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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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床が張られていたらしい建物の跡です。平城第466次調査は、第二次大極殿院東院地区の間に当たる、東方官衙地区の中央よりも少し南側に南北に細長くトレンチを開ける、いわば試掘に近い形で行われています。
この調査の現地説明会が、17日の土曜日に行われたので、好天強風の中、行って来ました。

何でも6メートル幅のトレンチを100メートル以上に渡って開けているので、遺構の種類は分かるものの、全容はとにかく次期以降の調査で広げなければ分からない状況です。

それにしても見事な建物群が大当たりしています。
これまでの調査で既に判明している12メートル幅の宮内道路の南側にかなり大きな築地塀があり、そこから50メートル余南に再び大きな築地塀があって、その南にまたもや12メートル幅の道路があって、一つの地区を形成しているようです。
この地区には更に二つの低めの築地塀の跡が検出されていて、それらに仕切られて礎石建ちの建物が三棟分検出されています。
その内の一番南側の建物跡は床束を支えていた小さな礎石も残されていて、床が張られた建物だった事が推測できるものです。
それが上の画像なのですが……よくもまあ、この浅い位置で遺構が残っていたものかと感心します。
技師の方が示している瓦の列は、床を支えるための基礎ではないかとの事です。
土地が低くて緩いので、このような補強が必要だったのかもしれません。
それにしても役所で礎石建ちの建物となりますと、かなり特殊な存在ではないかと想像できます。

私としては……ようやく中務省が出て来たかな??といったところ(^。^)
そのような事は、現場を担当している方は全く触れておられませんでしたが(-_-;)

東院庭園にてさて、レーダー探査をしたところ、これらの建物の西側にも同じような礎石の配列や空地が見られるそうなので、ここにはシンメトリーに配された六つの建物が予想されるようです。
ちなみに、築地に仕切られた建物群と広い道路を隔てた更に南には、掘建て柱に仕切られた、掘建て柱建物が二棟検出されています。
こちらは北側エリアとはかなり違う性格の役所があったようです。

現在の地形を見ても南北に走る細長く浅い谷にあたる場所なので、これらの建物群の西に並行するように、かなり長い水路の存在も確認がされています。
この位置に東宮を持ってくる事が相応しくなかったために、更に東のゆるい舌状尾根に東院が造られて、平城宮はあのような特異な形になったのだろうというのが、ここ最近では有力視されている説です。
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相変わらず切り合いだらけで……何が『乙巳の変』なんだ?
そういう訳で『甘樫丘東麓遺跡』の2009年度調査です。
何年か前には、これでもかと恐ろしく混雑していた現地説明会も、ここのところは適度に話題になっていると言う感じですね(^_^;)
ちなみに行われたのは昨日、三月二十日の事です。

今回はこの谷間の入り口辺りと丘の裾から上の方を調べてみようと、前回の調査地の東側に調査区を開けていました。
右側にボケて映っている石敷きは、
昨年の6月に検出した同じ遺構です。
やはり丘の上にも施設が?
左側の方には、数件の掘建て柱建物が数棟検出されていますが、後世の削平が著しいのと、出土遺物が少ないために、はっきりとした年代が分からないようです。

さて、石敷きの北側、丘の上にはどのような遺構の広がりがあるのやら、5×25メートルのトレンチを開けてみたところ、高低差10メートルの付近のテラス状になった平坦場で、二列の柵列を検出しています。
現状で地形を見てみますと、この平坦部、西の方へと巡っていて、この北側に飛鳥寺というか王宮の方向を見渡せる廓状の平らな場所があります。
この辺りをいずれは調査する事になるのかもしれませんが、今のところは予定は無いようです。

また平衡感覚の変な画像で(・_・;)さて、こちらは明日香村教育委員会の現場、『飛鳥寺西方遺跡』です。
このところ村教委では現地説明会を行わず、見学会に留めています。
もう少し状況を検討してから、改めて詳しい説明会を中央公民館などで行うようにしているようです。
それはそれで、かなり有益だと思うのですが……どうも状況が良く分からない(ーー;)

今回は40年以上も前に見つかった飛鳥寺西門前の石敷きや溝、土管暗渠の延長が検出されて、溝や暗渠は更に南へ伸びる様子が窺えるのですが……
石組み溝の向こう側の素掘りの幅広い溝は何なの?
その下層のかなり深い位置で土管の暗渠が出ているのですが、この両者の関係ってどうなってる訳?

