところが新聞やテレビでも報道されたように、この溝の北側で新たな建物跡が検出されました。
この画像の上が北になります。
その部分に四角い掘方を持った柱穴が東西に三つ、更にその北にも一つ並んでいます。
これが掘立柱建物の角の部分になります。
北限溝と思われていた溝の更に外側にも、後期には飛鳥京は拡大していた様子が窺えます。

ここにも新たな建物が……こちらのトレンチは、溝の出ていたトレンチの更に東側になります。
こちらの画像は、右が北側になります。
ここでも廂付きの建物が検出されているのですが、件の溝をそのまま延長すると、この建物のすぐ北側に来てしまいます。
そういう訳ですぐ北側にも小さなトレンチを開けているのですが、ここでは溝は検出されていません。
つまりこの部分まで来る前に、東西溝はどちらかに曲がっているようです。

さて、画像には映っていませんが、この建物の南側には砂利敷きの広場が検出されています。
何らかの儀式が行われるような施設が、この外郭にも存在していたという事です。

上の画像の後方奥の方に写っているのは、ちょっと分かり難いですが飛鳥寺です。
飛鳥寺の南門の前には、石敷き広場が広がっていた事が確認されています。
今回の建物の発見により、飛鳥京の北限は再び不明となって、飛鳥寺との関係も交えて、今後の調査の結果が待たれるばかりです。
橿原考古学研究所の『飛鳥京跡第161次調査』と、奈良文化財研究所の『石神遺跡第21次調査』の現地説明会に行ってきました。
ところが、デジカメ用のカードリーダーを職場に忘れてきてしまったので、画像が出せません(~_~;)
そういう訳で、明後日以降にでも報告致しますm(__)m

ところで奈文研で報告をしていたA調査員、学生の頃に一回だけ会った事があります。
どうやら彼は筋金入りの『鉄ちゃん』、それも『乗り鉄』のようです。
あの時も、ひたすら鉄道の話ばかりしていたような……結局、あのお兄ちゃん、何見に来たんだっけ??
K市のⅠ技師に伴なわれて、多分、古式土師器か埴輪を見に来たのだと思うのですが……この業界には割合に、鉄道マニアは多いみたいですσ(^◇^;)
築地塀の瓦溜り国史跡『高麗寺跡』、史跡整備をして公園化するための範囲確認調査も四年目、トータルで9次になるのだそうです。
最初の発掘は昭和十三年、これによって十五年に史跡指定されたとの事ですが、この寺跡の乗る木津川の河岸段丘には田園風景が広がり、堤防の上の道にはひっきりなしに自動車が走っています。

この寺の創建は7世紀初頭、白鳳時代と平安初期に伽藍整備が行われ、鎌倉時代初頭には廃絶されたようです。
昨年、一昨年の調査を見ていても、出土するかわらは圧倒的に七世紀中ごろの川原寺式の物が多く、白鳳時代の改修が大規模だった事が窺えます。

西の大溝南辺築地塀には南門が取り付くのですが、この門と回廊に付く中門は伽藍の中心ではなく、やや西によった金堂の正面に来る事は第8次調査で判明しています。
そして今回の調査で出て来たこの大溝は、築地から落ちた瓦の列を切るように南北に伸びています。
溝の底には築地と同じ瓦が落ちていて、築地塀が倒壊した時には既に、この溝が存在していた事を示しています。

溝の更に西側には瓦溜りはなく、上土塀の基壇らしき跡が検出されています。
その位置は既に確認された西側回廊の範囲よりも外になるので、これがかつての寺の西端を示す溝として掘られた可能性が指摘されます。
溝自体は寺の廃絶期まで機能していたので、寺内の排水路としてずっと使用されていたのかもしれません。

基壇地覆石の列さて、新聞で報道されていたのは、この講堂の基壇の検出でしたでしょうか。
実は今回は、とても狭い範囲で検出されています。
三段目の基壇は石の列の上に丸瓦が並べられていますが、この上に約60センチと推定される瓦積み基壇があったと考えられます。
二段目や一段目は低い石敷き基壇のようですが、それよりも外側に雨落ち溝が存在するので、かなり深い軒を持った講堂のようです。
この講堂が取り付く北辺回廊によって伽藍の南北の幅、回廊の折れ曲がる位置が東西で検出された事により、東西の規模も判明します。

ところで高麗寺は西に金堂、東に塔、講堂から伸びた回廊で囲まれる『法起寺式伽藍』とされています。
それ以前には講堂は回廊の外にあったのですが、川原寺でようやく回廊内に入ってきます。
ところがこの伽藍配置はちょっと複雑で、回廊で四角く囲まれた内が、更に南北に分断されて途中の東西回廊の中央に中金堂が取り付いています。
この中金堂が講堂に変わるのが法起寺です。

