- 2025.04.20 [PR]
- 2011.02.20 馬場南遺跡(神雄寺跡)第5次発掘調査現地説明会
- 2011.02.08 飛鳥京跡苑池第5次調査現地説明会
- 2011.01.24 上狛北遺跡現地説明会
- 2010.12.12 越塚御門古墳現地見学会
- 2010.12.10 水落遺跡第10次調査
- 2010.11.28 秋津遺跡現地説明会
- 2010.09.20 纏向168次調査現地説明会
- 2010.08.18 中西遺跡――奈良県御所市
- 2010.07.18 平城宮東院西北部調査現地説明会
- 2010.07.03 藤原宮朝堂院朝庭の調査
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木曜日か金曜日の新聞に載って、土曜日に現地説明会でしたか。
3次調査以降、こちらの遺跡は京都府ではなく、木津川市教委が担当しているようですね。
そういう訳で今回の第5次調査では、3次調査の時に確認された仏堂の西側、一段高くなった平坦部から斜面の裾にかけて、平坦部の背後の斜面から山頂部にかけての広い範囲に、実に17本のトレンチを入れたそうですが、その内の14本からはまったく人為的な痕跡は確認されず、この寺が山岳修行とは無関係だろうという事が分かったようです。
西側の斜面から弥生土器の破片や石包丁が出て来たそうで、寺院よりもかなり古い時代に高地性集落があった可能性は在りそうですが、本来、山頂部にあるといわれていた古墳群は、どうやら無い事が確認されたようです……何で、遺跡地図に古墳群で載っていたんでしょう?(゚_。)?(。_゚)?
今回も木津川市在住の早川和子さんの再現イラストが受付に掲げられていましたが、2次調査の時の夜の法要の場面に、何と細身の三重塔が書き加えられていました!天(~o~)晴!
今回の調査で確認された遺構は、この塔の跡です。
上の分かりにくい画像、三つの礎石が写っていますが、手前の大きな物が塔の芯礎、後の二つと、手前の抜き取られた二つのくぼみで四天柱になるのかと思いきや、側柱なのだそうです。
柱間は一間(180cm)程度ですから、人の入れるような空間は殆どなく、それにも拘らず周囲の遺物の出方から、7尺(210cm)もの軒が出る可能性があるのだとか……かなり異様な姿の気がするのですが(゜.゜)
もう一つ不思議なのが、基壇の作られた様子がトレンチ断面を見てもない事です。
見た感じ、地山直上で礎石があるような……抜き取り穴のそこはどう見ても地山だよねぇ?
しかし、ここの土って馬見丘陵にそっくりで、掘り返された後にまたつき固められると分かりにくいんですよね……ベッタベタの粘土で(T_T)
それはともあれ、この塔も火災にあった事がはっきり分かりまして、壁土が焦土化して礎石の周囲に堆積し、礎石そのものも赤く変色して破損していました。
この塔の付属品と思われる陶製の相輪の破片と、ミニチュアサイズの木製の巻斗が、2次調査の時の曲水池から出土しています。
こちらの画像は、今年の『発掘された日本列島』展に出されていた巻斗です……本日、大阪歴史博物館で見て来ました。
今回の出土遺物としては、薬師寺式の軒丸瓦と平瓦、和同開珎に万年通宝、鉄釘といったところですが、瓦類は普通の寺院に使われるサイズで数も少ないので、今回の小さな塔の屋根に葺かれていたとは考え難く、一部分に何らかの形で使われていたのかもしれないと推測されています。
さて、いつもながらにこの寺院は誰が何の目的で建立したのか……時は奈良時代の後半、場所は推定恭仁京右京の最南端?