敷石とバラスで明らかにエリアを仕切っています。
そして新聞にも載った『槻の木の広場』云々の石敷きがこちら。
手前には大きな石を敷いて方形に区切っていて、そこには丸く石の無い部分が見えますから、ここに柱が立って、何らかの建築物が立つ事になるのでしょうが、真ん中の素掘溝は何よ?雨落ち溝?……にしちゃ、その横に残りの悪い石組み溝らしき物も見えるんだが?????
奥の方は細かいバラスが敷かれていますから、手前の方形エリアとは別物の事は確かです。

知り合いの調査技師は三人とも現場におられるのですが、のべつ幕なしに誰かにつかまって質問をされている状況ですから、遠慮してさっさと引き上げてきました(^^ゞ
まあ、そのうちにまたどこかで調査報告会でもしてくれるでしょう。
その辺に期待しておきますわε-( ̄ヘ ̄)┌

気分は北斎……的な構図で??締め切りまでいくらもないってのに、今日も今日とてじゃない、昨日も昨日とて平城宮跡なんぞにおりました。
こいつがその証拠写真?
平城遷都1300年祭』っちゅうのは、どこで始まってるんですかねぇ……奈良県民の温~~い視線を浴びながら、休日返上で大極殿院というよりも、セレモニー会場の準備工事をしているのでした。
私が通りかかった時は、ちょうどお昼休み、作業員の人たちはプレハブで昼食中でした。
それにしても、大極殿の屋根の真ん中の宝珠、こうやって遠めで見ると、あまり目立たないような気がします。
一般公開で三階の足場から見た時には、ド派手だわ~~~っと思ったのですが。

カラフルにビニール紐が張られた現場です。

ちなみに私は大極殿の復元現場を見に行った訳ではありません。
タイトルにあるように、東院地区の発掘調査の現地説明会に行って来ました。
この地区は2006年から調査していて、来年度が五年計画の一区切りとなるそうです。
ここの現地説明会、行くたびに思うのですが、本当に何が何やらさっぱり分からない……

まずはベースになる土が礫交じりで、おそらく整地層だと思います。
地山に比べると整地した面での遺構検出って、かなり分かりにくいハズ。
よくもまぁ、毎回、これでもかと切り合った柱穴の痕を探せるものだと感心しますわ。
今までにも行きました、東院地区の現説は↓のページにあります。
http://umena.blog.shinobi.jp/Entry/198/
http://umena.blog.shinobi.jp/Entry/179/
http://umezo.bakeinu.jp/entry/35335/
http://umezo.bakeinu.jp/entry/6747/

こちらもようやく梅が身頃になりつつあります。以前は全部で五期に亘る変遷が見て取れるという事でしたが、今回はついに六期にまで増えてしまいました……平城宮って710年から784年までの74年間(難波とか恭仁に都があっても、留守官はいたんだから)、都だった訳ですよね。
その間に六回もプラン変更して建物を大幅に立て替えているのですから、贅沢極まりないです。
聖武天皇平城還都以降、天皇が変わるたびと考えて差し支えありません。
ちなみに最後の桓武天皇は、全部解体して長岡に持って行ってますけどね(゜_゜)