川原寺の中金堂は正方形に近いプラン、高麗寺の講堂も同様です。
高麗寺と同じ伽藍配置の法起寺では、大抵の寺の講堂のように横長プランです。
高麗寺が川原寺と同じ瓦を使用する事から考えても、川原寺式から法起寺式への過渡期にこの寺が位置する事が分かります。

雲雀がさえずりお茶を焙じる香りの漂う南山城の田園地帯、1300年前には国家寺院にも准じるほどの伽藍を持った寺が泰然として存在していたのですから、渡来系氏族もなかなかに侮れないものです。
彼らの経済基盤は、事のほか広範囲に渡り安定していたのかもしれません。
墨書土器に寺の名前がさて、この寺の名前はと申しますと、出土した墨書土器に見えます。
『神尾』や『神雄寺』の文字が見えますので、『かみお寺』というのでしょう。
その他には『黄葉』や『大殿』の文字もありました。
『大殿』を『オトド』と読めば、大臣や上位の貴族の事を現しますが、『ダイデン』と読みますと天皇の居られる所となってきます。
さて、この寺は誰の建立なのでしょう?

文字資料としては、少し前に話題になった万葉歌の書かれた木簡がありますが、こちらは撮影禁止との事でした。
寺と歌木簡の関わりというのが、少々奇妙にも感じますが、この時代の寺の機能などを考える上の一資料となる事を指摘する研究者もいます。

高級品の陶器類墨書土器や大量の燈明皿に混じって、高位の貴族や寺院などで用いられた緑釉陶器奈良三彩があります。
三彩陶器には、波の文様や岩を表現したと考えられる破片もあり、これらを組み合わせて須弥山を模ったと思われます。
パーツには『右三』や『左五』の文字が刻書されています。
他には木製の下駄など、ガラスの管、和同開珎なども出土しています。

四天王の破片は本堂跡からそして本堂跡からはが出ていますが、大半が平城宮式だそうです。
量が少ないので、屋根全体に葺かれていた訳ではなさそうです。

更には須弥檀の周辺からは、この画像のような素焼きの破片が出ています。
これは元々、塑像四天王だったようで、火事で燃えたために破片になって残りました。
塑像では土に簡単に返ってしまいますので、燃えた事が不幸中の幸い?
『広目天』の顔の一部が見つかっていますが、目元にガラスの流れた跡があります。
これらの像には、ガラスで葺いた目が入っていたようです。
塑像の他には、塼仏片や装飾用らしい金具なども出土しています。

それにしても学業研鑽でも修行の場でもない、この少し変わった寺での燃燈供養は、いつ誰によって開かれたのでしょう。
発掘現場は来週には埋め戻され、この後の検討が加えられるとの事です。
広くて写真に納まりません……京都府木津川市の『馬場南遺跡』の調査は、京都府埋文センター木津川市教の合同で行われています。

この調査も例に漏れず、事前開発に伴うもので、府の埋文センターの調査地では、奈良時代中期から後期にかけての建物や、川跡が見つかりました。
これは元々自然の川だったようですが、西の岸を埋めて土地を広げたり、途中に堤を造って水を溜めたりした様子が見られます。
これはほんの一部です。
この川の斜面全体に張り付くように、8千枚にも及ぶ土師皿が投棄されていたのは、新聞やニュースでも大きく取り上げられていました。
これらには焦げた跡があるので、燈明皿として使われたのは確かですが、さて、ここには何があったのでしょう?
同じ川の中では、万葉集に見える歌が書かれた木簡(1/3程度残っています)も出土していますが……
この範囲で出てきた建物は掘立柱で、瓦も伴っていません。

焼けた土がちょっと生々しいです。
ところが市教委で北側の藪の中にトレンチを入れると、なんと、礎石を伴なうお寺の基壇が出てきました。
廂がない、外側の柱だけで構成された本堂は、唐のあまり大きくない寺院で用いられたスタイルだそうで、遣唐使によって情報がもたらされたであろう事は想像できます。

この堂は火事で焼け落ちたようで、基壇の土や装飾に使われていたは、比熱して赤くなっていました。
そしてそこにはやはり被熱して土師化した、四天王の塑像らしき破片が見つかっています。

しかしこの寺の記録は一切ないそうで、誰がどのような目的で建立したのかは分かりません。
時代からして恭仁京遷都の頃、聖武天皇の勅願の可能性も、この場所に勢力を持っていた橘氏の私寺であった可能性も指摘されています。
ところで、この寺の名前は……という訳で、遺物編に続くのでした(^^ゞ
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