極めて高貴な御方のプライベート空間としての宗教施設に位置付けられるのでは……調査担当の方々は、控えめながらそのように言われていたのですが、調査はまだ続き、既に史跡としての登録も勧められ、整備の計画も持ち上がりつつあるのだそうです。
来年度以降の調査では、さて、どのような事が分かりますものやら、期待しましょう(゜_゜)
実際に明日香村でレンタサイクルなどを借りたり、歩いて散策された方は分かると思いますが、ここは全体的に緩い傾斜の土地です。
勿論、石舞台の方へ上がって行けば山になりますので、急峻な場所もあるのですが、1300年以上前にこの地に都があった時は、なるべく平らで広い空間が取れる場所に宮地を置いた事になります。
それにしても南から北へ下がり、東から西へも下がって行くので、後の時代の例から見ると、少々奇妙な場所に都を置いたものです。
この苑池も飛鳥浄御原宮より一段下がった河岸段丘の上にある事になるのでしょうか。
この池、渡り堤を挟んで南北の二つに別れ、北池からは更に水路が北に延びて途中で西に折れ曲がるだろうと、これまでの調査で判明しているようです。
今回の調査では、この北池の北東のコーナーが検出され、池の範囲がほぼ定まりました。
上の画像の右上、色が黒く変わっているところが北池です。
検出した池を西から見ますとこんな感じ。
左上の方の石の列が池の東岸になり。右側の列が北岸です。
ちなみに底まで掘りきれてはおりませんで、手前の水中ポンプを突っ込んであるトレンチ、この深さでようやく底の石組みが出ているようです。
まぁ、私の身長くらいは優にありそうですね。
このくらいまで掘ると湧水レベルを超えますので、とてもよく水が沸くそうです。
何でもここの小字は『出水』、池の水の供給源は東の山からの湧水のようです。
そして排水は、一段下がった飛鳥川に流れて行くのでしょうか。
現在の地形で見ると、北の水路から川は少し遠いようにも思えるのですが。
一番上の写真の調査区では、あまり石の残りは良くありませんが、東側の調査区ではこの画像の右側のように、かなり良く残っています。
ちなみに左上から手前に伸びている石組みは、恐らく建物の屋根からの雨水を流すための溝、雨落ち溝ではないかと考えられ、この東側(左側)には更に建物か築地塀のような構築物があったと推測できます。
奈良県では、この苑池を史跡指定したので、公園として整備したいのだそうです。
昨年の遷都1300年祭で、北の方ばかりが注目されておりますので、中南和にも重要な遺跡があるんだよ~と、再びアピールして活性化して欲しい訳なんですね、地元としても。
それにしても埋蔵文化財という観点から見て、明日香や桜井はまだ活気があるけど、橿原はどうなんでしょうねぇ……ε-( ̄ヘ ̄)┌
植山古墳の整備、どうなってんだ??
先週末の新聞に、恭仁京内で初めて同時期の建物と側溝が検出されたと、新聞に載っていた遺跡の現地説明会です。
京都府道の建設に伴う事前調査という訳で、担当は京都府埋蔵文化財センターです。
どこぞの都城屋の先生も、つい本音を漏らしているのを聞いた事があるのですが、恭仁宮関係ですら遺構は結構ショボイです。
こんな事、調査担当の方に正面切って言ったら怒られそうですが(~_~;)
この調査は宮内ではなく、京内域、右京に当たるエリアで行われています。
そして奈良時代後半の土器を伴う、100メートルに渡る南北の正方位に乗った溝と、やはり正方位をとる掘立柱建物が三棟ほど検出したため、今回の説明会となったそうです。
上の画像、見学の人たちのすぐ足元に、幅1メートル内外の溝が続いていますが、これは恐らく道の側溝になるのではないかと推測されています。
溝の上層から出土した土器は、奈良時代の後半の物ですが、墨書もなく、須恵器が転用硯として使われた形跡も見つからないので、役所関係ではなく、ある程度身分の高い人の屋敷の端っこの方でも引っ掛けたのかもしれないという発見のようです。
見たところ、水はけの良さそうな所なので、木簡などの有機物の資料は残っていない可能性が高そうです。
古墳時代の竪穴式住居跡で、先程の奈良時代の遺構とは別の区画で検出されています。
出土遺物として、六世紀のなで肩になり始めた締まりのない須恵器の杯(本当は土へんですわ)が出ていましたので、新しい方は六世紀、古くても五世紀後半のようです。
説明している女性の足元に、L字型の煙道を持ったかまどが出ていますが、割合に残りは良い方です。
この形式のかまどは、奈良県では明日香村や高取町、つまりは檜隈(ひのくま)地域で良く見られます。
この遺跡も上狛(かみこま)という地域にあり、近所には『高麗寺跡』もありますし、やはり渡来系の人々が多く住んでいた地とされています。
いわゆる聖武天皇の彷徨の数年間、これを掘り下げると、かなり面白いんですよσ(^◇^;)
何せこいつが、東大寺という一大宗教施設の建立につながり、更には奈良時代後半の政治的な流れに大きく関わってきますからね。
この影の薄い都、決して無くても良い場所ではなかったのでしょう。
考え始めると、ドツボにはまって、さあ大変(@_@;)
この前後に見えるクーデター紛いの事件、殆どこの辺りと関係しますからねぇ……
何日か前に新聞の一面に写真入で報道された古墳の現地見学会です。
ここ最近、明日香村教育委員会は現地説明会ではなく見学会ばかりを行っています。
多分、人が多いので説明をしている時間が取れないのと、調査途中なのであまり突っ込んだ説明を控えているのだと思います。
説明会はそのうちにまとめて、中央公民館や橿原考古学研究所の講座辺りで行ってくれるのではないかと、何となく期待しております。
現地よりも、こちらの方が分かりやすい場合も多いですしね。
さて、この画像上部の中央辺りに黒く潰れて『牽牛子塚古墳』の墳丘が見えますが、件の古墳はこの手前にあります。
こういうのも埋没古墳というのかな?