ちなみに復元展示されている東院庭園も、少なくとも二度は大きく作り直されているようです。
上層遺構は多分、光仁天皇の『楊梅宮(からもものみや)』の庭園ね。

これが区画溝今年も高麗寺の発掘現地説明会が行われました。
既に第10次、調査自体は今年度で終了ですが、来年からは史跡整備に入るという事です。

さてそれにしても、相変わらず何が何やら分からない画像ですね。
先細りに掘られた溝の中に瓦の割れたのが、やたらに散乱しておりますが、これは高麗寺の伽藍回廊のすぐ西側に掘られた区画溝です。
どうしてしっかり掘られていないのでしょう……これは排水用の溝だという事です。
この場所の地形は西から東に向かって緩やかに傾斜しているそうで、雨水が伽藍の内側に流れ込まないようにと、この溝に集め、南側の木津川へと流すための溝だそうで、寺域の外まで掘られているのが、昨年の調査で確認されています。

こういうイメージ画が、今回も示されていました。いつものように木津川市内在住の早川和子氏による、再現イラストが公開されていました。
このようなヴィジュアル資料があると、本当に分かりやすくて助かりますね(・。・)
このイラストの中央辺り、回廊に沿って寺の外まで掘られているのが、今回検出された溝です。
この溝の中から9世紀初頭の瓦と12世紀末くらいの瓦器碗が多数、出土しています。
つまり9世紀以降は寺の補修はされておらず、12世紀末までは人がこの場所に住んでいた事を示しています。
南山城域の古代寺院は、たいていが長岡京への遷都に伴うように廃絶しているそうですが、この寺はその後も存続していた可能性があるようです。

柵列の角が出ています。さて、この日は京都府の方でも恭仁宮の調査の現地説明会も行われていまして、高麗寺から無料シャトルバスが出ていました。
奈良県版の新聞にはこちらの記事は載っておりませんで、イレギュラーですが、この好意に甘えて恭仁宮の発掘現場にも行って参りました。
昨年の調査でも、大極殿の後殿の推定場所と朝堂院に調査区を設けておりましたが、今年もやはり二箇所の調査が行われています。

この画像では、朝堂院と朝集殿院の間を区画した柵列を検出しています。
調査技師の足元に見えている変な形の穴は、柱の抜取り穴です。
何せ五年弱しか都として機能しなかった恭仁京の宮地です。
平城還都の後はさっさと解体が始まったらしく、ここに立っていた柱も平城宮に運ばれたのかもしれません。

さて、ここの朝集殿院は朝堂院よりも東西、三間分ほど広くなっているそうで、このプランは平城宮の第一次朝堂院と同じなのだとか。
しかし土地的な制約なのか否か、全体の幅はやや狭いのだとか……
全体的に急普請の印象の強い恭仁宮です。
この後の調査でも、やっぱり掘っ立て柱の検出ばかりなのかなぁ……?

こんなロケーションです。相変わらずの下手くそなパノラマ合成写真ですが、三輪山を借景にしたこの場所が、先日から新聞やテレビで報道された、桜井市の纏向遺跡の現場です。
この場所は周囲よりホンの少し高い、いわゆる微高地ですので、弥生時代には集落などが営まれるには適した場所になります。

これが弥生後期最大級の建物です。こちらの画像が、ニュースでも取り上げられていた、弥生時代の後期では最大級といわれる建物です。
桁行は四間ですが、一間が4.8メートルとやたら長いので床を支える束柱が間に入り、一見八間のように見えています。
梁行は古墳後期の溝に切られているため、二間分しか検出ができなかったのですが、いろいろな例を参考に四間に復元されています。
したがって復元したサイズは南北が19・2m、東西が12.4メートルの総柱建物となります。


この建物の西側に、南北両側に棟持柱を持つ建物(二間×三間に復元できる)が検出されていますが、この二つの建物は中軸線が揃っています。
見学の人であふれてます。相変わらず下手な合成の写真ですが、これが棟持柱のある建物ですね。
調査区の上、右端の見学の人たちのすぐ前に並ぶ四本の柱は、昨年度(今年の三月に現説が行われました)で検出された柱列で、今回に検出された柱列と対応するために、建物だと分かったという訳です。

更に西にはやはり前回の調査で発見された建物と柵列があり、これも今回の二棟の建物と同じ軸の上に乗って来ます。
更に西には昭和53年の調査で検出された建物の一部らしき柱の列もありますので、同じ中軸線をそろえた四棟の建物が東西に並ぶ事が想定できます。
これがほぼ東西の線に乗っているのですから、正方位を意識した建物群としても最古の例となります。

この微高知の南北には旧河道が存在し、東西に長く伸びる場所を三世紀の前半に整地し、これらの建物を建てたと考えられます。
しかし大きな建物の柱には抜き取り穴が見られ、その埋土には三世紀中頃の土器が入っていたり、やはりその頃の土器を含んだ溝が柱穴を一部壊しているので、三世紀の中頃には建物は既に無くなっていた事になります。
まぁ、掘っ立て柱ですから、そうそう長い時期に亘って存続もできないでしょうし、無難なところでしょうか。
ところで後で疑問に思ったのですが、これらの建物群、正面はどちらなのでしょうか?
西の方向に盆地が開けているので、こちらかと思うのですが、日の沈む方向よりも登る方向の方を重視したいと考えるのは、この時代には通用しなかったのかな?
前方部から後円部を見る六十何年かぶりの発掘だと言うので、やたらに話題になっているのが、『桜井茶臼山古墳』です。
十月二十九日から三十一日までの三日間、現地見学会が行われまして、私は一番混んでいないだろうと言う推測の元、初日の午後に仕事を早引けして行って参りました。
何せ、隣の市なのでσ(^◇^;)
案の定、空いておりましたし、駐車場も空いておりました。


内部、あまり良く見えません(;_;)上の画像を見て頂きますと、前方部と後円部の高さがかなり違う事がお分かりかと思います。
これが前期古墳の特徴の一つです。
中期を過ぎるとこれが逆になって、前方部の方が高くなります。
関東の前方後円墳を見慣れた方には、そちらの方がおなじみかもしれません。

話題になった主体部(竪穴式石室)は後円部にあります。
新聞やテレビのニュースでは、水銀朱を全面に塗った天井石や、榛原石(で良いのかな?)を積んだ石室の様子を撮影した写真が良く用いられていましたが、現場では石室内部はあまり見えない状況です。
木棺も既に取り上げ作業が済み、割竹形の粘土床が残っているのがかろうじて確認できるような、良く分からないような……
写真のレベル調整をしたら、石が変にピンクになってしまって、下手な写真が更に見る影もないですね(-_-;)
間違っても、阿蘇の凝灰岩じゃありませんよ。

とにかく石も水銀朱も、桁外れの量です。天井石は十二枚、最大の物は1.5トンにもなるそうです。
石室に用いられている赤色顔料は、少なくとも200キロを越えるだろうという程の水銀朱だそうで、かつての大和での埋蔵量はかなりのものだった事が伺えます。
今の日本では北海道ですら、採算の合うだけの量は取れないようですからねぇ。
凄いねぇ、大和水銀(・。・)

この天井石の上を今度は、ベンガラ(二酸化鉄)を練り込んだ赤い粘土で全面パックして、これでもかと避邪の色で保守(?)しておりますが、最大の敵はやっぱり盗掘、墓壙の壁にはデッカイ撹乱が見えております(-"-)

ところで今回の調査で、主体部の上に方形の壇を築いて、その周囲を『丸太垣』で囲んでいた事が判明したと言っておりましたが……この丸太をすえた布掘り(細長く掘った溝で、埴輪を据える時にも良く見られます)の写真がない?
石室の小口や天井石の写真は、不必要に同じようなカットばかり撮っているのに、一体何を寝ぼけてたんでしょう私はσ(^◇^;)
柱穴だらけといえば……世間はシルバーウィーク、私もカレンダー通りに休みなのですが、細かい用事がチョコチョコと入っていまして、旅行に行く計画も特には立てませんでした。
お陰で昨日は家の中をボチボチと片付け、友人に頼まれた物を用意する程度で終わり、今日は昨日の続きと、京都府木津川市で行われた現地説明会に行って来ました。