天気が良かったので写真はハレーションと影の写りこみで、ろくなのがアリャしない(+_+)
まあ、もっと綺麗な画像をUPして下さっている方が大勢いると思いますσ(^◇^;)
それにしてもですよ、終末期古墳という観点で見ると、刳り貫き式の横口式石郭なのでグレードは高いのですが、取り立てて大騒ぎする規模でもないような気がします。
こいつに被葬者論というやつが付随すると、本当にニュース性が高くなるんだねぇと、つまらないところで感心してしまいますわ。
それにしても、私ゃ、終末期古墳は割合に好きだと常日頃ほざいておりますが、何とも今回もテンションが上がりませんわ……マスコミのあおり文句のせい(~_~;)?
そもそもこの調査、何週間か前にA日新聞社がフライングして週刊誌にすっぱ抜いて、当事者周辺からかなり顰蹙を買っていたと聞いています。
地元向けの説明会がかなり早い内に行われたのも、この辺りが原因かしら??
でも岩盤のようなベースに全て盛り土、徹底的に版築で墳丘を築いておりまして、壁面を見ますとかなりリアルに盗掘穴が見て取れまして、私的にはこちらが面白かったかな。
この天井石をかち割って、一体何に使ったんでしょう?
遺物も木棺の欠片らしき漆被膜や釘らしき鉄製品くらいしかないそうです。
こいつを午前中で切り上げ、午後からは奈良市の春日大社に行きまして、『春日若宮おん祭』関連の講座に参加して来ました。
私としては、こっちの方が遥かにテンション上がったかな(^。^)
今年は久々に、お旅所祭、行くぞ~、滅茶苦茶寒いだろうなぁ……
この現地説明会があったのは先週の日曜日(12月5日)です。
30年近く昔の調査で、水を流したと思われる暗渠や銅の管が発見されまして、今回はその北側に隣接する場所に調査区を開けていました。
この場所、北側に展開する『石神遺跡』の南端にも隣接する場所で、ここの調査によって双方の遺跡の関係を調べる目的もあったようです。
結果としては、双方は一連の遺跡の可能性が極めて高い、という事になるようです。
水落遺跡から伸びる暗渠の遺構が、石神遺跡にまで続いているらしい様子が観察できるのですが……
実はこの調査区の中央を東西に、かなり幅のある中世の流路が横切っておりまして、北側で検出された暗渠跡と南側の物が連続するのか、確実に確かめる事が出来なかったためです。
方向としては、同一の者の可能性が高いのですが、まあ、言い切れないのが残念なところですね。
過去の調査で、水時計の台を挟んで南側にも、かなり東西に長い建物が検出されているそうで、今回出て来た建物と方位や柱筋が一致してるので、双方は関連して建てられたものと考えられそうです。
南側の石敷きは石神遺跡の石敷きと同じレベルで連続している事も確かめられたという事で、飛鳥京時代の迎賓館と思しき遺跡と水時計は、同じ時期に存在していた事も確実になったようです。
このあたりにインターかジャンクションかでも出来るのでしょうかね、かなり広々と調査地が開けられています。
昨年度にもこの地区の北側を調査し、方形の柵に囲まれた建物跡や、地区を区切ると思われる溝が検出されました。
今回の調査地区でも、その延長の柵列や、新たな方形区画、掘立柱建物群が検出され、調査地の南の方には区画溝に区切られて、竪穴住居群が見つかりました。
柵は二本の柱がワンセットになって、細い杭で作られた柴垣のような塀を支えていたようで、柱の間の溝には数センチ径の柱列の跡が見られます。
具体的な構造は良く分からないのですが、この小さな柱の列は竪穴式住居の周壁溝にも何度か見た事があります。
もしかして、四世紀にはスタンダードな建築方法だったのでしょうかね?