上津遺跡』は“こうづいせき”と読みます。
木津川は昔は“こづがわ”と呼ばれたそうで、“こうづ”はそれが転訛して現在の地名となったのだと考えられるのだそうです。
この場所は昔々の泉津、恭仁京造営に伴って発達し、都が山城に移ると衰退して行った事が、これまでの調査で分かりつつあります。
今回の調査はマンションの建設の事前調査だそうで、面積はあまり広くはなく、上の画像でも分かりますよう、ひたすらに柱穴ばかりの遺構です。

御存知、早川和子さんのイラストです。これじゃ何が何だか分からない?
そういう訳で、市内在住のイラストレーターの早川和子氏が、いつものように復元イラストを描いて下さっています。
泉川(木津川)より水揚げされた材木を始めとした物資の中継場所として、いわばコンテナーヤードのように利用された場所なのかもしれません。

遺構としては、総柱らしき掘立柱建物の一部が二棟分検出されているのですが、こいつの一棟が正方位に乗っていないんです。
この時代に正方位に乗らない建物って、さて、どう考えるべきなのでしょう?
木津川の河川敷の遺跡なので、砂交じりの崩れやすいベースを遺構が切っています。
かなり調査がし難そうに見えますし、建物の建て替えも頻繁に行われたようで、この狭い場所ではあまりはっきりした事は言えそうにありません。

遺物としては奈良時代後期の須恵器の長頸壺が多数、こいつの内部にはが付着し、掻き取られた様子も見て取れます。
当時の漆一升は米一瓢にも相当したそうで、かなり高価な物だったようです。
税として納められた漆をここに集積し、都や周辺に分配したのだろうと考えられています。

御霊神社境内です。ところで発掘調査の現地は、住宅街の中なので説明をしたり遺物を展示するには手狭だという訳で、バス通りに面した場所にあるこちらの神社で、受付や説明が行われました。

木津川市木津宮ノ裏の『御霊神社』です。
私の持っている地図には載っておりませんで、こちらの神社の由緒書きも文字が完全に飛んでしまって、誰が御祭神なのか分かりませんが、ネットで調べたところ、藤原広嗣伊予親王早良親王を御祭しているそうです。
ちょっと変わった面々ですね(^^ゞ

先日に行きました『岡田国神社』に同様、拝殿前の庭の両側に氏子の詰め所があるのは、この相楽郡辺りに多い建物配置のようです。
ちなみに本殿は一間社の流造り、今回は春日造りではないですねσ(^◇^;)
本殿も含め、建物はいずれも新しく、『岡田国神社』『田中神社』と共に、氏子の方々の御努力で再興された神社のようです。
字名の“宮ノ裏”はまさに、この神社の周囲を表しているようです。

この周辺にもちょっとメジャーな人々所縁の地があるのですが……そいつはまた別稿で(~_~;)
水源地に入れたトレンチです。馬場南遺跡は今回の調査で第4次になるそうです。
前回1月18日の2次および3次の現地説明会は、京都府埋文センターと木津川市教委の合同でしたが、今回は木津川市教委によるものです。

10時からだそうで、家を朝の8時に出て、大和郡山で近鉄からJRに乗り換えて木津駅で下り、テクテクと歩いて行きましたところ、9時半くらいには現地に到着致しました。

1月の調査地はとうの昔に埋め戻され、『神雄寺』の仏堂部分だけは割りに分かりやすいのですが、他の礼堂や流路などはどの辺りでしたっけ……という状況です。
このたびの調査区は仏堂の西側の谷間に設定し、流路へ水を供給する水源を調査し、寺院の範囲を確認を目的にしています。
谷間は二又に分かれますが、東側の方はあまりそれらしい遺構もなく、西側に入れた三つのトレンチから奈良時代後半の土器や川の跡などが検出されました。
一番北側の高い位置に入れたトレンチからは、少量の土器(かわらけ)が出たそうですが、あまりに埋土が厚く、遺構の確認には至らなかったとの事です。

この画像は二番目のトレンチ、右奥の方に川の跡があり、その岸部分に平坦地を設け、上下二層での土器溜りが確認されています。
先の調査では大規模な法要としての燃燈供養が行われた様子が分かりましたが、今回は水源近くでの別の祭りが行われていた事が確認されました。