検出された方形区画は昨年度の地区のものも合わせて六区画、その内の三区画が同じような場所に重なっていますが、切り合い関係は今ひとつはっきりしないようです。
切り合いのない区画も、それらが同時に存在していたのか、時期差を持って造られていたのか、何分、出土遺物が少ないそうで、はっきりとした事は今のところ言えないそうです。
他にも大型建物らしき束柱のある建物跡も見つかっていました。
さて……この遺構がどういう施設なのか、こいつがまだ分からないところで、新聞などでクローズアップしている葛城氏との関連もズバリとは言えない状況のようです。
このあたりの調査はまだ続くのかな?
この度も更なる調査に、次の発見を期待するところです(*^。^*)
土曜日の新聞には、2000個以上の桃の種が籠と一緒に出土したと、写真入で報道されていた、桜井市教育委員会による纏向168次調査の現地説明会です。
昨年、一昨年と隣接した調査区をあけた結果、ほぼ東西方向に企画性を持って建設された建物群が検出された、纏向遺跡の中核的な場所の調査が今年も引き続き行われました。
一昨年の調査で、建物群を囲んでいた柵列の延長も検出されまして、その外側には何があるかも期待されたのですが、今回の調査範囲では、他の建物などは検出されておりませんでした。
件の沢山の桃の種は、この画像の大きな穴から出てきました。
ここから出土した土器の年代は三世紀の中頃、北側で昨年までに確かめられた建物群が廃絶した時期に、ほぼ合致するのだとか。
そのような訳で、建物を壊す時に何かの儀式(祀り)を行って、それが終わった後に供物や土器などをまとめて、こちらに捨てたのだろうと考えられます。
ちなみに建物群は、掘っ立ての柱を抜き取っている形跡があるので、人為的に壊されているようです。
この度の調査も前年度と同様に、四世紀後半に掘られた大きな溝が真ん中を横切っていまして、土坑の一部も柵列も壊されています。
多分、桃の種の何割かも、これで持って行かれてしまって、本来ならばもっと多くの桃の実が埋納された可能性もあるのだとか。
弥生や古墳時代の集落遺跡から桃の種が出るのは、格別珍しい事でもなく、私の知る限りでは水辺の遺跡には付き物のようです。
確か、明日香村の亀形石造物の周囲でも、若干出ていたと思いますので、七世紀くらいまではメジャーな遺物なのかもしれません。
ところでこの日(19日)の予定としては、奈良町で春鹿酒造の蔵開きがあるので、そちらで昼酒などをかっ喰らおうと、ホクホクしていたのですが……この現説があったおかげで、見事にそちらは流れました。
「大体、蔵開きは春先に行くものよ」
このような友人のアドバイスもありまして、来年の新酒の時期に、どこかの酒造での蔵開きを期待しまして、夕方からは明日香村の彼岸花祭りのメインイベントの一つ、劇団『時空』の公演を二年ぶりに見に行ってきました。
え~と、感想は自粛ね。
何せ、私のやっているジャンルとは全く別物だと思っているので、純粋に見て楽しむべし。
そっちに関しては、十二分な経歴と実力を持っている劇団ですしね。
下手な背伸びをしていないのに好感が持てますので、もしご近所で御覧になった事のない方は、一度見に行かれる事をお勧めいたしますm(__)m
この遺跡の現地説明会があったのは、八月七日ですので二週間も前ですね(^^ゞ
このところずっと、都城づいてましたが、久々に弥生時代です。
『弥生時代前期の水田と里山』というサブタイトルが示すとおりの遺構が出ております。
手前(北側)の白い線で引かれている四角い部分が小区画の水田群で、真ん中辺りにある東西の河道よりも上(南側)が広葉樹を中心とする森林です。
この画像は、直径が一メートル近くある榎の切り株です。
他にも橡、胡桃、栗などの食用になる実がなる木、山桑、椿、楓などの木の幹や根が残っている事が、樹種鑑定によって分かっているそうです。
水田も雑木林も人の足跡も土器や木製品も、洪水が運んできた川砂で埋もれていました。
土地は上の画像の右上から左下の方向に緩く傾斜しています。
昨年までの調査でも水田は検出されていて、更に北の低地にまで延びるようですが、ここで耕作をしていた人達の住んでいた場所が、まだはっきりと分かっておりません。