……にしても、ここの土って馬見丘陵の土にそっくりです。
水を含むとベタベタ、歩くと靴の裏にベッタリ、シートの下ではホイップクリーム状になるのに、乾くとガリガリで削れやしませんわ。
おまけにこの場所は水源なので、雨続きのこの頃、常に水が沸いているのではないでしょうか?
こうなると本当に掘り難いだろうなぁ……(ーー゛)

こちらは駅からすぐ、大極殿跡長いタイトルですみません。
たった十年しか王宮として機能していなかったのに、史料に現れる長岡宮の内裏は、都合、三つあった事になります。
延暦八年二月、
西宮より移りて、初めて東宮に御します”
という記事により、第一次内裏は「西宮」、第二次内裏は「東宮」と呼ばれます。
そして、延暦十二年正月、
東院に遷御す。宮を壊(こぼ)たんと欲するに縁(よ)ればなり”
「東院」は、左京に遺構が見つかっているそうで、後で言うところの「里内裏」なのでしょうね。
この次の年には平安京へ遷都ですから、既に内裏の解体が始まっている訳です。

ところで平城宮までの段階ですと、内裏は大極殿院のすぐ北にくっついているのですが、長岡宮になりますと、完全に分離します。
この辺、政務の執り方の変化によるのだというのですが、ややこしい話は取り合えず置いておきます。

建物の一角が出ております。二つの内裏は大極殿を挟んで西側、東側に配置されていたのですが、「西宮」の遺構はまだはっきりと確認されていないそうです。
地図上で見ると、向陽小学校の辺りになるのでしょうか。
一方、「東宮」は昭和41年に発見されたとの事で、正殿は駐車場になっていますが、築地回廊の場所は公園として保存されています。
さて、今回の現地説明会は、「東宮」こと第二次内裏地区で見つかった東西棟の建物がメインになります。

現場を見た第一印象……なんちゅう浅い遺構だ。
こちらの画像の奥の方、ブロック塀の前の土嚢を積んでいる辺りが現地表です。
そして中央を横切っている畦の上面が、上土をはがした面。
場所によっては、ほんの一掻きした程度で遺構の上面が出ています。
この浅さで良くも残っていたか、ひたすら感心致します。
内裏地区に特有、掘っ立て柱跡が二間×二間で六本、すべて抜き取られた状態で検出されています。
この建物、極低い基壇を持っていたらしく、基壇化粧の側石として凝灰岩のブロックが廻らされていたようです。
これの抜き取り穴の状況や、基壇の様子から、建物は南北は二間で北面に廂がつき、東西方向に七間程度伸びるのではないかと予測がされています。

しかし内裏の脇殿は平城宮にしても平安宮にしても、南北棟が普通で、東西棟の正殿と平行して建てられたのは何か意味があるのだろうとの事、長岡宮はまだまだ分からない部分も多いようです。

弘法大師ゆかりの寺です。 現説の後は、予定としては奈良教育大学のシンポジウムに行くつもりだったんです。
ところが、西向日駅に着いた時に時計を見たら12時を回ってる……13時に教育大に着くのは、ほぼ不可能だわ(@_@;)

そういう訳で、その辺をほっつき歩く事に致しました(^_^;)
周辺観光のための地図をもらったので見てみますと、北の方は『元稲荷古墳』を見に行った時に回ったエリアですので、南の方に行く事にしました。
途中でお昼をと思ったのですが、駅の周辺なのに、食事をするところが殆ど無い……(・・?

炎天下をふらふらと歩いてゆくと、ようやくお好み焼き屋さんを発見、そこで腹ごしらえをして聞いてみましたところ、『乙訓寺』まで歩いて五分程度との事、そこからさらに十五分程度で『長岡天満宮』だそうです。
つまりこのお店は既に向日市ではなくて長岡京市、何のために地図がある、しっかり見ろってσ(^◇^;)

ともあれ上の画像は『乙訓寺』……牡丹の名所で有名ですが、今はひたすら油蝉の声ばかり。
そして裏手の小学校で野球の練習をしている声が聞こえてきます。
それにしても、ここの本堂の縁側は、良く風が通ります。
ぼうっとしていたら、お墓参りの人たちが三々五々、やって来ました。

『長岡天満宮』を回って駅に着いた時は既に十六時半、奈良に出て『なら燈花会』でも見て帰ろうかなと思ったのですが、どうせ明日も教育大に行くのだしと、ここで引き上げてきました。
とにかく全身汗だく……とっとと風呂に入りたい(~_~;)

西から二年ぶりの甘樫丘東麓遺跡の調査です。
この場所では既に六回の調査がされているようで、今回は三年前に深い石垣の検出された場所の南東側、石垣や建物の続きが検出される事を期待されていたようです。
そして期待通り、その石垣の続きが出て来たのですが、チョッと妙な構造だというオチもついております。

ともあれ南西側の土山の上から全体を見回すと、こんな具合に見えるのですが、チョッとこれでは何だか分かりませんね(^^ゞ

そういう訳で、石垣の部分を別方向からアップで見てみました。
石垣を南東から見てみました。この画像の一番手前で石垣は途切れています。
そういう訳でここが南端となり、奥に向って伸びているのですが、2006年度の調査の石垣とは真っ直ぐにはつながっていません。
途中で西にクランクして、再び北に伸びるという形に復元が出来、北と南では石の大きさも変わっているので、もしかしたら造営に時間差があるのかもしれません。
それにしても今更に驚くのですが、この石垣の西側(画像では左側)は、本来は大きな谷になっていて、七世紀の中頃には、この石垣諸共埋めて平に造成しなおしています。
こいつをサブトレンチで一部確認する事ができるのですが、恐ろしいほどの土量です。
恐らくは蘇我氏滅亡後、天皇家が主体になって行った造成だと思います。

かなり明確な石敷き石垣は調査区の中央少し西よりですが、東の端にはこのような石敷きが残っています。
この右側の方は尾根筋に沿って敷かれているようで、左側は浅いクランクする溝で石敷きが途切れています。
範囲的にはあまり広い範囲で残ってはいないので、これ自体の性格は良く分からないのですが、右側に続く尾根筋上にあるであろうと思われる施設との関連を予測できます。
ただしこの石敷きは七世紀中頃のもので、石垣の埋められた後のものと考えられます。

この遺構の場所は、今までの現説の時にも再三思ったのですが、南東側以外には開けていません。
その南東側は甘樫丘と川原寺の後山に挟まれた細い谷になります。
恐らくこの部分に屋敷が構えられたので、『谷の宮門(はざまのみかど)』と呼ばれたのかもしれません。
これが『日本書紀』に見える蘇我入鹿の屋敷です。
この谷間周辺で板蓋宮や飛鳥寺を見下ろそうと思ったら、石敷きの東側に延びる尾根筋に上がらなければ周囲すら見渡す事ができません。
もしこの場所が屋敷の一部なのだとしたら、中心部は現在の県道の辺り、さもなければ尾根の上なのかもしれません。
それは、蘇我本宗家滅亡の後に、この場所が没官になっても同様なのでしょう。
何よりもこの場所って、飛鳥川に沿った道と甘樫丘麓を通る道の分岐点なのよねぇ……
ここを一豪族が抑えているって、どういう状況なの?!

……にしても、こうやって現地に行く度に思うのだけれど、岡本宮ってのか板蓋宮ってのか浄御原宮の位置って、かなり微妙なのよね。
甘樫丘の蘇我本宗家屋敷、蘇我氏の飛鳥寺、官寺とはいえ縁の橘寺、桃原の屋敷、嶋の屋敷、いずれも宮を見下ろすか並ぶような位置にある(^_^;)
倭国随一の家たる皇家が、蘇我氏に包囲されているように感じるのは私だけ?????
おまえは誰か
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うめぞー
性別:
非公開
自己紹介:
明日は歴史作家!

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