今後、集落遺跡が発見されましたら、2400年前の葛城地域の景観が、より鮮明に分かって来るかもしれません。
そういう訳で真夏日、紫外線もたっぷりです。
現在、平城宮跡では『遷都1300年祭』が行われているので、間違っても大極殿院周辺での発掘調査は出来ません。
今年に入ってからの調査は、殆ど東院地区で行われているようです。
これまでに行われた東院地区の調査は、比較的南部に集中していたそうですが、今回は割合に北の部分、かつて総柱の倉庫らしき巨大な建物跡が検出された箇所の北側に当たる場所を調査したそうです。
今年の四月に現地説明会を行った場所(東方官衙地区)よりも北東に当たる場所です。
ここは北東方向から伸びる谷間にかかる場所を整地したようで、東院の中心部は、ここより南東の方向の微高地にあったと思われます。
遺構は相変わらず、溝と柱穴の群れ、今回も6期に渡る遺構の変遷が見られます。
調査区の中央辺りを東西に横切っている石敷きの溝と、それに並行する塀があるのですが、これがこの場所を北と南に区切るようです。
この二つの遺構は1期から見られるのですが、かなり長い間存続していた可能性があります。
検出された柱穴は割合に小型で、建物も小規模のものが短期間存在していた程度のようです。
この調査区の更に北には、大きな井戸などが発見された『造酒司』がありまして、どうやら東院でも膳夫関係の部署があった可能性があります。
一方、南側は割合に大きな柱穴を持つ建物が常に建てられていたようで、北側とは明らかに用途が異なります。
調査はまだ一月半ほど続くそうで、これよりさらに具体的な発見がある事を期待する所存です。
そういう訳で、こちらの画像は、現説の前に大極殿院南門の前で行われていた『衛士の交代式』のパフォーマンスです。
毎日、13時から行われています。
ここ何日か、降りそうで降らない天気が続いておりましたが、本日こそ朝から土砂降り……
奈良文化財研究所の都城発掘調査部の現地説明会は、結構、降水確率が高いような気がします(~_~;)
それでも中止せずに毎回、決行するところがありがたいものです。
画像の通りの雨の現場です。
ここでやけに目立っている真っ直ぐな溝は、藤原宮よりも後の時代の耕作によって出来た溝です。
いわゆる条里制田圃というやつでしょう、東西南北が整然としているので、ついそちらに目が行ってしまいますが、こいつを掘り上げないと、それ以前の時代の遺構の検出が出来ません。
藤原宮の時代まで上土を除きますと、全面が礫を敷いた地面が現れます。
そして水はけのための礫敷き暗渠と、通路の側溝らしき溝が、南北方向に検出されています。
これはかつて北側を調査した時にも延長が出ているそうです。
これらの溝と共に柱の列が検出され、この場所を区画して東西に長い掘建柱建物が二棟検出されました。
このようにして出て来たのが、新聞等でも報じられた天皇の即位儀礼に関わる遺構です。
天皇が即位しますと、その年の十一月、即位が七月以降の場合は翌年の十一月に『大嘗祭』が行われます。
その儀式の為に『悠紀国』と『主基国』が選ばれ、それらの国から奉納された新米を朝庭に設けた仮家で、神と共に食したとされています……と言っても、今現在まで皇室の神事として、関係者以外には全く知る術のない儀式なので推測でしかありません。
ここで新たに即位した天皇が籠もる借りの施設を『悠紀院』『主基院』と呼びます。
今回検出されたのが『悠紀院』の北半分です。
さて、この『悠紀院』はいったいどなたの即位に使われたのでしょう?
藤原宮で即位した天皇は、『続日本紀』によれば二人おられます。
まずは697年即位の文武天皇、そして707年の元明天皇です。
現在はまだ調査の途中との事で、この先、更に下層まで一部を掘り進める事で、もしも別の建物跡が検出されれば、この『大嘗宮』がどちらの天皇の物かも自ずと分かるのですが……(・・?
ともあれ今回発見された『大嘗宮』は、平城宮時代の七代六人の天皇の宮に先立ちますので最古の例となります。
下層の調査の結果が出るのは今年の秋だそうで、その折には再び現地説明会が行われるという事でした。